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最近、仕事で訳のわからない話が立て続けに湧いており、モヂベーションダダ下がり状態。昨日はあまりにもやる気になれなかったので、午後半休にして難波をぶらぶらと。この日は奥様が仕事で遅くなるとのことでしたので、夕食を食べて帰ることにしました。帰りに南海本線七道駅で途中下車し、イオンモール堺鉄砲町に寄り道します。大阪蕎麦しのぶ庵・酒井鉄砲町店の「ミニかつ丼セット」+ビール昨夜から雨が降り出し、本日やみそうにないのでどこにも行く気にならず。それでも、午後には雨が止んだので、近所を巡
艦砲射撃米海軍の艦艇が艦砲射撃を実施したのは、開戦4日後だった。軽巡洋艦ジュノーが東海岸の江陟の北朝鮮軍に対して、200発以上を撃ち込んだ。米海軍は昼夜を問わず砲撃を続けた。この頃はまだ対艦ミサイルがなかったので、戦艦、巡洋艦は無敵の兵器だった。機雷の敷設と掃海仁川上陸作戦によって大打撃を受けた北朝鮮軍は、中国軍の協力を得て各港に濃密な機雷を敷設した。元山港には3000の機雷が敷設され、アメリカ軍は撤去を図ったが、多数の犠牲を出した。水上艦同士の戦闘1950年7月、東海岸で艦砲射撃中の
明治維新後の大日本帝国は欧米から軍艦を購入したり建設を依頼して海軍の兵備を整えていきましたが、明治期における艦砲射撃は照準を合わす測距技術も装備も未熟であり、さらに実際の戦場では波や風などの影響を受けるので動く敵艦になかなか当てることができませんでした。それでも日露戦争で日本の連合艦隊が当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに叩きのめすことができたのは、まさに訓練の賜物と言えるでしょう。(萩市・椿八幡宮に残る日本海海戦の絵馬)【参考記事リンク】山口県の戦争遺跡93
和多志の地域では艦砲射撃があり防空壕に直撃して大勢亡くなりました。慰霊碑があります。商店のコンクリートに米兵が子供を叩きつけて死亡した事実は、厳重なかん口令があったと子供でも察しました。これは被害の一部かもしれません。戦後の日本人に対する性暴力はバレないように続いてます。砲撃した船は4隻、「数えられないくらい」と息を吐くようにほざいた反日の信者がやり続けてます。
【北海道室蘭市艦砲射撃の惨劇ダミー煙突作戦】太平洋戦争の終わりが近づいた昭和20年7月15日、北海道室蘭市はアメリカ軍による艦砲射撃と空爆を受けました。当時、戦艦などの主砲や副砲といった兵器を製造していた室蘭の日本製鋼所では、攻撃を受ける前に「ダミーの煙突」を建てて、アメリカ軍の攻撃に備えていた事を最近になって知り、とても興味深く感じました。(戦艦ミズーリ)●20km先からの精密射撃20km以上も離れた海上の軍艦から、山あり谷ありの室蘭市内を正確に砲撃するのは、非
北海道は当時交通の要であった函館と、製鉄所を含む工業都市である室蘭が、艦砲射撃を受けるなどの戦禍が大きかったのですが、札幌も、東区の丘珠飛行場に空襲があり、一人が亡くなっています。当時の日本の主要都市の中では京都が集中爆撃を受けなかったことで知られていますが、アメリカ軍は軍需施設や港湾都市、工業地帯を主要爆撃目標に定めており、京都はその範疇にはなかったのですが、京都駅や梅小路機関車庫を中心に西陣の辺りを含めて6回にわたる爆撃を受けたことはあまり知られていません。
今日は、曇り空ですが、気温は高くやはり、💦暑い日です❢百日紅が、ビンクと赤が、相まって目をひきますビンク色は、色んな所で見かけますが、真っ赤な百日紅は、珍しいですね❢今日の立花団地からのスカイツリーも今日は、特別✨ライティングが、あるそうなので、今からソラマチに行って、撮って来ます今まで・・・数えきれない程のたくさんのライティングですが、今日は、どのようなライティングなのか?楽しみです戦後80年の時を迎え
