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↓ご住職に教えて頂きました。生きのよいさま。ぴちぴち躍り跳ねるさま。禅者の溌剌として活気に満ちあふれたはたらきのさまを、魚のぴちぴちと水間に躍るさまにたとえていう。だそうです。臨済の言葉だそうです。臨済宗の臨済てす。臨済って、人の名前だそうです。唐の時代の高僧だそうです。そして、活溌溌地は、臨済の時代は、魚編で、活鱍鱍地だったそうです.。掛け軸で欲しいです。これからは、活溌溌地のスイム🏊♀を目指します!前置きが長くなりましたが、土曜日、坐禅会に参加しました。
【今日は何の日】1月10日110番の日十日戎歌会始、歌御会始一年365日、毎日が何かの日です。季節を表す日もあります。地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。誰かの誕生日かも知れません。歴史上の出来事もあります。セミナーや展示会もあります。これらをキーワードとして、私たちは自分の人生に、自分の仕事に、自分自身を磨くために何かを考えてみるのも良いのではないでしょうか。独断と偏見で、エッセー風に徒然のままに書いてみました。皆様のご参考にと毎日続けていこ
おはようございます。「大愚のすすめ」の素晴らしさを日々感じております。無我であってこそ、真に相手の立場になって考えることができる。大愚であってこそ、苦が苦でなくなる。そして大愚であり無我であれば、本当のまごころ、すなわち「至誠」から行動できるのである。大愚と言えば、新潟の良寛和尚が有名です。困難の原因は自分にあるのに、他のせいにするため、不満は尽きることがない。言い換えれば、自分で問題を作って自分で苦しんでいるだけになる。滑稽は話になってします。良寛和尚は会津の「起き上が
【きょうの人】0517■高杉晋作久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士■臨済臨済宗の開祖、中国・曹州南華県(山東省)出身気になる人をご紹介します。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取っていただけると幸いです。■伊能忠敬日本の正確な姿を明らかにいのうただたか延享2年1月11日〈1745年2月11日〉-文化15年4月13日〈1818年5月17日〉江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由
臨済録Amazon(アマゾン)28,000円エゴ、自我、思考は二極、二元性を生み出します。それは心の中の対立、葛藤とも言えます。しかし禅には「両忘」という言葉があり「二つにならない」ことを重視します。「一枚である」ことが真実、事実とされるのです。「清濁合わせ飲む」という言葉もあるように、そこには一点の分離感、分別心もありません。聖霊、聖人という言葉をあえて使う時は、それらは非二元の存在となりますね。ややこしいですが。スピリチュアルや非二元、悟り探求中は常にそこをチェックし続け
午前中にヘアーカットに行き眉毛もキリッとし、その後は、ひたすら前花園大学教授、衣川賢次先生のご高著『臨済』を拝読しております。いよいよ禅書に突入しました、何だか感慨深いなぁ。明日はまた座禅を体験できるしね。先生のご高著を拝読しながら、ジャズギターリストのアル・ディメオラさんのいくつかのアルバムを拝聴しているのですが、彼の楽曲のタイトルは、どれもとてもcoolだねー、センスがいいよね。ボクにとってはcozyな気持ちになるだけではなく、英単語とネーミングの学習にもなり、何重にも嬉しい拝聴体
沖縄空手の歴史において、純粋に武術として伝承されたものは、琉球王国時代に修行・指導されたものだけである!っと記してきました。もう本ブログの読者の皆様は、わたくしが常に言っている・・・。そして、己の再修業の際に痛切に感じた・・・。逢佛殺佛逢祖殺祖逢羅漢殺羅漢逢父母殺父母であり・・・。われわれ現代の空手家は、明治以後の空手が、体育・体操化、スポーツ化、レクリエーション化、エンターテイメント化したため・・・。さらに近年に移入された中国拳法が、本場
おはようございます。今日の暮らしノートは…【臨済の説法】長雨が続き成長が止まっていたような韮このところの晴れで一気に成長し今年もパッと開いた花火のように綺麗な花が咲く。さて、先日のこと私が買ってきた無印良品のデスクライトを見た夫Sさんが開口一番・取り付ける机が限られ作業する場所が限られる(クランプタイプのライトのため)・量販店のポイントがあり置くタイプでもっと良いのを買えば良いのに…などと言ってくれていた。しばらく経って、
斜め読みとはいえ、、、、また、こんな本に手をだしてしまった(@_@)活字がなければ死んでたよ~ってところから、ジャンルを問わず活字に興味がなくなったにも関わらず。このジャンルに関しては、足を洗っても、洗ったつもりなだけで二度と足抜け出来ないかも知れない。あらゆる誤解とカン違いと思い込みの果てに、コレに関わり続けるより人生を普通に生きようと思ったのです。けれど一度ハマったら、本当に意識の底が抜けるまでは足抜け出来ないのが、このジャンルの特徴かも。たとえば
