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伊賀上野城から西へ2km程の常住寺を参拝後その隣にハイキングしながら芭蕉さんの句碑を巡れる「ふるさと芭蕉の森公園」があります昭和63年(1988)から平成元年(1989)にかけて特色を生かした地域づくりを行う「ふるさと創成事業」により上野市が市民の方からアイデアを募集し整備したのです平成2年8月に完成し、芭蕉句碑が十基建てられましたこの上野市の新名所は憩いと往復3km程の散策の場として人々に親しまれています駐車場から200m程坂道を登ると遊具広場がありますが既に息が
関西本線佐那具駅から南へ4km程須智荒木神社に芭蕉さんの句碑があります神社名;須智荒木神社所在地;三重県伊賀市荒木108芭蕉さんの句碑は社務所の前にありました元禄3年(1690)芭蕉47歳の作です3月11日荒木村白髭神社にて「畠うつ音やあらしのさくら麻」木白は伊賀藤堂藩士岡本治右衛門政次で瓢竹庵主。後に苔蘇と改号してます。句意は「春になって畑を打つ音がしきりにする傍らの畑には桜麻が可憐な芽を出し、双葉が風にそよいでいる麻の芽にとって
関西本線新堂駅から南へ7km程植木神社に芭蕉さんの句碑があります神社名;植木神社所在地;三重県伊賀市平田699芭蕉さんの句碑は手水舎の隣にあります「枯芝ややゝかけろふの一二寸」冬枯れの景色の中にそれでもよく見ればかげろうがうっすらと立ち上っている宵の年、空のなごり惜しまむと:大晦日過ぎ行く年に名残を惜しんで…の意*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆今日も命を授けていただきありがとう(^-^)二度とない人生だから今日が大事、今日が大切
大阪府北部地震の被害状況が少しずつ明らかになってきましたね高槻の学校のブロック塀倒壊事故で9歳の児童が下敷きになり死亡した件では3.2m毎に必要な控え壁がなく縦の鉄筋はコンクリート擁壁と一体化していなくてはならず建築基準法を遵守されておらず役所の工事管理怠慢かと思われますね又登下校の見守りをされていた80歳の老人がブロック塀倒壊で下敷きになり死亡した件では大谷石の間に補強鉄筋が一本も使われずに明らかに施工業者の手抜き工事かと思われますねひどいですね・・こわいですね*:.
関西本線伊賀上野駅から南へ13km程の花垣神社に芭蕉さんの句碑があります神社名;花垣神社所在地;三重県伊賀市予野194芭蕉さんの句碑は赤い鳥居の脇にあります「一里は皆花守の子孫かや」この地域の人々が桜の花を大事に守り続けてきたことを称える一句です元禄3年(1690)芭蕉47歳の作です平安の昔一条天皇の后上東門院が奈良興福寺の八重桜を京に移そうとしたところ僧徒らが強く反対、后はその風雅心に感心し伊賀国余野の庄を興福寺領に寄進、花垣庄となずけたこれより、
伊賀上野城から南東へ500m程の菅原神社(上野天神宮)に芭蕉さんの句碑があります神社名;菅原神社(上野天神宮)所在地;三重県伊賀市上野東町2929TEL;0595-21-2940寛文12年(1672年)俳諧に身を立てることを決意した俳聖松尾芭蕉がその処女作『貝おほい』1巻を社前に奉納して自らの文運を祈願したそうです鳥居手前には「史跡貝おほひ奉納の社」の碑が建っていますそして楼門から拝殿の間に芭蕉さんの句碑があります「初さ
芭蕉生誕の地伊賀で芭蕉句碑めぐりの一番目は関西本線佐那具駅から南へ2km程の敢国神社です神社名;敢国神社(あえくに)所在地;三重県伊賀市一之宮877TEL;0595-23-3061境内には元禄元年(1688)芭蕉45歳の春に詠んだ作品の句碑があります「手ばなかむおとさえ梅のにほいかな」『笈の小文』の旅で伊賀上野に帰郷中の芭蕉が梅の咲く頃の爽やかな山里の趣を詠んだ句で『卯辰集』(北枝編)に収められています。土芳の『蕉翁句集草稿』には、「伊賀
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり結蛤塚は「20色の浜」から南へ200m程にあります路通もこの港まで迎えに出てきて、美濃の国へ同行してくれた馬に乗って大垣の庄に入ると、曾良も伊勢から来て合流し越人も馬を飛ばしてきて、如行の家に集合した前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問してまるで死んで蘇った人に会うように、喜んだりいたわってくれたりした旅の疲れもまだ取れないままに九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝むためまた舟に乗って旅立つのだった蛤のふたみに別行秋そ離れ
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり20色の浜は「19敦賀」から東へ100m程にあります十六日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと海上を七里舟を走らせ色の浜を目指した天屋なにがしという者が弁当箱や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ下人を多く案内のために舟に乗せてくれた追い風だったので普通より早く色の浜に到着した浜にはわずかに漁師の小家があるだけだ侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めなどしたこの浜の夕暮れの寂しさは格別心に迫るもの
