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磯節は、明治20年ごろにお座敷唄になったとされ、大洗・那珂湊から水戸の芸者に、水戸から東京に伝わり、東京では芸者、落語家、芸人などによって唄われて人気となった、と言われています。明治30年代の終わり頃から40年代初めには、笑福亭円若、三笑亭可楽といった落語家、東屋小満之助といった芸人(女道楽)、吉原〆治といった芸者、髙橋吐龍といった尺八演奏家のレコードが存在する(何れも所蔵)ことから、この頃には、磯節は東京で人気だったことが伺えます。また、これと同じか少し前には、東京で磯節の替唄集が発行
柴五郎「柴五郎」の名を知る日本人は少ないと思います。もしかしたら、イギリス人のほうが知っていると思えてなりません。120年前の日英同盟の立役者と知っているから!悲痛な幼少期幕末、会津鶴ヶ城に砲弾の嵐五郎は10歳柴家は会津藩の名家五郎の父や兄は戦場へ、祖母、母、姉たちは「女が戦場にいては足手まとい」と全員自決落城後、会津藩士たちは青森へ移住させられた五郎と共に父や兄たちは極貧の生活厳格な父は、五郎に腹がへっても、-20の極寒の厳しい生活であっても辛抱し会津武士
国立国会図書館デジタルコレクション「北京籠城」(柴五郎述)「閣下が日本人ならば、多分、チャイ・ウー・ランを御存知じゃろうと思うが、どんなもんじゃろう」「チャイ・ウー・ランなんて知らんねえ、そりゃ一体何かい」老翁は見るからに軽蔑した様子で、「ああ何たることじゃ。あのチャイ・ウー・ランも、教育のない日本人の中では知られていないと見える」とため息まじりに嘆いた。そしてチャイ・ウー・ランがどういった人物なのか諭すように語りはじめる。チャイ・ウー・ランは北清事変のときに入城
国立国会図書館デジタルコレクション「南満洲鉄道沿線写真帖」(南満鉄道)国立国会図書館デジタルコレクション「満蒙事変写真帖」(忠孝之日本社編輯部編)五郎はさまざまな困苦を乗り越えて陸軍の士官になる。彼を一躍有名にしたのは明治33年(1900)におこった北清事変である。義和団を含む清軍の攻撃を受ける北京の列国公使館地区において、武官の五郎は日本の指揮官として徹底抗戦し、列国公使館地区を守り抜いたのだった。のちに五郎は、任務を果たせたのは多くの中国人が危険を冒して食料を
会津戦争で母や姉妹は自刃し、転封の下北において飢えや寒さに苦しんだ、そして北京では義和団や清軍に包囲されるものの怯むことなく戦い抜いた……「会津落城、北京籠城」国立国会図書館デジタルコレクション「岩越紀行」(広本賢斎著)より国立国会図書館デジタルコレクション「北清事変写真帖」(著者第五師団司令部撮影[他])より序章明治元年(一八六八)の会津戦争でその山は新政府軍の大砲陣地とされた。そこから北西約一・五キロ先の会津若松城(鶴ヶ城)が眼下に見お
世界史の偏差値80超えの娘が寝る前に見ると言い、一緒に途中まで見ていたが。後半ガクッと眠ってしまうも、眠りながら欧米列強と日本及び中国の異常に複雑な関係を理解しようとしていた。娘に終わったよと言われピクンとなって起きた。(´・ω・`)https://youtu.be/ciEClec_Pno第61位:義和団事件列強の思惑が中国で交差する世界史に影響を与えた出来事ランキング眠れる獅子と言われた中国の命運は?前動画:第62位https://youtu.be/UzidAuB4qkEス
【内容情報】(出版社より)今こそ読むべき、日本の快挙。圧倒的歴史エンタテインメント1900年春、砂塵舞う北京では外国人排斥を叫ぶ武装集団・義和団が勢力を増していた。暴徒化して教会を焼き討ち、外国公使館区域を包囲する義和団。足並み揃わぬ列強11ヵ国を先導したのは、新任の駐在武官・柴五郎率いる日本だった。日本人の叡智と勇気を初めて世界が認めた、壮絶な闘いが今よみがえる。出だしのストーリは下巻への伏線なのかどうかわかりませんが最初の三分の一ほどは柴五郎陸軍中佐(当時、最終階級は陸軍
