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広島県呉市下蒲刈町三之瀬にある蘭島閣美術館で開催中の所蔵作品展「比べてみよう!大きい絵と小さい絵」展を訪れた。今回は“絵の大きさ”そのものを鑑賞テーマに据えたユニークな企画で、作品のスケールが与える印象の違いを改めて実感できる内容となっている。日本の住宅環境では大きな絵画を飾ることはなかなか難しいものだが、やはり大画面ならではの迫力がある。もし広い屋敷に住んでいたなら、自宅に飾って楽しみたいほどの作品ばかりである……その望みは叶うことはないだろうが、美術館の広い展示室で堪能できるのは
改訂版「太郎と花子の日本昔話」出会いの時⑥おかっぱLIVEHOUSE“おかっぱ“一番奥のボックス席。その、柔らかな椅子に落ち着き。顔を上げると、今、入って来たドアが見えた。ドア横に、小さな“ステージ“。花子から至近距離。ライブハウスの“ミニステージ“。実物を見たのは、はじめて。花子ひとり。。静かな興奮。。20センチ程の。高さ。ほどよい広さ。大人3人は立てそう。中央に、少し高めな。丸椅子ひとつ。オシャレ。。
改訂版「太郎と花子の日本昔話」出会いの時⑤花子幸恵を追いかけ螺旋階段を上る花子。階段を見上げるも、花子の視野に、幸恵いない。きっと、もう。。3階。それで、螺旋階段から、ビルに入ってて。。(花子の妄想)それで、私が遅いから。ちゃっちゃっと、先に。入店して。。多分。。。ウン。そうだ。(根拠のない自信)それで、笑顔満タンにして。「トイレ貸してくださ〜い〜」と。言って。ウン。そう。そう。
改訂版「太郎と花子の日本昔話」出会いの時④花子花子脱いでいた片方のハイヒールをゆっくり。履き直す。やっぱり。ハイヒール。小指が、痛い。私だって。痛いのだ。我慢してる。のに、、。トイレ!トイレ、トイレ!って。幸恵、騒ぎすぎ。ホントにもう!小学生なの!花子。イライラ。ホールの仕事の疲れ、ハイヒール痛み。お腹も空いた。飲み物欲しい。なんやかやで。イライラ。イライラ。珍しく、幸恵に当たってしまった。「幸恵お嬢様。警察呼ぶ?電話でトイレ
改訂版「太郎と花子の日本昔話」出会いの時③花子花子。(心の声)もうすぐ。もうすぐ。乗り場。乗り場。。タクシー乗り場。。イタッ!もうすぐイタッ!!もうすぐ。。。イタッ!もうすぐタクシー乗り場。イタッ。ウ〰︎ッ。花子。ハイヒールの小指。けっこう。イタッいのです。幸恵。心配顔。花子に近寄る。歩調を合わせ。提案。「花ちゃん。ここで、片足だけでもハイヒール脱いじゃったら?足休めた方が、ええよ。そのほうが。ええよ。裸足で歩くほうが、ええよ」
「太郎と花子の日本昔話」第一章出会いの時②花子A声楽家教授先生コンサート準備はバタバタとはじまり。あれよ、あれよと日が過ぎて。あっという間に。今日の本番。本日、お昼過ぎから。お手伝い要員、お仕事本番!ハイ、受付セッティング完了しました。ハイハイ、舞台上のお花の到着です。ハイハイハイ、声楽伴奏リハーサルですね。ハイハイ、伴奏担当花子いきます!ハイハイハイハイ賛助演奏の確認ですか。。ハイハイ、ハイハイ、ハイハイ。。ハイハイ
「太郎と花子の日本昔話」第一章出会いの時①花子時代は1970年代後半。どっぷり昭和のお話。場所、広島県広島市。その日は、日曜日。夜9時頃。広島市中央通り“宝塚会館ビル“の前。正しくは宝塚会館ビル前“タクシー乗り場“看板前。路上。女子大生2名。荷物多い。花束も見える。疲れた表情。タクシー待ち中。そこに立つは。地元の音楽大学生。ピアノ専攻。花子と幸恵。その日ずっと、2人は、広島市の立町(タテマチ)にある楽器店の中ホールにいた。
2025年。2016年から2019年頃まで。「太郎と花子の日本昔話」と題して、私の20代。広島市で出会った太郎とのお話を、ブログ上に、思い出すまま、書き綴っていました。月日が経ち。読み返してみると。句読点、改行、時間軸の稚拙な書き方など読み辛く。整え直したく。2023年に、「太郎と花子の日本昔話」は、一旦、ブログから下させて頂いてました。時間が、とても、かかりましたけれど。整え終えたものから、少しずつ、再度、上げさせて頂きます。内容は、事実に基ついてですの