今日は「お坊さんと魔女の秘密会議」の日でした。テーマは「本当の気持ち」。どれだけ「善」を求めても、どれだけ「良」を求めてもどれだけ「美」を求めても、どれだけ「正」を求めても、心の中にはいつも、「悪」「汚」「誤」がある。「善」と「悪」はオセロの「白」と「黒」のように、表と裏だから。世の中が「善」だけならば、そもそも「善」は存在せず、「悪」があるから「善」がある。だから、「善」だけを求めるのはバランスが悪く、「悪」も、「善」を知るために必要なもの。
同じ話でも、話す人次第で話の重さが違ってきます。例えば、私が初めてマハ・アバターラ・ギリ・ババジ(マハー・アヴァター・ババジ)にお会いしたとき、こう伺いました。「ババジはどんな瞑想を教えられているのですか?」マハ・アバターラ・ギリ・ババジは「それはアシュタンガヨガだ」とお答えになりました。私はそのとき初めて「アシュタンガヨガ」という言葉を聞きました。マハ・アバターラ・ギリ・ババジは、それから5時間以上かけて私にアシュタンガヨガを指導してくださいました。私に最初にアシュタンガヨガを教えて
大阪イチやさしいNLP教室のNLPトレーナーの藤木ミホです。カウンセラーとして仕事をするうえで、気を付けたいことがあります。それは、「ふつうであること」の大切さを、カウンセラーが確認することです。提供するカウンセリングが効果的だった時、クライアントにとって、カウンセラーはが神や魔法使いのように見えることがあります。特に、カウンセリングで心の世界を扱うと、なんとも不思議な偶然の一致や、奇蹟のような現象と共に、クライアントの問題が解消することがあるのです。その結果、カウ
たまたま信心おこせども、自心仏と知らざれば、ただ徒らに狂奔し、かくも尊き仏法を耳にしつつも、一向に信心帰依の心なく、生死の海に浮沈して、三毒五欲の妄念と憎愛取捨の迷執に、日夜造業造作して、永劫出離の際もなし。悲しいかな、われら一念に悟れば直にこれ仏となるを知らずして、却って一念迷うが故に、自ら凡夫となりさがる。傍家波々地(ぼうけははじ)に、仏を求め、法を求めて止むときなし。憐れというも愚かなり。(宗門安心章第二自覚安心)修行が進まないのは、自分を信じないからだ。自分を信じられないのは
唐末頃の禅宗の僧、臨済の言葉を記録した「臨済録」の一節を紹介します。あるお寺で修行しているお坊さんたちを前に、臨済が座って話をしているところです。ー君たち、こんなところに大勢で集まっているなんて、なんて時間の無駄遣いをしているのだ。ー君たちは、あちこちと横道に迷い込み、禅を学ぼう、道を学ぼうと余計な努力をし、物につけられた名や語られた言葉をことさらに大事にし、仏や祖師の振る舞いの意味を求め、善知識といわれるものを追求して、それに縋ろうとしている。ー間違ってはいけない、君た
愛知県知立に奈良の歌人・美男子で有名な在原業平の別荘蹟があります。4月から6月は燕子花の花見で賑わうようですちはやふるかみよもきかず竜田川からくれないにみずくくるとは無量壽寺のある八橋は「伊勢物語」の時代からかきつばたの群生地として有名です。幕末期に絶えかかっていたかきつばたを、この無量壽寺に移植したと言われています。室町時代の延文5年(1360年)臨済の僧恵玄が中興し、江戸時代の宝永8年(1711年)にいたり、同宗妙心寺派になりました。文化9年(1812年)方巌売茶翁により再建が行
令和元年12月17日(火)午後7時から、第25回『恵林寺文化講座』『禅語入門』(4)『直指人心見性成仏(にんしんけんしょうじょうぶつ)』が開催されます。『禅語』は、禅の修行の世界で用いられる言葉です。それは禅僧たちの厳しい修行の現場から生まれてきたものであるため、その生きた意味は、一般の人にはなかなか触れる機会がありません。しかし禅語は、茶道、華道、書道を始めとして、剣道や弓道といった武道の世界にも広く、深く浸透していて、日本文化の精神的な核の部分を形成してい
令和元年11月29日(金)午後7時から、第24回『恵林寺文化講座』『禅語入門』(3)『無事是貴人(無事これ貴人)』が開催されます。『禅語』は、禅の修行の世界で用いられる言葉です。それは禅僧たちの厳しい修行の現場から生まれてきたものであるため、その生きた意味は、一般の人にはなかなか触れる機会がありません。しかし禅語は、茶道、華道、書道を始めとして、剣道や弓道といった武道の世界にも広く、深く浸透していて、日本文化の精神的な核の部分を形成しています。本講座では、恵林寺
今日は「Oshoネオ・タロット」の中の言葉をご紹介しましょう。それは「最も偉大な奇跡:GreatestMiracle」と言うタイトルのお話です。(以下:抜粋)「心霊現象」「突然襲ってくる至福」「奇跡」に巻き込まれないよう注意しましょう。それらをどこかに行き着いたしるしとして見てはいけません。行き着くところはどこにもありません。ただ普通でいて楽しみましょう。臨済に関して言われていることだ:彼の弟子の一人が、別のマスターの弟子と話をしていた。その弟子は言った。「私たちのマスタ
