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空手道の源流は琉球(現在の沖縄)にあります。当時中国から琉球に伝わった中国拳法が独自の発展を遂げ、「手(てぃー)」と呼ばれる琉球拳法と融合。それが「唐手(とぅーでぃー)」と呼ばれるカラテの原型になったとされています。「唐手」とは中国から伝来したことを指し、後に本土へ渡った際に「徒手空拳」を意味する「空手」となりました。また、「空」という字は、般若心経にある「"空"の思想」を意味するともされているそうです。そんな琉球から伝わった空手ですが、全空連の大会で沖縄県勢はあまり活躍している姿を見ま
現代空手初心者の頃、指導者に、「組手ばかり稽古する者より、形をしっかり稽古する者の方が、最終的には強くなる。」なんて言われました。大嘘です!組手で強くなって形で弱くなる。組手で居着かなくなって、形で居着く。形をやればやるほど弱くなる。これは言い過ぎですが、強くなるためには、組手を稽古すべきです。現代競技空手の形試合は、芸術点を競うものであり、それはそれで素晴らしいですが、居着いて技を出す以上、居着かない人には遅れをとります。江戸時代の沖縄空手も、現実的に
現代空手初心者の頃。高校の空手部に入部して、道場にも通い始めたころ。もう、50年近く前ですね。正確には、48年前です。おお!もう半世紀近く、空手に足を突っ込んでるんだ?さて、現代空手初心者の頃、指導者に、「組手ばかり稽古する者より、形をしっかり稽古する者の方が、最終的には強くなる。」なんて言われました。良く聴く話ですね?大嘘でしたね!現代空手では、形と組手は別物です。組手で強くなって形で弱くなる。組手で居着かなくなって、形で居着く。形をやればやるほど弱く
平安シリーズは、初動で左右に半々で落ちます。首里は左から。初段と四段が、落ちる時に、交叉法で両手が跳ね上がります。二段と三段と五段は、左向きで掴まれた状態で落ちながら、左手にトルクをかけて、掴まれた左手で相手をコントロールします。さて、平安五段は、平安シリーズの中では、ちょっと特殊な形です。好き嫌いが分かれる形でもあります。しかし、緑帯(四級)の指定形になったので、避けて通れなくなりました。順番を覚えて審査を乗り切るだけじゃなく、組手が強くなるための稽古に使ってしまいましょう
沖縄空手道無想会の4級(緑帯)の指定形が、アメリカ合衆国本部道場に準じて、平安(ピンアン)五段になりました。長い間、間違えて覚えていた形です。開始位置に戻らない形なのに、王師の形と旧羅漢の形と勘違いして、一回転して、開始位置に戻ってきてしまっていました。『今度は五段が出来ない』体調不良で、研究室での筋トレを休んでいましたが、今日から再開。形の稽古も再開。王師の形に迷いが出て、レシピを見直したりしましたが、ことちらは、何とかクリア。…ameblo.jp『違和感の正体(猿臂
ブライアン四段は、全ての身体操作に、トルクをかけている。ブライアン四段は、開く時は常に、大腰筋で持ち上げて落ちている。ブライアン四段にとっては、当たり前の事が、我々、日本の弟子の課題なわけですね。沖縄空手の身体操作が、できるようになると、身体内で歩くことができるようになるということです。身体内で歩くとは、ガマクの掛け外しを使って、動歩行すると見せかけて、実は静歩行したり、静歩行すると見せかけて、突然動歩行に変えたり、を自由自在に行うことですぞ。大腰筋で持
ずうっと昔のブログをリメイクしたのが、この記事です。『脚の付け根で身体を折ると強くなり折れると弱くなる』今回のタイトルは少し長くなりました。短くすると「肢で立って脚を使う」になります。でも、これは余りにも哲学的暗喩風なので理解不能になるので、長いタイトルになりま…ameblo.jp沖縄空手の立ち方は、一つだけ。ナイファンチ立ちのみです。現代空手のたくさんある立ち方は、ナイファンチ立ちの変化の瞬間を切りとって生まれました。掴んで腰を割って、後屈立ち。脚を引いて、前屈立ち
平安(ピンアン)の形の重要性に気付き、手を抜かずに稽古しようと思って、何故か、平安五段に違和感を覚えて、演武が止まってしまいました。そして、第9回東京セミナーの1日目、2015(平成27)年11月のセミナーの映像で確認しました。そうしたら、平安五段は、実は、一回転してなかった。左手を前に出して、そこに右足をパッチンしたら、右足一歩前で左を向いてそのまま猿臂(裏拳も?)でした。そう言えば、他に一回転する形は無かったかしら?と思って、16枚の形短冊を一通り演武してみ
