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雨が降りそうで降らない、中途半端な1日でした。稽古を終えた夜から少し降って来たようで、天気予報通り明日の朝は雨か…。明日が雨なら『晴耕雨読』で、読書三昧してもイイですね♪さて本日は沖縄武器の稽古日。釵を中心に、二丁鎌もようやくやれます。本日の鍛錬時間は実質(集会室のセッティング、準備運動、トイレ時間などを除いた正味の時間)2時間5分。<準備運動>・一通りの準備体操・腰回りと股関節のほぐし<釵術>1時間45分(105分)〇基本技法(振り、打ち、回し打ち、払い、突き、上段受け、中
空手歴40年フルコンから沖縄空手、日本柔術を経験し時に指導もしている川崎が「空手の型のやり方」を解説します!「人はみな神の子である?」世界中の宗教では、よく「人間は神様の分身」という意味の言葉を使ったりします。この場合の「神」とは、「宇宙全体」のことを指している事が殆どです。なぜ宇宙は存在するのかはじめての現代宇宙論(ブルーバックス)Amazon(アマゾン)宇宙は何でできているのか素粒子物理学で解く宇宙の謎Am
WrittenandtranslatedbyMotobuNaokiInthearticle"MyMartialArtsJourney:MemoriesofMyMasterTakedaSōkaku"inthebook"TakedaSokakuandDaito-ryuAikijujutsu"(2002),SatōKeisukewritesthefollowing.AftermovingtoTokyo,Ientered
従来の合気道の流派に、蹴り技の攻防の稽古はありません。それは合気道の開祖、植芝盛平翁の時代、1番、恐ろしい相手は剣術だったからでしょう。(講道館の嘉納治五郎先生が沖縄の空手家を、船越義珍氏を招聘して型を披露したのが大正時代です)合気道では対剣術、対柔術が主な技です。しかし、現代は小学生、中学生でも、空手やキックボクシングを学び、綺麗な蹴りを出します。現代の護身では、蹴り技の攻防が不可欠となりました。合気道S.A.の櫻井文夫代表は、既存の合気道団体になかった蹴り技の必要性を感じて、稽古
ちょいとここ、船越義珍先生の記念碑のあるとこ、行ってみた。なるほどねぇ。
流星空手打ち(1956年日本東映)高倉健のデビュー作「電光空手打ち」(おうちシアター254参照)の続編「流星空手打ち」。電光空手打ちと同時上映で、キャストすべて同じ。どうも同時に撮影して、60分程度の2本に分けて「続編」として発表するということを当時はよくやっていたようです。沖縄から東京に逃げてきた忍勇作(高倉健)。どうして剛柔流は闘ってはいけないのか。空手に先手はないのか。流星空手打ちでわかりました。「強すぎて、闘ったら確実に相手を殺してしまう
電光空手打ち(1956年日本東宝)高倉健のデビュー作。沖縄の空手家の青年の役だったんですね!知らなかった~❤❤❤彼の名は忍勇作。あれ?ウチナーンチュっぽい名前じゃないんですね。いかにも武道家にいそうな名前です。具志堅とか久手堅とか、手登根とか喜屋武とか、強そうな名前たくさんありますけれども日本映画ですね「忍くん」なんて、素敵♪高倉健、かっこいい~!まだ角刈りではない、ふさふさ髪の長い高倉健さん、最初誰だか分からなくて「ブ
空手歴40年フルコンから沖縄空手、日本柔術を経験し時に指導もしている川崎が「空手の型のやり方」を解説します!「空手着」は、いつできたのか?「空手着」は、1922年に船越義珍先生が講道館に招かれて体育展覧会で演武をした際に柔道着を真似て作った事が始まりとされています。つまり、それ以前は、「空手着」というものは、なかったという事になりますね…さて…現代の空手道場では、よく「型」の使用方法として「型の分解」と、いったものを稽古するときがありま
