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陽子ちゃんから「わたし今大岡山なの。ちゃえちゃんもし時間あったら一緒に自由が丘でタピオカ飲まないかな〜?」陽子ちゃんは日本にたった2人のコンティニュアム・ムーヴメント®︎の先生教室を終えた帰り道のメッセージそして30分後にたぴおかでーとTheAlleyロイヤルNo.9タピオカミルクティーくるくる迷路を終えてあたらしい道が見えたけれどそこにも課題や不安がてんこ盛りそんな久恵に陽子ちゃんねちゃえちゃんあっという
アヴェ・マリアを歌う集い3回目の今回はシューベルトのアヴェ・マリアよく耳にするのにうたうとなると難しいのね...ということをピアノの大内山真紀子さんにメロディラインを弾いてもらってやっとこさ気づく!でもねうたのまえに日本でたった2人のコンティニュアムの先生老沼陽子さんのワークで心と体はゆるゆるしていたししっかりグラウンディングもできていたから焦ったり不安になったりせずその瞬間にあった練習方法が降ってくることを楽しむことができたよ
明日(16日)はアヴェ・マリアを歌う集い打ち合わせのやりとりに涙しちゃったそしたら老沼陽子ちゃんがこんな言葉でイベントを紹介してくれたよ♪*:・’゚♭.:*・♪’゚。.*#:・’゚.:*いまは女性3人でやっている、このアヴェ・マリアを歌う集い。性格も、興味のある分野も、仕事も、ファッションの傾向も、かなり違う3人です。普通だったら引き合わない組み合わせかも?なんて思いますがそれぞれがもともと興味を持って学んできたことの土台があって、その上で、最近はこの3人で織りあ
アヴェ・マリアを歌う集い前回まではカッチーニ3回目の今回はシューベルトだよじょうずにうたうことが目的ではないから女性性をこの大地にひろげてゆくことが目的だからアヴェ・マリアを知らなくてもうたうことに自信がなくてもぜひぜひご一緒してほしいの日本でたった2人のコンティニュアムの先生老沼陽子さんのワークで心と体をゆるゆるさせて大内山真紀子さんの癒しの伴奏でうたうの荒井久恵さんは(わたしね)さらに気分よくうたえるようにうたうことをサポートするよご参加い
アヴェ・マリアを歌う集いでしたこの集いの意図はねじょうずにうたうことではなくわたしたちの女性性(マリアさまのエネルギー)をひらき癒し力づけそして母なる日本の大地をも癒すことそのために日本でたった2人のコンティニュアムの先生老沼陽子ちゃんは心と体を緩めるワークをしてくれたりねわたしが指導を担当するうたは自分の感じている限界は思い込みだったりすることを知ったり体やエネルギーのつかい方を知ったりねそして大内山真紀子ちゃんの癒
アヴェ・マリアを歌う集い老沼陽子さん・大内山真紀子さんと開催するよ一緒にうたお♡この集いを立ち上げてくれたようこちゃんは日本でたった2人のコンティニュアムの先生!うたうだけでなくようこちゃんの色とりどりなワークと一緒に声をハートをひろげていこう♡♬イベント詳細会場:東京都品川区荏原4-5-28スクエア荏原第2スタジオ日時:7月21日(土)開場18時,開始18時10分,終了21時(途中休憩あります)参加費:
ハンズオンヒーリング&アルケミー・プラクティスSage&Spiritのふじいひろこです。今日は念願のコンティニュアム・ムーブメントのワークショップに参加してきました。ずーっと参加したかったんだけど、なかなかタイミングが合わず。早めに出たにも関わらず、道に迷いwでも無事に参加できました。身体が緩んだおかげでちゃんとしたブログが書けないのでラフな感じでFBに書きました。念願のコンティニュアムWSに参加してきました。ブログで感想を書こうと思ったけど、全く頭が働かず・
