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こいつは誰や??どっかで見たような気もするけど、わからん???
芦屋小雁師匠が令和7年3月28日91歳にて旅立たれた、私はあるきっかけから芦屋雁之助師匠との出会いがあり、私が芦屋凡凡(2代目)として昭和41年4月名古屋名鉄ホール劇団喜劇座公演からの長いご縁となりました、芦屋小雁師匠、何でこの人が4回も結婚.同棲出来たのか私は未だに分かりませんが言えることは優しい方では有りました、時代の流れは早く一時代を築いた先輩たちも亡くなられたらすぐに忘れ去られるがかって芦屋凡凡と名乗っていた私は微力ながらもこうして文字で残す事が恩返しになると思い投稿しています、
橋本尚友とは同じ年で、昭和41年から共に舞台やテレビに出た仲間だった、新春座で立ち廻り(チャンバラ)で頑張り、朝日放送てなもんや三度笠で殺陣師として名を売った的場達雄門下からミヤコ蝶々主宰.蝶々新芸スクールで殺陣を教えていた、蝶々先生の元で共に頑張った仲間です、令和6年1月7日没、享年76歳、秋葉浩介さん、松竹出身、テレビでは松山容子主演琴姫七変化などに出演、後年、我が師匠、芦屋雁之助率いる劇団喜劇座メンバーとして活躍、劇団解散後は撮影の方に戻られたが詳しい事は知らないが早くに亡
宮島での雁之助師匠と秋葉浩介さん、秋葉浩介さんと当時の私.芦屋凡凡1966.3月南座劇団喜劇座パンフレット1966.3月南座喜劇座公演本文テキスト我が師匠、芦屋雁之助が夢を抱いて作った劇団喜劇座、各界から雁之助師匠に賭け俳優達が集まり当時、大人気だった松山容子さんの琴姫七変化で相方をされていた秋葉浩介さんも劇団に参加され活躍していました、秋葉浩介さんの舞台パンフレットでの写真と以前も投稿しました雁之助師匠との写真も再度投稿致します。本文テキスト
今は無きトップホットシアターのチラシ博多淡海さんと共に、トップホット楽屋で奥津由三さんや赤井タンクさんらと、今月13日、大阪に出張で来られた江戸川大学教授、お笑い評論家で浅草喜劇の歴史を研究なさっている西条昇教授と大阪と云えば道頓堀今井.けつねうろん.やろうと阪急の今井支店でお昼にしてその後、梅地下の茜屋珈琲店でゆっくり話しました、今は亡き我が師匠芦屋雁之助と大恩人ミヤコ蝶々先生の話やトップホットシアターでの奥津由三さんの話、角座で少しの期間でも皆んなで頑張った新喜楽座.博多淡海さんの話
昨日、桂米朝事務所さんからお誘いを受けサンケイホールブリーゼに.かって半世紀前に梅田に有ったトップホットシアターコマモダン寄席時代からの仲間と共に参列しました、会場全員約900名が一輪の白菊を供え、さこばさんの娘さん関口まいさん母子がご挨拶、その後、池乃めだかさんとなるみさんが芸人を送るべく場を盛り上げて楽しいムードの中、終わりましたがやはり、寂しいです。約半世紀前、梅田に有ったトップホットシアターのざこばさんが桂朝丸時代、めだかさんが海原めぐる時代のチラシです昨年春、やまと郡山城ホール
今年は阪神甲子園球場が出来て100年、8年前に旅立った母、伊登子も甲子園球場と同じく甲の子年、大正13年生まれやから私と同じ年や!!と母と共に甲子園に住んでいた頃、母はよく自慢してました、(笑)馬鹿な父親の為、まだ33歳の年齢の頃から私と弟を抱えて苦労に苦労を重ねた母でした、4歳違いの弟は母の苦労を目の当たりにしても理解出来て無かったのか父親とよく似てマイペース生活、ま、どうでも良いが私はミヤコ蝶々先生に母、女ひとりで苦労から這い上がった女性との縁が深いこれまでだったな、母の介
先代三代目桂春團治師匠の弟子、桂春駒さんについて、私をマネージャーとして入れて下さったミヤコ蝶々先生はテレビでは当時の桂春之輔.現.四代目桂春團治師匠を、舞台では桂春駒さんを可愛がって居られました、春駒さんとはまだ私が役者時代から共に蝶々先生や先代.京山幸枝若師匠の舞台公演でも一緒に舞台に出た仲間でも有りました、春駒さんは同じ蝶々劇団ファミリーだった滝譲二さんとは酒飲み友達で舞台が済むとよく飲み歩いて結果二人共早くに亡くなってしまいました、酒は百薬の長とかの諺はやっぱりウソやな??