空手歴40年フルコンから沖縄空手、日本柔術を経験し時に指導もしている川崎が「空手の型のやり方」を解説します!空手への誤解。皆さんは、現代の空手を目にした事があるでしょうか?空手の団体は大別すると…。・「伝統派空手」…東京オリンピックで採用された空手で攻撃を直接当てない「寸止め形式」で行います。主な団体としては、「松濤館流」、「剛柔流」、「糸東流」、「和道流」などがあります。・「フルコンタクト空手」…攻撃を直接当てる空手で(当然、ルールは
空手歴40年フルコンから沖縄空手、日本柔術を経験し時に指導もしている川崎が「空手の型のやり方」を解説します!「段位制」とは?もともと、武道には、「段位」という物は無く明治時代の講道館柔道が「段位制」と取り入れたのが最初といわれています。空手においても、1924(大正13)年に船越義珍先生によって「段級制度」が導入されました。そして、「段級位」は、現在の実力の目安となっています。空手の流派によっては、稽古する時に通常「帯の順、入門順」に並んで
今野敏著「義珍の拳」という小説を読んだ。日本本土に空手を伝えた船越義珍について書かれた小説だ。あくまでも小説であり、伝記でもなく歴史書でもないと意識しながら読んだ。この小説に書かれていることに大きな誤りがないものとするという大前提に立てば、空手について知らないことがたくさんあった。例えば、琉球時代、明治時代の初めころは空手は個人レッスン(他の弟子も同席しない)の形で教えられていたこと。必要に応じて、異なる師から指導を受け、流派というような閉鎖性がなかったこと(これは
皆様、5月17日は何の日だったかご存知でしょうか。実は、松濤館流の創始者・船越義珍(ふなこしぎちん)先生と高弟である儀間真謹(ぎましんきん)先生が本土で初めて空手の演武を行ったとされる日から何と100年となる日でした!【空手が本土に伝わり今日で100年】空手着もこの日に誕生=5月17日格闘技情報を毎日配信!efight.jp講道館での話自体は知っていましたが、年月まではなかなか意識しないものです...さて、その演武の場所というのが、柔道の総本山である講道館。柔道創始者である
肖像画【船越義珍翁】28㎝×38㎝背景(水彩2021年)+人物(油彩画‐76㎝×102㎝2001年)◎船越義珍(1868~1957)琉球(現在の沖縄県)出身:昭和天皇が皇太子の時に沖縄を訪問した際に船越先生の唐手術の演武を見られ、その後日本政府からの招待を受けた後、当時の(柔道家)嘉納治五郎先生の計らいにより、講道館での空手の演武が契機となり、慶應、早稲田、拓殖、法政、中央大学等を筆頭に指導を始める。初めて日本の武道、空手道として広められた。
【Q16801】1976年に渋谷公園通りに1号店がオープンし全国に約200店舗を展開している、お箸で食べる創作スパゲッティの専門店で、店名は麺を茹で上げる大釜「五右衛門釜」に由来するのはどこ?【洋麺屋五右衛門】【Q16802】アメリカ50州のうち、隣接している州の数が最も多いのはミズーリ州とテネシー州ですが、共にいくつの州と接している?【8州】【Q16803】沖縄空手を本土に伝えた船越義珍(ぎちん)を開祖とし、流派名は昭和14年に船越が東京・雑司ヶ谷に開いた道場の名前に由来する、「剛柔流
僕は、10歳の頃から、約5年間、伝統空手(松涛連盟)を習った。二十歳の頃から、約5年間、今度はフルコンタクト空手(心想流)を習った。道場に通ったのは、約10年間。道場をやめた後も、個人的に、空手の鍛錬は、コツコツ続けた。30歳になったころ、沖縄空手(首里手)の動画に、衝撃を受けた。自分が習っていた形(型)とは、まるで種類の違ったものだった。【okinawaBBtv】沖縄の空手技の解説〜ナイハンチ〜おきなわBBtvでは、沖縄(琉球)の空手に関する「歴史」「流派」「人物」
演武派の合気会では『正面打ち一教』、養神館では『正面打ち一ヶ条抑え』と呼ぶ技があります。この技は、遠い間合いから、相手は走りながら、こちらの脳天を狙って、空手チョップで攻撃をしてきます。それを『一教』『一ヶ条』と言う技で反撃します。合気道を知らない方のために、少し説明をしますと、合気会の『一教』と、養神館の『一ヶ条』は、同じ技です。同じ技を別の名前で呼ぶ理由。そこには色々と大人の事情があります。合気道の開祖である植芝盛平翁は、武田惣角翁から、大東流合気柔術を学ばれました。大東流