平安(ピンアン)の形の重要性に気付き、手を抜かずに稽古しようと思って、何故か、平安五段に違和感を覚えて、演武が止まってしまいました。『今度は五段が出来ない』体調不良で、研究室での筋トレを休んでいましたが、今日から再開。形の稽古も再開。王師の形に迷いが出て、レシピを見直したりしましたが、ことちらは、何とかクリア。…ameblo.jpそして、他流派の動画と教科書で確認。あ!一回転したら猿臂だ!猿臂と裏拳が抜けてたこれが、違和感の正体でした。『違和感の正体(猿臂と
平安(ピンアン)の形の重要性に気付き、手を抜かずに稽古しようと思って、何故か、平安五段に違和感を覚えて、演武が止まってしまいました。『今度は五段が出来ない』体調不良で、研究室での筋トレを休んでいましたが、今日から再開。形の稽古も再開。王師の形に迷いが出て、レシピを見直したりしましたが、ことちらは、何とかクリア。…ameblo.jpそして、なんで思いつかなかったのだろう?動画で確認すればいいんだ。そして、他流派の動画で確認。もちろん、糸洲安恒(1831~1916)先生
今野敏著「義珍の拳」という小説を読んだ。日本本土に空手を伝えた船越義珍について書かれた小説だ。あくまでも小説であり、伝記でもなく歴史書でもないと意識しながら読んだ。この小説に書かれていることに大きな誤りがないものとするという大前提に立てば、空手について知らないことがたくさんあった。例えば、琉球時代、明治時代の初めころは空手は個人レッスン(他の弟子も同席しない)の形で教えられていたこと。必要に応じて、異なる師から指導を受け、流派というような閉鎖性がなかったこと(これは
著者は、自ら沖縄少林流の空手道場「今野塾」を主宰し空手の"型"に秘められた伝統の沖縄空手の技法を追求し、指導している。他の作品にも、空手や柔術などを取り入れた描写が見られ武術に対する造詣の深さが伺える。そんな著者が、松濤館流空手道の開祖である船越義珍(1868~1957)の生涯を小説化したのが本作。琉球の士族の家系に生まれた船越は沖縄の伝統武術である"手"(ティー)を習得したのちその普及のため大正末期に本土に持ち込んだ。戦
義珍が一番最初に師匠の安里安恒から教わった形は「ナイファンチ」(鉄騎)そして『入門してから3年間「ナイファンチ」しか教わらなかった』だが、義珍はそれを不満に思ったりはしなかった。彼は幼い頃病弱だったので、運動などした事もなく、頑強な体など諦めていた。それが信じられないくらいに健康になり、筋骨もたくましくなった💪『下半身が石の土台のようにしっかりとしてきた』と言う。健康になり、頑強になり、なおかつナイファンチが思うようにできるようになる。そのこと自体が義珍
先日の拳王杯。”全日本日式散打選手権大会”そこで今回特別公開されたのが三木の面でした。この面は、約90年前、東京帝国大学(現東大)の唐手研究会の三木氏が当時の指導者「船越義珍(富名腰義珍)」の型指導に飽き足らず、実打撃試合を実現するために制作したもの。昨年、廣瀬実行委員長(宗師範)の元に継承された。このエピソードについては、今大会の審判及び、演武を務められた作家で今野塾塾長、今野敏著作の「義珍の拳」にも触れられている。「義珍が戒めたにもかかわらず、東大生たちは、防具の工
「義珍の拳」読みました。今野敏の唐手シリーズ小説を読んだのは「武士猿」「チャンミーグワー」に次いで3作目。これが一番面白く読めましたね。船越義珍の指導者としての苦悩と悲哀。私(渡邉)も一応指導者の端くれですので、ものすごく共感、というか感情移入して読めました。と同時に、我が師東塾長も、私らに対してきっと同じような思いなんだろうなぁ、、、と。出来の悪い弟子ですみません。押忍。
FBFというか、BLOGFの強力な薦めがあり、読み始めた「義珍の拳」なんと、興味深いのだ!!と、大変面白く読了した。中学の時に地元道場(剛柔流と少林寺を修めた師範の道場)で空手を始め、高校受験のため辞めた後、その後大学時代は大阪市内の町の道場に通っていた。(正確には糸東流創始者の摩文仁先生の高弟であった広川先生の開いた塾である凛塾)大学を卒業し、東京に戻った後は広川先生と同様の道場を探しても見つからず、空手はあきらめて、しばらくはオフロードバイク競技に打ち込んで