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人がなにかを思ったり考えたりして、それを心から話しているときというのは、歌に似ているような気がします。しゃべりの上手い芸人さんの話も、名人の落語を聴いていても同じようにいい気持ちになることがあります。これは語られている意味や内容の部分より、声の表情や流れが気持ちよくていい気持ちになるんじゃないかと思います。歌をたくさん歌っている人たちの話しぶりというというのは、どうしても音楽的に感じられます。声に感情を乗せることと、心地よ
コトブキアズレン部航海日誌令和6年3月1日
あたかかくなってきたから春を感じるということもあるけれど、花が咲いているのを見つけて春を感じるというのもあります。最近だと「鼻が春を感じる」、ということもあるのかもしれません。目が痒くなったり鼻水が出たり、そういう春の感じ方です。あと、立て続けにお出かけのお誘いが入ると春を感じたりします。飲みに行こうとか、BBQしようとか、お花見しようとか、やたらお誘いが多くなるのも春のように思います。人間もやっぱり動物だから、
男は冒険的であるといわれます。現実のことを考えないで、未知の荒野に飛び込んでいくといわれます。それは遺伝子のせいであり、そういう男の浪漫が人類を進化させたのだとまことしやかに肯定的に語られてきました。ちなみに、こういう物語を語ってきたのは、当然のことながらその男たちが中心です。一方で、女は冒険は嫌います。男の冒険に「無謀だ」と水をかけます。散らかし放題の浪漫の残滓を片づけて、今日を生きる食事の用意をします。子どもを育てるために
歩道橋の上でジャンプすると揺れます。倒壊しないためには、ガチガチに補強するより柔軟性が必要です。こういう柔軟性の大切さっていうのは、人にもいえると思うんですよね。スポーツでも仕事でもなんでもいいのだけれど、一緒になにかをしたいと思うチームには、いたずらを思いついたときのような「へへへ」の要素がある気がします。「あそびごころ」というのかな。あそびごころ、笑い、冗談、ポテンシャル。いろんな言い方ができるけれど、「へへへ」という柔軟性
肉食魚というのは、追いかければ食べられる小魚を狙います。基本速く泳ぐ元気のいい魚は追わないし、死んで浮かんでいる魚も無視します。「ちょうどいい感じ」の魚を狙うんですね。「口説き落とせなそうで、落とせそう」このあたりがいちばんモテるといいます。狙われる魚も同じなんでしょう。口が悪いので評判の大将のいる店にどうしてわざわざ客がいくのかの問いも、このロジックで説明できる気がします。毒舌とか口が悪いとか無愛想だとかを看板にすると、客の
テレビにも、SNSにも、雑誌にも、あらゆるところにランキングがあります。歌、映画、本、学校、会社、有名人の好感度ランキングとあらゆるものに順位をつければ、成立すると思っている節があります。しかも順位の妥当性は、意外とどうでもいいらしく、とりあえず10個くらい項目を並べればコンテンツとして成立するのでしょうね。なぜ、ランキングがこれほどまでに多いのかといえば、やっぱり人気だからでしょうね。つまり見られるからです。ランキン
特におもしろいわけじゃないテレビ番組が、意外と数字をとっていることがあります。なぜだろうと考えてみたら、じぶんも疲れているときには、そういう番組をよく観ていました。観ているというより、流しているような感じです。たのしみにしているテレビドラマを観るときには、じぶんがしっかりしているときに時間をとってじっくり観ます。時間がないときには、録画したり配信で観たりします。しかし、じぶんが疲れているときは、たのしみにしている番
おぼえておける情報の棚には限りがあります。あれもこれも「なにかの役に立つかもしれない」と知っておきたくなります。知らないままだと時代の流れに乗り遅れてしまう気がしてとりあえず取ってきた情報というのは、意外となくてもいいのかもしれません。あふれる情報に毎日触れ続けていると感覚が麻痺していく気がします。見たくないものまで義務感のように見続けていると、じぶんがほんとうに見たいものがなんなのか分からなくなって見えなくなっ
