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こちらは腰越状で有名な腰越駅です。写真は鎌倉方面を撮影しています。江ノ電は人気あるのでいつでも混んでますな。最近の江ノ電は2両編成なんて見かけなくなりましたが…4両編成が入線するとドアカットが起こります。
江ノ電腰越駅から徒歩すぐの満福寺さん義経が頼朝と和解する為腰越状を書いたお寺です「岩合光昭の世界ネコ歩き鎌倉」に出演した猫ちゃんにも会えました本堂には義経・弁慶ゆかりの襖絵や鎌倉彫りが飾られていました隣のビルの屋上は霊園になっていて見晴らしが良いです御朱印を頂きました腰越付近を散策してランチへ予約して頂いたレストランクラリタダマリッティマさんへ洗練された雰囲気のお店お料理もワインもとても美味しかった~楽しい時間を過ごしましたご馳走様でした鎌倉へ戻り銭洗弁財天さん
鎌倉殿の13人ゆかりの地巡りは続きますすまませ〜ん…😅覚園寺の次は鎌倉駅に戻り、腰越の満福寺を目指します江ノ電の腰越駅から5分程…満福寺の寺号標が見えて来ました江ノ電の踏切の向こう側が満福寺です山門源義経と腰越の案内板山門扁額本堂が見えてきました観音様と本堂本堂真言宗大覚寺派寺院の満福寺は、龍護山医王院満福寺と号します天平16年(744年)行基菩薩が開山したと言います源義経が、兄の源頼朝の許しを得る為に腰越状を書いた寺として知られています御本尊薬師如来鎌倉
10/8(日)、鎌倉へひとり散策に行ってきた記事の続きです。前記事はこちら『鎌倉散策10/8①腰越・江ノ電もなかの扇屋』10/8(日)、鎌倉へひとり散策に行ってきました。やっと涼しくなり、7月以来3ヶ月ぶりの鎌倉です今回の目的地は腰越なので、JR大船駅で湘南モノレールに乗り換え…ameblo.jp扇屋さんから徒歩で向かったのが、今回のいちばんの目的地の満福寺。源義経が壇ノ浦での合戦の後、頼朝に鎌倉に入る事を許されず、腰越で留め置かれたのがこのお寺。ここでは、弁慶が書いた腰越状の下書きを
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の源平の合戦と源頼朝と義経の兄弟の関係についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想武家政権実現のために自らを頂点とした君臣関係を重んじる源頼朝とそれが理解できずに排斥される”戦の天才”源義経(『まんが日本史』より「源平の合戦-義経の奮戦と平氏の滅亡」タイトル画面)義仲入京→義仲滅亡→義経・範頼入京→平氏滅亡と一気に前回は頼朝は富士川の戦いで平家を打ち破り、義経と再会を果たすも坂東武者らの提案で東国を
いつも訪問してくださり、コメやいいねもありがとうございます!昨日は長いお出かけ記事にもお付き合いくださりありがとうございました。腰越(こしごえ)は江ノ島の隣の駅で、源義経公が、頼朝公から鎌倉入りを拒まれた時に滞在していた場所で、その時の心情を綴った「腰越状」が保管されている万福寺というお寺があります。でも結局、頼朝公の怒りは解けずに義経公は京都に戻っちゃったのよね。何度も載せている猫電車の写真も褒めてくださってありがとうございます!テマリが椅子で
今日は7月7日七夕ですね♪かつて次男が七夕のお願いに「おとうさんありがとう!」と書いていたのを思い出します。父の日と間違えたんですね。かわいいやつめ。朝の散歩では霧でしたけれど今日は天の川は見えるのでしょうか。そんな七夕の日は腰越にある小動神社に行って参りました。なぜかといいますと(そのくだりはいらない?)先日江の島の八坂神社さんの幟を見て今週末が天王祭と気がついたので調べていたら、こ
6月17日昨日、6回目のコロナワクチン接種を受けて来た持薬を頂くついでに接種予約をしようとかかりつけ医に行ったのですが、看護師さんに「今日打っちゃいます?」と言われて「はいっ!」と即答問診表もその場で記入しての速攻接種でした😁一夜明けて今朝どうやら副反応と言っても接種部位の左肩が押すと痛いだけ24時間経過でそろそろ発熱くるかな?と思いつつゴロゴロ安静にしてますが熱は大丈夫そうだなコロナと言えばそうそう、これを思い出したわ先日行った居酒屋のPOPコロナ感染
