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以下、カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2006年)より。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー中山元解説――カントの思考のアクチュアリティp.281■啓蒙の概念啓蒙という言葉は、「蒙(暗さ)を啓く(開く)」という日本語の意味からも明らかなように、一つの抽象的な概念である。カントの定義では、「みずから招いた未成年の状態から抜けでること」(本書10ページ。以下のページ数はいずれも本書のものである)ということだ。
つづき以下、カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2006年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第2章国家間における永遠平和のための確定条項p.162〜163◇自然状態の廃棄ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態[スタトゥス・ナーチューラーリス]ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平
以下、カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2006年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー人類の歴史の憶測的な起源(1786年)◇臆測による歴史の可能性p.70〜71人間の行動を記述する歴史に憶測をさしはさむことは許されないだろう。しかし人間の歴史の起源[傍点]を記述するには、それが自然[傍点]による起源であるかぎりにおいて、憶測を試みることは許されるのである。この歴史の起源は、仮構として物語る必要はなく、経
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー解説ジュネーブ共和国市民、ルソー中山元第1章『人間不平等起源論』第1節序――方法論の考察ルソーの自然法p.310ルソーはこのように宗教とは無縁な場所での思考実験と、同時代の未開部族や野生児の報告との比較という方法によって、人間の原初のありかたを考察しようとする。p.311〜313ルソーは彼なりの新しい自然法を提示す
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(第2部つづき)社会と法律の起源p.151とくに富める者たちは、この永続的な戦争状態が自分たちにとって不利なものであるかを痛感したに違いない。生命を失う危険性は万人に共通であるが、財産を失う危険性は富める者だけにあり、しかも富める者たちが戦争状態の負担を全面的に負っていたからである。〔略〕p.152こうして富める者たちは必要に迫られて、人
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第2部所有という観念の発生p.123ある広さの土地に囲いを作って、[以下傍点]これはわたしのものだ[傍点終]と宣言することを思い付き、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人なのである。そのときに、杭を引き抜き、[境界を示す]溝を埋め、同胞たちに「この詐欺師の言うことに耳を貸すな。果実はみんなのものだし
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(第1部)結論p.114〜117結論をだそう。森の中を彷徨[ほうこう]する野生人はとくに知恵を働かせることもなく、言葉を話さず、家ももたず、たがいに闘うこともなく、他人と交際することもなく、同胞を必要としないし、同胞に危害を加えようと望むこともない。おそらく同胞の誰一人として見分けることもできない。こうした野生人は情念の虜[とりこ]となるこ
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー第一部原初の人間の像p.58〜59人間はいつの時代にも、いまわたしがみているように、2本の足で歩き、わたしたちと同じように手を使い、すべての自然を眺め、天の広大な広がりを目で計っていたと考えるつもりである。このようにして構成された存在から、[神から]うけとることのできたすべての超自然的な賜物と、長い期間をかけて進歩することで獲得できたすべ
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー人間の不平等の起源と根拠についての論文[前文]二種類の不平等p.49〜50わたしは人類には二種類の不平等があると考えている。一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。これは自然が定めたものであり、年齢、健康状態、体力、精神の質、魂の質の違いによって生まれる。もう一つは社会的[モラル]または政治的な不平等と呼びたいもので
