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零戦よもやま物語零戦アラカルト光人社NF文庫柳田邦男,豊田穣【4】前回のブログ記事は以下の通りです。零戦よもやま物語零戦アラカルト(光人社NF文庫)柳田邦男,豊田穣,他【3】アメーバブログ記事より零戦よもやま物語零戦アラカルト(光人社NF文庫)柳田邦男,豊田穣,他【3】アメーバブログ記事『零戦よもやま物語零戦アラカルト(光人社NF文庫)柳田邦男,豊田穣,他【3】』零戦よもやま物語零戦アラカルト光人社NF文庫柳田邦男,豊田穣【3】前
特攻に異議を唱えたのは「不死身の特攻兵」だけではなかった!もう一人の物語株式会社内外出版社のプレスリリース(2018年8月9日11時20分)特攻に異議を唱えたのは「不死身の特攻兵」だけではなかった!もう一人の物語prtimes.jp特攻作戦に異議を唱えた若き少佐「異色の部隊」の歴史、語り継ぐ営み-未来に残す戦争の記憶-Yahoo!JAPAN77年前、多くの特攻隊が飛び立った鹿児島の地で、特攻作戦に...wararchive.yahoo.co.jp彗星夜襲隊特攻拒否
特攻・・・〝神風特攻隊〟を代表とする、日本兵が搭乗し爆弾を搭載した飛行機や潜水艇等もろとも敵艦に突っ込む、十死零生の悲劇的作戦。この特攻に関しては、過去拙ブログでも記事にしました。(↓)『特攻』飛行機や船舶に爆弾を搭載し、操縦士もろとも敵に突っ込んでいく特攻隊。特にその名を後世に残すこととなる、海軍によって組織された〝神風特攻隊〟が初出撃を敢行したの…ameblo.jp『特攻』飛行機に爆弾を搭載し、操縦士もろとも敵艦に突っ込んでいく特攻隊。その名を後世に残すこととなる、海軍によ
JamesSetouchi鴻上尚史『不死身の特攻兵軍神はなぜ上官に反抗したか』講談社現代新書2017年11月1著者鴻上尚史(こうかみしょうじ)劇作家、演出家。1958年愛媛県生まれ。新居浜西高校、早大法学部。早大で劇団「第三舞台」を結成。ロンドン留学を経て「KONAMI@network」や「虚構の劇団」を結成。日本劇作家協会会長。代表作『天使は瞳を閉じて』『スナフ
5月に読んだ本は8冊(図書館本7冊・購入1冊)でした。三連休で時間もあるし、久しぶりにアップ。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++<満足度>★★★オススメ★★面白い★収穫少なめ『彗星夜襲隊』渡辺洋二(光人社NF文庫2008.3)【満足度】★★★【概要・感想】太平洋戦争中、特攻を拒否した美濃部正少佐が指揮する「芙蓉部隊」の奮戦について書かれた本。その芙蓉部隊とは海軍804、812、901の3飛行隊(最終、第131海軍航空
早起きをした朝穏やかな美しい空に出逢った今の平和と思える世の中は本当に、懸念のない世の中なのだろうか77年前命を懸けてこの国を守ってくださった方々に胸を張って報告できるのだろうかそんなことを改めて考えさせられました今一度、大東亜戦争を振り返ってみる事大切だと【感動の物語】平和を願った軍人・美濃部少佐の遺言|石川真理子0:32秘匿隠蔽された部隊の基地5:08美濃部少佐秘密の最後の作戦11
「くるす桜」幽玄の世界へ誘う郡上で薪能奉納-中日新聞Web中日新聞Webかがり火に照らされた拝殿能舞台に、古今和歌集の解釈を秘伝する「古今伝授」の祖とされる常縁の霊が登場。旅の僧に和歌の功徳を語り、謡に合わせて舞った...名称変更の申請前、旧統一教会側が文化庁に「不受理の違法性」伝える-朝日新聞デジタル朝日新聞デジタル旧統一教会が2015年、現在の「世界平和統一家庭連合」に名称を変更した経緯について、末松信介文部科学相は8日の記者会見で、変更申請前に教団側から「文化.
