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©2010-2018SQUAREENIXCO.,LTD.AllRightsReserved.(戦国IXAWikiより拝借)藤堂高虎(とうどうたかとら)/1556年~1630年★何回も主君を変えた戦国武将と知られ、伊予・今治藩主→伊勢・津藩の初代藩主となる。★”三大築城名手”(黒田如水、加藤清正、藤堂高虎)のひとり。★彼の築城スタイルは、石垣を高く積み上げる堅固な城+”層塔型”といわれるシンプルな天守閣。★海上での戦闘も強かったと云われている
■所在地和歌山県和歌山市1番■遺構天守・櫓・門・石垣・堀・郭■城のタイプ平山城■築城者羽柴秀長・浅野幸長紀州55万5千石にして徳川御三家の紀州藩の居城の和歌山城は天正13年(1585)に羽柴秀長によって築城されました。関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長が37万6千石で入城して現在の遺構の城に改修しました。浅野氏が広島に転封となると元和5年(1619)に徳川頼宣が入封して徳川御三家として、繁栄しました。有名な8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂の二人も将軍を輩出しました。
*12月10日付記事の続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今シリーズのテーマは九州の戦国時代。本日は、根白坂の激闘のおはなしです。あんみつ「先生、豊後府内の本拠地ノド元まで島津勢に侵攻された大友宗麟・義統親子に、関白秀吉から派遣された四国勢が援軍に駆けつけます。軍監(ぐんげん)は仙石秀久ですけど、いっときは四国を統一した長宗我部元親と比べると小者なような」ぜんざい「仙石は秀吉が小身だったころか
所在地兵庫県養父市大屋町夏梅特徴羽柴秀長に3百石で仕えた藤堂高虎が、この地での武功で3千石を加増された。小規模だが尾根に土壇が残り堀切を超えると腰郭の付随した主郭になる。感想山城のミニチュアのようだが、構成要素は全てそろっている。対岸のあゆ公園には、この地が出世の糸口となった高虎の石碑がある。高虎の出生地
JR竹田駅から天空バスで古城山(353.7m)を登り、舗装された道を20分ほど歩き、竹田城跡に到着。竹田城は、播磨守護赤松氏に対する但馬守護山名氏の最前線基地として築城され、1443(永享3)年に完成。山名持豊(宗全)は初代城主に太田垣光景を任命しました。太田垣氏は7代に渡って城主を務めましたが、1577(天正5)年、羽柴秀吉の但馬攻略により、羽柴秀長が城代。竹田城は織田・豊臣の拠点になりました。1580(天正8)年、出石有子山城に入った羽柴秀長は、竹田城を属将の桑山重
2017年11月8日大和郡山城郡山城(こおりやまじょう)は奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となりその領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。ByWikipedia
平成30年(2018年)9月15日(土)、大納言塚に手を合わせた私は、歩いて郡山城址へと向かいました。◇郡山城址大納言塚から北に10分ほど歩き、永慶寺と桜花グランドの間を抜けていくと、その先に、郡山城の南門の跡地が有ります。後述するように、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の側用人(そばようにん)であった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の嫡男柳沢吉里が享保9年(1724年)に甲府藩から郡山藩に移封になり、その後、明治維新まで柳沢家が郡山藩主を務めるのですが、永慶寺は、その柳沢家の菩