「太郎と花子の日本昔話」昭和53年。日曜日の夜9時半過ぎ。そこは、通称“広島の中央通り”。広島市でも一段と賑やかで、華やかな、八丁堀交差点。東西南北にのびる、交差点。交差点からのびている一本の道路が“中央通り”と呼ばれている。交差点から、中央通りに向かって立つと。右角には堂々とした老舗の〝福屋百貨店”。そして、道を挟んで左角には流行をお洒落にとり入れながら急成長中の”天満屋百貨店”。趣の違う2つの百貨店に迎えられるように中央
思い起こせば3月のある日友人から日本橋の三越で京都のソワレが出店してるよ!と教えてもらいゼリーポンチを昼休みにあわよくば、、、と仕事場から三越に向かった日長蛇の列に食べるのは断念したけれど天女の前でこの川合玉堂の『行く春』のインスタレーションを見て絶対に観に行きたい!と願ったことから実現した(知らないと行けないのでね、昼休みに三越まで行ってみてよかった)東京国立近代美術館の『美術館の春まつり』友人たちと行っ
今日の1枚のアート(←勝手に名付けた)今日はとても天気が良く、ここ埼玉県では少し肌寒いですが花見日和になりましたね。花見の季節に必ずと言っていいほど、竹橋の東京近代美術館に展示してある船田玉樹(ふなだぎょくじゅ)さんの作品。好きな人が多いのでしょうね。●船田玉樹《花の夕》1938年(昭和13年)とても鮮やかな、みずみずしい画面が大好きです。樹木が描かれていて、その上や周りにいっぱ丸い赤い花が描かれています。花の形も色もそれぞれ違って、一つ一つ描
私は、広島県呉市で生まれ。昭和30年〜42年の間12才までその地で育ち。その後、画家だった父は、広島市に、アトリエ兼住居を建て。転居。学生時代を送りました。私の母は、父の3番目の妻。最初の妻との間に、2人の娘。2番目の妻との間に、2人の息子。異母姉妹、異母兄弟、計4名。3番目の妻(私の母〕との間に娘と息子。父、人生の中盤。にて。やっと、私の誕生。そして、私の弟にあたる、男子誕生。異母兄達とは、共に育ち。異母姉達は、時々、父の元へ泊まりに来てました
残暑御見舞申し上げます。残暑とは名ばかりで、ここ関西も、連日の酷暑と戦っている毎日です。色々な出来事に、心穏やかではない日々が続いている中、本日8月14日、神戸新聞の朝刊に取り上げて頂きました。大変励まされた、気持ちです。私達が業としている事は、すぐに目に見えるような事ではなく、日々地味な作業の積み重ねです。今現在、人間不信に陥りそうなそんな環境下ではありますけれど、3人とも、日々、真摯に仕事と向き合っております。今日はお盆。
企画展の『重要文化財の秘密』展。見終えて、くたくたの状態。それでも、せっかく来たのだからと、所蔵展に。日本画の会場に入って、真っ先に目に飛び込んで来ました。色彩のゆたかさ。豪華絢爛という言葉が似合いそうです。花びらの一枚一枚に、命が灯っているようで。惹き付けられました。そして、加山又造。室内の照明。それを避けて撮影するのが難しくて。まるで、『妹背山婦女庭訓』の、妹山と背山。波もまた美しくて。そして、草間弥生作品です。大きな作品。そこに、細かく細かく。見ていると、その世
先日、東京国立近代美術館に行ってきました。初めて行くー!皇居のすぐ近くでした。目当てはこれ。「美術館の春祭り」桜の絵がまとまってるコーナーがあるとTwitter広告で見たんです🌸日本画を見る機会が今まで少ない人生だったので、わくわく😊菊池法文の「小雨ふる吉野」これが1番感動しました。薄曇りの背景に、遠景から近くまで白い桜がうわあっと。とても日本らしい姿だったのです。生でじっくり見て欲しい作品。写真に写っているのは近景の部分で、花びら一枚一枚が立体的に浮き上がるよう。日本人
※(日付を記事投稿日に変更しました)孝蔵さんのテープは、間違いなく私の娘との会話ですし、当時の両者を知る人多数も認めています。何を訴訟に持ち込むのか知りませんが、会話の内容は、「元夫婦の他愛も無い会話」であり、2番目の奥様が「村下孝蔵の名前を出さないでください」とお願いしたというだけのことです。娘がブログ「雪待月」で、あれこれ嘘を書いてさえなかったら、大した内容ではありません。都合の悪いことには蓋をして、目先を変えて行く・・・詭弁です。私の方も訴えてはどうでしょうか?『村下孝蔵
