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【問題】≪難問≫連合して島津氏に対抗していた大隅国の伊地知・肝付・禰寝氏が、島津氏に降伏した順番として正しいものは次のうちどれか?【選択肢】肝付氏→禰寝氏→伊地知氏伊地知氏→禰寝氏→肝付氏禰寝氏→伊地知氏→肝付氏伊地知氏→肝付氏→禰寝氏【正解】禰寝氏→伊地知氏→肝付氏【解説】大隅国衆の肝付・禰寝・伊地知の三氏は永禄年間、連合して島津氏と戦った。しかし、天正元年(1573)禰寝氏が降伏、翌年には伊地知氏が降伏し、孤立した肝付氏も降伏を余儀なくされた。
前回のブログ「高山町1~丸に十字の記号(心に降りてくる言葉)」の続きです。『高山町1~丸に十字の記号(心に降りてくる言葉)』ランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール…ameblo.jpランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール(アマネ・クルール)
ランダムに・氣まぐれに。本日も、私の心に降ってきた言葉やエネルギーを、お届けいたします。当ブログにお立ち寄りくださり、ありがとうございます。天眞音・クルール(アマネ・クルール)・眞樹子です。メニュー・料金│アクセス│ご予約・お問合せ今回も、記録のためのブログ。あまりにも意味不明なキーワードだったので、スルーしていたのですが、スルーできない事案が発生。(←大袈裟w)まさかのみゆちゃんのブログ経由で、私が受取ったのと同じキーワードをキャッチしていることをブログで知った
昨日は、終了地点から一番近いビジネスホテルに泊まりましたが、設備もサービスも良かったです。繁華街には遠そうで、疲れてもいたので、コンビニ弁当を食べて、早々と休みました。始発のバス時刻が遅いので、タクシーを奮発して「石山小学校」まで戻りましたが、結構高額の支払いになりました。タクシー料金は、地方の方が割高に思いました。街道は、旧道から再度国道10号に合流し、歩いて行きます。流石に「都城の街」が近くなると、交通量が増えて来ます。「運動公園」の所を左折し、旧道に入ると「外城の一つ
所在地鹿児島県霧島市溝辺町麓特徴肝付氏の中で島津氏に臣従した庶流の山城で、台地を空堀で区切った群郭式。道路脇の説明板から堀底道を進むと、複数の郭が確認できるが、切岸は藪に覆われていた。感想郭の上へ登る道を整備してほしい。
所在地鹿児島県鹿屋市輝北町平房特徴大隅の名族肝付氏が本城とした高山城の支城で、登城口から入山すると直ぐに城址となる。深い堀切や土塁・腰郭を観ながら段郭を登ると広い二ノ郭で、さらに登ると土塁の付随した主郭となる。土塁は二段になっていて、城主のものだろうか宝篋印塔があり、最上段には石祠が祀られている。感想ほとんど無名の山
執筆時点での私個人の一見解です。自分用の備忘録を兼ねて気になっていることをまとめてみます。【肝付氏以前の伴氏の出自】定説では伴大納言こと伴善男の子孫説と弘文天皇こと大友皇子の子・余那足の子孫説の二大主流説がある。この他にもあるが取り敢えず割愛。伴善男、その子・中庸までは事跡が見えるが以降は判然としない。島津荘を開いた平季基の頃、伴兼行や兼貞の時代、万寿年間(1024~1028)には北部九州を中心に各地で伴氏が神官を務めている。そもそも古代には九州北部に大伴部がおり、その末裔は大伴氏や伴氏
参考にしてる本藩人物誌や西藩烈士干城録がPDFで閲覧できる鹿児島県立図書館のサイトを見つけたのでURL貼ってをおきます↓http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/?p=25283他にも薩摩藩関連の史料が閲覧できます!下記系図の表示はPCブラウザ向けです。播磨守伴宿禰春雄─参議伴朝臣保平─右兵衛佐仲舒─右兵衛督仲用─伴仲用─右馬督仲兼─判官代兼遠─土佐掾兼行──伴兼行┬平兼輔(平季基婿)─神崎兼重└無官大夫行
