ブログ記事71件
続日本紀の養老四年(720年)五月二十一日の記事にこうあります。「是より先、一本舎人親王(いっぽんとねりのみこ)、詔を奉じて日本紀を修(あ)む。是に至り功成りて奏上す。紀三十巻、系図一巻。」神社検定テキスト『神話のおへそ『日本書記』編』より2この日本紀とは、日本書記のこと。本日は旧暦では5月21日です。つまり1304年前の本日、日本書記が時の天皇である元正天皇へ奏上されたのです。4年前は、日本書紀編纂1300年という記念すべき年だったわけです。※暦は何度も改暦されているので単純に旧
5月1日は、雨☔️でしたが、次の日から5日までは、いい天気☀️に恵まれて暑いぐらいでした。いつも、祭りの時は、雨の日が多いので「あまもりさん」と名付けられてます。いつも読んで頂きありがとうございます🙇♂️
こんばんは‥(^_-)-☆今日の奈良はお天気が少し悪く曇って、22℃とそれなりに暖かいですね・・(^_-)-☆マリア猫は今朝も寝室の枕元で寝ておらず呼ぶとどこからか姿を現しました。手の届くところに来たので、擦るといつものように手を噛み、引っ掻かれました。このごろは何故か昔のように手を舐めることは無く手が痛みます。私が一階に降りると一緒に降りてきて、餌だけ食べてすぐに二階かそれwとも外にでかけているんですね?・・私が一階に降りるとエサをくれると思っているんですね
4月14日の歴史平安時代末期の貴族で儒学者清原頼業ご命日です文治5年閏4月14日死没清原頼業公は平安時代後期の漢学者・儒学者で天武天皇の皇子、舎人親王の御子孫にあたり一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔その娘、清少納言らの名も見られる頼業公は大外記の職を24年間も任め和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた頼業公は文治5年4月14日に逝去され清原家
さてさて………………江戸時代まで桓武天皇陵であった古墳を境内に持つ【浄蓮華院】を出発して、ココロが次に到着したのは…………………【藤森神社(ふじのもりじんじゃ)】京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609今から約1800年前に神功皇后によって創建されたと伝わる由緒ある神社だ。『伏見満喫ウォーク⑥〜藤森神社〜』さてさて………【京都歩兵聯隊跡】の石碑からすぐ。到着したのは…………【藤森神社(ふじのもりじんじゃ)】京都府京都市伏見区深草鳥居崎町609今から約1800年前…ameblo.jp前回
東明寺(とうみょうじ)は、持統天皇八年(693年)に、舎人親王(とねりしんのう)により開創された。舎人親王は、母の持統天皇が眼病に悩まされているのを哀しみ、母の回復を祈っていたところ、夢枕に老翁姿の白髭明神が現れ、そのお告げにより当山に登り、翁の与えた金鍋に霊井の水をすくい、この水で母の眼を洗ったところ、持統天皇の眼病は治癒したので、感謝として舎人親王の勅願によりこの地に寺を建立した。また、当寺は矢田村の氏神である矢田坐久志比古神社の神宮寺で、神役を勤めていた。*舎人親王は、天武天皇の第三
伊藤浩士先生の小日本秘史・時々掲載予定第41回我儘女性天皇阿倍内親王、即位して孝謙天皇ですが、父親の聖武天皇が上皇でいるうちはおとなしくしていたのですが、死ぬと箍が外れたように好き勝手なことをやり出します。ふつうの女性であれば、美味い物を食べるとか、高い衣類を着るとかになりますが、最高権力を持っているのですから人事になります。好き嫌いの人事というか、聖武天皇が決めて行った皇太子に道祖王が気に入らなくて、聖武天皇が死んだ翌年には廃太子にしてしまいます。理由が、聖武天皇の喪中
