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私はプロテスタントのクリスチャンです。試練、、、。このテーマを書くのは、正直、難しいなと感じました。ですが、イエス様が試練について語ることを導いておられる気がしたので、試練について祈り、聖書を調べてみました。この記事が、試練の中におられる方の慰め、励ましとなれたら幸いです。少しでも、お役に立てますように。アーメン。試練とは?について、聖書から、そして、私の経験してきた試練から分かち合っていきたいと思います。3つ、聖書と証を書いていきます。①イエス・キリストと出会うため最初に聖書の
こんばんは🌌🙂今日もいいお天気てした☀もう一気に桜の季節も通り越してしまったくらい暖かかったです😊そんな中、私は教会へ💒昨日の祝福された結婚式と披露宴の続きのような愛と喜びにあふれた礼拝と交わりの一時でした💕夫は釣りへ🎣久々に行った釣りで大量のイワシをゲットしてきました😳こんなにたくさん何して食べましょ笑🌾今日の聖書🌾二人の血は永遠にヨアブの頭と彼の子孫の頭に注ぎ返され、ダビデとその子孫、および、その家と王座には、とこしえまでも主から平安があるように。(列王記第一2:33)💞デボーシ
私たちは、自分のことは自分が一番わかっている、と考えるのですが、果たしてどうでしょう。本当に自分が一番よく知っているならこんなに苦労はしません。自分は自分だから、と好きに生きようとしますが、それで苦労していては何になるでしょう。しかし私たちを造られたのは神様であり、あなたの生まれる前からあなたを知っている、母の胎内にいる時からその体を組み立て、あなたを今日まで導いて下さっているのです。神様に私の何がわかる、ではなく、むしろ神様が一番ご存じ、その神様を私たちはどれだけ知っているつもり
聖書箇所(新約聖書エペソ人への手紙4:17~24)の要約パウロはエペソのクリスチャンたちに、神様の命から遠く離れ、好色に身を任せる異邦人のように歩んではならないと言います。私たちは、イエス様に付いて聞き、イエス様に在って教えられた通り、古い人を脱ぎ捨て、霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖を持って新しい人を着なければなりません。【御言葉から】イエス様を知らない人生は闇と死です。パウロは、イエス様のいない異邦人の人生に言及して、クリスチャンたちに警戒心
今週の「わたしに従ってきなさい」1テサロニケ4:7神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。「神殿の祝福を受けるための個人の備え」2001年4月、ラッセル・M・ネルソン、十二使徒定員会ゴードン・B・ヒンクレー大管長の霊感あふれる導きの下で、今では、神殿はいつに増して身近な存在となっています。どの神殿にも、「聖きを主に捧ささぐ」(出工ジプト28:36;39:30;詩篇93:5参照。)という言葉が刻まれています。この言葉は、神殿自体もその存在の目
聖書には、非常に多くのことが語られています。信者の立ち位置が「この世」か「神の国」かが問題になります。救われた人は神の国の構成員で、神の救いの予知にしたがって、神の側に立ちます。信者にはイエスの弟子たちのように「信仰に応じた霊の実」が伴います。真のクリスチャンは世と妥協はしないため、迫害を受けるでしょう。しかし、迫害で死ぬことがあっても、復活するので、問題はありません。こうして終わりまで忠実であることを彼らは示します。彼らは、義を愛し、不法を憎み、神と隣人を愛
今日の箇所(へブル12:1-11)には、信仰者に求められているのは、主イエスから目を離さず、最後まで忍耐することであることが示されています。信仰生活は、気軽な散歩ではなく、むしろ長距離走(競走)です。過酷な信仰の長距離走を完走するために、信徒が捨てるべきもの、覚えておくべきこと、見つめるべき対象があります。捨てるべきものとは、障害物である罪です。信徒は、放縦や貪欲といった障害物や、この世へと誘惑する罪を取り除く必要があります。覚えておくべきこととは、信仰の長距離走を走り切
🌸今日のみことば9/3"すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。"エペソ人への手紙1章4節Ephesians1:4🌸みことばを読んでの気づき私の名前「由紀」の中にはコフ(ק)が入っていると教えてもらった元々、私の名前の中に神の聖さを神様は入れてくださっているそれを純粋に受け入れ神に与えられた聖さだけを保っているなら神の子どもとして生きられるしかし反対に自分の考えで行動するならせっかく与えて
今週の「わたしに従ってきなさい」使徒行伝26:18それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである。「聖さと幸福の計画」2019年10月、ヘンリー・B・アイリング、大管長会聖さを増し加えることが幸福への唯一の道であると,アルマは息子に教えています。そして,イエス・キリストの贖いによって清められ,完全になることによってさらに聖くなれることを分かりやすく説明しました。