久しぶりに浮世亭とん平さんと会った、お互いミヤコ蝶々先生に可愛がられ時には2人並んで叱られた事も何度か・・(笑)私が芦屋雁之助師匠の元を離れミヤコ蝶々先生の舞台に出させて頂いて以来、もう半世紀のご縁になります、とん平さんは漫才の相方が亡くなり苦しい頃私は雁之助師匠の元から羽ばたきたい頃に会った戦友です、健康を害していて治療を終えたら来春に必ず会おう!!と強く握手をして別れました。
福田一夫さん、芦屋雁之助先生率いる劇団喜劇座、座員でした、その前は道頓堀劇場などで軽演劇したりストリップショーの幕間コントをしたりしていたとは聞いてましたが、昔の芸能人にプライバシーを聞いたりすると叱られたものです、喜劇座解散後も雁之助先生のお手伝いをしたり舞台に出たりされてましたし、私も香里園のお家に何度も泊まりに行ったり可愛がって貰いましたが晩年、アルツハイマーになってしまい私自身当時はアルツハイマーが分からずチンプンカンプンの会話になり、私が怒ってしまい福田さんと寂しい別れになった
昭和44〜51年頃まででしたか、今の梅田ナビオの場所にコマモダン寄席、トップホットシアターが有りました、(OSミュージックの跡地)コマ新喜劇(吉本新喜劇に対抗して(笑))として座長は何人か変わりましたがレギュラー出演者として赤井タンクさんが居ました、よく肥えた優しい人で今で云ういじられ役が多かったのを覚えています、当時の私、芦屋凡凡も何度か共演しましたので、舞台写真もご覧ください、奥津由三さん、三好正夫さん、西川太市さん、梅香ふみ子さん、白妙公子さん、前川美智子さんも写ってますが泉祐介さ
昭和49~54年頃だったと思いますが、福岡で活躍中の博多淡海さん(2代目)が松竹新喜劇藤山寛美先生に招かれて松竹新喜劇に参加されました、そしてその間、道頓堀角座で白木みのるさんが喜楽座と銘打って喜劇公演されてましたがその後、博多淡海さんが座長として新喜楽座として数年間、座長公演をされていました、吉本新喜劇から白羽大介さん、東宝梅田コマからは私(当時は芦屋凡凡と名乗っていました)あと松竹新喜劇から曽我廼家文童さん他、多数出演していて私は2年間位に何度か出演致しました、まだまだ大阪の芝居
かっての役者仲間であり、蝶々劇団レギュラーメンバー、滝譲二と千代田進一・・・長年苦楽を共にした役者仲間であり親友でした、2人共、酒と、舞台に立つ、これが彼らの生き甲斐でした、亡くなるとき、千代田さんは電話をかけてきて「凡凡オレもうあかんわ」・・滝ちゃんは私が蝶々先生の元を離れ、テレビ業界で忙しくしていた時期に訃報を聞きました、今から思うと彼らはまだ良い時代に生きていたように思います。tomotadaのブログのmyPick株式会社エイチ・アイ・エス【HIS】旅行プログラム株式
我が師匠、芦屋雁之助先生座長の劇団喜劇座に出身母体は映画俳優、舞台俳優、コメディアン、ボードビリアン、宝塚歌劇団、とバラエティ豊かな先輩たちが居ました、当時は自分の経歴を多く言わない人もたくさん居ましたし、また聞く人も居ませんでした、時代が過ぎ、グーグル検索をしても写真すら無い先輩たちも多く、忘れ去られるのは余りにも寂しいので僅か数年間でしたが私が覚えている限り記していきます、白妙公子さんは映画ご出身のようですが、私の知っているお姉さんは当時松竹新喜劇座員俳優、金乃成樹さんの奥さんとして阪
芦屋雁之助師匠が花登筺先生の元から離れ、松竹関西支社、籔内孝基さんと共に劇団喜劇座を創設したのが昭和38~9年頃、私、当時の芦屋凡凡が雁之助師匠に弟子入りしたのが昭和41年4月、あの頃は細かい事を聞くと叱られた時代でしたので大まかで恐縮です、伊東亮英さん、乃木年雄さん両先輩がトップで女優陣は難波章子さん、白妙公子さんがトップでした、林佐代子さんはその後、芦屋雁平兄さんとご夫婦になられ、今もご健在で私とは今でも時々、電話で話します、伊東亮英さん、乃木年雄さん、難波章子さんは皆さんにはお