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり19敦賀は「18加賀全昌寺」から南へ100m程にありますとうとう白根が嶽が見えなくなりかわって比那が嶽が姿をあらわしたあさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせている鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると木曽義仲ゆかりの燧が城があり、帰る山に雁の初音を聞き十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとったその夜の月は特に見事だった「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり18加賀全昌寺は「17那谷寺」から南へ100m程にあります加賀の城下町【大聖持】の城外、全昌寺という寺に泊まるいまだ加賀の国である今まで一緒に旅してきたのが一晩でも離れるのは、千里を隔てるように淋しく心細い私も秋風を聞きながら僧の宿舎に泊めてもらった夜明け近くなると、読経の声が澄み渡り合図の鐘板をついて食事の時間を知らせるので食堂(じきどう)に入った今日は越前の国に越えるつもりであるあわただしい気持ちで食堂から出ると若い僧たちが
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり17那谷寺は「16小松」から南へ100m程にあります山中温泉に行く道すがら、白根が岳を背にして歩んでいく左の山際に観音堂がある花山法皇が西国三十三か所の巡礼をおとげになって後、人々を救う大きな心(大慈大悲)を持った観世音菩薩の像を安置されて「那谷」と名付けられたということだ三十三か所の最初の札所である那智と最後の札所である谷汲から、それぞれ一時ずつ取ったということだ珍しい形の石がさまざまに立ち並び、古松が植え並べられている萱
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり16小松は「15金沢」から南へ150m程にありますここ金沢の地で、太田の神社に参詣したここには斉藤別当実盛の兜と錦の直垂の切れ端があるのだその昔、実盛がまだ源氏に属していた時義朝公から賜ったものだとかなるほど、普通の平侍のものとは違っている目庇から吹返しまで菊唐草の模様を彫りそこに小金を散りばめ、竜頭には鍬形が打ってある実盛が討ち死にした後、木曽義仲が戦勝祈願の願状に添えてこの社にこめた次第や樋口次郎兼光がその使いをしたことなど当
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり15金沢は「14那古」から南へ100m程にあります卯の花山・くりからが谷を越えて金沢に着いたのは七月二十五日であった金沢には大阪から行き来している何処という商人がいて同宿することとなった一笑というものは俳諧にうちこんでいる評判がちらほら聞こえてきて世間では知る人もあったのだが去年の冬、早世したということで、その兄が追善の句会を開いた道すがら吟じたものあかゝと日は難面も秋の風もう秋だというのに太陽の光はそんなこと関係な
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり14那古は「13市振」から南へ100m程にあります黒部四十八が瀬というのだろうか数え切れないほどの川を渡って、那古という浦に出た「担籠の藤浪」と詠まれる歌枕の地が近いので春ではないが初秋の雰囲気もまたいいだろう訪ねようということで人に道を聞く「ここから五里、磯伝いに進み、向こうの山陰に入ったところです漁師の苫屋もあまり無いところだから「葦のかりねの一夜ゆえ」と古歌にあるような、一夜の宿さえ泊めてくれる人はないでしょう」と脅か
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり13市振は「12越後路」から西へ50m程にあります今日は親不知・子不知・犬もどり・駒返しなどという北国一の難所を超えて体が疲れたので枕を引き寄せて寝ていたところふすま一枚へだてて道に面した側の部屋から若い女の声が聞こえてくる。二人いるようだそれに年老いた男の声もする聞くともなしに聞いているとこの二人の女は越後の国新潟という所の遊女なのだいわゆる「抜け参り」だろう伊勢参りのため主人に無断で抜け出してきてこの関まで男が送ってきたのだ明
昨日は芭蕉さんの故郷伊賀の里でなまずが守り本尊という神社へ参拝してきましたよこの模様は来月上旬にUP予定してます*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり12越後路は「11酒田」から西へ50m程にあります酒田の人々との交流を楽しんでいるうちにすっかり日数が経ってしまったようやく腰を上げてこれから進む北陸道の雲を眺めやるまだまだ先は長いその遙かな道のりを思うと心配で気が重い加賀国の都、金沢までは百三十里ときいた奥羽三関の
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり11酒田は「10出羽三山」から西へ100m程にあります羽黒をたって、鶴が岡の城下で長山氏重行という武士の家に迎えられて俳諧を開催し、一巻歌仙を作った図司左吉もここまで送ってくれる川舟の乗って酒田の港へ下るその日は淵庵不玉という医者のもとに泊めてもらう暑き日を海に入たる最上川最上川の沖合いを見るとまさに真っ赤な太陽が沈もうとしているそのさまは一日の暑さをすべて海に流し込んでいるようだ*:..。o○☆゚・:,。*:..。
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり10出羽三山は「9本合海」から西へ50m程にあります六月三日、羽黒山に登る図司左吉というものを訪ねてその手引きで山を統括する責任者の代理人(別当代)である会覚阿闍梨に拝謁した阿闍梨は南谷の別院に泊めてくださり色々と心をつくしてもてなしてくださった四日、本坊若王寺で俳諧をもよおしこんな発句を詠んだ有難や雪をかほらす南谷残雪の峰々から冷ややかな風が私のいる南谷まで吹いてくるそれはこの神聖な羽黒山の雰囲気にぴったりであり
