ブログ記事43件
『人はにも根なきことあらんや、良知はこれ天の植えし霊根なり、自ずから生生して息まず。但、私の類を箸けて、この根をば牀賊(気傷つけ)、蔽塞(ふさ)がば、成長するのを得ざるのみ、と。』人は誰でも根のない人はいません。良知は天が植えてくれた霊根です。生生として息づいて止む時はありません。但し、私心に心を奪われて根を傷つけたり塞いだりすれば成長出来なくなってしまいます。#伝習録#陽明学#王陽明#良知
私の母は、とても心配症であります。心配症ではありますが、よく母には伝えております。「もう40歳も過ぎて、大丈夫だから、心配しないで、そろそろ信頼して!」と親というものは、私も子供ができてから、親が子を心配する気持ちは解るのですが、社会に出てから、20年も過ぎれば、鬱陶しくなる事もあります。(笑)その行き過ぎた親の心配が原因で、若い頃は、よく口論しておりました。(汗)そんな鬱陶しくなる、私の気持ちを戒めるために良い例がありましたので記事にしました。(
人雞犬の放すること有れば則ち之を求むるを知る心を放すること有りて求むるを知らず学問の道は他無し其の放心を求むるのみ『孟子』より人は自分の飼っている鶏や犬が逃げ出すとそれを探すことは知っているしかし自分の大事な「心」を放失しても探すことを知らない学問の道は他でもない自分の放失した「本心」を探求するだけのことだ人間として本来持っている大切にすべき「心」をあるいは「仁」といいあるいは「良知」といいあるいは「良心」といいあるいは「本心」といいますそれを失いそう
良知易について説明します、良知というのは、中国明朝の王陽明が興した陽明学の言葉です。良知とは人間が生まれながらにして持っている本性です。仏教徒の人であれば「仏性」、神道の人であれば「神の分け御霊」、生長の家の人であれば「実相」、スピリチュアルなお話が好きな方には「ハイヤーセルフ」というの概念に近いものです。易を占いととらえている方が多いと思いますが、もし、占いというのを、未来の結果を知るための手段と考えているのであれば、あまり、関わらない方が良いと思います。未来のことを知りたい
既成概念は本当に厄介ですね。既成概念の呪縛に縛られているのに気づかないのが一般的なのでしょうが。タヤマ学校で学んでいた私もそこは無いことは無いです。でもタヤマ学校にとっても私にとっても、大変お世話になっている社長様に、一番してはいけないお願いをして、その時の表情を見て本当に自己嫌悪っというか、こんなお願いをしてまでタヤマ学校を続ける必要があるのか!と心底おもいました。そこで原点に立ち返って考えてみたところ、田山敏雄は何を伝えたかったのか?を感じました!だ
良知とは、人が生まれながらに持っている正しい知力のこと。是非・善悪・正邪を知る心の先天的なはたらきのことをいう。致良知は、『大学』にある「格物致知」という言葉に対する解釈である。朱熹は「知を致すは物に格(いた)るに在り」とし、万物の理を一つ一つ極めて行くことで得られる知識を発揮して物事の是非を判断するとすると解釈した。「知」を知識と解して、致知とは知識を推し究めすべてを知り尽くすことだとした。王陽明は、朱子の解釈を知識の量的拡大だけを求めるものとして批判し、「知を致すは物を格(ただ)
心即理(しんそくり)は、宋明理学における命題の一つ。心こそ理であるとする。中国南宋の陸象山や明の王陽明が定義した。人間は、生まれたときから心と理(体)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致するので、心の外の物事や心の外の理はない。よって、心は即ち理であると主張した。朱子学のように心と性とを分別しないのが特徴である。朱子学では聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人であったが、陽明学では「満街の人みな是れ聖人」