平成30年(2018年)9月15日(土)、中宮寺の拝観を終えた私は、JR法隆寺駅からJR大和路線に乗り、JR郡山駅へ向かいました。◇郡山八幡神社JR郡山駅西口から県道144号線を西に歩いて行き、柳町商店街にぶつかったら左折し、柳町商店街を南に歩いて行くと、郡山八幡神社の鳥居が見えます。(郡山八幡神社/鳥居)鳥居を潜り、参道を歩いていると、右手に社殿があります。(郡山八幡神社/社殿)郡山八幡神社の公式サイトに記載された神社の由緒によると、第45代聖武
こんにちは、城跡で日本を元気にする「城跡地域活性活用専門アドバイザー」であり「日本マイナー歴史研究専門家」の原一六四(ひろし)です。本日は、「お城を知ろう!!」シリーズです。今回の、「お城を知ろう!!」は天空の城竹田城です。竹田城と言えば、天空の城と呼ばれ、雲海の中に、石垣などが出て、その景観は絶景であることで大人気の城である。城好きならずとも訪れたい場所です。別名「虎臥城」と呼ばれ、その外観が虎が伏せているよなところからきています。そんな竹田城は、元々は
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このお話の始まりはコチラ前回のお話はコチラしばしの間の笑みを浮かべながら秀吉と秀長そして一豊は、羊羮の甘味を楽しんだ後に、秀長は自らのこれからについてを口にした。『して、兄じゃよ。伊勢に向かえと先程は言うておったが、それは信雄様の対策をしろと言う事だと考えて良いのじゃな?』伊勢は現在の織田信雄の領土であり、家康と共に対羽柴の戦に立ったとはいえ、本領を攻められれば、信雄は徳川と共に戦をする事に集中出来なくなる。それが、秀吉の狙いで秀長に伊勢を押さえろと命じたであろう
このお話の始まりはコチラ前回のお話はコチラ『兄じゃ~!羽黒に進行しておった長可殿が、徳川の酒井勢に攻められて撤退となり申した!』大坂城内の一室にて秀吉と山内一豊が話をしている所へ、いきなり襖をあけて入室して来て、動揺をしながら大声で話しかける秀長の姿がそこにあった。『織田信雄、徳川連合軍』との戦における状況で、自軍が不利との報告を大急ぎで伝えに走って来て、息をきらせて大声を上げた為に、しばし秀吉達の前で立ちすくんで息を整える秀長であった。そんな秀長の報告を聞いた
大和郡山市のお城まつりに行ってきました。郡山城跡で行われる桜の咲く時期に行われるお祭りのことです。近くに住んでいたのでずっと行きたいなぁ~、と思っていました。やっと念願が叶いました。手帳に今年やりたいことリストを作っているので、そのお陰かもしれません!(^-^)ちょうど桜が満開できれいでした!!そもそも郡山城って知っていますか?Wikipediaより郡山城(こおりやまじょう)は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった
姫路が生んだ名軍師【黒田官兵衛ゆかりの地めぐりシリーズ】(過去記事はこちら⇒黒田官兵衛ゆかりの地(目次))羽柴秀長は豊臣政権の政治ナンバー2そして黒田官兵衛は豊臣政権の軍事ナンバー2この2人が秀吉を支えるところ大でありましょうし、当然ながら黒田官兵衛と羽柴秀長の関係も濃厚だったはずです。【軍師官兵衛】でも羽柴秀長は自分が死んだ後の豊臣政権を案じつつ黒田官兵衛に託す場面がありました。さて今回は!羽柴秀長のゆかりの地をめぐって行きます
金魚鉢の公衆電話があるって知らなくて知ってたら探していたんやけどね、まあそれはいつかまた生きていればまた来る機会もあろう。JETさんファミリー&すてれんきょさんと合流するためさるるは観光速度をup!派手さはないが味のある観光地大和郡山市♪レンタルサイクルを走らせるとき「発進、ラーカイラム!」とつぶやいてしまう。きっと老後も言うてると思う。マップを見ながらエリア88の【マップ】を思い出していた。まあ観光とは全く関係ない、さ
