ブログ記事12件
このブログは私の亡き父の私の為の記録です内容的にも重いものですので予めご理解をしていただいて読み進めてください興味無い方はスルーしてください2025年1月20日4時51分父が他界いたしました長い事ブログ更新をストップさせていただきました(呟いてはいましたが)他界した朝は珍しく雨模様…いつも面会に行く時は龍さんが空に居てくれました高齢でもありお付き合いの深い親族も亡くなっている方が多くまた存命の方も高齢の方が多く遠方からの参列は厳しいであろうとの事
東京都福祉保健局のコロナ後遺症ってところを読んで自分に当てはめてみると発熱時たま上がる体温倦怠感軽い運動後のような倦怠感咳忘れた頃に出る咳下痢何食べても水下痢これから他にも出てくるんですかね?しかし現在は上記の4つだけ基礎疾患があると重症化のリスクが高いと聞いていたので戦々恐々でした・・・言い方は悪いけど肩透かしを食らったような感じ今はって注釈は付きますけどねそれとも、基礎疾患が有っても重症化しない変異株?コロナに対して知識が豊富な訳では無
ブログでは何度も書いてるように2015年3月に下腿義足になり2020年11月には脳幹脳梗塞を発症2021年2月に椎間板ヘルニア歩行する事に全て関わるものばかりです(笑)更に今週の火曜何十回目かのギックリ腰ギックリ腰に初めてなったのは21歳90Lのポリバケツ満々に水を入れ動かそうと持ち上げた瞬間・・・初ギックリ腰それ以来、調子の悪い時はくしゃみ1発でギックリ腰ちょいちょい、そんなのを繰り返してここのところ無かったのに去年の暮れ頃からギックリ腰になること3回し
悲しみの多かった2011年大切な人をみおくった母は自分の現実を受け入れることが辛く、くるしい年だった。退院したからといってもまだまだ、口から食べ物はこぼれていたし以前のような話し方にはもどれなかったしあれも、これも出来なくなってしまった自分と直面しながら苦しみながらそれでも、母は、朝起きて自分で着替えて、用意されたご飯をたべて送迎の運転手さんには愛想よく、デイサービスには週4日通い週一回は、訪問リハを担当してくれた陽気な作業療法士のKさ
母が入院したあとも世の中では、こんなに脳梗塞になっているのだ、とおどろくほど母と同じお部屋に、次々と脳梗塞の患者さんが入院をしていた。どうやら、脳梗塞の他の患者さんたちは、みなさん、脳の手術をしている。しかし、母は脳幹脳梗塞なので手術はできないと言われ、ただ、血液をサラサラにする点滴を打たれているだけだった。もし、救急車で早くに来たとしても、脳幹の場合、手術のしようがないので結局今と同じだった、と医師に慰められたのか、説得されたのか、そんな説明を
2010年12月脳幹脳梗塞になった母が退院後、在宅で行なっていたリハビリの記憶です。退院後すぐに始めたリハビリ1リハビリ②〜大事なことは好きなことを楽しく!〜リハビリ3〜できることはまだあるこんなにも!生活の全てはリハビリになる!そんな思いで過ごしていました。例えば、生協の注文もまだまだ、スーパーに一緒に行く体力がないこともあり1週間に一度、生協の注文を一緒にしていました。チラシの中から、頼みたいものを話しながら選び、
2010年12月脳幹脳梗塞になった母の記録である。2011年、3月に退院した母は脳神経外科の先生にはリハビリで今の後遺症がこれ以上良くなることはない、と言われたけれどそんなことはなかった!それは、諦めずできるだけ、できるリハビリを続けてきたから!母が自宅ではどんなリハビリを行なっていたか?当時、実家で同居をしていた私が覚えていることを書いておこうと思う。自宅でのリハビリその1・その2その3ゴキブリ体操脳幹脳梗塞になる前まで