私が陽明学及び日本陽明学に学んだこと!以下、私が18歳で陽明学に興味を持ち、そして7~8年前頃から日本陽明学を学ぶようになった訳について話させて頂きます。私が「三島事件」をきっかけに陽明学に興味を持つようになったという話は、これ迄にもブログや講演等で披露させて頂いてきましたが、20歳前後頃の私は、当時、行動哲学などと称される陽明学を学んだら、幕末の志士ではないけれど、行動力がアップして、俗にいう成功者の仲間入りができるのではないだろうか、といったような、若者にありがちな世俗的な動機が
(4/21)おはようございます。1608年の今日、4月21日(慶長13年3月7日)にわが国における陽明学の開祖で、数多くの徳行、感化によって、没後に「近江聖人」と称えられた中江藤樹が生まれています。今日は、江戸時代初期の儒学者で、格物致知論を究明しようとした中江藤樹の一言☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆【今日の一言2022年4月21日】「『致良知(良知にいたることが大切)』良い智慧を身につけるには、日常、五つのことを心がければいい。なごやかな顔つきを
維新の精神的拠り所となった思想に、形骸化していた「朱子学」に代って読まれた「陽明学」の思想がある。朱子学は12世紀の中国の儒学者だった朱熹(しゅき)によって構築された儒教の体系である。13世紀の半ばには科挙試験に採用され、中国で広く学ばれるようになったが、次第に科挙に合格するための勉強となっていった。また「理」や「礼」を重んじるが故に統治する側にとって都合のよい学問となっていった。朱子学は鎌倉時代に日本に入り、江戸時代に入ると初代将軍の徳川家康に登用された林羅山の努力により幕藩体制の基礎理念
わたくしが、わたくしが、で、ひとを押しのけて生きる。わたくしが、わたくしが、で、ひとのお役に立って生きる。勘違いされやすいのですが、「わたくし」という「我」を物事の中心に据えるということ、それが悪い、というわけでは、決してないのです。その「わたくし」を使って、この「わたくし」は、いったい、何を成そうとしているのか?「わたくし」が向かっているその先には、他人様をないがしろ
◆「日本陽明学」では、王陽明の一の高弟の王龍渓(おう・りゅうけい)の教えを重視してきた陽明学に興味がおありの方であれば、陽明学が中国では明王朝の滅亡と共に無くなり、江戸初期から日本で発展し、今日にまで至っていることは先刻ご存じのことでしょう。日本陽明学の祖・中江藤樹のおかげで、その後神道に接ぎ木されて「日本陽明学」として独自の発展を遂げてきたわけですが、「日本陽明学」では、王陽明の一の高弟の王龍渓(おう・りゅうけい。「溪」も可)の教えを重視してきました。王陽明亡き後の一大陽明学ブーム
私は、20代後半頃に、ゲーテやH・ヘッセやノヴァーリスらに代表されるロマン派の文学や芸術、ドイツ観念論やオランダが生んだ偉大な哲学者スピノザの思想に深く傾倒したことがある。ゲーテがスピノザ主義者であったことなどを思い出して、おさらいのつもりで、國分功一郎「100分de名著、スピノザ、エチカ」(NHK出版)を手にした。まるで江戸初期の日本陽明学の祖・中江藤樹や、江戸中期の陽明学者・中根東里(とうり)を彷彿とさせるスピノザの真摯な生き方や隠遁生活ぶりは、私の興味を大いにそそったし、陽明
みんなの回答を見る
人が生まれながらにもっている、是非・善悪を誤らない正しい知恵。
◆蕃山は、「江戸時代260年の歴史の中で、ナンバーワンの政治家であり、政治思想家」だった今では、見事に全く忘れ去られてしまった感のある中江藤樹(なかえ・とうじゅ)の高弟で陽明学者の熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん)について、触れてみたい。蕃山といえば、「江戸時代屈指の経世家」であった。今風に言えば、「江戸時代260年の歴史の中で、ナンバーワンの政治家であり、政治思想家」だったのである。幕末の陽明学者・山田方谷(ほうこく)が私淑し、方谷が「小蕃山」と呼ばれた事は、記憶に新し