前回に引き続き鎌倉一人旅行で撮影した写真を『鎌倉一人旅気の向くままに江ノ電撮影』ゴールデンウィークに暇だったので、平日の2日に一人鎌倉へ江ノ電に乗りに行ってきた(#^.^#)江ノ電写真多めでカメラはα9にEF70-300mmF4-5…ameblo.jp江ノ電多めで今回も写真大きめなので注意で腰越路面を走行する江ノ電を腰越方面から腰越駅から満福寺へ満福寺前の踏切で江ノ電撮影満福寺から鎌倉高校前駅へ徒歩で移動この
昨日から真夏の陽気。ちょっと前は朝晩は冷え込んでいたのが、今日は朝から結構暑い。金曜日で今日は休み。大船から湘南モノレールで江ノ島へ出ました。湘南江ノ島駅のルーフテラス。うっすらと富士山が見えています。天気が良いとかなり良い景色になりそう。江ノ電の江の島駅を通り越して、海に出て鎌倉方向へ向かいます。江ノ島全景。腰越にある小動(こゆるぎ)神社。ここは創建したのが佐々木盛綱と伝えられえいます。源頼朝の古くからの
ランチの後向かったのは、先ほど上った源頼朝のお墓の先にある、義時のお墓「法華堂跡」ここを上ります。上は、平らな原っぱみたいになっています。この杭がある所に、法華堂があったとのこと。QRコードがあってアプリから読み取ると、当時の法華堂が浮かび上がる仕組み。デジタル担当のH嬢がアプリをダウンロードしてAR撮影してくれた。この奥には、三浦泰村(山本耕史)一族のやぐら横穴式供養堂があって、「一族500名が自害した」とあった。500名?!昔
2023/01/11龍護山満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)江ノ電腰越駅から徒歩5分で満福寺へ↓↓↓詳細はこちら↓↓↓2023/01/11龍護山満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)|ーきーのーよー|note2023/01/11龍護山満福寺(神奈川県鎌倉市腰越)note.com↑↑↑詳細はこちら↑↑↑
こんばんは「いざ、神奈川!デジタルラリー」続けていきます。前に江の島へ行った時一緒に回りたかった腰越、ようやくです。江ノ電腰越駅下車の満福寺さんへ。鎌倉市腰越2-4-8義経・弁慶ゆかりの寺腰越状旧跡小田急のふじキュンスタンプラリーの景品交換してもらおうと江の島駅で下車もしたし~(≧▽≦)さて、腰越駅。地図上では江の島から乗ると進行方向左手側に満福寺です。初めて下車した腰越駅はホームひとつ。改めて江ノ電って単線だったんだなぁ。。。と実感です。そういや
藤沢から江ノ電に乗り、満福寺に移動しました。腰越駅より、3分くらいでしょうか満福寺に到着。境内内に、江ノ電が走っております。山門義経・弁慶腰越状像弁慶腰掛けの石弁慶手玉石義経手洗の井戸義経の生涯を描いた襖絵腰越状の下書き本堂満福寺由緒鎌倉の腰越にあるこの寺は、天平16年(西暦744年)僧・行基が開山した京都大覚寺派(真言宗)のお寺です。奈良時代、関東に悪い病気が流行していたとき、聖武天皇にこの病気を排除するよう命ぜられた行基が、鎌倉
本日の旅のメインイベント龍護山満福寺さん腰越駅を降りて左折🚶♀️徒歩で3分程🚶♀️🚃江ノ電の線路を渡ります🚃弁慶と義経の像できれば旗はも少し遠くへ置いて欲しいなぁ弁慶さんが何を書いているのかと言うと『腰越状』お兄ちゃんの頼朝に僕はこんなにがんばったんだから会って僕の話を聞いてくれませんか?みたいな義経物語が描かれているこれがその腰越状6文字不顧為敵亡命が抜けたらしいのでここのお寺に残っているんだってお寺には義経関連の物が沢山あって見応えがあります天