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり9本合海は「8立石寺」から西へ50m程川の北側にあります梅雨の切れ間となった元禄2年(1689年)6月3日(新暦7月19日)芭蕉一行は新庄に歌仙と「三つ物」の置土産をし本合海に向けて旅立っ城下から本合海までの旅のルートは現在の国道47号線とほぼ同じ道筋と見られており随行日記に、その間の距離が「一リ半」とある本合海は水陸の要衝であるため川船の港のほか、対岸に越す渡し場もあった「本合海の渡し」というこの道をたどる旅人も少なくな
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり8立石寺は7尾花沢から西へ100m程川の南側にあります山形藩の領内に、立石寺という山寺がある慈覚大師の開基で、特別景色がよく静かな場所だ一度は見ておくべきだ人々がこうすすめるので、尾花沢から引き返したその間、七里ばかりであるまだ日暮れまでは時間があるふもとの宿坊に泊まる手はずを整えて、山上の堂にのぼる多くの岩が重なりあって山となったような形で松や柏など常緑の古木がしげり、土や岩は滑らかに苔むしている岩の上に建つどの寺院も扉を
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり7尾花沢は「6封人の家」から西へ50m程川の南側にあります尾花沢にて以前江戸で知り合った清風という人を訪ねたこの人は大富豪なのだが金持ちにありがちな品性のいやしさなどまるでない江戸にも時々出てきているのでさすがに旅人の気持ちもわかっているようだ何日か逗留させてくれ長旅の疲れを労ってくれ、いろいろともてなしてくれた涼しさを我宿にしてねまる也この涼しい宿にいるとまるで自分の家にいるようにくつろげるのだ*:..。o
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり6封人の家は「5平泉」から西へ100m程川の北側にあります元禄2年(1689)5月15日俳聖松尾芭蕉は門人の曾良をともなって仙台領尿前の関を越え、出羽の国へと旅路を急ぎましたしかし、もう日暮れ頃になってしまいました大山を登って日すでに暮れければ封人の家を見かけて宿を求む三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、仙台領と境を接する新庄領境田村の庄屋の家有路家住宅であったといわれています
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり5平泉は「4笠島」から南へ東西の道路を渡り貴船神社の広場にあります藤原清衡・基衡・秀衡と続いた奥州藤原氏三代の栄光も邯鄲一炊の夢の故事のようにはかなく消え南大門の跡はここからすぐ一里の距離にある秀衡の館の跡は田野となり、その名残すら無いただ、秀衡が山頂に金の鶏を埋めて平泉の守りとしたという【金鶏山】だけが、形を残しているまず義経の館のあった高台、【高舘】に登ると眼下に北上川が一望される南部地方から流れる、大河である衣川は秀衡の
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり4笠島は「3-須賀川」から南へ50m程にあります鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのですと教えてくれたこのところの五月雨で道は大変通りにくく体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり3須賀川は「2-遊行柳」から南へ100m程にあります白河の関を超えてすぐに、阿武隈川を渡った左に会津の代表的な山である磐梯山が高くそびえ、右には岩城・相馬・三春の庄という土地が広がっている後ろを見ると常陸、下野との境には山々がつらなっていたこの宿のかたわらに、大きな栗の木陰に庵を建てて隠遁生活をしている何伸という僧があった西行法師が「橡ひろふ」と詠んだ深山の生活はこんなであったろうとシミジミ思われて、あり合わせのものに感想を書き記した
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり2遊行柳は「1-日光」から南へ100m程川の西側にあります西行法師が「道のべに清水ながるゝ柳かげしばしとてこそたちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねたその柳は蘆野の里にあり、田のあぜ道に残っていたここの領主、戸部某という者が「この柳をお見せしなければ」としばしば言ってくださっていたのを、どんな所にあるのかとずっと気になっていたが今日まさにその柳の陰に立ち寄ったのだ田一枚植て立去る柳かな西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふ
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり1日光は愛宕神社から南へ100m程のところにあります4月1日、日光の御山に参詣する昔この御山を「二荒山(ふたらさん)」と書いたが空海大師が開基した時、「日光」と改められたのだ大師は千年先の未来までも見通すことできたのだろうか今この日光東照宮に祭られている徳川家康公の威光が広く天下に輝き国のすみずみまであふれんばかりの豊かな恩恵が行き届き士農工商すべて安心して、穏やかに住むことができるなお私ごときがこれ以上日光について書くのは畏
船町のむすびの地記念館前から水門川を上流へ2km程大垣祭りの翌朝JR大垣駅から東へ150mの愛宕神社へ来ました神社では軕を格納庫へ収納しようとする処でしたよ芭蕉さんが奥の細道の旅で詠んだとされる句から代表的な20句を選び「ミニ奥の細道芭蕉句碑めぐり」と題し「矢立初の句碑」「蛤塚」とあわせた22句で愛宕神社前をスタートし⇒むすびの地記念館カがゴールになってます奥の細道むすびの地記念館のパンフレット大垣市観光協会発行のパンフレット、ポストカードを参考資料に