今週の「わたしに従ってきなさい」使徒行伝7:55しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。「個人の尊厳」(英文)1981年4月、ジェームズ•E・ファウスト、十二使徒定員会これは私の考えですか,創造主は男と女を創造された時,彼らを利已心や自己満足のとりこになるような存在としてはお考えにならなかったと思います。すなわち「神のかたちに創造し,男と女とに創造された」(創世1:27)のでした。詩篇の作者は尋ねました。
そういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。同じように女たちも、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく、神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい。女は、※よく従う心をもって静かに学びなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、それからエバが造られた
「わが子よ、主の※訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。 ̄ ̄肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばし
エゼキエル書7章/Eze7(HNV)2)「人の子よ。イスラエルの地について神である主はこう仰せられる。『もう終りだ。この国の四隅にまで終わりが来た。You,sonofman,thussaystheLordGODtoEretz-Yisra'el,Anend:theendiscomeonthefourcornersoftheland.3)今、あなたに終わりが来た。わたしの怒りをあなたのうちに送り、あなたの行ないにしたがって、あなたを
今日の聖書箇所リビングバイブル訳Scripture:出エジプト記25章8~9節(2017新改訳聖書)彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。Observation神様はイスラエルの民と共に歩むことを証するために、幕屋を作らせるのです。その臨在の証ため、神の聖さを民に伝えるために作られるのです。そこにあるのは、神の権威であり、絶対者としての権威がそこにあるの
米沢興譲教会ライブ配信米沢興譲教会で毎週行われている日曜日の礼拝・水曜日の祈祷会のメッセージを配信するチャンネルです。聖書の1節を取り上げ、その意味を分かりやすく解説したり、エッセンスを日常生活とからめながら活かすコツなどが語られています。コメント、リクエスト等はお手数ですがメールにてお願いいたします。live@kojochurch.com米沢興譲教会はキリスト教の…www.youtube.com#キリスト教#礼拝#聖書祈祷会「パウロの祈りシリーズ⑥~聖化される祈り」
今日の箇所(創世記39:1-10)には、聖さを求める生き方が、祝福の人生へと導くということが示されています。奴隷として、エジプトに引いて行かれたヨセフでしたが、神様は彼をお見捨てにはなりません。ヨセフは、ファラオの侍従長ポティファルに買い取られます。神様が共に居てくださったヨセフは、奴隷の身分でありながら、すべてのことで成功を収めます。それは、異邦人のポティファルでさえ、「主が彼と共に居られる」と認めるほどでした。ポティファルはヨセフを信頼し、全財産を委ねるに至ります。
聖書箇所(コリント人への手紙第二6:14-7:1)の要約パウロは信徒たちに、不信者と釣り合わないくびきを共にしてはいけないと警告します。光と闇に何の交わりもないように、信者と不信者が共有できるものはありません。私たちは神様の宮であり、神様の民、神様の子ですから、自分を聖め、神様を恐れつつ聖さを全うしなければなりません。【示された聖書箇所】6:14不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるで
今日の箇所(第二コリント6:14-7:1)には、クリスチャンは、この世の価値観に引きずられることなく、聖さをまっとうすることが求められているということが示されています。パウロは、不信者と「くびきを共にしてはいけません」と言っています。これは、キリストを信じていない人と共に何かをしてはならないということではなく、彼らに同調してはならないという意味です。パウロは、「正義と不法」、「光と闇」、「キリストとベリアル」、「神の宮と偶像」といった対照的な関係にあるものを並べ、信者と不信者がど
今日の箇所(第一コリント5:1-13)には、教会は、聖さのために、時として断固とした選択をすべきであるということが示されています。霊的な堕落には、必ず道徳的堕落が続きます。コリントの教会の中には、「父の妻」すなわち義母と淫らな行いをした者が居ました。にもかかわらず、教会は何の処罰も与えませんでした。間違ったかたちの「寛容」です。この間違ったかたちの寛容は、今の世にも見られます。悪に対しても寛容であることを求め、かえって良いことを主張すると排他的だとみなされます。聖書は「父
