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久末義民地蔵尊・現在は妙法寺(2体)と大谷戸地区(1体)が祀られている。久末義民地蔵物語(地元民話)・1693年の検地により石高が229石から329石に大幅に増やされた。・村民は、不作と過酷な年貢で餓死線上に至る。そこで、領主旗本の佐橋内蔵助佳純の江戸屋敷に4回計20人が嘆願に向かうが村に戻らない。唯一生還した村民によれば、皆は牢屋で餓死させられたという(20人中19人殺害)。・後に佐橋氏は反省し、年貢は引き下げられる。しかし、当時の名主は追放(処刑とも)。一方で、佐橋本人はお
おはようございます♪昨日のことをちょっと忘備録として書いておきます。昨日は雨もやんでちょっくら招かれし場所へ。まずは紫陽花が綺麗ということで千葉県内の宗吾霊堂へ行ってきました。【宗吾霊堂】〜ネットより〜正式名は鳴鐘山東勝寺[めいしょうざんとうしょうじ]で、桓武天皇の時代(781~806)創建の真言宗豊山派の古刹。江戸初期、重税に苦しむ農民のために立ち上がった義民・佐倉宗吾[さくらそうご]、本名木内惣五郎[きうちそうごろう]の菩提寺として知られる。江戸時代初期、4代将軍徳川家
佐倉惣五郎は「佐倉宗吾」とも呼ばれ、本名は木内惣五郎だという。江戸時代に下総国(現在の千葉県成田市)の名主で、重税に苦しむ農民のために将軍に直訴し、処刑された義民伝説で知られる。佐倉惣五郎について、拙著で以下のように書いた。◆◆◆9月初旬に、公太郎は日本を発った。長期滞在を覚悟の〝旅立ち〟だ。思えば、この業界に入って以来、〝旅立ち〟は常に9月だった。協和外語学院の専任就任に始まり、太平国際学院への転職、藤邑語学院への転職、そして、今回で
阿武川の流れを見守るようにお地蔵様が鎮座されています。今回は2回目(40年ぶり)です。45年くらい前かな?トヨタオートかトヨタカローラ?のCMで流れていましたね。「ふるさとの川を美しく!平助、権太は今も川の流れを見守っています。」二人の義民が川上の村を救ったという話です。詳しくはこちら⇒クリック(2024.06.17撮影)
京都・伏見の町歩き、紆余曲折を経て御香宮のお話に戻ってきました(実際に何度も足を運んだわけではありませんが…)。ということで、こちら改めて、御香宮神社でございます。当社は通称「ごこんさん」として古くより地域の人々から親しみをもって呼ばれ、旧伏見町一帯の氏神として信仰を集めている。創建時は不詳であるが、御香宮縁起(三巻)によれば、貞観4年(862)9月9日御諸神社境内より「香」のよい水が湧出する奇瑞により、御香宮の名を清和天皇より賜ったとされている。しかし香椎宮編年記(香椎宮蔵)によれば弘仁
将軍に直訴した義民・佐倉惣五郎と同じく、我が信州には「加助騒動」の中心人物義民・中萱嘉助(多田加助)がいた。この際、ぜひぜひお見知り願わしゅう!教科書は、「藩領全域におよぶ全藩一揆(惣百姓一揆)には、たとえば1686(貞享3)年の信濃松本藩の加助騒動があげられる」と記載される。加助騒動はこの年の秋、藩から突然前年を上回る過酷な年貢取り立てのお触れが領内に出たことに端を発した。これに異議を唱え先頭に立って軽減を訴えたのが中萱村(現我が安曇野市)庄屋の多田加助であった。加助に賛
逆井城を後にして、千葉県成田へ。このところすっかり、まったく忘れていた義民として名高い佐倉宗吾郎(木内宗吾郎)の史跡を訪ねた。因みに我が地元の信州安曇野市には、宗吾郎と同じく義民として教科書に載る「中萱嘉助(多田加助)」を祀る加助神社がある。教科書には、嘉助は総百姓一揆の代表として、松本藩の百姓一万人の先頭に立ち、松本城へ窮状を訴え年貢の減免を要求した義民として載る。しかしさすが義民といえば佐倉宗吾郎!成田の史跡は嘉助の比ではなかった。宗吾郎は「代表越訴型一揆」の時代の義民と
旧佐倉藩の英雄(義民)の佐倉惣五郎の御霊を慰めるためのお祭りが、御待夜祭(おたいやさい)としてやはり4年ぶりに通常開催されました。今日が命日。屋台の曳き廻しや盆踊りを見るには時間が合わないので、霊堂周辺に「所狭しと並ぶ~」という触れ込みの露店を見学に、散歩がてら行ってみました。おお~、普段の霊堂とは違う。引っ越してきてすぐの4年前、月一の朝市があると知って、楽しみに出かけたら、残念な(寂しい)門前~だったので、さほど期待せずに行ったのですが、