え!歴史上人物の末裔と聞いて驚く有名人TOP10|dmenu映画https://movie.smt.docomo.ne.jp/latest_news_rss/1284148/2年前に亡くなられたスネ夫の声優で有名な肝付兼太さんは九州最強島津家の宿敵肝付兼続肝付氏の末裔。後に肝付兼盛は島津貴久の家老となる。因みに名前の中に胤という漢字が使われてる方は誰かしらの末裔である可能性があるかもしれません#1日一回歴史情報
『諸家大概』は寛文九(1669)年の春に薩摩藩三代藩主・島津綱貴の命により編纂された。私が解釈した超テキトーな現代訳は青字です。一、伴姓肝付氏の一族は鹿屋氏、岸良氏、薬丸氏、梅北氏、安楽氏、津曲氏、萩原氏、野崎氏、検見崎氏なとにて候鹿屋氏は古来より鹿屋院を領し弁済使にて候御家より被下候御文書其外証判過分に在之候元久公の御家老鹿屋周防介忠兼入道玄兼仕候夫より代々於所々戦死仕候大覚寺義昭僧正尊有於福島永徳寺御切腹の時鹿屋氏別て御奉公仕候此嫡孫志布志士鹿屋権左衛門庶流の者加治木にも在之候伴姓肝付
肝付一族家臣肝付左兵衛尉「天正元年正月六日末吉住吉原ニテ戦死ス」肝付三河入道竹友「天正元年正月六日住吉原戦死今其墓アリ」肝付伊勢守兼清「天文年中姶良地頭」肝付刑部少輔肝付加賀守兼吉「加賀入道文安カ孫ナリ文安ハ応仁ノ比肝付代官トナリテ忠節無二ノ者ナリト云天文年中恒吉地頭」※「文安」は人名ではなく元号の間違いで、兼吉の祖父・加賀入道は文安から応仁期の人物。肝付治部左衛門尉兼名「覚兼日記天正三年名前見得タリ兼吉カ弟ナリ省釣公ニ叛ク時兼名廻城ヲ襲ンコトヲイフ省釣悦テ佩刀ヲ与フ兼名即
現在一般的に言われている系譜は伴善男─中庸─仲兼─兼遠─兼行─行貞─兼貞─兼俊となっています。そして伴兼行が安和元(968)年に薩摩掾を補任されて、翌年の安和二(969)年に薩摩神食(上伊敷)に下向したということです。ここでこちらのページを参考にさせて頂きます↓http://kamodoku.dee.cc/getureikai-27-9.html平田煌二さんが発表された内容の一部が書かれた2015年の記事です。安和二(969)年に薩摩に下向したのは兼行より四代前の仲用というのが驚き
肝付左馬頭良兼省釣嫡子也母ハ日新公御女妻ハ伊東義祐カ女也永禄十一年春伊東義祐ト飫肥福島ヲ夾ミ攻ム六月八日島津忠親飫肥ヲ去テ福島ニ遁ル又進ンテ福島ヲ囲ム七月十三日忠親力尽テ都ノ城ニ遁ル良兼福島ヲ取ル元亀三年正月六日良兼カ兵二百余人於末吉戦死ス同十九日良兼兵ヲ遣シテ舟行シ隅州小村海浜ヲ侵ス一族岸良将監以下弍拾余人戦死ス同二月廻市成境ニテ守護方ノ伏兵ニ入テ肝付越前守以下二十人打死ス同五月守護ノ兵ニ川(二丗か?)ヲ破ル天正元年正月六日北郷時久ト末吉住吉原ニ戦ヒ敗績シテ一族家人数百人戦没ス
赤字の部分は原文でも赤字で表記されているようです。肝付河内守兼続入道省釣三郎法印権大僧都ト系図ニアリ肝付家十三世兵部少輔兼興子也其先ハ天智帝ノ皇子大友皇子ニ出ヅ其子余那足始テ姓ヲ伴氏ト賜フ九世ノ孫伴極大監兼行(極は極官のことか。大監は大宰大監)初テ薩摩国ニ下向シ神食(かみじき)鹿児島郡ノ内今ノ上伊敷村ナリニ四十町ヲ築テコレニ居ル伴極ノ御館トイフ其子行貞無官太夫(位階が五位で官職に就いて居ない散位無官の者)其子検非違使右兵衛佐兼貞カ代長元九年九月九日初テ肝付郡ヲ賜フテ肝付ノ元祖ニ立ツ其子
久しぶりに弓道の話。はい。私、弓道初めてもうすぐ一年。去年、鹿児島の肝付町という辺鄙な町で流鏑馬というものを知りました。ついでにそこで自分の過去生にも出会い(肝付氏一族として生きていました。)弓を引きたい!!!という気持ちが高まり鹿児島から沖縄に帰ってすぐに弓道を始めました。初めは、肝付氏の過去生の影響が強く現れていたこともありただ楽しい弓道でした。しかし、次第に「私ったら、なんて世界に足を踏み入れてしまったんだろう」と後
学生の時の先輩・將義さんは長渕剛の曲の弾き語りを得意としていた。小生、長渕が大嫌いだったが、彼の唄う曲はすごく好きになった。で、大好きな“逆流”を聴こうとしてニコ動漁っていたら見つけたこれは以前から思っていた。ずっと、思っていた。長渕氏は鹿児島生まれである。以前のスネ夫の声の方も、その姓は大隈地方の戦国大名と同じである。その家の通字である‟兼”の字も入っている。どっかで血のつながりが?そのせいかとも思ったりしている。