芦屋雁之助師匠の劇団喜劇座巡業が仙台で終った時、一人で東北ヒッチハイクをした事が有りました、平泉.盛岡.弘前.十和田湖で西宮の兄ちゃんと仲良くなり何と、伝統こけし工人を訪ねる旅へと・・秋田木地山こけし工人、小椋久太郎さんが何と私を応援していたから、とこけしにサインしてくれプレゼントを、❗❗若き日の楽しかった思い出です。tomotadaのブログのmyPick株式会社エイチ・アイ・エス【HIS】旅行プログラム大阪ガス株式会社大阪ガスの電気「ウィズABEMAプラン」株式会社エトヴォ
我が師、芦屋雁之助率いる劇団喜劇座、昭和38年頃に松竹関西支社の中で結成されました、松竹新喜劇が全盛時代、他に曾我廼家十吾師の松竹家庭劇、佐々山洋一さん他の劇団新春座、丁度、吉本新喜劇が伸びようとしていた時期でも有りました、テレビでは香川登枝緒、澤田隆治コンビで、スチャラカ社員、てなもんや三度笠、花登筺のやりくりアパート、番頭はんと丁稚どん、などなど・・大阪発の全国ネットお化け番組が天才たちの手によって続出、テレビ全盛時代でした、喜劇座にも各方面で活躍していた畑の違う俳優、役者たちが
秋葉浩介さん、今となってはこの名前を聞いても大半の人はご存知無いでしょう、亡くなられた人が一番辛いのは忘れられる事かと私は思います、芦屋雁之助先生座長の劇団喜劇座、によく出られてましたがその前は松竹若手歌舞伎の花形として売れていてテレビでは松山容子さんの琴姫七変化に出られてました、この私との写真は昭和42年、中国、四国巡業時です、宮島や岩国錦帯橋での写真には裏方として参加されていて、その後スクールウォーズの作家として世に出られた馬場信浩さんも写っています、秋葉浩介さんとはその後、ご一緒
白川和子さん、昔、梅田コマ、楽屋で撮った写真が出てきて、楽しかった頃を思い出しました、団地妻シリーズで大人気の女優さんでしたが、楽屋では本当に明るく楽しい思い出しかありません、この写真は藤田まこと公演のレギュラー女優でも有り我が師匠、芦屋雁之助一座のゲスト女優、山口京子さん、私の後ろの女優は確か!誰やったか??思い出せない💦今から考えたらバブル前の、この国が一番良かった時代、ホノルルの著名ホテルの大半が日本人名義だった時代でした。tomotadaのブログのmyPick株式
この舞台写真は昭和47~8年頃かと思いますが今は無き、梅田コマスタジアム有島一郎公演で私、当時の芦屋凡凡出演の時です、有島一郎さん、芦屋小雁さん、私と内海カッパさんが、刀を持つ鈴木淳さんにビビっているシーンです。半世紀も経ってしまいました。本文テキストtomotadaのブログのmyPick株式会社エイチ・アイ・エス【HIS】旅行プログラム大阪ガス株式会社大阪ガスの電気「ウィズABEMAプラン」株式会社エトヴォススキンケアトライアルセットモイスチャーライン
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梅香ふみ子さん、元宝塚歌劇団、それも小林一三翁の応援で劇団座長も務められた人、出身は熊本、二本木遊郭の東雲楼のお嬢さん、明治後年の東雲のストライキ!!で有名な東雲楼です、文学座二枚目俳優、森雅之さんとの間に女優中島葵さんの母親でもあります、そのような華麗遍歴の梅香ふみ子さんと私は芦屋雁之助先生の劇団喜劇座で共演し、梅田コマがトップホットシアターを起ち上げた時もご一緒しました、まだ二十歳代の私には優しい目でぼんぼん、頑張りや❗❗と何度も言って下さいました、その梅香のママが2013年