令和6年(2024年)1月1日(月)朝から藤森神社(氏神様)に初詣、そして極楽寺にお墓参りに行く。先ずは、藤森神社から。徒歩・電車で行く。小雨が降る中参る。雨降りにて、人出は今イチといったところか。母が体調不良にて、取り敢えず一人で参詣する。藤森神社に到着古いお札をお焚き上げ箱に入れる。本殿に参拝後、おみくじを引く。「吉」であった。摂社・末社を一巡する。御朱印をいただく。藤森神社は京都市伏見区深草にある神社。5月5日に行われる駈馬神事や、菖蒲の節句の発祥の地として知ら
天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でしたが、天武天皇が有力皇子同士助けて争わないことを誓わせた吉野の盟約当時はまだ3歳と幼く加わっていません。第六皇子でしたので皇統からは遠く、しかし天武天皇の諸皇子の中では長命でしたので、長屋王とともに皇親勢力として権勢をふるい、「日本書記」の編集も総裁し養老四年(720年)五月に完成奏上しています。3年前は日本書紀編纂千三百年という
今日は母のグループホームに面会に行きましたといっても15分だけですま、行って会ってもすぐ忘れてしまいますがそれでも、会った気分は少しは残るかと思いまして車の点検とかメルカリの発送とかして時間が少し早かったので氏神様の藤森神社に足をのばしましたすごく晴れていて気持ちがよかったです何度もこの神社には来ているけれどこんなにいいと思ったことはありませんでした空が広くて人が少なくてしっかり手を合わせて何もお願いもせず頭を下げてちょっと周りを歩きましたここ
12月6日出来事1240年-モンゴルのルーシ侵攻:バトゥ率いるモンゴル軍によりキーウが陥落し、キエフ大公国が滅亡。1877年-トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する。11月29日に蓄音機を公開したその後に録音を公開したっちゅう事ぢゃの〜。2020年-小惑星探査機「はやぶさ2」の回収カプセルが地球に帰還。誕生日1948年-ケケ・ロズベルグ、F1レーサー1982年ワールドチャンピオン1950年-久石譲、作曲家ひさいしじょう195
第四十七代淳仁天皇は奈良時代の天皇です。御父、舎人親王の第七子、御母は当麻山背(たいまのやましろ)。また御祖父は天武天皇です。3年前は日本書紀編纂1300年の記念すべき年でしたが、舎人親王は日本書記の編集の総裁をしていた皇子です。『すめらぎのお話・・・皇帝と廃帝と日本書紀と枕草子と馬』天武天皇の第六皇子に舎人親王という皇子がいらっしゃいました。その御尊母は天智天皇の皇女の新田部皇女(にいたべのおうじょ)でしたから母方も天皇の血筋の皇子でし…ameblo.jp『「日本書紀」編纂13
続日本紀の養老四年(720年)五月二十一日の記事にこうあります。「是より先、一本舎人親王(いっぽんとねりのみこ)、詔を奉じて日本紀を修(あ)む。是に至り功成りて奏上す。紀三十巻、系図一巻。」神社検定テキスト「神話のおへそ『日本書記』編」より2この日本紀とは、日本書記のこと。本日は旧暦では5月21日です。つまり1303年前の本日、日本書記が時の天皇である元正天皇へ奏上されたのです。3年前は、日本書紀編纂1300年という記念すべき年だったわけです。※暦は何度も改暦されているので単純に旧
日本最古の厄除け霊場とされる松尾寺は、JR関西本線:大和小泉駅から北西へ4㎞の山の中に在ります。法隆寺から北へ5㎞のところです。住所:奈良県大和郡山市山田町683山門をくぐった右に霊水があります。取水については「お一人3分以内」というお願いが貼り出されておりましたので、人気があるのでしょう。なお、松尾寺としては飲用を奨めておらず、「御自分の判断でお願いします」と書かれておりましたので、自己判断で飲みました。味は良いです。しかし「