コンティニュアムLabo2017盛夏スペシャルonAUG18th《Part1》WhatisthePain?動きの視点からの『痛み』の探求『痛み』は、いろいろなことを教えてくれる教師、などといわれていますが、本当にそうでしょうか?一過性の痛みであれば、ノドもと過ぎれば・・・、となりがちですし、慢性的な痛みの場合は、肩こりも腰痛も生理痛も偏頭痛も、それが毎度のこととなると、痛みを出来るかぎり意識の端へと追いやり、切り離すことで、日々のあれこれ
雨の降らない関東地方の梅雨と大きな大きな被害の出ている九州地方での雨と各地で起きている地震混乱し続けるまつりごとの世界。俯瞰してみると地球は今も激動の中にあり本当に多くの出来事が起き続けています。わたし個人が出来ることは、祈り、行動し続けること、感謝を忘れずに生きること。個人個人の中にある生きる力と無限の創造性を信じ、見守り続けること、共にここにいること。そして地球に生きる人たちに与えられたギフトのひとつであるコンティニュアム
この花の蕾の色が特別すき。ひとつひとつ花火みたいにひらいてゆく花がかわいいのだよ、というより愛おしい。今朝は、目が覚めた瞬間に「あーしあわせだ。」って感じて、そして身体がブルンと震えた。そしているうちに思考が動きだし、なんでだろ?なんかあったかな?と思いが過去と未来をさまよう。なにも特別なことはなかったし、しなかった。特別じゃなく、このままで、身体が「しあわせ」と言ったんだな。身体くん、ありがとうございます。わたしはなにも持ってはいない、そしてわたし
ゆるやかな、体調の悪さを抜けつつあって、それは老化と名付けられた変化のひとつなのかも知れないし、自分のことをちゃんと扱ってあげていないのかもしれないし、そのいずれでもないかもしれない。無意識のうちに変化に抵抗していたことに気づく。これまでとは違う、新しいなにか、に人は、イヤわたしは、強くあらがう。サプリメントひとつ足したり、または引くことで、驚くほど調子がよくなって、なぁんだ早起きが出来ないのは、自己規律が出来ないからではなくて、単に栄養素が足りていなかっただけなんだ
前橋でのコンティニュアムWS終了して、今日は次のWSの準備と、溜めてしまったメールの返信以外は何もしない日と決め、買ってきた利休まんじゅうとお茶でまったり。駅のおみやげ屋さんなのに保存料や添加物の入っていないお菓子が多くて嬉しさのあまり買ってしまった、ハズレなしの、美味しなつかしい味。群馬は父が生まれ育った土地で、初めてちょっと遠くまで呼んでいただいてWSが出来ることになったのも、土地のエネルギーに共振するものがあった
子供のころからず~っと大人になってからもなぜだかふつうの人たちからはみ出してしまうのでふつうのひとに紛れ込みたかったへんな子といわれるのが嫌だったな。なぜかいつも自分は『異』だったように感じていた。それが思い込みという名のまぼろしだったとしても。それが今やどうだろう。コンティニュアムという名前も意味不明なら実際やってみてもへんてこな普通はしないような動きもするし普段は出さないような不思議な声も出すそんなものにどうしようもなく惹かれている。変人といわれるこ
昨日の夕方コンティニュアム・ムーブメントWSのご案内を、メルマガ読者の方に先行してお知らせしたのですが朝起きたら、満席になってました!メルマガ配信後、13時間・・・正直言って、群馬で「コンティニュアム」を知っている方はほとんどいないと思うのですがそれでもこうして今までの私の発信や講師の陽子さんのブログなどを通じて関心を寄せていただき大切な時間をそこに使おうとお申込みくださったことに心から感動と感謝をしています現在は、キャンセル
年明けから何度となく口にしてきた私が今年やりたいことの1つ「コンティニュアム・ムーブメントWS」が、ついに実現します!コンティニュアムはアメリカで生まれた現代人向けのプラクティスヨガとも違うピラティスとも違う動く瞑想とも言われるコンティニュアムですが私が昨年、初めて体験したときはこのような感じでした↓↓↓和室の、広いお部屋であぐら?のような感じで座ります「あ」「お」「え」などの音(声)を出しながらそれがどのように体の中で広がっていくのかを感じました