【黒田官兵衛ゆかりの地シリーズ】(過去記事はこちら⇒黒田官兵衛ゆかりの地(目次))秀吉の異兄弟豊臣政権№2の羽柴秀長秀吉が天下統一すると暴君へと変貌していきますがそれを制止できるのは当時、羽柴秀長ぐらいだったと伝わっています。政権の調整役でありナンバー2の地位でした。110万石という広大な領地は奈良県郡山市に位置します。「これはいつか行かなければ!」と思っていた歴史ヒストリアでした。郡山城(試合会場のすぐ横でした。)
春の足音、梅ほころぶ京都・城陽青谷で「まつり」京都新聞香りが高い大粒の品種「城州白」などを約20ヘクタールで作っている。梅まつりは市観光協会やJA京都やましろなどでつくる実行委員会が主催している。ほとんどの木はまだつぼみのままだが、ここ数日の陽気で紅梅や日だまりの白梅はほころび始めた。会場や梅林を縫う散策道では、軽食のほか梅干しや梅の枝などが販売...天守閣パネルで再現柳川城跡読売新聞柳川市本城町の柳川城跡に24日、約100枚のパネルに描かれた天守閣が現れ、城下町を訪れた
中山城(美方郡香美町村岡区福岡字中井)中山城は福岡集落南西、北流する大野川と大谷川に挟まれた舌状丘陵の標高444mに所在する。城域は東西約25m・南北約300mで、山麓との比高は約100mを測る。弘安八年(1285)の「但馬国太田文」では、長講堂領菟束庄の下司は菟束左衛門入道道恵であった。貞和年間(1345~50)に奈良東大寺領播磨国大部庄(現小野市)に攻め入った播磨・但馬・美作の悪党の中に「菟束左近入道子息等(但馬住人)」の名がみえる(「大部庄悪党交名注文」東大寺文書)。菟束こ庄域と想定さ
うっちーこと宇都宮芳綱です1-32で貴久さんが合戦後に★5LV20になったので、限界突破させることにしました秀長さんは素材として育成してたとはいえ、★5までなったのを溶かすのは何だか忍びありませんが、限界突破のために生贄になってもらいましたグッジョブ♪('-^*)/んで、今現在はグッジョブ♪('-^*)/スキルが弓にも対応していると、空き地凸で利便性が高まるのですが、とりあえずはこれで限界突破の
広島城から次は南に下がり赤木城へ行ってきました。台風21号の前日で生憎の雨☔️せっかくの休日も休めず。強行突破(笑)赤木城は三重県の南部の方にありなかなか交通が不便な所であり車がないとなかなか行けない所です。【赤木城】築城1588年藤堂高虎廃城不明城郭山城天守閣なし赤木城はあまり歴史に残されておらず、北山一揆の監視した城としかない。1585年羽柴秀吉による紀州征伐が終わり弟羽柴秀長に紀伊と和泉の64万石を与えた。1586年に太閤検地が始まりそれに反発
今日の1冊は、「天下を謀る上」安部龍太郎著新潮文庫です築城の名手と言われるのは、藤堂高虎、黒田孝高、加藤清正の3人です四国で訪れた「今治城」は、高虎の城で、今回は行きませんでしたが、「宇和島城」「伊予大洲城」も高虎によるものです黒田孝高、加藤清正は、なんとなく知ってるんですが、藤堂高虎は、名前しか知りません(*_*)それで、高虎主人公の小説を探しました概要を掴むには、小説でいいと思っていますまだ、上巻も読み終えていませんが、浅井長政、羽柴秀長、徳川家康に仕
近々三重に行く予定なので、ついでに築城の名人・藤堂高虎の史跡めぐりをしようと、高虎を描いた小説を図書館でかりました。想定外こんなに分厚いのぉ~Σ(゚д゚;)しかも上下巻あるし~(;´▽`A``本を受け取った瞬間、思わず苦笑いですよ(笑)大河ドラマなんかには、全くといっていいほど出てこないから歴史好きじゃない限り、「誰、それ?」(・・;)って状態だと思います(笑)藤堂高虎は、信長・秀吉・家康が活躍した戦国時代の三大築城名人のひとりです身長約19