何ヶ月か前から計画してたんです。大河ドラマやってるうちに、大河ドラマ館に行っておこうと。でおりしも、9月25日(日)レキシのライブ@横浜アリーナのチケット取れたこともあり、三連休使って行こう!と。たかたかし!いや、だがしかし、急遽現れた台風が東海地方直撃の恐れ…場合によっては観光どころじゃないかもと思いつつ、もう飛行機もホテルも予約しちゃったしってことで、出発GO!9:15鹿児島発ANA0622羽田行途中、台風雲の上空あたりを通過グァッ
江ノ電「腰越」駅から徒歩3分の場所にある満福寺境内に行くには江ノ電の踏切を渡らないと行けないお寺です踏切が上がるのを待っていると、目の前を江ノ電が通過していきます江ノ電沿線ならではの光景ですね~満福寺の正式名称は、龍護山医王院満福寺(真言宗大覚寺派)御本尊は薬師如来です744年(天平16年)、聖武天皇の命により行基によって創建されたと伝わっています満福寺は、源義経と縁深~いお寺です源義経は、1185年(元暦2年)の壇ノ浦
こんにちは🍀ミキトモです大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にちなんで始めたふらっと旅『いざ鎌倉へ!』第一弾4月🌸に続き第二弾を5月🌿に実行した『江ノ電全部乗ろう!』『江ノ電全部乗ろう!』関連記事《長谷駅》『いざ鎌倉へ!『江ノ電全部乗ろう!編』Part1』こんにちは🍀ミキトモです大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にちなんで始めたふらっと旅『いざ鎌倉へ!』第一弾は4月桜🌸の時期テーマ『鎌倉殿の13人』ゆかりの地を訪…ameblo.jp『いざ鎌倉へ!『江ノ電全部乗ろう!編』Pa
満福寺に来ています。参道の階段には、「鎌倉殿の13人」の幟が立てられています。さすがにこのお寺だけは、観光客で賑わっていました。江の島道沿いのお寺はほとんど無人くんだったんですけど、大河ドラマの影響力は半端ないですね。なんとなく急ごしらえ感が否めない、腰越状を認(したた)める弁慶と義経の石像です。大河ドラマでは、平宗盛が書いたことになっていましたね。こちらは弁慶の腰掛石。弁慶の手玉石もありました。「逗留していたんだから、そりゃあ石に座りもするわな」なんて言うのは無粋
2022.6.12「腰越状」を書いた寺江ノ電「鎌倉高校前」駅のとなり「腰越」駅で下車です腰越駅を降りて海岸側に約250メートル行き、踏切を渡ったところにある満福寺「源義経ゆかりの地」のお寺です満福寺は、讒言を受けた源義経が兄の頼朝との和解のため、鎌倉に入るべく、一時宿所とし、兄への手紙を書いたとされる寺です◆山門◆踏切からすぐの階段を昇ります龍護山医王院満福寺(真言宗大覚寺派)御本尊:薬師如来天平16年(744)に行基が開山◆本堂◆
↑マーク位置の画像を紹介神路城最終回↓主郭北側の堀切からの竪堀↓主郭西側尾根赤丸箇所↓主郭方面を見あげる↓主郭と西尾根の谷↓東側尾根へこちらが搦手?大手?↓突然現れた切通し・・・これは・・・降りれるか???沢沿いのジメジメの道↓ここ出ましたた↓愛車は高速高架下に駐車神路城の山地主さまとお話することができました何と地主様の家には江戸時代頃の「腰越状」の写しが現存と
藤沢市ふるさと納税の返礼品『とびっちょお食事券』の使用期限が迫っていたので、今日は鎌倉•江ノ島デート🏝昨日、横須賀基地に空母「エイブラハム•リンカーン」が初入港したので、横須賀の軍港巡りに変更するか迷った〜中華そば瀧壺でランチしながら検討しようあっさり拉麺美味しい!お昼過ぎには軍港巡りも満席で取れず••だよねー、昨晩のうちに予約しなきゃ遅いわ短期間で出港すると思うのでどっかで時間作って見に行くぞっ(5/21(土)10:33入港〜5/26(木)10:14出港)行って見たか
こんなスタイルでフラッシュパッカーやってます。10:00〜江ノ電長谷駅発本来次の目的地まで歩く予定ですが、時間節約の為、江ノ電利用します。10:35江ノ電腰越駅着単線のため、停車時間が長いワ。10:40真言宗大覚寺派龍護山満福寺〜源義経源義経が源頼朝に、関係改善のための詫び状「腰越状」をおくったとされる地NHK大河ドラマ「鎌倉
