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(180)和歌山市岩橋(いわせ)千塚古墳群国の特別史跡で独特な石室が見どころ岩橋(いわせ)千塚古墳群は、5世紀初頭から7世紀にかけて造られた古墳が岩橋山一帯の東西3㎞南北2.5㎞の範囲に850基存在する特に注目されているのは、紀ノ川南岸の結晶片岩を使った岩橋型横穴式石室と名のついた独特な形状にある。一般的な横穴式石室は、被葬者の眠る玄室の奥壁や側壁、天井は平面状で、床面に石棺を置くなどするが、岩橋型横穴式石室は、北九州や瀬戸内海周辺に特徴的な奥壁に石棚(石屋形)が付き、さらに
(179)三重県津市の明合(あけあい)古墳群・・・全国有数の巨大方墳地元の津高等学校の地歴部が1949年に標高40mの高台の上に築造された大型方墳を発見した。後に5基の倍塚を合わせて明合(あけあい)古墳群と命名された。この巨大方墳は2段築成で、一辺60m、高さ10mもあり、築造が同じ時期(5世紀前半)では奈良県橿原市にある桝山(ますやま)古墳(一辺85m・高さ15m)や築造は7世紀に下るが千葉県の印旛郡にある龍角寺岩屋古墳(方墳・一辺78m・高さ13m)に匹敵する規模がある。<
(178)福岡県うきは市の日岡(ひのおか)古墳・・・装飾古墳として有名若宮八幡神社の境内にある若宮古墳群のなかで最後に築造された古墳。<前方部・古墳登り口>前方後円墳で、全長78m、前方部幅35m、後円部直径40mで高さ5m。<後円部を望む・若宮神社の鳥居の奥が装飾壁画を見れるところ><古墳の全景・左が後円部で東側>前方が西、後円部が東を向き、周壕が廻っていたよう。埋葬施設は後円部西側に南西方向に開口する両袖式で、羨道の奥に玄室がある単室構造の横穴式石室。石室の奥
(177)和歌山県西牟婁郡すさみ町熊本地方の石室に酷似上ミ山(かみやま)古墳本土最南端の横穴式石室を有する古墳で、周参見(すさみ)湾の標高81mの丘陵の山頂に築かれており、とても見晴らしの良い場所です。車では、NAVIでホテル跡の入り口付近に駐車するしかなく、荒廃した山道を徒歩で登るしか到達できません。途中には広い太陽電池パネル畑の横を渡りますが、最後の登り入口にある古墳の方向を示す小さな立て看板を見つけるまでは、到達に不安がありました。急な山道をロープ伝いに這い上がると突然開け
(176)和歌山県那智勝浦南紀唯一の前方後円墳下里古墳下里古墳は「大化の改新」で紀伊国に併合されるまでは熊野国と言われていた紀伊半島南部にある唯一の前方後円墳です。小高い砂丘の上に築造されており、1600年前には近くまで海が迫っていました。全長40m(30歩(ぶ)規格)で、後円部径や前方部幅は、説明書きがないので墳丘推定図から割り出すと、後円部径は約23m、前方部長さ約17m、幅約11.5mで、後円部径の半分が前方部幅ということになり、前方部が細く発達して
(175)日本武尊(倭建命)の墓は、三重県の能褒野王塚古墳か白鳥塚古墳か?記紀(日本書紀・古事記)に登場する英雄、第12代景行天皇の皇子の日本武尊・倭建命(ヤマトタケル)は、ヤマト朝廷の支配を広げるために東国征討の任につき、その帰路に伊勢国の能褒野(能煩野・ノボノ)でなくなり、能褒野陵に葬られたと記されています。能褒野の地の墓を巡って、地元の三重県には、いくつかの古墳がヤマタケルの墓として祀られています。有名な古墳は次の二基一つは、能褒野王塚古墳(亀山市田村町・能褒野