一昨日(6月12日)は、故美濃部正(みのべただし)さん(元海軍少佐、元航空自衛隊空将)の、25回目の御命日。あいにく当日(12日)は、所用があって墓参が叶わず、昨日(13日)午後、愛知県豊田市にある、美濃部さんの墓苑にお参りさせて頂いた。(美濃部家墓所)=令和4年6月13日=美濃部さんはその最晩年の平成8年(1996年)に、自らの戦争体験を綴った「戦記」を書き下ろされた。現在これは「復刻版大正っ子の大平洋戦記」として、方丈社から出版
昨日、愛知県豊田市にある、故美濃部正(みのべただし)さんの墓苑にお参りさせて頂いた。美濃部さんは1997年6月に亡くなられたので、今年は、美濃部さんの没後25年にあたる。墓苑は、私の自宅から車で30分くらいの所にある。氏のご冥福をお祈り申し上げると共に、最近のウクライナ情勢や、1月末の航空自衛隊田中公司1佐と植田竜生1尉の殉職事故などについても墓前にご報告させて頂いた。
『美濃部正』と言う名前を聞いて、「昭和20年(1945)、敗色の濃くなった日本軍が特攻一辺倒になった時、特攻について公然と軍トップに異議を唱え、特攻に代わる夜間航空攻撃部隊=芙蓉部隊=を創設し、その部隊長として、鹿児島の岩川基地を拠点に、沖縄占領米軍へ連夜の攻撃を敢行、アメリカ兵の心胆を寒からしめた、海軍航空隊長(戦争終了時少佐)のことだ。」と言える人は、かなり戦争知識のある人か、或いは、自衛隊関係者ではないでしょうか。(若き日の美濃部少佐)美濃部
昨日(2月26日)、愛知県豊田市にある故美濃部正氏(元海軍少佐で元航空自衛隊空将)の墓苑にお参りさせて頂きました。私は、2017年の春に、既に故人となっておられた氏のことを初めて知りましたが、その後、私が奉仕活動させて頂いている慰霊園内に、氏が創設された「芙蓉部隊」の隊員のお名前が刻まれている慰霊碑がある事が判ったり、私が氏の卒業された高校の後輩にあたることや、私の勤め先が、氏が自衛隊退任後に勤められた会社でもあった、などということが次々と明らかになり、そうした機縁で、こ
日本時間の昨日<2月20日(土)>午前8時頃、米国アラバマ州モントゴメリー空港近くに、同地で飛行訓練中の、航空自衛隊浜松基地「航空教育集団司令部」所属2等空尉自衛官(Aさん:氏名は未公表)が搭乗するT-38練習機が墜落し、同乗のアメリカ空軍教官共々、Aさんは殉職されました。Aさん、並びに、米国人教官のご冥福をお祈り申し上げますと共に、ご遺族の皆様に心よりお悔やみを申し上げます。Aさんは、戦闘機の操縦資格を得るため、2年程前から米国へ操縦訓練の留学生として派遣されていた
奥は、ベガルタ仙台の本拠地ユアッテクスタジアム右、泉区図書館見つけた一冊【特攻セズ美濃部正の生涯】美濃部正戦時中、特攻作戦が常態化していく中、特攻を拒否した部隊の指揮官このような方を長い間、声を大にして一般に世の中に知らしめなかったマスコミ、メディア
今から76年前の昭和19年(1944年)10月15日、空母「翔鶴」の艦長や、海軍省航空本部教育部長などを歴任し、当時はフィリピンマニラの日本海軍第26航空戦隊の司令官、有馬正文中将が戦死されました。(享年49歳)(有馬正文中将)この日有馬中将は、急に思い立ったかのごとく、これから敵の攻撃に飛び立とうとする攻撃機に、副官も伴わずに乗り込んで出撃し、そのまま還らぬ人となりました。当時の戦況や中将の言動などから、有馬中将はこの時、自ら範を垂れるがごとく,マニ
1976年6月開催の、科学技術学園工業高校(現:科学技術学園高校)主催、「美濃部正氏特別講演会」の講演録も今回が最終回です。美濃部氏が講演の締め括りに述べた言葉は「誠心」でした。美濃部正氏講演<その11最終回>「誠心」我々の軍人勅諭(ちょくゆ)の中の最後に、あらゆる問題に対して至誠という言葉が出て参ります。これが全てを解決する。全ての根源は至誠である、と。先ほど私は、自分の姿を丸裸にせよ、ごまかすな、迷
今回は、美濃部氏が自衛隊を退職された後、学園長として迎えられた日本電装学園(現:デンソー工業学園)での実体験から、真摯に部下に向き合う指導者の、その心のあり様について熱く語られます。美濃部正氏講演<その10>「部下を我が子と思う心」部下というものをどのようにして見るべきか、という点について、孫子の兵法書にあるのですが、「卒を見ること嬰児の如し、故に之と共に深渓に赴くべし。卒を見ること愛児の如し、故に之と共に死すべし」と言っています。実際
ここでは、美濃部氏が、二人の司令官(大西中将と宇垣中将)からも感じられた、「指揮官の孤独さ」ということについて語られます。美濃部正氏講演<その9>「指揮官とは孤独なものなり」人間と人間で、指導する者・指導される者、管理する者・管理される者の関係において、指導する立場にある人、管理する立場にある人は、常に大なり小なり孤独であります。「指揮官とは孤独な者なり」という言葉がありますが、それは全責任が自分にあるからです。その責任を遂行する
今回は、太平洋戦争最前線の名指揮官(日本海軍「芙蓉部隊」隊長)で、戦後は、航空自衛隊の錬成にあたり、空自奈良幹部候補生学校の学校長、そして、民間企業(デンソー)の技能訓練学園の学園長を歴任された美濃部氏が、「指揮官としての存在意義」について語られます。美濃部正氏講演<その8>「指揮官としての存在意義とは」私が戦時中に、どのように感じていたかを話してみます。中国の春秋戦国時代の末期に孫子という兵法の書が出されました。これは孫矉(そんぴん)と