コチドリ我ながら、このブログのタイトルは殺伐としたものばかりで気勢が上がらない。前掲井上書に、「華麗なる死の鞭」という項がある。ちあきなおみや森山良子が歌った「さとうきび畑」に出てくる「鉄の雨」と似ているが、軍人だけあって細部が少し違う。前回の最後の陸攻が発進した昭和十九年(1944年)の6月13日は、マリアナ諸島にて米艦隊の艦砲射撃が始まった日でもある。著者いわく、「戦艦主砲弾の威力は、とうてい艦載機の爆弾などの比ではない」のだ。叩かれ続けたその日の夕刻、「もうい
太陽(ティダ)の運命という映画を見てきた。沖縄知事だった大田昌秀と翁長雄志のを追った内容で、いかに政府と渡りあったか?という内容だ。そこに使われていた、沖縄民謡"艦砲ぬ喰ぇー残さー"が何度もかかり印象深かった。題名の意味は、沖縄戦では米軍の艦砲射撃が繰り返され、多くの戦死者を出し、地形を変えた。その激しさから「艦砲ヌ食ェ残サー」という言葉が生まれた。生き残った者は艦砲射撃の「食べ残し」という意味です。二人とも体を張って政府と渡り歩いた。そして、今は現在、玉城デニー知事が頑張っ
沖縄へ観光に来て首里城を見たことのない人はいないだろう。『守礼門』第二尚氏王朝の時代、中国からの冊封使(さっぽうし、中国王朝の皇帝が従属国の国王に爵号を授けるために派遣する使節)が琉球に来た際には、国王以下の高官らが守礼門まで出迎え三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい、三回ひざまづき、九回手を地面につき、額を地面に打ちつけた)をとっていた。「守禮之邦」(礼儀を守る国の意)の扁額は、初め中国の冊封使が来たときのみを掲げていたらしいが、17世紀中ごろからは常掲するようになったらしい
冬のメタセコイア水元公園ひとつ先回の補足がある。国際連盟から脱退したことにより、それ以降、日本は南洋群島の統治を受任されているという主張などは、国際法上の根拠がない以上、出来ないはずなのだ。実際どうだったかというと、曖昧にしたままだったらしい。後年、日独伊三国同盟が成立した際、ドイツが日本に譲渡するという形式をとった。防衛研究所の資料にある。https://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary113
こんにちは。8月9日、釜石市内で開催された釜石市戦没者追悼・平和祈念式に参列しました。釜石市は、太平洋戦争末期の7月14日、8月9日の二度にわたり、アメリカ・イギリス連合国軍艦隊による艦砲射撃を受け、壊滅的な被害を受けました。終戦から79年。私たちの先祖はこの間、戦争の恐ろしさや醜さを、後進の私たちに伝えて下さいました。本日、終戦記念日を迎えましたが、私たちは改めて二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないということを胸に刻まなければなりません。ロシアのウ
オオタカ今回の写真は水元公園戦史叢書第006巻「中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」に、「サイパン攻略計画」という一節がある。その始まりの段落に、前回の4月18日、サイパンの完全な航空写真が入手できたとの記載がある。同じ時期、4月22日までに、米軍はホーランジア、アドミラルティ、エミラウの攻略を終え、ラバウルとカビエンを包囲する布陣ができた。エミラウという小さな島は、カビエンの北方にあり、ビスマルク諸島の頭を押さえつけるような位置を確保した。このエミラウ攻略
少し雑談。今年3月にガダルカナル島から戻って二か月が経ちました。今なおガダルカナルで再発した腰痛と、帰国直後に引いた風邪が慢性の鼻炎のようになっており、先輩から「ガ島後遺症」と命名されています。幸いようやく回復しつつあります。私の腰痛は持病が二つあり、学生時代にスポーツの練習中に痛めた椎間板ヘルニアと、五十代で発症した脊椎分離症(背骨の一部が剥離骨折しているのがレントゲン写真で見える)。いずれも医師から、一生お大事にというふうに言われています。しばらく前にシルバー・