(174)福岡県朝倉郡筑前町希少な前方後方墳焼ノ峠(やきのとうげ)古墳焼ノ峠(やきのとうげ)古墳は国指定の史跡で、九州最大の前方後方墳。城山(じょんやま)の北、標高56mの丘陵上にあります。山道を車で登っていくと、孤立した丘陵の高台に突然その神々しいほどの墳形が現れます。古墳は、復元して美しく、駐車場や木道を完備、見晴らしも良く、是非訪問することをお勧めします。遠くからはとても巨大に見えますが、全長は40.5ⅿ。前方部は地山を削り長さ17m、幅12m、高
(173)徳島市国府町奈良の纏向型前方後円墳宮谷(みやたに)古墳徳島市の西にそびえる気延山の尾根に宮谷古墳は築造されています。発掘調査の結果、古墳の周辺から大量の壺形土器、前方部斜面から三角縁神獣鏡が3面、後円部中央には東西を向く竪穴式石槨があり、小型重圏(じゅうけん)文鏡(模倣鏡)や玉類、鉄製武器などが出土しました。全長は37.5mで、前方部長(12.5m)に対し後円部径は25mで、1:2の比率となっており、ちょうど奈良県の箸墓古墳よ
(172)鹿児島県南さつま市14000年前の縄文草創期栫ノ原(かこいのはら)遺跡栫ノ原(かこいのはら)遺跡は、鹿児島県南さつま市加世田の薩摩藩の外城として栄えた武家屋敷群に囲まれた標高30mの丘陵の頂部分にあります。発掘の結果、後期旧石器時代から中世までの複合遺跡であることが分かったのですが、特に注目されたのは縄文時代草創期の遺構・遺物が豊富に出土したことです。縄文草創期は、狩猟移動生活の旧石器時代から定住が始まったとされる約14000年前の時代をさし、当地は
根日女と顕宗・仁賢天皇播磨の悲しき恋伝説の古墳ずんだもん7玉丘古墳群(兵庫)ずんだもんが気ままに、日本全国の遺跡をめぐり、疑問をもつのだ!解説は四国めたんに任せているのだ。四国めたんの勝手な解釈もあるけど気にしないのだ!時折独自キャラも登場するのだ。ずんだもん立ち絵:坂本あひる四国めたん立ち絵:坂本あひる動画作成ソフト:ゆっくりMovieMaker4light音声作成ソフト:VOICE...youtu.be
日本最古で最大の石塔百済の悲しい歴史を背負う!ずんだもん、遺跡に行くの巻6(滋賀・石塔寺)ずんだもんが気ままに、日本全国の遺跡をめぐり、疑問をもつのだ!解説は四国めたんに任せているのだ。四国めたんの勝手な解釈もあるけど気にしないのだ!時折独自キャラも登場するのだ。ずんだもん立ち絵:坂本あひる四国めたん立ち絵:坂本あひる動画作成ソフト:ゆっくりMovieMaker4light音声作成ソフト:VOICE...youtu.be
ワカタケル大王のしもべ、ムリテは最古の日本人名(ずんだもん!遺跡に行く!の巻5)ずんだもんが気ままに、日本全国の遺跡をめぐり、疑問をもつのだ!解説は四国めたんに任せているのだ。四国めたんの勝手な解釈もあるけど気にしないのだ!時折独自キャラも登場するのだ。ずんだもん立ち絵:坂本あひる四国めたん立ち絵:坂本あひるあだぴ:ゆきち動画作成ソフト:ゆっくりMovieMaker4light音声作成ソフ...youtu.be
(163)私の古墳の楽しみ方(その5・副葬品と博物館ランキング)石室などから出土した副葬品などは、古墳の現地で見ることはほとんどできない。現地での発掘報告会などに限られる。発掘や過去の盗掘によって見出された遺物は公的な博物館や資料館での保管や展示あるいは私的な所有に限られてしまう。自治体によっては、墳丘や葺石、石室などを復元し、あるいは石室の副葬品までも複製して当時の配置を再現して、私たちによりリアルに在りし日の古墳の姿を伝えようと努力されていることは、とてもありがたいことで、担当課・職
(162)私の古墳の楽しみ方(その4・葺石と埴輪)あまり有名でない古墳を見つけて墳丘に登ることができた時は、とても幸せな気持ちになるのは古墳マニアとして当然のこととして、葺石の痕跡や埴輪の破片がないか目を凝らしてしまうのは、もはやマニア癖の何物でもない。◎葺石の配置状況と種類を楽しむ葺石が有るナシは県や国の史跡レベルの古墳ならば説明版があって、記載されていることは多いが、市や町の史跡レベルになるとなかなか書かれておらず、古墳名が書かれた立看板が関の山だから、墳丘に登ってみて初めて葺石の存在