以下、ルソー『人間不平等起源論』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2008年)から引用です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー献辞ジュネーヴの長所p.11わたしが生まれたいと考える国、それは主権者と人民の利害が唯一で、同一のものである国です。望ましい祖国p.14わたしが望ましいと考える祖国は、それは幸いにも無力であるために、征服欲という残酷な欲望に駆り立てられることがなく、地の利に恵まれていて、ほかの国から制服される恐れもない国です。ほかの多くの国にはさま
前回の続きです。AI教材システムが成り立つ条件としてAコーチングBモチベーションの内のB、AI教育システムと子どもの「動機付け」を取り上げます。子どもにも意志があり教育が「侵襲行為」である限り「自発」と「強制」の問題はどこまでもついて回ります。「侵襲」とはもともと医学用語です。医療者だけではなく教師の仕事も働きかける相手の心身に踏み込む点では同じ性質をもっているといえます。特に教育では「自発」と「強制」は根本的なテーマです。現在の教師一人がたくさんの生徒を相手にす
バシャール:ポジティブ側へシフトする事は然程難しい事では無く、もともとの”自然状態”へと戻ること。転載元:thePLANETfromNEBULAhttps://ameblo.jp/viva-bashar/entry-12029934357.html(ここから)バシャール:自然と不自然ネガティブな波動に囚われてしまっている貴方は、”助けが来ない、解決策が無い、何故自分ばかり…"という具合に、自分自身を打ちのめす事だけにフォーカスしてしまっていて、例えポジティブなアイデアやインスピレ
人類の自然状態とは何かについては今まで様々な考えが述べられてきた。たとえば、ホッブズの自然状態は、「万人の万人に対する闘争」である。ホッブズの理論からは外れるかもしれないが、この言葉からは動物界の過酷な生存競争が思い浮かぶ。自身が生き延びるために他を殺害して食す。力の強いものが制する世界である。私は、集団化し、武器や火などを利用して、他の動物に捕食されるリスクを減らすことで獲得した平和が、人類の自然状態であると考える。言い方を変えると、最近よく言われる人類が自己家畜化した状態とも言えると思
今夜も令和哲学カフェを視聴しました。令和哲学カフェ#701☕️令和哲学カフェのご案内☕️令和哲学カフェ今ここスッキリBeyondEverything時代のパラダイムが大きく変化しています。新型コロナウィルス感染拡大、そしてAIの台頭。今までの当たり前や常識が大きく揺さぶられ、「哲学」や「軸」がなければ、環境に左右され、変化に対応するだけで精一杯になってしまいます...www.youtube.com今夜から来週木曜日まで、「我らが行く道は,」をテーマに若者が作る新しい国家について考えてい
2日続けて夜10時頃就寝、翌朝6時前後に起床。普段、夜通し仕事や勉強をしていることが多いので、極めて稀な睡眠パターン。でも、心身ともに調子が良い。人類は何万年、何十万年と、暗くなったら眠り明るくなったら起きる生活をおそらくしてきた訳だから、当然と言えば、当然か。
おはようございます😃うーにゃんのお薬服用期間も今日までです。世間的には飼い猫の避妊・去勢手術は「善」とされていますし実際一度に5、6匹も生まれるはずの子猫全ての世話をし続けることも里親を早々に探して託すことも私にはできないでしょう。けれどもこの子の未来へつながる全ての命を断ち切ってしまったというつらい気持ちは我が家の猫がもらい猫や拾い猫ばかりであるという事実を顧みても弱まることなく何度も私を苛みます。人間の関知しない自然状態であれば子猫は他の肉食動物の餌になる
今回紹介する記事は2021年1月14日付けの「北海道新聞」の記事です。【未熟な権利観念に起因「緊急事態」めぐる混乱】というタイトルで、京都精華大専任講師白井聡氏が、究極の公人である政治家が、「公」の本質を理解していないから、「命ずる」ことを忌避している、責任をとりたくないことについて、紹介しております。いつもどおり、「4つ」の視点でこの記事を見ていきます。(4つの視点についてはこちらをご覧ください)☆新聞記事の紹介について(発信者が重
📩◾️『カント入門』(石川文康・ちくま新書)▪️見えざる教会、唯一の宗教------仮象宗教から真の宗教へところで、法的な意味での自然状態(国家社会成立以前の状態、国家が存在しないと仮定した状態)は、ホッブズの言う「万人の万人に対する戦い」であり、法的公民状態に移行しなければならなかった。しかしこの状態は、倫理的な意味ではまだ自然状態にすぎない。そこではなお、「非社交的社交性」という原理が支配している。非社交的社交性とは、個人と個人の社会的対立を通して社会が成りたつ状態を言う。要す
自由とは何か?という自由の意味を問う問いですね。しかし自由の意味がわからなければ自由という言葉がいつまでも使えない。正直、僕も個人的な自由という言葉の意味はいくらか述べてきたが、丁度「倫理学入門」という書籍を書いた品川哲彦氏という哲学や倫理の教授のものから自由というもののまとめ解説をしなくてもいいのにしてみることにする。恐らく、子供などに自由というものを教えようとしている親も多いのだろうと思うが、そうそうきちんと教えれる親もいるはずはないだろうな。書籍では、まずトマス・ホッブス(16
