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建春門(けんしゅんもん)は、平安京内裏の外郭門の1つで、平安宮内裏外郭の東正面にあり、内郭の宣陽門と相対します。この説明板があるのは京都市上京区智恵光院通出水下ル分銅町575で、曹洞宗寺院・松林寺の山門前に設置されています。またこの説明板の横には「此付近聚楽第南外濠跡」と記された石柱があります。この建春門を入り、次の内郭回廊に設けられた宣陽門をくぐると、温明殿・綾綺殿を経て紫宸殿に至ります。大河ドラマ「光る君へ」第10回・月夜の陰謀で、内裏を抜け出し元慶寺で出家退位させられてし
久しぶりの京都駅みとりの窓口も指定席券売機も外国からのお客様でいっぱい事前予約したきっぷを発券するだけで30分ほどかかった遅めのお昼は田ごとさんポルタ店いつものそば御膳ランチは残念ながら売り切れさつきを佐々木酒造さんの聚楽第とともにいただくカフェベローチェでほっこり
「けっきょく滅亡フラグだった聚楽第」
今回の京都行き実はここのお肉目当て👍️リーブナブルなのにとっても美味しい焼き肉屋さんですなんと、京都で信州牛👍️お好みの加減に焼いたらスタッフの方が切り分けてくれるスタイル焼き肉にはやっぱり冷えた一推しはやっぱり握り日本酒が合う🙆新幹線に乗って遥々京都まで来てよかったわぁ😆……としみじみ思った瞬間✨👏京都らしい『聚楽第』という美味しいお酒をいただきました
お米と日本酒頂いた🙏佐々木酒造さんの✨✨✨✨✨『純米吟醸聚楽第』✨✨✨✨✨🍶今夜も飲まなきゃ「京都の酒」聚楽第純米大吟醸1800ml16度佐々木酒造京都府産楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}【ギフト箱入り】まるたけえびす本醸造&聚楽第純米吟醸720ml×2本佐々木酒造京都府産「京都の酒」楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}
おはようございます。今日は、文禄三年(1594年)3月7日豊臣秀吉が伏見に築城を開始しました。伏見城と言って、連想するのは、伏見桃山城キャッスルランドです。電車の窓から眺めたものでした。そのキャッスルランドも、2003年に閉園となっています。【伏見城とは】豊臣秀吉が最初に城持ちとなったのは長浜城でした。その後、いくつかの城を築きましたが、天下を取り、その拠点として城を築くことになります。天正十一年(1585年)の大坂城天正十四年(1586年)の聚楽第(じゅらくだい)そして、秀吉の隠
【受難節・四旬節・レント】2024.2.14(水)~3.30(土)●2024.3.3(日)体と魂の安息日。主の日。主日。天地創造・人間創造をされた主なる神さまを礼拝する日。寒い日でしたが、私たち夫婦も、祈りながら・体調を整えながら、阿武山福音自由教会での礼拝に、出かけて行くことが出来ました。感謝主!今日は、3月第1主日ですので、[聖餐式]がもたれました。主イエス・キリストが、私たちのために、体を与えていた
寒の戻りには、燗酒もええなあー😮💨😩
こんにちは。昨日の総合ジャンルランキングは14位でした。うわーん!嬉しい!!!ランキングアップ<やったぁ~♪どうぞ応援を何卒よろしくお願いしますいつも訪問やいいね!を本当に有難うございます。人気記事ランキングで100位内には1つも入りませんでした<頑張りますAmebaから届いたエール♪私の書いたゲームログブログで、読んだ方が少しでも楽しい!と思って頂けたのなら、本当に嬉しいことですブログを始めてそろそろ3年。毎日欠かさずブログを書いてきたので、結構な記事量
西本願寺の南の通り、七条通りを走っていると、興正寺の紅白の梅が綻び出しているのが見えた。この時期、京都市内でも割と早めに綻び出すが、それは決まって紅梅の方で、白梅が同時に綻ぶのは珍しい。やはり、基本暖かいのだろう。お隣の西本願寺の御影堂、阿弥陀堂の大屋根が迫り、聚楽第の遺構と伝わる飛雲閣も顔を覗かせている。全て国宝指定されている建物を祝うかのように紅白の梅。これ程贅沢な光景はこの時期だけ、この撮影は五日ほど前なので、この数日
秀吉は天正14年、大内裏の旧跡と伝わる内野に聚楽第の建造を始め、翌年に完成させた。北野天満宮の松原で豪勢な茶会を催し、聚楽第完成の祝賀とした。更に天正16年4月に後陽成天皇の行幸が挙行され、聚楽第は晴れの日を迎えた。その後秀吉は、関白の地位と聚楽第を甥の秀次に譲ったが、秀次の自害後、聚楽第は破壊され、建物の大部分が伏見城へ移築された。