☆4/22のコンティニュアムWSはおかげさまで満員御礼となりました。ありがとうございます😊また次回の予定が決まりましたらメルマガ、ブログ、FBで、お知らせいたします。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜忙しい日々のなかわたしたちはともすれば身体のことを愛しむことの少ない日常を送りがちです。どこかに慢性的な凝りや痛みを感じている場合には、身体のその部分を切り離し、不快な感覚を無視、または麻痺させることで日々をやり過ごすことが、身体に染み付いたクセになっ
きのうは文章講座に行ってきました。Facebookもブログも読み手の反応も無反応もなにもかもが恐ろしくて読むのだけを専門にしていた私がコンティニュアムと出会ったことでこれをどうにかして自分の言葉で伝えたい、となったとき越えることになった壁は結構大きかったのです(当人比)。きちんとした文を書かなければわかってもらえるようにうまくお伝えしなければ、という呪いを自分で自分にかけていたんですよね。とくにコンティニュアムでの体験は身体の感覚であり非言語の領域ということもあり
金曜日の夜にサイ・マーというインドの聖人のダルシャンを受けてきました。ダルシャンとは「神の御姿を拝見する」という意味だそう。見事にエネルギーの整えられた部屋の(そういうのは敏感なので分かるんです。)一段高いところにサイ・マーが笑顔で座りその前には長い行列。その最後尾に並びました。ダルシャンもディクシャもこれまで誘われたことはあっても参加したことはありません。その意味もありがたさも全然分かっていなく言葉の意味もこれを書くために調べさっき初めて
新年度以降になりますが私が今年のやると決めてることの一つ【コンティニュアム】動く瞑想とも言われるコンティニュアムは現代人に向けて創られたプラクティス声を出す音による体への響きの違い微細な変化終わった後は温泉から出てきたようまだね私も一度しか体験してないから多くは語れないのですでもこれは情報もやることも日々たくさんな私へのそしてお母さんたちへのギフトになると思ってますだから、月に一度コンティニュアムで自分の体と向き合いながらセルフメンテナンス群馬では
忙しい日々のなかわたしたちはともすれば身体のことを愛しむことの少ない日常を送りがちです。どこかに慢性的な凝りや痛みを感じている場合には、身体のその部分を切り離し、不快な感覚を無視、または麻痺させることで日々をやり過ごすことが、身体に染み付いたクセになっていることもあります。それでもいつでもどんなときも身体は私たちに届くようにメッセージを送っています。身体は、わたしたちがこの人生の中でなにかを思いきり楽しむこと、味わうこと、感じること、
最近は以前だったらそれ出ちゃダメー!と、ストップかけていたなにかがユルユルとゆるんできたためなのかそれとも体力がついたためなのか喜も怒も哀も楽も以前よりずいぶんと色濃く、色あざやかで、強烈。思いもしないタイミングでちょくちょく泣くことになってしかもこれが声出ちゃうくらいの大泣き。悲しくて泣くのではなくてうれしくて感動してありがたくて泣く。
去年の今頃のコンティニュアムの練習会で来年は命を張ってコンティニュアムを伝えていきます。と、わたしは言ったんだった。「いのちをはる」って一体なにをどうしたらいいのかまったく分からないままそんな言葉が口を出た。ずいぶん強い言葉だったな、と今は思う。今年一年命を張るにはほど遠かったけど去年絶望と人間不信と組織の中に消えてなくなってしまいそうだった先の見えない教師認定の道も亡き師匠エミリーとの約束も形にし