(160)私の古墳の楽しみ方(その3・石棺・壁画)◎石棺の造り◎古墳時代前期【刳り抜き式】割竹形(わりだけがた)石棺割竹形木棺を真似て造られた福岡沖出古墳◎縄文時代後期(東北)~古墳時代全般【組み合い式】箱式(はこしき)石棺石板を箱型に組み合せた上に複数の石板を乗せた岡山王墓山古墳福岡県丸隈山(まるくまやま)古墳鹿児島軽石組合屋根型箱式石棺◎古墳時代前期~古墳時代後期(4世紀後半~)【刳り抜き式】舟形(
(160)私の古墳の楽しみ方(その2・石室の形式・構造)◎石室の防水土木技術㈱火山灰考古学研究所の早田勉先生は、早稲田大(考古調査士コース)授業で、古墳の石室(石(棺)の遺物の残存状況が比較的良いのは、古墳時代にすでに粘土層による防水技術(キャピラリー・バリア)があり、石室の周りに粘土層を造ることで、雨水を周りに流す築造を行っていたのではないかとのことでした。香川県善通寺市の王墓山古墳の石室にも同様の技術が使われていました。◎石室の場所古墳の主被葬者は後円部、追葬などで
(159)私の古墳の楽しみ方その1「前方後円墳の多様な形と比率」古墳を巡る楽しさや古墳の魅力を知人や友人に語ると、10年前まではちょっとマニアックな人として見られることが多かったが、古市・百舌鳥古墳群が世界遺産に登録されてからというもの、古墳巡りが観光の一部として認知されるようになったと思う。そもそも古代の日本(倭)の国(支配形)を作ろうとした私たちの遠い祖先の話でもあるから、ないがしろにはできないのが日本人の心というもの。私の好物である古墳、特に前方後円墳は、3世紀から6世紀にかけ
(158)千葉県山武郡芝山町渡来人の王の埴輪か?殿塚・姫塚古墳と中台3号墳殿塚・姫塚古墳と中台3号墳は、芝山古墳群(前方後円墳4基、円墳13基)に属し、太平洋にそそぐ木戸川上流左岸の台地上にある。両古墳の発掘の結果、倭人離れした風貌とスタイルをした人物埴輪など全国でも稀な形象埴輪の行列がほぼ完全な状態で出土し一躍有名になった。早稲田大学がこれらの埴輪の3次元計測測定を行い報告書を出している。これらの埴輪を見ると、とんがり帽子に三角のあごひげ、細面の顔などまるで西洋の魔法使いのようであ
(157)法隆寺五重塔・建立のなぞ(70年間心柱だけが建っていた?)2010「古代大和の謎」大和文化会編(富山大学の松浦正明教授の執筆「年輪に秘められた法隆寺創建」)を読んで、心ときめいたので、自分なりに租借・解釈し図化してみた。専門家ではないので、細かい間違いはご容赦願いたい。現在の法隆寺五重塔の規模は総高33.67mで、基壇1.11m・塔身22.87m・相輪9.69mである。◎はじめに旧法隆寺(若草伽藍)の火災による消失について607年に建立された法隆寺若草伽藍(旧法隆寺)は、天
(156)岡山県総社市倭国防衛「鬼ノ城」664年~大和朝廷は百済復興を企図し663年10月に唐・新羅連合軍と白村江の戦いに挑んだが大敗。倭国への唐の侵略を強く恐れ、664年以降、朝鮮半島南端から奈良に至る対馬(金田城碧・ピングシ土塁)~北九州(大宰府・水城)~岡山(鬼ノ城)~畿内の山間部などに山城などの防御施設を築き、防人を配置した。鬼ノ城はその一つで吉備高原の南端、鬼城山(標高397m)の頂に築かれた。瀬戸内海や総社の町が一望できるが、この高台で防御を継続しなければならなかった強い危機