書いても消された💧よくあることらしい。アヴァター様が消すらしい。感想書きたいんだけどただ、もう、本当に、今感じる思いは愛!!なんです。どうしよ?いろんなことがあったし忙しかったり戸惑ったりプライドが痛かったり悲しかったりしたはずなのに自分の信じてた正しさや愛やポリシーでさえポーイ!!させられることがたくさんで。サンカルパヨガのおかげでリトリート前から手放すことが簡単にできるようになっている。その時は不快な感情なのに気付くと消えている。良いものも悪いものも
病なんの処にか在る。病は不自信の処に在り。(臨済録)修行が進まないのは、お前が自分を信じないからだ。と臨済禅師は断言している。臨済録というものは、このことを何度も何度も説いている。「汝が信不及なるが為に、所以に今日葛藤す。…少信根の人、終に了日無けん」「如今の学道の人は、且く自ら信ぜんことを要す。外に向って覓むること莫れ」「汝、若し如法ならんと欲得すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得し」「汝が一念の疑は、即ち魔の心に入るなり。菩薩の疑う時の如
お釈迦様が2500年前に説かれた仏教の教えは、「この苦しい世の中を、どうすればより良く生きることができるのか」という問いに、釈迦をはじめ、さまざまな時代の「名僧」が残したことばのなかから、いまを生きる全ての人に役立つ「生き方のヒント」をわかりやすくご紹介します(^^)/朝日を拝めない日が、誰もがいつかは訪れます...。だからこそ今でしょう!!"あたりまえ"を大切にする※仏法とは、手間ひまのかけようがない、どこまでもあたりまえのものです。大小便をしたり着物を着たり、食事を
今日は本当に久しぶりに日曜参禅会のあとのお茶を頂ける時間に原田老師が来られましたタイトルの質問は外国人を曹源寺に連れてきた人が質問され老師が答えられた問答です座って足が痛いのになぜ座り、考えているのか?自分はなぜ見、なぜ聞き、なぜ味わい、いろいろ感じているのか?自らに問いかけるのが大切です。「坐禅」なぜ座っているのか?坐禅をしていても色々なことを考えますそれでも座りなさいと教えられました。掛け軸の言葉「随所に主となる」「随処に主となれば立処(りっしょ
心をコントロールするのに禅の教えはとっても役にたつ禅は不立文字、文字にならないものをとらえ伝えるだけどその文字にならないものを扱う禅のお坊さんが一番本をたくさん書いている心のコントロールができなさすぎていた私はかたっぱしから禅の本を読んだ師匠からの教えでそれらの本をリストアップしていただいたそれをかたっぱしからその中には『茶席の禅語』や『無門関』、『臨済』とかいろいろあった結論からいうと、しっかりした自分になろうと、これらをまんべんなく
“臨済(りんざい)”禅師が、ある説法でこう語った…と伝わっています。“赤肉(しゃくにく)団上(だんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)有り。常に汝等諸人の面門(めんもん)より、出入(しゅつにゅう)す。未だ証拠せざらん者は看(み)よ、看よ。”ふーにゃん何だかよく解りません❗(笑)で、調べてみると、“赤肉団”は、人間の生身(肉体)の事で、“無位”は、位置・階級が無い…という事では無く、空間的な座標軸の否定…であり、“何処にでも有る”…という意味だそうです。また、“一”も数量
そういえば「欲を持たないように」「欲を無くせ」という心がけをときどき目にしますが、手持ちの仏教書(禅)の中で、そう書かれた書物なりを見かけたことがないです。放下着(のぼせるな)とか知足(うらやむな)あたりが近い気がしますが、言い出しっぺは誰なんでしょうか。※※※※※たとえば『不可思議(不思議」』という言葉はもともと『不可(だめ)』『思議(考察)』ですから「考えるべきでない」であるはずが、現代ではどちらかといえば考えることを助長する意味合いになっています。より顕著なものに『言語道
「悟りを通ってもいない者がなにを言う」なのですが。禅画の中、有名なわりに、あまり注目されない公案に瓢鮎(鯰)図(ひょうねんず)があります。(※描かれた当時は『鮎アユ』の文字が『鯰ナマズ』を指しました)如拙筆・京都国立博物館蔵国宝絵の通り、「濡れるとツルツルになる瓢箪でヌルヌルの鯰を押さえつけてみろ」できもしないことをやってみろ、工夫しろ、という公案です。以前から申し上げているように公案は悟りへの矢印、生きることの道しるべになっているものです。※※※※※人間、無常を知る
にほんブログ村禅・坐禅禅のブログ村はこちら(月)(水)(金)更新決定!あなたの人生の道しるべは何でしょう?親?尊敬できる知り合い?先生?私は・・・・今日の禅語。【巌谷栽松】(がんこくさいしょう)巌谷とは岩だらけの谷。岩だらけの谷になぜ松を植えるのか。なぜこんな場所に松を植えるのか?と聞かれて、臨済和尚は、「ひとつは寺の景観を整えるため、ひとつは後世に残し道標とするため」と答えたということです(*^.^*)景観を整える事も必要ですが、松が後世の人々の