第4163回「「黄砂の進撃」松岡圭祐著講談社文庫」もし、羽田空港と成田空港と関西空港と横浜港と神戸港がA国に押さえられ関税が撤廃されたら、A国の国教である一神教に帰依した人だけがさまざまな権利を得ることになったら、布教を前面に押し出し教会を作るという名目で土地を奪われたら、土地を奪われただけではなく宣教師による略奪や強姦がが行われたのなら、さらに日本の伝統や芸術を劣ったものとみなされ、日本人自体も差別されるようになったら、僕は、そのA国に恨みを持つでしょう。またA国と宗教は違うものの、侵略
『世界が讃えた日本人の美徳は、いまだに我々の心の内に備わっているのだろうか』歴史を学ぶことの意味、過去の立派な偉人を知り、賞賛する心を持ち続けるならば・・・学校でも教わらない、日本人にはあまり知られてこなかった、でも、世界が賞賛した日本の偉人・柴五郎陸軍大将。感銘とともに、深く心に刻まれました。外国人驚愕!日英同盟の礎を築いた武士中の武士!26:11https://youtu.be/Ucl2atjzeqI書き起こし「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。この小男は、いつの間に
清朝末期に中国に進出した欧米日列強への排撃運動を進める義和団(写真)が北京に突入したことを受け、清朝は1900年6月21日、列強各国に対して宣戦を布告した。後に列強軍が義和団に勝利すると、清朝は一転して義和団を「反乱軍」と認定。清朝の「ご都合主義」の姿勢は、多くの中国人の清朝不信にもつながった。アロ......続きを読む
先の第二次世界大戦前夜に大本営(または参謀本部?)が、日本の学者たちを集めて来るべき対米戦争のために、敵国となるアメリカとイギリス、いわゆる米英と、我が日本国の国力の差を研究させました。その時の結論は、ナンと「一対二十」です。アッ!ここで明確にしておきますが、二十が米英で、一が日本です。間違えないでくださいね。局地戦やゲリラ戦を挑むならまだしも、国家間の総力を挙げて行う国家総力戦において、「一対二十」の戦争をするということが、如何に愚かなことで
人生を、自分自身が舵をとって進もうとするすべての人のことをリーダーと言ってます。歴史は教養ですよ〜で、ただの教養にしないのが「リーダーのための歴史教室」。あなたはリーダーで、あなたが歴史を作る主人公なのです。<今日のあらすじ>清は各国から美味しいケーキとみなされ、半植民地状態になりました。国内では保守派と革命派が対立、民衆はさらに疲れ果てて、そこへ新たな宗教系秘密結社が生まれたのです。さて、日清戦争の後、清は各国から「なあんだ、清て
樋泉克夫のコラム@@@@@@@@【知道中国1649回】――「支那の國はまだ夢を見て居る」(小林5)小林愛雄『支那印象記』(敬文堂明治44年)▽やがて小林の乗った汽車は北京へ。早速、中心部の天安門の近くに位置する「公使舘街ともいふべき東交民巷」に向った。ここには「英国、?國(獨逸)、荷蘭(和蘭)、美國(米國)、露國(俄國)、法國(佛國)、奥國(澳國)、伊國、及び日本の各施署(即公使舘)が構を接して」いる。各国が義和団制
黄砂の籠城松岡圭祐(著)1900年に中国で起こった外国人排斥運動を知っていますか?義和団事件・・・歴史の中に埋もれてしまっている史実です。北京の公使館区域に籠城し4000人の人質を守った実在の日本人、柴五郎中佐。まとまりの無い世界の列強11か国を主導した柴中佐の、日本人としての心意気がこの物語には描かれている。-----あらすじ今こそ読むべき、日本の快挙!維新からわずか30年で「国際法を守る規範の筆頭」と、世界から賞賛された日本と日本人の姿を鮮やかに描いてい
キリスト教が中国で信者を増やしていったのは、相次ぐ西欧列強との戦争とその後の不平等条約の締結にある。アロー号戦争(第二次アヘン戦争)後結ばれた天津条約(1858年)は、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が含まれており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。ドイツは、山東省を国家権益の観点のみならず、孔子の生地である点からキリスト教の布教を特に重視していた。この熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、次第に高まっていった。p