山町筋を更に進みます。富山銀行本店のはす向かいに「高岡御車山会館」があります。1年中「高岡御車山祭」を味わえる、とても贅沢なプレミアム・スポットです。「高岡御車山」は、天正16年(1588)に、秀吉が後陽成天皇を聚楽第へ迎え奉る際使用した「御所車」を前田利家が拝領し、加賀藩第2代:前田利長が高岡城築城にあたり、高岡7町の町民に与えたものです。7町とは、通町、御馬出町、守山町、木舟町、小馬山町、一番町、二番町の7町です。御車山は7基あり、毎年5月1日に開催される「高岡関野神社」の
天海(71)天海は本多正信の屋敷を訪れていた。件の如く各種の陳情と世間話である。正信にしても関東では新参者であり、周囲には権力者として警戒されている。天海のような事情通の存在は実にありがたいのだ。さらに天海は私利私欲がなく公平であるから、信頼できる存在である。行く行くは宗教政策のブレーンにしたいと考えていた。天海が席を立とうとした時、思い出したかの如く正信が言い出した。「天海殿は、与右衛門はご存じか。」(与右衛門、はて、誰のことか。)と考えていると、「こ
…「内野」に造営した壮大な邸宅は何か?「聚楽第」である。天正14年に築城が開始され、秀吉は翌年に妙顕寺城からここに移った。天正16年には後陽成天皇の行幸があった。同19年には秀吉が豊臣氏氏長者・家督及び関白職を甥・秀次に譲り、聚楽第は秀次の邸宅となった。翌20年には再度の後陽成天皇の行幸を仰ぎ、秀次により、北の丸が増築された。ところが、文禄4年には、秀次は秀吉によって高野山へ押し込められ切腹させられた。そして、秀吉は聚楽第を
天海(63)この一連の出来事に、秀次を筆頭にした一族衆が快く思わなかったのは当然である。豊臣家の血の継がりがない、淀殿が勝手に産んだ男子を後継者として認める訳にはいかなかった。そのうち、秀吉は天下の4/5を秀次に、1/5を拾丸に与えるなどと言い出した。秀吉にしても秀次たちの反発は理解できるものであったのだ。秀次も、もし拾丸が秀吉の実子であれば、これまでの恩義に報いるためにも、隠棲するのも吝かではない。しかし、豊臣家の血を継がぬ者であれば、それは何とも心外であったろう。そ
天海(61)秀吉は、秀次の妻妾子をも処刑した。8月2日早朝、三条河原に20間四方の堀を穿ち、周囲に鹿垣を組んだ。さらに一間半の塚を築いて秀次の首が据えられたという。その首が見下ろす前で、まず子供たちが処刑された。愛妾といわれた前大納言・菊亭晴季の娘の一の台は、北政所が助命嘆願したが、真っ先に処刑された。最上義光の愛娘・駒姫は15歳で「東国一の美女」といわれ、出羽国から上京したばかりであった。駒姫は秀次に会ったこともなかったのである。ところが、まだ側室でもない駒姫
天海(58)さて、諸将が朝鮮の役で苦労していた頃、家康が何をしていたのか調べてみよう。「史料綜覧」から家康の行動を追ってみる。「文禄2年(1593年)正月29日、徳川秀忠、松平家忠ヲシテ、江戸城ヲ修築セシム、是日、普請始。2月12日、徳川家康、領国ノ諸将ニ課シテ、鉄板ヲ造り、之ヲ肥前名護屋ニ輸シ、造船ノ様ニ宛テシム。3月9日、聚楽亭連歌会徳川家康ノ家臣松平家信、江戸ヲ発シ、肥前名護屋ニ赴ク。5月15日、石田三成、小西行長等、明使謝用梓・徐一貫ト共ニ肥前
こんばんは。京都に住みながら買ったことの無いお酒。佐々木蔵之介さんの実家、佐々木酒造の聚楽第。秀吉の居城の跡地で作られているとか。飲みやすい感じで、口の中で香が広がります。後味すっきりで美味しいです。京都大阪ならどこでも買えると思いますので是非。
すっかり我が家の常備酒となっている京都佐々木酒造さんの「聚楽第(じゅらくだい)」ですが、とある日、主人が仕事で京都に行った時にこちらのアイテムを買ってきてくれました。【佐々木酒造/京都市上京区日暮通椹木町下ル北伊勢屋町727】◎佐々木酒造https://www.jurakudai.com◎Instagramhttps://www.instagram.com/sasakisyuzo/聚楽第のロゴと猫のシルエットが入った、お猪口と升のセット。いつも以上にテンションを上げて「聚楽第
あけましておめでとうございます本来であれば昨日アップする予定がお昼過ぎに甥っ子達がやって来てわちゃわちゃしながらカットして更にその後、両親のカットをしているとまさかの大地震発生我が家は幸いにも3度位でしたが、1分以上続く揺れにびっくりその後のニュースを見ているととても浮かれぽんちなブログはアップ出来ないなぁ💦と自粛しました。ですが、一応自分用の記録として今年頂いたおせち今年は千賀屋さんと言うところのおせちです頂き物のお酒佐々木蔵之介さんご実家の佐