(155)岡山県岡山市桃太郎伝説の吉備津神社と吉備津彦神社(分社)◎吉備津神社(備中・一宮)・・本殿及び拝殿は国宝実在性が高いと言われる第10代崇神天皇の時、吉備津彦命は四道将軍の一人である西道将軍として吉備国に赴き、ヤマト王権に反抗していた温羅(うら)一族を平定した。この伝えが桃太郎伝説となったらしい。吉備津彦はこの地に宮を営み281歳の長寿で亡くなり吉備の中山の山嶺に葬られた。そして第16代仁徳天皇が吉備国の采女(黒姫)を慕って、吉備国へ行幸した際、吉備津彦の功績を聴き称え、吉備国の
(154)岡山県倉敷市楯築(たてつき)弥生墳丘墓(双方中円形・弥生時代後期)楯築(たてつき)弥生墳丘墓は、王墓山丘陵に築かれた、双方中円形古墳の原型ともいわれている。全長は72mで、直径50mの主墳(円丘)の北東側と南西側に台形の突出部がついている。しかし突出部は残念なことに団地造成や給水塔工事により大きく破壊されている。主墳(円丘)の頂には5個の巨石(高さ2m以上)が円を描くように建てられ、まるでストーンヘンジのような様相を示しており圧巻だ。中心に立つとなるほど埋
(153)滋賀県野洲市大岩山古墳群天王山古墳(前方後円墳)大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに首長墓が連続して築かれました。特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。◎天王山古墳(大岩山古墳群唯一の前方後円墳)後円部から前方部を望む全長50m、高さ8m、前方部幅25m、後円部直
(152)滋賀県野洲市大岩山古墳群甲山(かぶとやま)古墳(円墳・阿蘇凝灰岩製石棺)大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに首長墓が連続して築かれました。特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。◎甲山(かぶとやま)古墳(円墳)円墳で直径30m・高さ10m墳丘表面の葺石や埴輪はなかったよう
(151)滋賀県野洲市大岩山古墳群円山古墳(石棺が2つ、熊本県阿蘇凝灰岩製と奈良県二上山凝灰岩製)大岩山丘陵から平野部にかけては、AC250~500年代までに首長墓が連続して築かれました。特に石室が素晴らしい円山古墳(円墳)・甲山古墳(円墳)と前方後円墳である天王山古墳は近江の後期古墳を代表するもので、これら含め現存する6基の古墳を大岩山古墳群と命名し、桜生(さくらはざま)史跡公園として整備されました。◎円山(まるやま)古墳(円墳で直径28m・高さ8m)円山古墳の石柱
(150)滋賀県蒲生郡木村古墳群久保田山古墳(2方向造り出し付き円墳)この古墳の原型は、1700年以上さかのぼる岡山県の古代吉備地域にある弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の弥生楯築墳丘墓や4世紀後半(古墳時代前期後半)奈良県天理市の櫛山古墳にあるのではないかと個人的に思います。弥生楯築墳丘墓や櫛山古墳は「双方中円形」と呼ばれ、弥生楯築墳丘墓の場合は円丘の北東側と南西側に台形の突出部がついており、キャンディの包み紙のような形をしています。しかし残念ながら、久保田山古墳は「
(149)滋賀県蒲生郡木村古墳群天乞山(あまごいやま)古墳(2方向造り出し付きの大型方墳)木村古墳群は、滋賀県蒲生郡木村にある古墳時代中期に造られた主に6基の円墳と2基の方墳などからなる古墳群でしたが昭和35年の土地改良事業などで最大規模のケイサイ塚(直径80m・高さ10m)ほか、そのほとんどを消失させてしまい、現在は天乞山古墳と久保田山古墳(円墳)のみとなっています。その反省からか、今は「悠久の丘蒲生町あかね古墳公園」として駐車場・トイレなどが整備された公園となっており、2基の