※(日付を記事投稿日に変更しました)村下孝蔵さんの従姉妹さんのブログ「風鈴が鳴るように」にアップされていた音声を親族一同で確認しました。かなり若い声で、トーンも高いですが、間違いなく私の娘の声であり、相手の声は歪んではいましたが故村下孝蔵さんです。30年も前の声なので、トーンが高く若々しくて当たり前ですね。カセットテープの会話④の1分18秒あたりから孝蔵さんが娘を旧姓で呼んでいる部分もありますね。すでに他人であるという距離を意識しています。また、娘は意図的に優しそうな声色を作っています。
開館中の、京都国立近代美術館に行きました。感染対策は十分に。現代アートのピピロッティ・リスト展と、コレクション展が開催中です。おや、パンティの万国旗(?)が。これも、アートなのか。プロムナードには、「感覚をひらく」として、さわれる工作品が展示されています。目の不自由な方のための作品とは、いいですね。同じく、こども達がリスト展を観た印象を、リサイクル品で作った、さわれる作品。わあ、びっくり。リスト展の入り口で、作者が見つめています。では、今日は、コレ
こんにちははるるですマジェンダのカラーに力をもらえることでしょうと何かで読んで心に留めていたら……📖きれいなマジェンダに会えましたよ😊🎨芝桜なんてかわいいピンクシュッシュッと描いたみたい。そして、東京国立近代美術館、あやしい絵展の後に常設展を拝見してて、ハッとした絵。船田玉樹「花の夕」(はなのゆうべ)美術館に寄贈されたもの。アクションペインティングではなく、一つ一つ型をとって濃淡をつけて描いてありました。これを描いた時代に、このマジェンダを思いきり使った絵は他になか
あやしい絵展のついでに、また東京国立近代美術館の所蔵作品展MOMATコレクションです〜いつも企画展の後にそのまま観るので、既に疲れている。なので、集中してじっくり観るのが難しいので、気に入った作品に絞って鑑賞する。最初に大作菊池芳文《小雨ふる吉野》遠景の山から近景の桜までとかく桜が美しいやっぱりこの時期、桜の作品が多いですな。奥田元宋《磐梯》強烈な色彩のイメージの奥田元宋ですが、こんなモノトーンな作品もあるんですな。奥田元宋展、開催されないかなー。東山魁夷《青響》
ネット上で娘たちを攻撃している人たちも半数以上は自身が作っていると感じています。いかに自分たちが攻撃されていて、可哀想か。という演出であり危機感を煽る内輪へのアピールです。娘は、何かあると「殺される。」とか極端なことを言って騒ぎます。危機意識を煽って内輪の人たちを翻弄するのです。孝蔵さんのご両親が東京へ引っ越したとか騒ぎ始めたのは、娘が「別れてきた」と帰ってきた後のこと。11月に入って、私が入院する前だったと思います。大町の村下家へ、弟に車を運転させて確認しに行きました。
普通の人は、多くの真実と罪のない僅かな嘘で語ると思います。私も正直だけで生きてきたわけではありません。虚栄心、欲望、見栄、自尊心。いろんな場面で、頭をもたげてきます。完璧な人間などいないのです。それは、村下孝蔵さんのご両親様も同様と思います。私は東京の大学で声楽を勉強し、見真学園広島音楽高校の最初期の教師として派遣されたのが、玉樹との縁の始まりでした。正直なところ、孝蔵さんのフォークソングとかにはまるで関心はなく、ご両親様とも、それほど話が弾んで仲良くしていたわけでもなく
玉樹存命中において、中期作品でかなり荒い砂状の岩絵具を使ったものは、すでにひび割れを起こし剥離していました。3男は玉樹に修復を任され、九品仏幻想「春夏秋冬」の4点、秋意、桜島などの大作を美術館収蔵前に修復しています。また、2000年頃より、将来のために準備を始めてめていました。家には多くの作品が残っており、裏打ち前の状態で半世紀以上経った作品も多々ありました。痛んでいるものも多く、絹や画仙紙を扱うには表具師の助けを必要としました。たまたま、馴染みの業者が廃業することとなり、3男(奇岑)は職