78年前の今日。1945年(昭和20年)3月27日。渡嘉敷島への艦砲射撃…。写真だけでもその凄まじい威力が判る…。音に火に匂い…。逃げ惑う人たちは…本当に怖かったろうな…。戦争で亡くなられた方の御冥福をお祈り致します。
マリアナにはもう一度、慰霊のため渡航したいと思っている。特にサイパン。テニアンに行ったときは、もう伯父の資料も入手していたので、線香や御神酒もそろえてガイドさんも雇ったが、サイパンには観光旅行にしか行っていない。サイパンでは少なくとも二回、観光地の名高いビーチがあるマニャガハ島に行った。サイパン島北西岸の沖に浮かんでいる小さな島で、シュノーケリング等のオプショナル・ツアーの定番。白黒模様のイカの群れが縦に並んで漂っていたのを覚えている。下の図の左上にある青丸地点。この
引き続き中山道の風景前回の続きで、連合軍のサイパン上陸作戦の冒頭部分を陸軍の戦史叢書(6)で読む。サイパンには海軍の陸上部隊や、中部太平洋艦隊司令部があるが、それらの動向は海軍の戦史叢書で後日まとめて読むことにした。そのあと海戦に続くからだ。昭和十九年(1944年)6月11日に始まったサイパンほかマリアナ諸島の主要な島々への敵空襲は翌12日も続いた。前日に大本営に入った情報が記されている。「マリアナに来襲した機動部隊は輸送船団を伴わない正規空母六隻、特設空母八隻程度」。
旅行中息子を連れて家族で祖父の墓参りに行ってきました。今回の旅はその目的も兼ねてました。私の祖父は終戦の年の7月、日立の艦砲射撃で亡くなりました。若かりし祖父は当時日立製作所に勤めていた。日立艦砲射撃|水戸の観光・名所・名物を巡ってみよう|まいぷれ[水戸市・ひたちなか市]茨城県沖の日立艦砲射撃の轟音は水戸市にも轟き、一日中続いて空襲より恐ろしかったと伝えられていますmito-ibaraki.mypl.netこの陶輪碑に名前が載っています。若い頃一度行きましたが、今回息子も連れて行っ
※度々お知らせしておりますが、当方のPCの不具合につき、皆さまの全てのアメブロ記事でタイトル部分と本文以外が欠落し表示されません。「いいね」「フォロー」をしていただいてもお返しすることも出来ません。見返りを期待して押される方は申し訳ありませんが、ご遠慮下さい。当面の間冒頭にこのお知らせを載せることにしました。レイテ島の戦いにおいてリモン峠を攻めあぐねた敵は、我軍の揚陸拠点であるオルモックへの上陸作戦を計画し、7日にオルモック南のイ
1942年8月7日、敵はガダルカナル島(以下餓島)とフロリダ諸島に上陸を開始。我軍がほぼ完成させた飛行場をあっという間に取られてしまいました。これを受け我軍では海軍が即座に反応して駆逐艦5隻で18日に一木支隊を餓島に上陸させます。しかし敵の兵力を過小評価した一木大佐は本隊の到着を待たず攻撃を敢行し壊滅します。20日、敵は空母ロング・アイランドを使用し、完成した飛行場にF4Fを19機、SBDを12機揚陸させることに成功。
平和と幸せを祈ろう!わたしの母は昭和6年(1931年)生まれ。3年前に亡くなりました。戦前の小学校の同級生の写真で卒業写真かもしれません。母はこの写真を見せこの子は空襲で亡くなった。この子は艦砲射撃で亡くなった。と説明してくれました。昭和16年頃の写真静岡県清水区(旧清水市)は軍需工場があった為、空襲だけでは無く艦砲射撃もありました。艦砲射撃とは夜中にアメリカの軍艦が清水の近くまで来て大砲で砲撃することです。空襲警報が鳴らず突然の砲撃でど