ケンカするほど仲がいいと言います。でも、できればケンカは避けたいのが本音ですよね。それでも、じぶん以外の他人と関係性を深めていこうと思うなら、意見が食い違ったり伝わらなかったりは、どうしてもあると思います。関係性を良くしたい思いは同じはずなのに意見が食い違ってケンカになってしまう。たがいのコミュニケーションのなかで、意見のすれ違いが発生するときというのは、ほとんどの場合「じぶんが正しい」とそれぞれが思っているときです。
コトブキアズレン部航海日誌🥞令和6年2月22日🥞
いま、じぶんが歩いている横をスポーツカーが通り過ぎたとします。それが世界に数台だけしか存在しない激レア高額スポーツカーだったとしても、たぶんクルマに興味のある人以外は、通ったことさえ気づかないでしょう。うるさいエンジン音を立てていたとか、印象的な色(たとえば真っ赤)だったとかならチラッと見るかもしれませんけれど、ほとんどの人が見向きもしません。ほとんどの人は、なにも思っていません。街頭インタビューで、いろんな質問が投げかけられ
コトブキアズレン部航海日誌令和6年2月21日
運営からのメッセージでしょうか?少し前からアイコンに変化があったなと😌特別に教えてブログを始めたきっかけは?ン〜😅思い起こせば、最初は「ヤフブロ」で数年、孫正義が打ち切りブログ難民に😇選択肢は、アメブロとFC2、ハテナ、忍者、ワードプレスとあってヤフブロのデータの引っ越しが簡単そうだったのが「FC2ブログ」引っ越しは出来たンだけどやっぱソコは、システムが違うみたいで文章の列や改行までは引っ越しは出来ず、画像だけって感じ東日本大震災で少し休んだけど「FC2ブログ」に1
艦つく【航海日誌】令和6年2月21日
働き者といわれる人がいます。彼のインタビュー記事などを読めば、ほんとうに働き者だと思います。しかし、家ではうってかわって怠け者です。家のことをなにも手伝わないで、ごろごろ、すやすや、そしてまたごろごろ…二足歩行している場面をなかなかみない。ほんとうに動物のナマケモノみたいです。以上のことから分かることは、「山田さんってどんな人?」と訊かれたとき、ごろごろしたり居眠りしている状態の山田さんをすべて省力して伝えます。居眠りを含め睡眠
「じぶんで考えて生きよう」というのが、このごろのじぶんのテーマのひとつです。あれこれ周囲のせい、時代のせい、なにか持っていないもののせいにしないで生きていきたいと思っていたりします。なにかのせいにしないということは、だれでもなく、じぶんでやれることを考えるということでもあります。「だれかがこういうことをしないかなぁ」「こんないいアイデア、だれかやらないかな」なんてところで考えることをやめないで、ほんとうにやりたいことなら、「じぶんはどうし
なにかを発見したり感じたりするのは、ひとつの大切な能力のように言われます。そして、なにかを失ったり感じなくなったりすることは、あんまりいいこととは言われません。たとえば、とても悲しいこと。ほかの人はまだ気づいていないけれど、先に感じる人は感じてしまいます。先に見える人は見えています。そういうことに優れた人がいるから、詩とか物語とか歌とか表現にかかわる世界が豊かになってきたのだろうと思います。だけど、悲しいことを感じたままで
「なんでこんなものが売れるんだ?」と驚いてしまうような商品が時折あります。いったいだれが企画したのか、これで売れるとほんとうに思ったのか、確信犯でも愉快犯でもない、ただただ天然な商品。そういうときに思うのが、「企画会議をのぞいてみたかったな…」です。意見を求められてしまうと困るので、参加ではなく見学希望です。きっと、おそらくまじめに、企画書をしたためた人がいるはずです。まじめな議論も交わされたことでしょう。そして、まじめにGOが出
たとえば幼いころに貧しくて苦労した人がいたとして、一所懸命に努力して成功をおさめて、裕福な暮らしを手に入れたとします。その人に今の若い人たちが、「お金がなくてたいへんです…」と言うと、「ぜんぜん努力が足りない」と叱責したりします。みんながそうじゃないですけどね。叱責する理由としては、じぶんが努力してきたのだから、できない理由を努力不足だと決めつけてしまうからです。それと、もうひとつ。過去のじぶんの努力をなぜか否定さ
じぶんには、なにか特別な才能がある。若い頃にそんなふうに思っていた人も、だんだん「じぶんは凡人なのかも…」と悟るようになっていくのだと思います。ただ、そのあきらめは、そんなに悪くないのかもしれません。凡人であることを受け入れると、日常から大根演技が消えていくんですよね。「つよく見せよう」「かっこよく見せよう」「かしこく見せよう」「おもしろく見せよう」「へんな人に見せよう」そういう煩悩が少しずつ減っていきます。凡人がじぶん