劇団喜劇座の事は何度か掲載しましたが、私も73歳になり昔、お世話になった懐かしき先輩たちを歴史の闇に入れたくないので記して行きます、たくさんの人に見て頂くのが目的ではなく、記録として記して行きます福田一夫さんと云う可愛がって下さった先輩が居ました、道頓堀道劇などで活躍されていたコメディアンでしたが雁之助先生に誘われて劇団喜劇座に入られました、大正生まれ、トボけたキャラで藤本義一作、けちんぼ侍のアホ殿様役は絶品でした、雁之助先生筆頭に私達も親しみ込めて、ニイチャン❗ニイ⤴️チャンとイを
今日、かっての俳優仲間、大竹修造さんと会い何と54年前の朝日放送てなもんや三度笠、てなもんや一本槍での二軍時代の写真を頂いた、今では考えられないが、番組カラー放送化するにあたり、当時のカメラでは色がそのまま映らない不安が有り、出演者をその為には使えないので背格好の良く似た若手を代役に使おうとなり大竹修造さんは藤田まことさん、私が白木みのるさんの影武者として務めました、大竹さんは、この後てなもんや一本槍、でも代役で一年近く、私は三度笠だけで半年位出ました、私たちはギャラは貰える、憧れの澤田隆
この写真は昭和41年4月の名古屋名鉄ホール公演の時、私が柳家金語楼先生の楽屋にご挨拶に伺った際、先生の愛犬が飛んで来たのを、金語楼先生が撮って下さった一枚です、十代だった頃の私です、この頃携帯カメラさえ有れば、と未だに悔しいです、礼儀作法の厳しい時代とてもツーショットで、とは頼めませんけどね、(笑)芦屋雁之助先生率いる劇団喜劇座と金星プロ合同公演でした。出し物は、喜劇座は、けちんぼ侍、金星プロは忘れましたが平凡太郎さんが出てられたのは覚えています、偶然出てきた懐かしい一枚の写真
トップホット時代、やはり奥津由三さんとの思い出が深いです、吉本興業から鳴り物入りで東宝梅田コマに引き抜かれ、私の師匠芦屋雁之助が抜けた後の座長として加入されました、鳳啓助さんの弟、志織満介さんも一時変わりをされてましたが私には奥津さんとの舞台が一番印象に残ります、真面目な温和なイメージが有ります、前回にも書きましたが私がミヤコ蝶々先生のマネージャー時代に各務原で一度お会いしましたが、その後大須演芸場に出たりされていたようですが、現在もお元気らしいですが••••••もう一度、お会
私がまだ芦屋凡凡という名で役者をしていた頃、東北地方に巡業に行き、その後1人でヒッチハイクをしましたが、その道中、伝統こけし収集の旅をしてる人を知り合い、ヒッチハイクがいつのまにやら、こけし収集の旅になり、その際、木地山の小椋久太郎さん宅を訪ねました、私もびっくりしましたが小椋久太郎さん一家が私を応援してくれていて、写真は撮る、こけしに名前まで書いて下さったり大歓待を受けた時の思い出のこけしです、小椋久太郎さんは1998年に亡くなられましたがもう一度、お会いしたかった。
藤尾純さん、昭和62年に旅立たれたので、もう34年も昔になってしまったとてもそんな風には感じない、私にとってその名前を思い浮かべるだけで今だに頬が緩む名前だ、昭和42〜3年頃の思い出ですが、当時私は芦屋凡凡という芸名で芦屋雁之助師匠の元で若手俳優というより喜劇人として舞台やテレビに出ていました、藤尾純さんと親しくなれたきっかけは、雁之助師匠は非常に厳しい方で怒ると相手が逃げ場が無くなる所まで追い込むやり方で、私は反論など出来ないし、毎回本当に辛かった思い出が残っています、
昭和45〜7年頃か、と記憶してますが、松竹芸能さんが角座で白木みのるさん座長で喜楽座を旗揚げ、その後、九州から博多淡海さんが来られて座長として新喜楽座を旗揚げされました、松竹から曾我廼家文童さん、吉本から白羽大介さん、梅コマから私、芦屋凡凡が加わり数年間、興行しました、この写真は当時角座前に飾って有った写真を私が劇場の方に無理を言って頂いた写真です、この頃、我が師匠芦屋雁之助先生は東京日比谷で活躍中でした、朝日放送でなもんや三度笠も終り、この頃から演劇もテレビも東京移行が始まっ