1945年8月頃の沖縄は、6月23日に沖縄守備軍最高指揮官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁の軍司令部で自決したことで、この日をもって『日本軍の組織的戦闘の終結』となっております。しかし沖縄ではまだ戦ってる兵士たちがいました。現在の糸満市にある国吉台を守備する歩兵第32連隊第1大隊です。連隊とは言っても、6月以降の兵力は正確な数字は不明ですが、8月29日米軍の降伏勧告を受け入れて武装解除に応じた時には数十名と言われて
今日も36度超えの猛暑日何もしなくても歩いているだけでも💦汗が滲んで来る!でも・・・遊歩道を散歩・・・あの世の兄の住むスカイツリーの先の天の国へ昨日、会った大輪の芙蓉たちも・・・💦暑くて・・・困った顔して咲いている!この場所から避難できないもの何もしてあげられなくて・・・ごめんなさい今日は「第一次世界大戦の日」戦争ほどむごい人災はありませんこの地球を破壊し・・・同じ命を奪うでも・・・今だに戦争は行われている歴史を思い返
戦艦ミズーリは、アイオワ級の3番艦として1944年6月11日に就役しました。これは米海軍が建造した戦艦の中で一番遅く就役した艦になります。就役後東海岸で訓練を行い11月にパナマ運河を通過し太平洋にやって来ます。パナマ運河を通過中のミズーリ1945年2月16日、敵は硫黄島に上陸。この上陸作戦を掩護すべく、敵機動部隊が17日、関東各地の航空基地に対し空襲を行いました。ミズーリはこの機動部隊援護に同行し
ニューギニアのニューブリテン島のラバウルは、1942年1月23日に我軍が占領。四ヵ所に飛行場を建設するなど巨大な基地化を推し進めました。ここを維持するためには、長距離哨戒が必要不可欠です。そこで千歳空と高雄空の一部陸攻をそれぞれ分離させラバウルで統合し第四航空隊を編成。1942年2月19日、ラバウルに接近中の敵機動部隊を発見。陸攻隊17機が出撃するも13機を失う(敵は退散)。また8月、敵の反攻を受けて三沢空もラバウ
1944年4月1日、敵上陸部隊は満潮時間の9時に合わせ08時半頃から上陸を開始します。これは沖縄の海岸線にはリーフ(珊瑚礁)があり接近しすぎると、いかに軍艦と言えども艦底を損傷する恐れがあるのです。これは第6海兵師団が上陸した辺りです海の色が変わる辺りに白波が立っています。舟艇が乗り越えるには不向きですね。敵はこの地を上陸地点に選んだのは、北飛行場・中飛行場の占領と、日本軍を南北に分断し金武
戦艦ネヴァダは、ネヴァダ級の一番艦として1916年3月11日に就役。開戦時、ネヴァダはフォード島の戦艦桟橋に繋留されていました。九七艦攻から放たれた魚雷はウエストバージニアに命中。次いでオクラホマ、メリーランド、アリゾナ、テネシー、カリフォルニアに命中弾。ネヴァダは戦艦群の先頭に係留されていて、攻撃を受けてると判断すると素早く反応。対空戦闘を実施しつつエンジンを始動。艦が動き出
グッドナイト。吸血鬼と従者のG-NEXTパート9アイランドイース制圧!?動画投稿。ぜひ楽しんでもらえたらと思います。そして、いつも高評価とチャンネル登録ありがとうございます。モビルスーツ縁んで艦砲射撃援護!?ある動画に寄せられたコメントで実行して見たらできた・・・これには思わず感謝!?アイランドイースには・・・今回、あまり敵いなくてすぐ終了・・・次回は月!?ジャブローの戦い意外と長くて・・・アイランドイースも同じかと思ったら・・・これは予想
ヒクイナマーシャル諸島に対する米軍の空襲が始まったのは、昭和十九年(1944年)1月30日。続いて、2月2日に上陸作戦が始まる。また、ウォッゼとマロエラップは、巡洋艦と駆逐艦による艦砲射撃も受けている。日本軍はどこまで察知していたのか、戦史叢書には余り情報が無い。1月30日の午前8時30分、「米機来襲前、日施哨戒のためマロエラップ及びウォッゼから発進した索敵機」が、マロエラップの西約80浬、「一群の米機動部隊を発見」と報告したが、このほかの「敵情は全く不明であった」。このため