なんでもかんでもそのままで、すべてじぶんの思い通りにいくのであれば、考えることをしなくてもいいわけです。ぼーっとしているだけでも、ちゃんと思い通りにいくのであれば、考える必要なんてありません。たとえば、家から駅までぼーっとしているだけでも辿り着けるのは、その道程に予想外がほとんどないからです。都心の整備された道なんてそうでしょう。なにも考えなくても容易に駅まで着けるでしょう。でも、これが険しい山道ならどうか。予想できない道
国民が、とくに若者が政治家たちのことばやおこないに幻滅し不信感を募らせ、果てには政治になにも期待できなくなり、興味関心さえ失ってしまった状態を政治不信と言ったりします。国会中継なんかを見ていると、そりゃそうだと思う場面が多々あります。これを見て尊敬はできないよな、と。一方でそういう場面は、政治にかぎったことではない気もします。たとえば、いま中学生がなんとなく世の中を見渡してみたときに、尊敬や憧れの対象ってどれくらいいるのかな。
「絵に描いた餅」とは、どんなに上手に描かれていても腹の足しにもなりゃしない…食べられない(=役に立たない)現実的になんら価値を持たない、そういう意味でつかわれます。たしかにそうなんですけれど、絵に描いた餅を過小評価するのもどうなのかなと思っています。たとえば無人島で、食べることがむずかしいときに絵に描いた餅に価値はありません。でも、食べることの心配がほとんどなくなった状況のおいて、絵に描いた餅の価値をなめてはいけないんじ
じぶんの近くに、ただただ機嫌のいいやつがいるって、それだけでいいと思うんですよね。なにができるとか、なにをしてくれるとかじゃなくて、「ただ機嫌がいい」というだけでほんとうにありがたいのです。人間は、わりと心の中のうれしい気持ちとかを隠しますけれど、犬がしっぽを振るみたいにばれちゃえばいいのに。だれかが機嫌よくしているというのは、どういうことばよりも人と人との間を幸福にします。じゃあ、どうすれば機嫌よくしていられるのか
「これはもっと簡単にできないか?」とか、「これ、もっと短くできないか?」とか、「これ、いっそ無くしちゃえないか?」とか、効率化というか、単純化というか、基本的には「いいこと」とされてきました。効率化できることは、効率化する。これが仕事の進歩だったかもしれません。鉄道の歴史なら、鈍行で1日かかったような旅行が、急行で早く行けるようになり、新幹線がもっとそこまでの時間を縮めて、その新幹線はリニア中央新幹線としてもっと速度をあげようとしています。
50・60代くらいのおじさんが、若い人たちに食事をごちそうするとき、「とりあえず焼肉」は多いと思います。若いやつらは焼肉食わせておけばOK、それがいちばんうれしいだろう、焼肉が嫌いなやつなんていないだろう、そういうシンプルな思いからでしょう。ところが、です。最近の"若いやつら"は焼肉をさほどよろこばない説があります。とくにカルビやホルモンのように脂っこいものを露骨に避け、赤みをありがたがったりしていると。特上カルビをおかわり
コトブキアズレン部航海日誌令和6年2月9日
なにかよからぬことが起きてしまった場合、関係者は「心を傷めるべき」とされます。そういう場面において、「切り替えが早い」人間というのは、非難されたり攻撃されたりするでしょう。ほんとうは「よからぬこと」の種類にもよるのだろうと思います。現実的になにかを「よい方向」にもっていくためには、切り替えられずに深く反省したり悲しみにくれているより、切り替えたほうがいいと思います。でも、わかっていながらも、「切り替え」を早くするのはむずかしいで
宗教上の理由から、牛や豚を食べない人たちがいます。そうした禁忌にない国に育った身としては、「牛(豚)を食べられないなんて、かわいそう」「人生損してる」なんて思ってしまいます。でも、逆の立場でいえば、不浄のものと考える牛(豚)をよろこんでむさぼり食べているぼくらのほうを「かわいそう」と思っているかも。そういえば日本人も、昔は牛や豚を食べていませんでしたね。明治に入ってから、海軍で英国式の食事を出すようになって、滋養強壮のためにパン