2010年12月に脳幹梗塞を発症した母の記憶である。歩行・体のリハビリは特別なことというよりもゆっくりでも筋力をつけるために動きを止めない。歩き続ける。動き続ける。支え・見守りはしてもできるだけ自分で行う・・・そのことが大事だったように思います。(子育てにも似てますね)母のMRIの画面は素人でも分かるほど脳幹のかなりの部分が梗塞していました。これだけ、詰まってしまったのに、生きてるのが不思議後遺症がそう重くないのも奇跡。でも、リハ
2010年12月72歳で脳幹脳梗塞になった母との記録である。2011年、この年は日本にとっても忘れられない災害・大惨事が起き大きな悲しみの年となった。母にとってもまた近しい身内を立て続けに3人も亡くした年だった。父が前立腺癌の手術の直後だったから母が退院してひと月過ぎた頃だろうか?母の叔母が亡くなった。その叔母は、母にとっての実母(わたしの祖母)の晩年になんども、温泉に連れて行ってくれたり何かと世話をしてくれたそうで母はとても感謝をしてい
目に見える後遺症、目に見えない後遺症2010年12月に脳幹脳梗塞を発症した母の記憶である。早く家に帰りたい一心でリハビリのまだまだ途中のかなり早い段階で退院してしまった母見た目には、歩けるようにはなったのだが・・・当時、実家に同居し介護生活を始めたばかりの私にとっては、不安だらけだった・・・。そもそも、脳梗塞とは脳の血管が詰まってしまうことにより脳の組織が死んでしまう病気だ。脳梗塞は、脳のど
旧暦の元旦、私の体内ではようやく、新年が始まった気がする。時を戻そう。2010年12月脳幹脳梗塞で緊急入院した母のことを覚書として振り返っている。家族のこの10年間を振り返る母の脳梗塞の兆し・・・脳幹脳梗塞と診断された日緊急入院した次の日に、短歌を作ろうとする母入院当日、次の日は流石に余裕がなかった母だが入院生活が始まって自分の、話し方がおかしいことにすぐに、気づいた。そして、深く、深く嘆いた。後遺症の言語障害だ
2年前の冬。在宅介護中に書いていた、ある朝の母との一コマ〜歌えない歌うたいのうた〜************************雪降る前の匂いもきっとすぐにわすれてしまう。5分毎にリボーンする母目が覚めるたび今日は何日?何曜日?傘寿の母は時の迷い子だんだんと幼子になる母の顔やせ衰えていく足、背中繋いだ手だけは変わらぬぬくもり猫舌の母を気遣う朝のお茶飲み頃測る父との間接キッスばあちゃんと呼ばれて怒っていた母が今や懐かし
11月19日に脳幹の脳梗塞を発症して休職も止む無し復職の予定は12月22日の診察結果次第軽い脳梗塞だったとは言え発症した翌日、夜行バスで新潟に行ったのが長引かせてしまった要因の1つ狭い座席で、同じ座姿勢新潟に着いた時は、10m歩いては立ち止まる常に、ユラユラと身体が揺れていた息子に付き添ってもらってホントに良かった・・・で先程、職場から封書が届いているのに気づきドキドキしながら開封したら11月の給与明細と賞与明細書休んでいるにも関わらず、満額の給与と年末調整の提出
3月と6、7月の父の緊急入院がきっかけで私たちは、とうとう苦渋の選択をした。母の施設への入所へという決断だ。父の体の悲鳴を、このまま見過ごせなかった。私たちも、ショートステイを利用しながら在宅介護をするという綱渡りのような生活を続けることに自信が持てなかった。もっと、私が工夫をして、父をサポートする時間を増やせばよかったのかもしれない。ショートステイの利用を目一杯使って、月に数日の在宅でもよかったのかもしれない。もっと、もっと、こうすれば・・・という思いはよぎ
こんにちはcayokoです今朝の読売新聞朝刊読者投書コーナー〝気流〟で目にとまった記事に感情が揺さぶられました脳幹脳梗塞で倒れ、父が車椅子生活になって常々言っていたこと〝歩道も店舗も、車椅子で移動するには段差が多すぎる〟〝自転車や車のスピードが速くて怖い〟と。。。そんななか私たち家族も車椅子の父を連れて美術館に出かけたことがありますところが。。。。。。。。<2020年1月16日(木)読売新聞朝刊より>〝父に少しで