昨日に引き続き、週末に参加をさせて頂きました「志」和ごころ道塾の取りまとめです。禅では、「自分以外のものは悟れない」としている。座禅では自らの呼吸を見る。自分は自分のままで十分。人をうらやまない。蔑まない。良知は生生して休まず。良知は知恵では無く天の命。つまり呼吸。良知とは、呼吸の有難さを知って感謝すると言う事。すると上手くいく。聖人とは、自分の中の命の尊さを知って感謝している人。どんな事でも「知」で考えていると不満を感じ
昔耽読した王陽明の伝習録。その中の一番好きな文章が「抜本塞源論」です。久々に読んでみて、全く現代と同じような状況で驚きました。拙い表現ですが、一部要約するとこのようなことではないかと考えています。本当の学問は、自分や世の中の全ての人々、物事全てを一体のものとして感じて、それぞれの本分に生きることで、知識やテクニックで他と比較競争するものではないことを教えてくれます。それは、目が聴くこと、耳が持つことを羨まないように、また手が探るものがあれば足で進むように、身体のそれぞれの部分が一心同体の
弟子が陽明に尋ねた、ー先生、教えて欲しいのです、どうすれば志は立てられるでしょうか?陽明は、請願する若者に、優しく微笑みながら語り始めた。ーなぁに、大それた夢、大きなビジョンを。掲げようと思う必要は無い、そう考えるから難しいんだよ。いいかい、目の前にある出来事に、自分は人としてどうあるべきかを、それを考えてみることだよ。例えば、ある雨の日、小さな女の子が傘もささず、びしょ濡れで立っていたとする。すると、君はどんなこと
愛弟子徐愛が陽明先生にこう尋ねました、ー先生、親孝行が大事だ、目上の人は敬うべきだ、そんなことは誰でも知っているのに、実際には、多くの人が、なかなか、それを実行できません。やっぱり、知っていることと、実行できるかは別なんですよね。これまでに数え切れないくらい、回答してきた質問に、陽明先生は、嫌な顔一つせず、短く息を一つ吐き、気を入れ、こう答えらえました、ー私は、知っていることと行うことは、分かれていないと常々、言
こんばんは!さくらです。先日、「お母さんのためのしあわせ学in京都」がありました。毎月1回やっていて、もう早くも第6回目。※「お母さんのためのしあわせ学って何?」という方は、最後にサイトをご案内しています今回は、7人のお母さんと、2人の赤ちゃんと。取り上げた一節に、「良知(りょうち)」という言葉が出てきました。とっても簡単に言うと、「良い」「悪い」というのは、頭で考えることなく分かることで、学ばなくてもすでに出来る(しっている)のだ、ということ。例えば、コンビニのごみ箱
◆「良知を致す」とは、言い換えれば「良知を信じよ」ということです。埼玉県入間郡三芳町の石坂産業(株)で2月16日(金)に開催された前編に続く後編が、3月9日(金)に開催されます。石坂産業(株)と言えば、国の内外から年間3万人の見学者が訪れるという「産業廃棄物中間処理業」では注目を集めている企業です。全2回の後編ということで、18:15より『中江藤樹の「日本陽明学」に、日本人らしい生き方と商人道を学ぶ』と題して、話をさせて頂きますが、冒頭で前回のおさらいをしますので、安心して
◆痛風に懊悩する私を気遣う母から、「私より先には死なないでよ!」と言われてしまった。10月末頃か11月に入ってからのことかは記憶が定かではないけれど、久々に痛風が発症して、尿酸値を下げる薬を飲んでいるのだけれど、日増しに悪化して2週間が経った。薬の飲み合わせに問題があることが分かり、4,5日前から、持病の肝硬変の薬の服用をいったん中止して、痛風の治療に専念してきた。もちろん、肝硬変の薬を止めたこともあり、今まで以上に食事には気を付けた。好きな豆乳オレも飲むのを激減した。コーヒーの利尿
◆元内閣官房構造改革特区推進室参事官の檜木俊秀氏からの『評伝・中江藤樹』の読後感以下、大変有難いことに、元内閣官房構造改革特区推進室参事官の檜木俊秀氏から頂戴させて頂いた、拙著『評伝・中江藤樹』に関する読後感の一文です。ご本人にご了解頂き、フェイスブックから転載させて頂きました。//////////////////////////////////////////////////////////////◆日本で陽明学、あるいは儒教が庶民に浸透し、それが明治維新などに繋がった檜木俊秀管理