6月9日にアジサイ観賞に訪れました千葉県成田市にあります「宗吾霊堂」。同寺では6月4日から25日までの間、「紫陽花まつり」が開催中で私も訪れたところです。『2023あじさい物語(^^)v「宗吾霊堂」@千葉県成田市』今回は旬ネタを挿入(^^)v訪れましたのは千葉県成田市にあります「宗吾霊堂」の紫陽花まつり👇なおこの「宗吾霊堂紫陽花まつり」拝観、駐車場とも無料です宗吾霊堂…ameblo.jpそしてこの寺院、「宗吾霊堂」という名称で知られていますが正式な名称は真言宗豊山派「東勝寺」。開創年代等
昨日、この存在を知って先程読んだのですもぉ〜ね、涙がとまらんわ胸が苦しくてつい、我が子やったらとか考えて勝手にまた泣く何回も、感謝した【命はいらない、水をくれ】400年前の鳴尾村のお話村の存続のために、命を賭した13歳の男の子や他の方々の思い・願い豊かになりましたよ、現代は。先人達が命を賭けて後世に繋ぎ残してくれたもののおかげで私達は何不自由なくさまざまな恩恵を受けておりますよ有難過ぎるのとこの想いを忘れたくないのと私も、後世のために命を賭けて尽力したい〜
日野から両国に移動して。五十嵐かいとが出演する「義民」を観てきました。江戸時代、圧政に苦しむ農民が抗う話。ストーリーが良いのに、色々もったいない。台詞に現代語が混ざっていたり。草履のまま部屋へ上がったり、脱いで上がったり統一感がない。あと侍役の着くずれがひどい😭。日野でキレイな所作の皆さんを見てたから、余計に気になった。実に残念😢旗揚げ公演とはいえ、もうちょっとなんとかして欲しかった。かいとが一番ちゃんとしていたなぁ。さすがアイドル。動きや見せ方がとてもキレイでした。あと
こんばんは。県会議員の大前はるよです。今日は鳴尾北郷義民追悼会に参列させていただきました。皆さんは鳴尾の義民をご存知でしょうか?今から400年ほど前に、当時の鳴尾村を干ばつから救うため、25人の村民が命をかけて水を獲得した西宮・鳴尾地域の歴史です。鳴尾の義民前回に続き西宮に伝わる命を懸けた水の獲得争いの「鳴尾の義民」のお話です。武庫川の流れは長い間戸崎町から分流した枝川が流れていましたが、大正12(1923)年に枝川樋門が閉じられ枝川の跡は現在の甲子園筋となっています。この話は旧
東海道、旧宇頭茶屋村の明治天皇御駐蹕之所から少し西へ進むと、旧大浜茶屋村に入り永安寺という禅寺の前に。その門前に、枝を広く延ばした松の木が。↓“雲竜の松”と呼ばれているそうだ。江戸時代前期、ここ大浜茶屋村の庄屋・柴田助太夫は、村の困窮を理由に東海道の輸送の為の人馬を用意する“助郷役”(すけごうやく)の免除を願い出たという。刈谷藩は、柴田助太夫を死罪としたが、助郷免除の願いは叶えられ、それは幕末まで続いたとか。そんな義民・柴田助太夫の家の跡に建てられたのが、この永安寺。雲竜の
牛久助郷一揆の義民が永眠する上小池共同墓地先日、所用で上小池地区に出向いた折、上小池共同墓地にある牛久助郷一揆の「義民」である「小池村・勇七」と「小池村・吉十郎」の墓地を見て来ました。阿見町近世史上きわめて重要な「牛久助郷一揆」の義民を顕彰する「碑文」も、だんだん文字も薄れて読みづらくなってきました。修復が必要ですね。訪ねる方々のために、以下に全文を掲出しておきました。「牛久助郷一揆の義民が永眠する上小池共同墓地江戸時代も後期に入る文化元年(1804年)十月十七
善慶寺「新井宿義民六人衆」の墓所にお参りして、その後、新井宿富士講碑を見学してきました。善慶寺参道入口にりっぱな法灯があります。善慶寺本堂参拝m(__)m大田区山王新井宿義民六人衆の墓参拝m(__)m東京都指定文化財1673年(延宝元年)の干ばつと翌年の多摩川の氾らんによる洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主に年貢の減免を願い出たが認められなかった。各地で農民一揆が起こった頃で、過酷な年貢の取り立てに耐えかねた新井宿村の農民は幕府に直訴す