自分でエサをとりに行けない。自然界ではそれは死に直結する。病気だろうとケガだろうと足腰が思うようにいかなくなれば、ライオンなら獲物をつかまえることができず、ウサギやシマウマなら逃げそこねて捕食される。自分で動けなくなったら基本的におしまい。だから自然状態の生きものには病人やけが人はいないのだと、そんな話を聞いた記憶がある。「動きがにぶくなったら、おしまい。それが自然のオキテ、文句は言えないのだと、つねに自分に言い聞かせて毎日からだをととのえているんです」治療家T先生の話だっ
byオスカルの父(ベルサイユのばらより)以前ブログでも書いたが、今、ルソーの「人間不平等起源論」を読んでおります。うそ、ベルサイユのばらを読んでいます。うそ、本当は両方読んでいます。本当に両方読んでいますとりあえず本題に入る前にまず話しておくと私は、めちゃんこ疲れている。圧倒的疲労。基本1日中休むという事はない。収入は倍に増えました…圧倒的筋肉痛です連休中(私にとっては休みではないが)に筋トレしました。連休…占い師にとっては稼ぎ時ですね占い師というと
みんなの回答を見るジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』DuContratSocialouPrincipesdudroitpolitique人格形成に多大な影響を受けた。今の自分があるのは、この書籍のおかげと言っても過言ではない。必要不可欠な自分にとっては、バイブル的な書物であり、そして、不易流行、自分の原点である。そんな一冊だ!『社会契約論』以前の話になるが、ルソーは・・・「学問及び
先日、山の上の神社をたずねた。別にそこにいくつもりではなかったのだけど、ぶらぶら山を歩いていたら、たどり着いてしまったのだ。神社があるような山って、そこは所謂鎮守の森になっていて、計画的な森ではなく、雑木の森。人が利用する目的で人工的に作られた杉やヒノキの森に比べると、雑木の森は用途という面で見ると、一見なんのためにあるのか?が直線的にわかりづらい。でも、雑木林は人工林に比べると、強い。保水力、復元力、多様性という面で優れている。今日、獣害の
子供が親の相続者であるのは自然法に基づくのではなくて国法に基づくのである。なぜなら各人が一定の財産の主となりうるのはもっぱら国家の力のみによるのであるから。ゆえに自己の財産について処分しようとするある人の意志を有効にするその同じ力、同じ法によって、その意志はまた、国家が存続する限り、自己の死後にも有効性を失わぬのである。このようにして国家状態においては各人はその存命中に持っていた権利を死後にも保持しうる。自分の財産に関して何らかの処分をなしうるのは、今も言ったように、自分の力にではなく国家の力
だがもし法とは国法自身によって保持されうる国法と解し、罪とは国法によって禁じられている事柄と解するならば、つまりこれらの言葉をその本来の意味においてとるなら、国家が法に拘束されあるいは罪を犯しうるとは決して言うことはできない。思うに、国家が自らのために守るように拘束される諸規則ならびに恐怖と尊敬との諸原因は国法の領域には属さずに自然法の領域に属する。それらは(前節により)国法によってではなく戦争の権利によってのみ保持されうるからであり、また国家は、自然状態における人間が自己の権利のもとにありうる
人々はこう問うのが常である。最高権力は法に拘束されるかどうか、したがってまたそれは罪を犯しうるかどうか、と。だが、法ならびに罪という言葉は、国家の法にかんするばかりでなく、あらゆる自然物に普遍の規則、とりわけ理性の普遍的規則にも関するのが常であるから、国家が何の法にも拘束されない、すなわち罪を犯しえないと一概には言えない。なぜなら、それがなくては国家が国家として存続しえない諸法則あるいは諸規則に国家が少しも拘束されないとすれば、その場合国家は自然物としてではなく、架空物として見られなければならぬ
前章の一五節から明らかなように、国家すなわち最高権力に属する権利は、各人の力によってでなく、多数者あたかも一つの精神からのように導かれるの力によって決定される自然権そのものにほかならない。すなわち、各人が自然状態においてそうであるように、全国家の体軀と精神ともまた、実力をもってなしうるに相当するだけの権利を有する。ゆえに各個の国民あるいは臣民は、国家そのものが彼らより強力であればあるだけ、それだけ少なく権利をもつことになる(前章の一六節を見よ)。したがって各個の国民は、国家の共同の
精神が他人から欺かれうる限りにおいて判断力も他人の権利のもとにありうる。このことから精神は理性を正しく用いうる限りにおいてのみ自己の権利のもとにあるということが帰結される。のみならず、人間の力は身体のたくましさによって精神の強さによって評価されるべきであるから、この結論として理性において最もすぐれ、理性によって最も多く導かれる人々は、最も多く自己の権利のもとにあるということが生じる。だから私は、理性に導かれる限りにおいての人間をおよそ自由であると名付ける。こういう人間は、その限りにおいて、自己の
可愛い瞳の107番ちゃん宮崎県最南端の都井岬には日本固有種の馬が自然状態で暮らしているコロナ怖い
ブログ更新499回目。皆さんこんにちは。1.ウィルス自らは増殖できない遺伝子情報を持った、物体である。宿主細胞に寄生して、自らの遺伝子情報を再生することで、増殖できる物体である。無生物のようでありながら、生物の顔を持つ物体である。別な表現をすれば、「生物と無生物の間」ということになる。(専門家としては、「福岡伸一」先生です。)手前みそではあるが、この一連の答えを、高校一年の一学期の生物の試験の解答に書いたことがある。学年で正解者は私を含め