著者は、自ら沖縄少林流の空手道場「今野塾」を主宰し空手の"型"に秘められた伝統の沖縄空手の技法を追求し、指導している。他の作品にも、空手や柔術などを取り入れた描写が見られ武術に対する造詣の深さが伺える。そんな著者が、松濤館流空手道の開祖である船越義珍(1868~1957)の生涯を小説化したのが本作。琉球の士族の家系に生まれた船越は沖縄の伝統武術である"手"(ティー)を習得したのちその普及のため大正末期に本土に持ち込んだ。戦
神奈川県も緊急事態宣言が発令された為昨日は近くの公園は避けて自宅の狭い庭で稽古しました久しぶりに道着に袖を通しました🥋先日、山下先生がblogで紹介して下さった『義珍の拳』。Amazonで購入しました。古本ですが、1円(送料のみ)でした。2日ほどで届いたので早速、読み始めました。沖縄県出身の空手家、松濤館流の事実上の開祖、『船越義珍』先生により、空手道が本土に浸透して行く話です。空手が好きな方にはもちろんの事、空手を習っている子供達にも是非読んでいただきたい
先日の拳王杯。”全日本日式散打選手権大会”そこで今回特別公開されたのが三木の面でした。この面は、約90年前、東京帝国大学(現東大)の唐手研究会の三木氏が当時の指導者「船越義珍(富名腰義珍)」の型指導に飽き足らず、実打撃試合を実現するために制作したもの。昨年、廣瀬実行委員長(宗師範)の元に継承された。このエピソードについては、今大会の審判及び、演武を務められた作家で今野塾塾長、今野敏著作の「義珍の拳」にも触れられている。「義珍が戒めたにもかかわらず、東大生たちは、防具の工
こんにちは!稽古終わりの一杯が大好きゆる松です先日、とある空手道研究会で明鏡の型について言及されているのを見つけました。すなわち後半、協会は中段外受け〔注1〕で前進するのに対して、金澤先生の國際松濤館では揚げ受けで前進している。これはどちらが正しいのか?という問題です。協会明鏡國際松濤館明鏡そもそも空手の型に関して「何が正しいのか」というのは非常にデリケートな問題です。しかし、こと松濤館の明鏡に限って言うならば、この結論は簡単に出せます。なぜなら最有力資料、船越義珍先生ご本人の
こんにちは!昨日の棒でスネを打った未熟なゆる松です😭後篇となる今回は、松風と金澤の棒について考えます。まず松風(まつかぜ)ですが、これは船越先生の三男船越義豪先生が、松濤館で門下生たちと考案した型です。名称は和訓で、松濤館の型の名称がほぼ全て漢音から構成されていることを踏まえれば、やや特殊な印象を受けます。松濤會型としては、棒の型ではあまり見られない後方飛びからの前方突きを特徴としています。現在では主に日本空手道松濤會が稽古していますが、海外の日本空手協会の道場(特に欧州)
こんにちは!棒に振り回されてばかりのゆる松です😇現在、多くの伝統的な空手道場では武器を用いた稽古が行われています。ここでは二回に分けて松濤館における棍、棒の型について考察してみたいと思います。まず松濤館系会派に現存する棒の型を整理すると、以下の四つになります。カッコ内は現存する会派です。・周氏の棍(慶應大、松濤會、協会)・佐久川の棍(慶應大、松濤會、協会)・松風(松濤會、協会)・金澤の棒(國際松濤館)まず今回は前篇として、周氏の棍と佐久川の棍を取り上げます。伝統的な棒(沖縄で
こんにちは!閉め切った道場が苦手なゆる松です😅暑空手界では、しばしば松濤館流という言い方を耳にします。しかし周知の通り船越先生は、生涯ご自身の空手道に流派を冠してはいませんでした。これは本土おける流派というものが船越先生の目指した空手道の理念とそぐわなかったためと言われています。それでは、松濤館流という呼称はいつ頃から使われ始めたのでしょうか。確認できる最も古い例では1968年、新里金福・大城立裕両氏が著した『沖縄の百年』に次のようにあります。〔注1〕船越は両師範の秘伝を一つの技に