今日の箇所(第一コリント3:16-23)には、キリストに贖われたクリスチャンは、心の内に神の御霊が住んでおられるがゆえに、御霊によって与えられる神の知恵に従って生きる必要があることが示されています。イエス・キリストの福音を信じて救われた一人ひとりは、神の御霊が心の内に住んでおられるがゆえに、神の宮です。また、そのような人たちが集まった共同体である教会も、神の宮です。神の宮とは、神様が住んでおられる場所という意味です。「神の宮を壊す」とは、聖くあるべき神の宮が、神様の忌み嫌われる
すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができめせん。ヘブル人への手紙12:14
今日の箇所(出エジプト30:17-38)には、神様の御前に出る際には、聖められる必要があるということが示されています。洗盤は、手と足を洗うための水を入れる器具です。青銅で作り、会見の天幕と祭壇の間に置きます。祭司は、会見の天幕に入る前や、祭壇で捧げ物を扱う前に、手と足を洗わなければなりませんでした。汚れたままで神様の御前に出れば、死ぬことになるからです。このように、聖所で神様の臨在に近づく時、あるいは庭の祭壇で聖なる神様に捧げ物を捧げる時、祭司はまず自らの身をきよめる必要があ
※松田悦子牧師による礼拝メッセージをもとにして※民数記6章1~27節●神の民・聖徒であって、更に深い聖さを求めて、主なる神に対して、ある期間、身を聖別するために特別な誓いを立ててすごす“ナジル人(びと)”に関して記されています。このように、誓願を立てて歩む人たちは、①主なる神以外に、快楽を求めたり、主なる神以外のもので、苦しみをやわらげようとはしません。その
聖書箇所(出エジプト記28:31-43)の要約エポデの下に着る青服は青の撚り糸だけで作り、裾周りには金の鈴とざくろを付け、アロンが聖所に出入りするとき、その音が聞こえるようにします。被り物には「主の聖なる物」と彫られた純金の札を付けます。アロンとその子らは、天幕に入るときと祭壇に近づくとき、それを着なければなりません。【示された聖書箇所】31エポデの下に着る青服を青の撚り糸だけで作る。【思い巡らし&気付き】神様は、祭司が着るべき服について細かく指示されますが、祭司で
聖書箇所(出エジプト記24:12-18)の要約主は、御教えと命令を書き記した石の板を授けるためにモーセを呼ばれます。モーセはヨシュアと共に神様の山に登ります。山の頂を焼き尽くす火のような主の栄光がシナイ山の上に留まり、7日目に主は雲の中からモーセを呼ばれます。モーセは雲の中に入って行き、40日40夜、その山にいます。【示された聖書箇所】17主の栄光の現れは、イスラエルの子らの目には、山の頂を焼き尽くす火のようであった。18モーセは雲の中に入って行き、山に登った
今日の箇所(出エジプト24:12-18)には、神様と共に歩む条件が示唆されています。神様と共に歩むことは、みことばに基づいています。神様は、ご自分の教えと戒めを書き記した石の板を授けるために、再びモーセをシナイ山に呼ばれます。モーセは、民をアロンとフルに任せ、ヨシュアと共にシナイ山に登ります。この石の板には、十戒が刻まれましたが、ただ十戒が刻まれている以上の価値がありました。それは、後に神の指示に従って建てられる幕屋の心臓とも言えるもので、至聖所の契約の箱の中に収められ、イスラ
聖書箇所(出エジプト記22:16-31)の要約処女と寝た場合、その女を自分の妻にし、女の父が拒むなら銀を支払います。呪術を行う女、動物と寝る者、神々に生贄を献げる者は殺されます。寄留者、やもめ、孤児を苦しめてはなりません。貧しい人から利息を取ってはならず、隣人の上着を質に取った場合は、日没までに返さなければなりません。【示された聖書箇所】18呪術を行う女は生かしておいてはならない。19動物と寝る者はみな、必ず殺されなければならない。【思い巡らし&気付き】聖さは
今日の箇所(出エジプト22:16-31)には、神の民には「聖さ」が求められるということが示されています。「聖さ」とは、世と区別されるということです。今日の箇所の一貫した主題は、「あなたがたは、わたしにとって聖なる者でなければならない」ということ、すなわち神の民には聖さが求められるということです。「聖さ」の基本とは、まず肉的・霊的に不品行を行わないということです。男が婚約していない処女を誘惑して関係を持ったなら、その女性を妻にして責任を負うのが原則です。もし女性の父親が結婚を承
私達が聖さを徹底的に追及する事を神様が求められる理由デイビッド・カイル・フォスター申命記7章で、イスラエルの民が約束の地に入る時、神様は彼らに、「イスラエルよりも数多く、強い7つの国を追い出す」と語られました。神様は、イスラエルの民がそれらの異邦の民を打ち破るなら、それらの民を倒すと約束され、神様が私達に与えているパートナシップについて明らかにされました。そのパートナーシップというのは、私達の従順と(神様への)依存、そして神の力と一体化した信仰です。神様はイスラエルの民に、約束の地で敵
今日の箇所(第一ペテロ1:13-25)には、信仰は聖さと愛によって検証されるということが示されています。罪を赦されたからといって、好き勝手に生きて良いわけではありません。聖なる者に相応しい生活は、「聖なる」生活です。私たちは古い自分に属する欲望に従わず、古い習慣を棄てなければなりません。「倣う」と訳されたギリシャ語の原語は、鋳型やパターンの形に抜き取ることを意味する言葉です。つまり、主の型に沿うように、みことばに従うことが求められているわけです。古い欲望は常に私たちをもとの