メディスンていわゆる「薬」という意味だけでなくてもっと広範な意味があるのですが(気になる方はググッてみてください)腹のそこから笑うことがお互いに笑いあうことが最高のメディスンだ、って感じた夜。身体は心地よくなるし心は通じ合えるしつながりが生まれて壁が消えていく身体のことや心のことや見えない世界のことに長く浸っているとまわりもそんな人ばっかりになってくるからそうでもない人にでもなんだかそんな流れにな
雨が強いから傘をさしてもどうしたって濡れてしまう夜。なんとかして濡れずにやり過ごそうなんて無駄な抵抗はやめて激しい雨音の中に息を止め身体を横たえてみる。雨の激しさを容赦ないまでの激しさを雨の冷たさを息が止まりそうになる冷たさを自分の中でわたしの身体の中で生き生きと生きさせてみる。こんな激しさがこんな容赦のなさがこんな冷たさが自分の中に確かに流れ脈打ち生きていることを感じそのことを認め、受け入れる。
しあわせの秘訣は幸せに感じる方を選択し続けることの一瞬一瞬の積み重ね。それってひどくシンプルな意図でもあり意識的な選択。それでも過去に留まろうとするエネルギーはひどく強力でパターンを手放すまでには色んな人の知恵と力を借りていっぱい愛情をかけてもらってじわじわと、ようやく今の自分。自分として生きるのが最高に楽しいよ最高に幸せだよと、感じることのできる、今の自分。そして生きてる限り、最高は続く。
《12月25日開催コンティニュアム・ムーヴメントWS申し込み受付開始しました!》いまの自分の身体とのつながりに満足していますか?慌ただしい毎日の中でわたしたちはともすれば身体のことを無視した日常を過ごしがちです。どこかに痛みが出るまで身体を酷使したり疲れを自覚しているのに、休息のための時間を取らなかったり胃薬を飲みながらも暴飲暴食を繰り返していたりしている時身体は小さく、それでも私たちに届くようにメッセージを送っています。身体は
最近は毎朝30分くらい早足で歩いている。時間がある日には夕方も同じくらい歩く。雨上がりの朝は土から大地の匂いと白い蒸気が立ちのぼってきてその幻想的な眺めに思わず足が止まることがあるほど初冬の朝は美しいです。そして、なんのために歩いているかというと心拍数が1分間に120回以上ある状態を20分以上続けるといわゆる感情のゴミが燃え始める、と以前学び、自分の身体で試してみて本当にそうだったから。だからファイブリ
人が持っていて自分が持っていないものに対する執着みたいな感情って気づいたらずいぶん手放されている。努力でなんとかなるものならそっちに向かってなんとかしてるんだけどそういう類いのじゃないやつ。死んじゃった家族とか産んでない家族も(ややこしいな。)類稀なる美貌もたぶん(←たぶんじゃないです。)天才的な才能も(これから見出すかもしれないけど)いまここにはないけれどそのことを嘆く気持ちもまた、ない。以前は確かにあったけどいまは、ない。または
コンティニュアムを体験してくれた魂の友たちが書いてくれた文章を読み師匠のエミリー・コンラッドを想う。エミリーが生きていたら、みんなが書く言葉たちを伝えたら、どんなに、喜んだことだろう。人間の持つ無限の可能性を心から信じていた人。傷ついても痛めつけられても愛することをあきらめなかった人。ひとりひとりが創造性を開花させることこそが生きることだと伝え続けた人。コンティニュアム・ムーヴメントがひとりでも多くの人に届くようその一生を捧げた人。
書くことが楽しい。そんなこと以前は思ってもみなかった。ほんの本当にほんの少し前まで私にとって書くことは苦しかった。書くときにはあっちの世界とこっちの世界のちょうど中間のなんにもない空間に糸くずみたいな何かが浮かんでくるのをキャッチしては言葉を紡いでいく。普段考えたり話したりしているときとは少し違うところから言葉たちがやってくるひだとひだの間の普段は気づくことがないどこかにしまわれている言葉がある。書いてあげる、という作業をしないと