「鎌倉殿の13人」に綾あやなす歴史話|海老名・座間・綾瀬|タウンニュースタウンニュース綾瀬と鎌倉殿―渋谷一族と綾瀬―3月18日号と5月6日号で2回にわたり渋谷重国の動向を紹介し、平家と源氏という大きな時代の変化の中、時世を読み渡り歩い...企画展阿弥陀如来浄土への憧れ-美術展ナビ美術展ナビ【今週の鎌倉殿】亀裂深まる頼朝と義経「鎌倉殿の13人」第19回果たせぬ凱旋5月15日放送.ニュース.2022.05.12.●阿弥陀如来小松菜奈との極秘結婚式
湘南でもっとも義経を思わせる場所は、鎌倉ではなく腰越でしょう。/#吾妻鏡元暦元年(1184)8月17日条\源義経の使者が鎌倉に到着し、「去る6日に左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任じられ、検非違使(けびいし)の宣旨を賜りました。後白河法皇が朝恩と仰せられたので、固辞することができませんでした」と報告したようです。#鎌倉殿の13人pic.twitter.com/BnoFCHWV9j—2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(@nhk_kamakura13)May1,
1185年(元暦2年)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、平宗盛父子を護送し鎌倉に凱旋しようとしますが・・・兄の頼朝は、義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。その義経が逗留していた満福寺で弁明のために書いたのが腰越状です。☆☆☆☆☆満福寺で頂いたリーフレットに載せられていた「腰越状」のあらすじです。源義経おそれながら申し上げます気持は、鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって父の恥をすすぎました。そこできっとごほうびをいただけると思っていましたのに、はか
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第18回『壇ノ浦で舞った男』満福寺(鎌倉市腰越)6年前(2016)9月5日ワタクシ腰越の満福寺を参拝しましたその際堂内に展示されている『腰越状』も見てきました三谷さんのドラマでは平宗盛が代筆したとの演出でしたが、満福寺では義経の心を汲んで弁慶が口述筆記をしたとされています詳細は↓↓↓こちらのブログ『満福寺を訪ねて3』源平合戦一番のヒーロー源義経(1159〜89)はあまりに有名すぎてブログに登場させるのをついつい躊躇
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその79第18回壇ノ浦に舞った男今回は腰越状について。(『腰越状』:萬福寺蔵)(萬福寺:神奈川県鎌倉市腰越)囚われのみとなり鎌倉に護送される平宗盛(小泉孝太郎)が「(義経のことを疎んでいる、鎌倉殿に)文を書いてみてはいかがだろうか?」と提案する。義経は自分は戦しか脳がなく、文など書けないと言ったところで、「書いて進ぜようか?」とその代筆を買って出る宗盛。今話で描かれている一場面だ。宗盛が代筆したかどうかは不明、というより書くはずがな
昨晩は「鎌倉殿の13人」壇ノ浦の戦いを楽しみにしていた判官贔屓の私壇ノ浦が終わって腰越状まで終わってしまった…これから先は見るのがつらい
満福寺は、源頼朝に鎌倉入りを許されなかった源義経が逗留していたという寺。本堂の襖絵には、静御前との別れの場面などが鎌倉彫で描かれています。1185年(元暦2年)5月、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉へ凱旋しようとしますが、兄の源頼朝は鎌倉に入ることを許しませんでした。「腰越状」は、義経が頼朝の側近大江広元あてに送った弁明書。満福寺で書かれたのだといいます。毎年4月第三土曜日には、義経を偲ぶ「義経まつり」が開催されるのですが、今年も中止となりました。