岩州城(朝来市岩津)山口集落南東の標高469mの山頂に所在する。この城は、山頂に主郭を含む四郭を並べ、北西に延びる尾根に三郭を配した単純な縄張りである。見るべきものは、山頂の幅の広い土塁と北西尾根を遮断している二重の堀切+堅堀である。二重の堀切+堅堀以外は、戦国期にあまり改修されていないようである。天正5年(1577)、羽柴秀長の但馬攻めの際、落城し、前野長康が入城したとされているが(武功夜話)、城が改修されている形跡はない。北西十八郭北西十七郭北西十六郭北西十五郭北西二重堀切(北西
出石城・有子山城が続日本100名城に認定!おめでとうございます(^.^)登城したくなって、ウズウズしている日本史が好きな店長、今西康喜です。そこで、有子山城ゆかりの武将をご紹介!羽柴秀吉の弟で、但馬を平定した「羽柴秀長」山名氏の本拠地「有子山城」を落城させ、城主となりました。その時に配下の「藤堂高虎」が石垣を築いて改修しております。羽柴秀長といえば、印象に残っているのが「高嶋政伸」さんNHK大河ドラマ「秀吉」で活躍してましたね~♪主役の秀吉役は「竹中直人」さん。鼻水を垂らして
伊賀上野城に行った時の画像メモが出てきたので、整理の意味でアップしておきます。藤堂高虎の出世の様子です。0歳弘治二年(1556年)近州犬上郡藤堂村生れ15歳姉川の戦い初陣その後浪人生活20歳天正4年1576年羽柴秀長(秀吉の弟)長浜城主に三百石で召抱え、但馬征伐で活躍➡︎三千石加増一色久芳の娘と結婚29歳天正13年1585年、秀長、大和郡山城百万石大名になり、高虎も一万石大名、31歳天正15年1587年、紀州一
ゴンママは「歴女や❗」って勝手に名乗ってますが、歴史のお勉強を始めてまだ1年なので、ユルユルの記事しか書けません(^_^;)なので、皆さんゴンママの歴史記事を読んで、お腹を壊さないでねーーー(^o^)vさて、2日日曜日、大和郡山お城まつりに行って来ました。例年ならパンフレット⬆の様な満開の桜が見られるようですが、今年は、まだ三分~五分咲きってとこかなぁ~?(-_-;)大和郡山城は桜の名所として、日本さくら名所100選にも選定されています。大和郡山城は筒井順慶によって築城されました。そ
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城山城(美方郡香美町小代区忠宮字広瀬・大谷字段の平)城山城は大谷集落の南側、小代谷を北流する矢田川と久須部川に挟まれた、標高396mの山上に所在する。山麓との比高は約150mある。城域は東西約510m・南北約500mを測る。『七美郡誌稿』によると、城主は初め朝倉氏、次いで八木氏・田公氏と替わったとするが、確証はない。同書によると、天正五年(1577)10月、羽柴秀長の但馬攻めに際して藤堂高虎は小代一揆平定を命じられ、小代勢は当城で藤堂軍を迎え撃っている。城主田公綱典(秋庭)は因幡に逃走するが
坂本城(養父市八鹿町坂本字城山)坂本城は円山川と岩崎川・大江川との合流点、坂本集落南側の独立丘陵、標高153.8mに所在する。集落との比高は約120mほどある。城域は東西約250m、南北約50mを測る。城主は橋本兵庫という。「中島家系図」(中島喜右衛門氏所蔵)の伝承によれば、中島氏は阿波国細川氏の家臣三好氏の出で、摂津国中島城主中島主膳(宗安)の三男安継が永禄(1558~69)末逃れて但馬に移り、「出石城主山名氏召抱ノ後、坂本ニ小城築、並ニ大江小高ニ居住ス」と記されている。その中島安継が橋本
浅間城(養父市八鹿町浅間字四田谷)浅間城は円山川の支流浅間川左岸、浅間集落南側の尾根突端、標高約131.5m地点に所在する。集落との比高は約100m。城域は東西約100m、南北約160mを測る。城の西側、一つ谷を隔てた所に浅間小城がある。城主は佐々木氏と考えられる。「浅間佐々木家系図」によれば、佐々木近江守(義高)は天正の頃当地(浅間)に下り、「三百三拾石横領、居城を築き、山名氏政に属した」という。さらに『掃部狼婦物語』によれば、佐々木義高は天正5年(1577)、羽柴秀長の第一次但馬進攻の時