館林には息子の家があり、行く機会が増えました。館林から太田よりの日向という地区にこんな地蔵尊があります。ご由緒の説明を写しておきます。説明・指定年月日昭和62年8月7日・所在館林市日向町甲1025番地・時代江戸時代寛文元年(1661)徳川三代将軍家光の第四子である徳川綱吉が25万石で館林城主になった。このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領までに及んだ。綱吉は、寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地
公約違反は嘘の積み重ねと見られ、説明責任果たさず、悪びれる風もない一昨日栢木市長が出席した「元気な野洲まちづくりトーク」について書きました。すると、平気で嘘をつくことが政治だと勘違いしているのではという感想が寄せられました。市長が、野洲市では過去には行政改革しか行われていなくて、財政改革はされていなかった。今後は行財政改革を進めると話した。このことは、過去のことも調べず、認識が甘いからだと思っていました。しかし、そのことを嘘と受け取ることも、言われてみれば納得できます。たしかに、看板公
ご来読、有難うございます。日本橋行政書士あおき法務事務所、たぶん所長の青木です。本日は大安吉日の紀元節お日柄も良く、建国記念日に義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)のゆかりの地へ。文字通り命を懸けて、いや領民の為に命を捧げた義民・木内惣五郎(佐倉宗吾)広大な敷地の宗吾霊。みなさんも、木内宗吾の認識がなくても、一度は耳した事があるお話。福沢諭吉さんの「学問のすすめ」にも出てきますね。佐倉出身の長嶋茂雄さんも、尊敬していますね。佐倉義民伝という歌舞伎の演目にもなり、大物歌舞伎俳優も訪れるとか
【1月23日(土)】今週末は雨模様なので山城攻めはお休みです。なので1月16日(土)から始まった、みき歴史資料館企画展「三木町の地子免除特権と義民の『記憶』」を観覧してきました。①歴史資料館は三木城二の丸跡に所在。②三木市立みき歴史資料館③企画展パンフレット(表)③同(裏)⑤三木義民所縁の本要寺
私、原付き運転中に車に巻き込まれましてん。急に軽自動車が左折して、回転寿司の駐車場へ入ろうとして、サイドミラー見てなかったのか、巻き込まれましてん。秒で左折するオバアと言う、与沢翼的な生き物に巻き込まれましてん。その後、警察が来るまでの間、俺『ウインカー出して無かったよね?』おばさん『えー出してましたよぉおお』同乗者の人相が意地悪そうなおばあちゃんへ同意を求めると、『うんうん』みたいに頷く。俺(うさんくせ〜、そもそもおばあちゃん同乗者やし、運転免許すら持
はい、それでは昨日オカンの故郷の福井県は上中町の“熊川宿”そして「松木神社」へ行った時の模様を紹介していきたいと思います。朝の6時頃から京都市内を出発して、滋賀県は湖西の国道161号線をひたすら北上今津で国道303号線へとスイッチして、滋賀県から福井方面へ向かい福井県は上中町若狭町へと入って直ぐにさすが県境だ、すぐに昔の関所があるぜ。余談になるのですが、上で「上中町」と書いて横線で消しているのですが「上中町」の名称は2005年に町村合
2020年10月25日第361回例会久住から宗吾霊堂へに2人組で参加しました。8ヶ月振りの東葛の例会です。スタートの久住駅、自宅から車でゴールの宗吾参道駅近くのパーキングへ。宗吾参道駅から京成線で成田駅、JRに乗り換えて、久住駅へ。久住駅をスタート、西和泉橋を渡ります。のどかな風景、コスモスも良い感じ♪大室街道、成田空港を離陸する飛行機。成田線踏切、成田方面に向かう列車。刈られた稲が干されてます。成田方面からの貴重な列車。新妻橋を渡り、目印の伊藤平兵衛商店を
若狭方面へ遠征するときはびわ湖国の高島市から国道303号をよく使用する。いつも熊川宿は横目でチラ見するだけで、この度初めて熊川城を攻めるにあたって熊川宿にお立寄り。熊川宿は福井県三方上中郡若狭にある若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場。若狭町熊川宿伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。熊川城から無事に下山し白石神社の参道を戻ります。天正17年(1589)に小浜城主・浅野長政(長吉)(豊臣政権五奉行筆頭)が近江と若狭を結ぶ鯖街道(若狭街
