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絵本『いいものみーつけた』レオニード・ゴア(著)藤原宏之(訳)新日本出版社著者のレオニード・ゴアは旧ソ連(現ベラルーシ共和国)のミンスク生まれで、1990年にアメリカへ移住して絵を描いています。本が落ちていても子ウサギ、大きなクマ、ネズミの家族、小さなキツネ、はらぺこミミズたちにはどうするものかわかりません。物知り坊やが本を見つけて読んであげるとみんなが集まって来ます。ユーモアの中に愛情が溢れています。世の中
(・_・)群盲象を評す。でスか?インド発祥の寓話でね。一体の象を何人もの盲人が触れて、それぞれが触ったところで、「綱の様だ」、「壁の様だ」、「蛇の様だ」等々口にするってところから、一部だけで全体を把握はできない、と云う様な例えで使われるな。ジャイナ教、仏教、イスラム教などにも同様の話が伝わっている。🐘今日は象の日▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようQ:象、触ったことある?コレは無いな。そういや、その昔、徳川吉宗に象が献上された話もあるよな。o(^o^)
まだ自分自身の中でしっかりと定型化(形式知化)できていない部分もあるのですが、「分析デザイン・アイデア発想の際に行っている頭の働かせ方」について、自分の考えの整理も兼ねてまとめておこうと思います。クライアントからの依頼で、あるテーマの分析プロジェクトを行う際に、どのような分析対象範囲とするか分析デザイン・分析設計を行います。また、コンサルティングでアイデア創出ワークショップのファシリテーションをさせていただく際には、ワークショップの準備だけではなく、ワークショップ中に参加され
では早速昨日の続きから。。。先生:「もし、私が師匠つまり先生という立場だけで生きていたら色んなことを勘違いしていく。ところが私が弟子。師匠の前に出て行ったらけちょんけちょんに言われる弟子だから弟子という思考でみてみる。今であればトヨ達の前でいるときは先生だけど、先生という思考で喋らないように極力していて、例えば師匠の弟子という感覚で話をしてみたり立場ってスイッチできるのね。」トヨさん:「そうですね。」年美さん:「自分が変わっていけばいいって事です
メールマガジンvol.302コラムより《盲目の男たちと象》真理とは・・・これは『群盲象を評す』という題目でも知られるインドの逸話で、アジア圏の様々な宗教で教訓として取り入れられています。6人(7人とか10人という場合もある)の盲目の男たちそれぞれが象の鼻や牙や足など別々の一部分だけを触り、その感触について話し合うお話。象とはかくかくしかじか・・・と語るわけですが、触った部分によって感想が異なり、それぞれが自分の感想が正しいと主張します。このお話で盲人同士が
「群盲象を撫(な)ず」という言葉を教わりました。何人かの目の不自由な人が象の体の一部を触り、象とはどんなものかと尋ねたところ、鼻を触った人は、「象とは長いものだ」耳を触った人は、「象とは平らなものだ」足を触った人は、「象とは丸太のようだ」尾を触った人は、「象とはヒモのようだ」と、みんなが違う印象を言った、という話。「物事の一部だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう。」「凡人には大人物や大事業などの全体を見渡すことはできないものだ。」のような意味があります。私たちは物
群盲撫象、群盲象を評すと言われます。もとは、インドの寓話です。昔は、ナウマンゾウやマンモスいたんですけど。そんなに世界各地には、象いませんからね。数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合うということで、真実の多様性や誤謬に対する教訓となっています。この話には数人の盲人(または暗闇の中の男達)が登場し、それぞれ象の鼻や牙など別々の一部分だけを触り、その感想について語り合います。しかし触った部位により感想が異なり、それぞれが自分が正しいと主張して対立が深まりますが、しかし何らかの理由
『群盲(ぐんもう)象を評す』………王の命により、盲人(もうじん)達が動物の象の元に連れて行かれた。目の見えない彼らの中には、足を触(さわ)る者、尾を持つ者、或(ある)いはシッポの根元(ねもと)を持つ者がいたり、腹や脇腹、背や耳や頭、牙や鼻等々、人によって様々であった。家臣(かしん)は王のもとに彼らを連れて帰った。王は「象とはどういうものだ?」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた。だが尾を持った者は箒(ほうき)のようだと答え、その他、どこを触ったか