文武両道神社仏閣・パワースポット36…藤森神社@京都府藤森神社|そうだ京都、行こう。(souda-kyoto.jp)不二の水境内のご案内②(fujinomorijinjya.or.jp)藤森神社縁起(fujinomorijinjya.or.jp)藤森神社(fujinomorijinjya.or.jp)藤森神社|勝運・学問と馬の神様、見どころ8選-ふらふら京都散歩(furafurakyoto.com)第1回藤森神社の歴史-京都宝物館探訪
「舎人親王」に反応してしまった私。日本史では、この時代が一番好きかも。。
奈良市教育委員会は4月3日、平城京跡の発掘調査で上級貴族が住む大型建物跡を発見したと発表した。日本書紀を編纂した舎人親王(676~735)の邸宅跡と研究者から推測されている。発掘地は奈良市大宮町の「左京三条三坊四坪」区画。マンション建設に先立つ1~3月の発掘調査で、南北10m、東西20.2m規模と推定される大型建物など年代の異なる5棟の遺構が出土した。平城京の通りは1町(130m)単位の碁盤目だが、道のはずの部分まで建物跡が伸びていて、瓦も周辺から出土した。教委はそこから、この区画は4町分
平城京模型2023.3.28奈良市役所には大きな平城京の情景模型があります。頻繁に行くことはない市役所ですが、行く時には立ち寄るのが楽しみにしています。※※※今日のもう1枚この日、市役所の桜もよく咲いていて見応えがありました。さて4月に入って、この奈良市役所の近くで行われていた発掘調査で、大規模宅地跡が検出されました。調査地は、奈良市大宮町四丁目。平城京的な住所は、左京三条三坊四坪です。ニュースでは、舎人親王邸跡かとも報じられていました。
おはようございます。2月に入りましたね‼️後、3日、2月4日で立春🌸です!立春からなのか何故だかわからないですが、私の中で1月下旬からなんだか、お腹の底からワクワクします。今年1年は楽しみだー❣️さてさて、本日は朔参り(ついたち参り)⛩に参拝に上がらせて貰いました。前回のブログに参拝に上がらせて貰う時、自宅の神棚に『今から参拝に上がらせていただきますね』と神様にお伝えしてから運転🚗³₃して神社に向かってると必ず‼️エンジェルナンバーを見ますとお伝えさせて頂きました。今日も普
令和5年1月1日(日)元日が日曜日から始まる年となった。今年は人生の節目となる年となるので、無事息災に暮らせるよう願いたいものである。さて、毎年恒例の元日の初詣は氏神様である藤森神社に詣ることにした。朝から車で母を乗せて行く。学芸の祖舎人親王崇敬碑。本殿。舞台。本殿前。由緒書き。霊験天満宮。大将軍社。七宮社。八幡宮。不二の名水。神功皇后御旗塚。永代常夜燈。神鎧塚。藤森七福神。藤森稲荷社。菖蒲の節句発祥の地。藤森神社は今から1800年前に、神功皇后によ
12月12日の京都神社仏閣巡り。2社目は伏見区の藤森神社です。午前8:30に鳥居前に到着!澄んだ朝の清々しい雰囲気の中、まっすぐ伸びる参道を見て心引き締まる思いがしました!神社の前に立つや否や、穢れを祓ってもらえた感じが!ブロ友さんが毎日お参りしてるのが理解出来た感じがしました。帰宅後、写真を見て気付いたのですが、車道の方を歩いてました、俺・・・参道に「人・馬」とあることから、この長い真っ直ぐな参道で馬を走らせる神事があるのでしょう!上の写真、右側の参
藤森神社へ行って来ました。藤森神社「約1800年前に神功皇后によって創建。皇室ともゆかりの深い古社。菖蒲の節句発祥の神社としても知られ、勝運と馬の神様として、競馬関係者や競馬ファンの参拝者で賑わう」神社の存在は知っていましたが、どのようなところなのか予備知識が全くなかった。境内は広い。人の数は疎ら。本殿「正徳2年(1712年)中御門天皇より賜ったもの」藤森稲荷社神功皇后御旗塚「神功皇后が三韓征伐の凱旋後、軍旗を立てて祭った塚。参拝すると腰痛が治ると云われ、近藤勇も訪れて