今回は、沖縄戦のために編成された、夜間攻撃の大部隊「芙蓉部隊」の指揮官として、美濃部氏が心を砕いた部下&組織統率の実体験について熱く語られます。【美濃部正氏講演「戦争体験と人間指導」から<その7>沖縄作戦が始まった時、私は30歳でした。軍令部や海軍省人事局の配慮があって、相当優秀な残存戦闘機パイロットが多量に私の部隊に転入を命ぜられました。正規編成は24機編成が3隊で72機が私の編成上の全兵力でした。これに対してパイロットは400
今回は、フィリピン戦線で戦っていた時、部隊に「特攻命令」を出した大西中将との息詰まる場面が語られます。【美濃部正氏講演「戦争体験と人間指導」から<その6>フィリピンのレイテ島で戦闘を行なっていますと、大西中将から、名指しで呼び返されました。当時司令長官といえば中将であり、私は一飛行隊長の少佐でした。長官室に入りますと、長官が「美濃部君、君に相談がある。」長官が私に相談がある、とは何事だろうと思いましたが、「何事でございますか?」と質問しました
元海軍少佐で、空自を空将で退官された故美濃部正氏は、1976年(昭和51年)6月15日、当時在籍しておられた日本電装(現デンソー)の職業訓練施設、日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長として、科学技術学園工業高校(現科学技術学園高校)からの依頼により、「戦争体験からみた人間指導」というタイトルで特別講演をされました。当ブログでは、その時の講演内容の大意を記させて頂いています。今回は、その5回目。今回は、海軍現役時代の部下統率方法が、後に民間の企業での技能訓練
元海軍少佐で、空自を空将で退官された故美濃部正氏は、1976年(昭和51年)6月15日、当時在籍しておられた日本電装(現デンソー)の職業訓練施設、日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長として、科学技術学園工業高校(現科学技術学園高校)からの依頼により、「戦争体験からみた人間指導」というタイトルで特別講演をされました。当ブログでは、その時の講演内容の大意を記させて頂いています。今回は、その4回目。ソロモンのブーゲンビルから、太平洋戦争の天王山と言われたフィリピン・
元海軍少佐で、空自を空将で退官された故美濃部正氏は、1976年(昭和51年)6月15日、当時在籍しておられた日本電装(現デンソー)の職業訓練施設、日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長として、科学技術学園工業高校(現科学技術学園高校)からの依頼により、「戦争体験からみた人間指導」というタイトルで特別講演をされました。当ブログでは、その時の講演内容の大意を記させて頂いています。今回は、その3回目。今回は、栄光のラバウル方面に転属できたと喜んだのも束の間、その地
元海軍少佐で、空自を空将で退官された故美濃部正氏は、1976年(昭和51年)6月15日、当時在籍しておられた日本電装(現デンソー)の職業訓練施設、日本電装学園(現デンソー工業学園)の学園長として、科学技術学園工業高校(現科学技術学園高校)からの依頼により、「戦争体験からみた人間指導」というタイトルで特別講演をされました。当ブログでは、その時の講演内容の大意を記させて頂いています。今回は、その2回目。氏は、大平洋戦争の緒戦、日本海軍航空部隊が、インド洋上でイ
大平洋戦争当時、軍司令官らに公然と特攻隊の非を唱え、夜間攻撃の「芙蓉部隊」を創設して、大平洋戦争の「沖縄作戦」に目覚ましい戦績を上げた美濃部正氏(海軍少佐)は、戦後、航空自衛隊の創設に尽力(最終位空将)された後、民間会社の職業訓練施設(当時の「日本電装学園」、現在は「デンソー工業学園」)の学園長に迎えられました。<以下、各写真は、関係者のご厚意により掲載させて頂いていますので、無断転載・コピー等はお断りいたします。>(日本海軍時代)(航
主人の「これは是非、読んでほしい」という強い勧めで、今、「永遠の0(ゼロ)」という本を読んでいます。これは百田尚樹さんが作者の本で、第二次世界大戦のこと、特に特攻隊員のことが書かれています。先日、百田さんの「カエルの楽園」を読んで、その出来栄えに唸っていたので、作者の名前を聞いて、私はすぐに、この本を手に取りました。内容が内容だけに涙なしでは読めない話なのですが、その中で、ある人物が出てきて、気になって、娘にその
今日は、大平洋戦争が終わり75回目の8月15日(終戦の日)でした。午後、自宅から車で30分ほどの所にある、日本海軍元少佐で、航空自衛隊元空将の故美濃部正氏のお墓参りをさせて頂きました。今日は、車の温度メータが40度を表示したほどの暑さだったのですが、美濃部さんの墓苑は、少し風も吹き抜けており、暑さも幾分和らいでいたという感じでした。(今日8月15日の15時ごろ愛知県豊田市吉原町内の墓園)太平洋戦争の敗色濃い昭和20年初め、特攻一色となった海軍方針に