善慶寺「新井宿義民六人衆」の墓所にお参りしてきました。参道入口にりっぱな法灯があります。善慶寺本堂参拝m(__)m大田区山王新井宿義民六人衆の墓参拝m(__)m東京都指定文化財1673年(延宝元年)の干ばつと翌年の多摩川の氾らんによる洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主に年貢の減免を願い出たが認められなかった。各地で農民一揆が起こった頃で、過酷な年貢の取り立てに耐えかねた新井宿村の農民は幕府に直訴することにし、1676年(延宝4年)の正月、
市民ミュージアム収蔵品3万点被災免れる紙作品を冷凍保管東京新聞国立文化財機構を通じて、これまでに延べ約二百五十人の専門家が支援。古文書や漫画の原画などの紙作品、映画フィルムなど劣化が進みやすいもの、文化財...福井市脇三ケ町にある青木蘭麝堂の…福井新聞【越山若水】福井市脇三ケ町にある青木蘭麝(らんじゃ)堂の酒蔵など3棟が国の登録有形文化財に答申された。昨年は庭園が市文化財、今春には巨木が市天然...東京国立博物館、恒例の正月企画「博物館に初もうで」を2020年1月2
「鶴瓶の家族に乾杯!」でキムラ緑子さんがあった高校生たちとのふれあいの中で義民・小栗山喜四郎の話がありました。百姓一揆で打ち首になった義民たちのお芝居を高校生たち地元の子が演じて、大変話題になってるとのこと。緑子さんも、熱い演技に涙ぐんでおられました。なので、南会津町へ行ったらお参りしたいと思っていました。南会津町の中心地は旧田島町で江戸時代、南会津郡役所がおかれていました。受付の女性が、丁寧に色々説明してくださいました。綺麗な刺繍、ボタンも紋章入
ごきげんよう。先日、行った千葉旅行2日目のことです。先ず始めに私と彼は鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂様へ参拝しました。私達は宗吾参道駅から歩いて行きましたが、宗吾霊堂様の少し手前にある郵便局から荷物を送りました。以前は送り主と届け先が同じ場合は、同上で良かったはずなのですが、今回はちゃんと記入するように言われました。内容も衣類と書いたところ、局員さんから『他には?』と言われて書き足しました。すると『厳しくなったので、出来るだけ詳細に記入して下さい。』とまた言われて、書き足しました。ちょっとイラッとしまし
宮本常一著「山と日本人」に次のようなことが書かれてある。【石鎚山系山中にある大保木の民が領主に強い抵抗を試みて、男子は皆殺し同様になった。その後、寛文四年(1664年)に又、村の有志六人が領主に殺されている。理由はわからないが領主に抵抗したとみられる。このように、この村は度々領主の弾圧をうけて、次第に温和になっているが、もとは強烈な血を持った人々の村であったと思われる】「強烈な血を持った人々の村」に目が止まった。村内には血の気の多い人たちが多かった、というようにも受け止めれる
懐かしや、我が心の成田山。なーりたさん♪なーりたさん♪けーせい電車で初詣~♪というテレビCMが今も耳から離れない、産まれも育ちも生粋の京成沿線・千葉県人。自慢じゃないが、大人になるまでほぼ京成電車と黄色い総武線だけで生活し、成田付近に通ったり、住んでたりもした。30年前の京成には、でかい籠を背負った行商のオバさんたちも乗ってたなぁ。ところで「そーごさんどー」って何?て、ずーっと疑問だったんだ。。成田の手前。降りたら尋常じゃない田園風景!聞いたことない、けたたましい
ALOHA!今日も、みなさんが笑顔になれますように。先日、千葉県成田市にある宗吾霊堂さんに参拝しました。このBlogで書いた麻賀多神社さんに参拝させていただいたときに宗吾霊堂も近くにあることがわかったので、その後に参拝しました。宗吾霊堂は、真言宗豊山派の鳴鐘山東勝寺というお寺さんですが、義民・佐倉惣五郎さんの霊が祀られていることから宗吾霊堂という名前で親しまれています。佐倉惣五郎(通称は宗吾)は下総国佐倉藩領の領主堀田氏の圧政や過酷な年貢などの重税に苦しむ農民のために将軍への直訴