寺社No.5968御朱印No.6303鍋蔵山東明寺奈良県大和郡山市高野山真言宗舎人親王勅願所2022年8月7日きっと紅葉の名所です。
藤森神社(ふじもりじんじゃ)の創建年代については不詳である。鎮座地の鳥飼は、古来、朝廷と縁のある土地であり、宇多天皇(887年)の離宮(鳥養院)が上鳥飼にあったと伝えられている。宇多天皇の離宮であった上鳥飼に、当時より小祠が鎮斎されていたものが、その地より水流により現在地の鳥飼西に流れ着き、鎮座したものとされている。天正五年(1577年)に、現在の神社の形態が出来上がったもので、本殿は寛文四年(1664年)に建立したものである。御祭神:舎人親王(とねりしんのう)
JR藤森(ジェイアールふじのもり)('22.6.11)藤森神社の第一あじさい苑に満足。第二あじさい苑に行くのはまた後ほど。正午を過ぎた。この神社に来て1時間くらい経ったが、まだ参拝していない。壁がない特徴的な形の拝殿。真ん中に通路がある「割拝殿」となっていて、中を通り抜けて本殿へ行ける……はずなのだが、入口が塞がれていて、中には入れなかった。本殿は重要文化財。江戸時代の1712年(正徳2年)、中御門天皇から賜った建物。もとは宮中の賢所(かしこどころ・八咫鏡(
続日本紀の養老四年(720年)五月二十一日の記事にこうあります。「是より先、一本舎人親王(いっぽんとねりのみこ)、詔を奉じて日本紀を修(あ)む。是に至り功成りて奏上す。紀三十巻、系図一巻。」神社検定テキスト「神話のおへそ『日本書記』編」より2この日本紀とは、日本書記のこと。本日は旧暦では5月21日です。つまり1302年前の本日、日本書記が時の天皇である元正天皇へ奏上されたのです。暦は何度も改暦されているので単純に旧暦にあてはめてます。2年前は、日本書紀編纂1300年という記念すべき年
令和4年5月4日(水・祝)藤森神社の大祭。5月3日・4日・5日の間に行われる。菖蒲の節句の発祥の地とされている。通常であれば、5月5日には鼓笛隊・武者行列と神輿の域内巡幸がされる。また、駈馬神事や流鏑馬なども行われ、テレビでも紹介されることが多い。だが、コロナ禍にて、今年も鼓笛隊・武者行列はないようだ。神輿は大きな台車に載せて巡幸させるようだ。本殿。あじさい苑。来月かな。八幡宮。祖霊社。八百万の神々。大将軍社。霊験天満宮。藤森七福神。藤森稲荷社。斎館。神楽殿。
霊山寺奈良市!中町一山、一つの山丸ごと霊山寺大きなお寺ですね。今となってはバラの寺ってよくMBSの夕方報道番組などで流れてたなと思うんですがこの頃は知らない地域、知らないお寺でした。でもそこは地理オタ、地図を読み切り、たどりつく。お詣りしやすさ、もきっちりできてはる。この足元。この足元。ななんや、これは?眺望閣!眺望よさそうやから。眺望は開けませんでした。特別な神
やっと詣でることが出来ました。第47代天皇に天平宝字2年(758年)に即位した淳仁天皇です。天武天皇の舎人親王の第七王子であり諱を大炊とされていました。私が最初に淳仁天皇が淡路島に陵があると知ったのが、「白峰神宮」に行った時に、崇徳天皇と一緒に祀られているのが淳仁天皇だったのです。その時に調べてからの事です。「はいからさんが通る」という漫画が好きで、その中に伊集院忍少尉のおばあさんが若い頃好きな方とは結ばれずに別れなければならなかったそうです。『自分の子どもたち
ここ矢田寺の法隆寺側に数キロの矢田丘陵の中腹にあり、奈良盆地を眺められます。尾根伝いにハイキングコースがり、20分ぐらいで来られます。急な坂道を登って行くと、ガードマンが。第1駐車場は一杯で第2に。2月って、はつうまの大祭がある時期で、参拝者も多いんです。ホームページには、『日本最古の厄除霊場、そして「厄攘」唯一の祈祷寺』厄攘(やくじょう)とは厄を盗こと。つまり、松尾寺は皆様の厄を盗む日本最古の厄除霊場です。』って記載されています。『はつうま・厄除観音出現記念大祭につ