場所京都市上京区松之下町57-13加藤清正の屋敷があったと云う。あれ~、石碑が変わってる以前は小松帯刀寓居参考地だったのに…説明板。【聚楽城加藤清正邸跡伝承地】当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたります。「蜻蛉日記」の著者藤原道綱母が住まいし、のち武将源頼光や道綱が引き継いだ一条邸跡とされます(中古京師内外地図)。付近一帯は、応仁の乱の洛中での最初の合戦地です。応仁元年(1467)5月26日、東軍細川勝元方の京極持清は、この前を通って一条戻橋から西軍へ攻め入り、
空と海のキャンバスAmazon(アマゾン)適当に歩いていて見つけた狩野元信の邸宅跡地。元信は室町時代に活躍した狩野派の絵師です。慶長天主堂跡。ヤソ会の天主堂です。弾圧を経た後、1604年頃に再興されている。南蛮寺より後に建てられたこともあって、南蛮寺を凌ぐ荘厳さだったとか。久々に来た一条戻橋。15年ぶりくらいか。一度来たが、あまりパッとしなかったので2度も足を運ぼうとは思わなかった。この辺りも味気ない町並みが広がっている。戻橋は元々、土御門橋(つちみかどばし)と呼ばれていました
天海㉝利休の遺偈の意味は実に難しい。意訳すれば、まず「人生七十」とは自分の人生を振り返っているのであろう。「力囲希咄」とは良く分からない。一説では気合を入れているのだという人もいる。「吾這寶剣祖佛共殺」は、利休は宝剣を持って、「祖佛」を殺すということだ。これは禅の言葉らしく、「自分を抑え込もうとするものは祖先、父母、仏であろうと許さない。」ということらしい。「提る我得具足の一太刀」は、利休はその身を具足で固めている、つまり武装していて太刀を帯びているということである。一太
今月の『流白浪燦星(ルパン三世)』で私たち囚人が屯している聚楽第の牢獄の中。今日はネタバレ満載ですので、ご注意ください。前の場面で銭形刑部に捕まって牢屋に入れられたはずの次元大介がなぜか、牢屋には居らず牢番に化けております。そして五エ門が捕らえられて牢獄に入ると、なぜかそこにはもう一人の次元大介が・・・(笑)正直、この次元大介、本物とは似ても似つかぬ人物なのですが、「私は次元と違う!」と云う男に五エ門までもが「見損なったぞ、次元大介」と云い放します。偽物の次元大介は
…聚楽第を建設したが、これは何と呼ばれる地域か?秀吉が京都に政権の基盤を置いた際、「内野」に聚楽第を建設した。「内野」は、鎌倉から桃山期に空閑地となった大内裏の故地の呼称。この名称は、『今昔物語』や『梁塵秘抄』などで見る事が出来る。建築中の内裏や僅かに残っていた官衛なども安貞元年の大火で焼亡し、神祇官庁を除いて空閑地は一層広がった。このため、合戦地となる事が多く、明徳の乱では足利義満の幕府軍と山名氏の軍勢が内野で交戦している。
今日のおうちご飯アジの開き日本酒:聚楽第レボリューションネオどっちも美味しい大きくて脂が乗ってて良かった和食ってほっこりしても良いまだ家のグリル使ったことないけど手入れ大変なんだろうなしばらくは、魚料理が続きそう
本日❣️酒粕そばが解禁しました❣️😂楽しみにいらした常連のお客様❣️失礼してパシャリ❣️😂佐々木酒造家の聚楽第の熱燗🍶で❣️😂十割そばカフェバー運営会社スマイルフーズ西日本
こんにちは。昨日の総合ジャンルランキングが9位でした。やったー嬉しい!!!ランキングアップこれからもどうぞ応援よろしくお願いしますいつも訪問やいいね!を本当に有難うございます。人気記事ランキングで100位内に【マイクラ】マルチサーバーでエッグい量湧くフロッグライトトラップ作成とイカトラップを改造!が86位にランクインしました!!!(人ω・*)ありがとう※このブログは、毎日昼11:25頃に更新していますX(元、Twitter)→@rakuren3このブログ更新案
【11月3日】京都市上京区にある京都市考古資料館へ。11月1日から聚楽第の新作御城印「ご当地ぼんてん・まる〈京都〉版」¥400
京都、今出川北白川、京大吉田キャンパスから銀閣寺方向へ曲がる交差点近くに巨大な石仏が安置されています。鎌倉時代の作とされ、子安観世音として街道を行き来する子供の健康と安全を祈ったとされますが、桃山時代に太閤秀吉がこの石仏を気に入って、京における居城である聚楽第に運び込んだところ、夜な夜な「いのう、いのう)(帰ろう帰ろう)とうめき声をあげたためいたたまれずに、この地に戻したという伝説が残っています。秀吉を巡る京の遺構では洛中を囲った土塁である御土居(おどい)趾が有名ですが、こんなエピソ