娘が孫を伴って、帰ってきたのは玉樹の誕生日(10月29日)に合わせてではありません。まだ夏の趣が残る9月半ばだったように思います。帰って早々に、「村下と別れてきた。もう東京へは帰らない。」と言うではありませんか。「孝蔵さんには、よく言い含めたので問題ない。」とのこと。また「孝蔵さんのことは、村下の両親がやるでしょう。」とも。結婚した当初は、船田家に比べたら素晴らしい家庭で。それに比べて・・・と、いかに船田家がつまらないかを力説していましたが。急転直下、村下家の悪口を力説します。私は、直接村下と
某地方新聞記者へ私をインタビューした時のICレコーダーの記録を開示しなさい。できないのであれば、誠意ある謝罪を求めます。娘については、ブログから船田玉樹関連記事、村下孝蔵関連記事の削除を求めます。あなたたちに、玉樹、孝蔵を語る資格はありません。さて、某新聞記者さんは、あちこちにメールもしています。こちらからは、親族、関係者などの総意で動いているにもかかわらず、まるで、無視して執拗に奇岑だけを攻撃してますが、何をしても無駄です。あなたたちが、水面下で動いてるつもりでも筒抜けです
さて、私がブログを始めたきっかけは、ゆうこブログ「雪待月」での村下家への誹謗中傷に憤りを感じただけではありません。私が言ってもいないことを言ったと、某地方新聞記者にあちこちで吹聴され、挙句に家屋敷を追い出されたからです。きっかけは娘たちが玉樹印鑑とその銀製の箱など私の金品を勝手に持ち出したことに対して、その返還を求めた一件からでした。娘は、その記者を使って、「船田玉樹に麻痺はなく、くも膜下出血で入院はしたが、軽いものだった。奇岑が麻痺があったと嘘をついて美術館など世間を騙している」
先日、息子の奇岑が面白いものを見せてくれました。昭和20年代に原爆ドームの中で撮られた写真を軸装したものです。写っているのは玉樹と北海道出身の岩橋英遠。丸木位里とともに歴程美術協会の盟友です。このころは原爆ドームの中に入れたのですね。原爆ドームは旧広島県産業奨励館のことです。玉樹はここで靉光、野村守夫、中川為延、丸木位里らとともに第一回芸州美術展を開催しています。写真を撮ったのは丸木さんかもしれませんね。奇岑は最近、この春開催される丸木位里の展覧会のために修復や仕立て直しで
呉市立美術館へコレクション展「日本画の魅力」を観に行ったのですが、ちょうど担当学芸員によるギャラリートークがあるというので参加しました。最初は日本画で使われる絵具、岩絵具、膠の説明で、岩絵具の原料となる鉱物も展示されています。これらの天然鉱物は貴重なので、現代は化学的に造られた新岩絵具が使われているとのこと。岩絵具の特徴としては粒状であり、粒子の大きさによって色の濃さが変わるとのこと。油絵具と違って重ね塗りが出来ないので自由が利かず、下絵を用意するなどして計画的に段階的に制作し
玉樹の表装の中で、一際異彩を放つ作品『仮面」です。東京の小川泉雅堂、故小川高慶氏の手によるもので、フランス製の裂であり、緞子などの和裂ではありません。色調の違いは裂の表裏を使い分けることと、染色によるものです。昭和の創作表装の第一人者であり、以白会の中心的存在だった方です。我が家にも数点残っています。これは、その一つ。画集においては表装をあまり載せないので、ここでご紹介させていただきます。以白会HPhttps://www.ihaqukai.com
予算難の中、船田玉樹展の開催は二転三転し、広島での開催も一度は廃案になりかけました。広島展が、東京より半年遅れての開催となったのはこのためでした。担当学芸員氏は、あらゆる助成金に応募し獅子奮迅の努力を払われました。三男も企業などの協賛を得るために駆けずり回っています。助成金、協賛金でかなりの部分を賄えたと聞いています。画文集も当初は出す予定ではなかったようですが、練馬の学芸からの提案で、展覧会での図録と画文集として本屋などでの販売も兼ねるものにして出しましょうと言うことになりました。練馬での開