ゆる松と申します。当研究所に足を運んでいただきありがとうございます。ここでは松濤館の空手道、その歴史・精神・技法について会派団体・主義理念の垣根を越えた研究を行いたいと考えています。ゆる松自身も日々の稽古をおろそかにしないよう励んでいますが、ここではゆる松の名前の通り、ゆるゆると気楽にやっていこうと思っています。コメントもどうぞお気軽に。ただし同じ愛好者同士尊重し合いながら、不快な言動や根拠のない自論の展開等は慎んでいただくようお願いしますね。これまで多くの武道に携わる先生方が論じてこられ
インフルエンザ強制休暇で閑をもて余したので、久しぶりに船越義珍の『琉球拳法唐手』と本部朝基の『私の唐手術』を読んでみました。改めて気づくのは、今日の空手界で当たり前のように行われている「腰を切る」動作について、二師が一切語っていないこと。むしろ、「突きの極まる時は力を丹田に入れる」との船越師の記述からは、腰を水平方向に動かす身体操作が一切取られていないことすら窺えます。本部朝基も、突きにおいて腰に関して強調しているのは「腰を据える」こと。腰を細やかに小刻みに動かすことではありません。仮に腰
合気道S.A.はリアルな世界の護身に使える合気道を指導する団体です。そこで、合気道の演武派にはない蹴り技が稽古体系に組み込まれています。確か、講道館の嘉納治五郎先生が沖縄の船越義珍氏を招聘し、空手の演武が初めて行われたのは大正時代の後期でしたから、合気道の開祖の植芝盛平翁は、まだ合気道を名乗らず大東流合気柔術の影響が濃い武術をされていて、神道系新興宗教である大本教と関係があった時期です。空手が本土で普及する時代、つまり蹴り技がまだ珍しい時代に合気道が創られていますから、伝統的な合気道団体の
第1回沖縄空手国際大会沖縄県立武道館8/2の様子動画がYouTUBEにアップされている。ありがたいことだ。「第一回沖縄空手国際大会」予選のYouTUBEの動画。型だけですが、6時間のうち、5時間程までは見終わりました。沖縄で行われたということで、自分としては、独特のカラダの使い方、身体操作クシ、チンクチ、ガマク、ムチミ、、、、などを重点的に評価し、またそういったところに留意した型の演武がたくさん見られるのでは?と思ったのですが、、、、、実際は、そうでもなさ
「義珍の拳」読みました。今野敏の唐手シリーズ小説を読んだのは「武士猿」「チャンミーグワー」に次いで3作目。これが一番面白く読めましたね。船越義珍の指導者としての苦悩と悲哀。私(渡邉)も一応指導者の端くれですので、ものすごく共感、というか感情移入して読めました。と同時に、我が師東塾長も、私らに対してきっと同じような思いなんだろうなぁ、、、と。出来の悪い弟子ですみません。押忍。
無想会セミナー初日、多くのことを学んだ1日でした。セミナーでの学びはまた追って書くとして、まずは、“謝罪投稿”から。今日のセミナーで、新垣師範から「◎◎さん(私のことです)がブログで船越義珍のナイファンチ立ちのことを書いていていたが・・・」と話があり、↓の投稿が話題にあがったのです。ナイファンチ立ちは、無想会的には、(i)インナーマッスルを伸展させ何時でも弾けるようにしておき、(ii)仮想重心を取ることでいつでも落下できる、そんな立ち方です。まさに動くための立ち方なのですが、船越義珍は、
“運ぶ”のでは無く“運ばれる”-それが武の術に於ける『運足』である。(とうに耳タコ🐙だろうけどw)・・の我的実演「型は正しく、実戦は別物」・・とは、“本土空手の父”とも呼ばれる船越義珍師が遺した言葉。ある意味その言葉の体現(仮)にもなるのかなお粗末っぷりにはひとまず目を瞑っていただいて(^_^;)序盤は「これが沙人流抜刀術」ってな感じで、普通(既存)の抜きとの違いを紹介しとります。実速ではわからなくてもスローなら、刹那の差異が次元を分けるって事がわかる