ブログ記事40件
天海(163)「慶長五年七月七日、徳川家康、陸奥会津出陣ノ期日ヲ定メ、軍令ヲ下ス。八日、徳川家康、榊原康政ヲ先鋒トシ、陸奥会津ニ出陣セシム。九日、徳川家康、尾張ノ福島正則ノ出陣ヲ褒ス。十四日、毛利輝元ノ摂津木津亭ノ留守益田元祥等、吉川広家ト議シ、徳川家康ニ輝元ノ石田三成等ノ挙兵ニ關輿セザルヲ告ゲントス、明日、輝元、大坂ニ著スルニ依リテ止ム。」(「史料綜覧」)家康は会津征伐を進める一方で、他の武将がなかなか東下してこないことに不審を覚えた。その時、広家か
↓二見城跡_説明板ふと、通りの反対側を振り返ると、二見城の説明板らしきものを発見。↓二見城跡_説明松倉重政は、元は筒井家の重臣だった。彼はこの城を出撃し、大和郡山城を救援するという活躍をした。これは、大坂夏の陣で最初の武功で、徳川家康は大いに喜んだという。↓二見城跡_説明後半↓二見城跡_縄張図城は南北に本丸・二の丸を配し、濠で囲み、その南側に馬場、西側に外郭を設け、三方には土塁を巡らせた。↓北側堀跡堀というか、河岸段丘の崖か。上の写真の崖のさらに奥。吉野川河原まで達している
8月8日、吉川広家と安国寺恵瓊が、指揮を執る、約一万の軍勢が、長束正家勢と共に、伊勢へ出陣した。石田三成は、岐阜城主、織田秀信と相談の上、尾張方面に出陣している。織田秀信は、織田信長の嫡男、織田信忠の唯一の息子で、信長の嫡損である。清須会議で、織田家の後継者と決まった、三法師が、成長して、織田秀信と称していたのである。その後、織田秀信は、豊臣秀吉の家臣となり、織田家の天下は、完全に秀吉に奪われた。織田信秀は、豊臣家を恨んでいてもおかしくはないが、徳川家康と石田三成の対立では
さてさて…大河のどうするは本能寺も終えて小牧長久手に突入するようですが…織田秀信の幼名、三法師ってさ…珍しいよなと思ってさ…当時は○○丸とか○○千代とかっていうのが多かったけど、三法師か…本能寺はどこでござる?…と思いながら調べてみたら…無事三歳を迎えたから(満二歳だけどさ)三法師ということらしい…法師というのは一寸法師みたいに子供の一般的な呼称らしい…三法師以前の名前はよくわかっていないらしく…三法師を名乗ってから清須会議だったのか…清須会議の後に三法師を名乗ったのかも
"織田家筆頭家老にして最も忠義武勇を誇ると自負する柴田勝家も、この事態には野心を隠しきれなかった。信孝が家督を継げば、その後見人として天下最大にまで膨れ上がった織田家の実権が手に入る。見る限り、信雄に信孝を上回る要素は見受けられなかった。そうなれば状況によっては、天下を伺う事もあるかも知れない。隠そうと努めてはいるものの、勝家の腹の中は誰の目にもあきらかだった。"いよいよ裁決を取る日が訪れた。柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の四人が並び、互いの推薦を出し合った。織田信孝を推し
信長の秘宝レッドクロスAmazon(アマゾン)1,218〜7,274円信長の孫で信忠の子の三法師(元服後は秀信)の生き様が描かれています。武田と織田の同盟により婚約した信忠と信玄の六女松姫。三方ヶ原の戦い以降婚約は解消されますが、二人は愛を育んでいきます。そして敵国同士であるも信忠は父・信長には内密に岩村城で松姫と会うことに。その時授かったのが三法師。織田軍による武田討伐の際、三法師は信忠のもとへ、松姫は武蔵の国に。本能寺の変での脱出(といっても赤ん坊なので)以降、清須会議
【裏関ヶ原】講談社文庫【著】吉川永青関ヶ原の戦いにおいて、各々の志をもって挑んだ武将たちの短編小説。黒田如水の無念と新たなる希望であったり、織田秀信の切ない物語など、6人の武将の話が描かれています。総ページ数はそう多くなく、その上で短編小説なので読みやすい。短編小説とはいえ、各々なかなか興味深い話でした。『裏関ヶ原』(吉川永青):講談社文庫製品詳細講談社BOOK倶楽部あの日、それぞれの「関ヶ原」があった。黒田如水佐竹義宣細川幽斎真田昌幸最上義光織田秀信東軍と西軍、徳
ものつくり大学は、12月19日(月)に特別公開講座「からくりは日本のものづくりの源流」を対面で...大学プレスセンター講師に、江戸時代から続く「からくり人形師」の家系の現当主であり、現代の名工である九代玉屋庄兵衛氏と、末松良一氏(愛知工業大学総合技術研究所...久しぶりに会う友達と、懐かしい小学生時代の思い出をもう一度体験してみた!|マイナビニュースマイナビニュース江戸情緒あふれる館を発見して寄り道。河川敷に吹く風が心地よく、どこまでも走れそう!目的地がなくても
関ケ原の合戦前哨戦!新旧岐阜城主織田秀信VS池田輝政慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、橋は残ってません『乱闘橋の戦い跡乱闘橋供養塔(岐南町八剣北)』関ケ原の合戦前哨戦!新旧岐阜城主織田秀信VS池田輝政米野からの流れ先日紹介した池田輝政公の鎧掛の松はこの後の岐阜城攻めのから竹鼻…ameblo.jp↓1年前の今日書
ルノースポールの歴史スピダーからトロフィーRまで写真とともに振り返る-AUTOCARJAPANAUTOCARJAPANモータースポーツ部門として設立されたルノースポールは、今やルノーの高性能車ブランドとなりました。初の市販モデルであるスピダーから、ニュル最速タイム...昭和史の大家・半藤一利さんの短歌185首を確認「歴史探偵」の秘められた叙情明らかに-東京新聞東京新聞こうした心の潤いがあったからこそ、彼は歴史に対する優しいまなざしを持ち得たのだろう。◇.半藤
行こう!きみとその未来へ和歌山県岩出市・紀の川市にある塾のユーゼミですユーゼミのブログ担当ブロたんの桜です🌸桜のよもやまばなしにお付き合いください。今日は歴史上の人物のお話です。和歌山県橋本市向副(むかそい)は織田秀信(織田信長の孫)が亡くなった場所です。こちらには「織田秀信終焉(しゅうえん)の地」の石碑があります。※終焉(しゅうえん)とは命の終わりの意味です。「織田秀信公は、織田信長の嫡孫(ちゃくそん)で幼名(ようみょう)を三法師と称(し
2回目のワクチン接種を終え、感染者の推移に注意を払いつつ、満を持して超久々の遠出だ。。(訪問は2021年10月)↓ワイドビューひだ号大阪発は一日一本のワイドビューひだ。これを使って岐阜日帰り旅行を企画。↓黄金の信長像着いた。駅ロータリーにある黄金の信長像。デカい。ナンセンスな事にマスクさせているので、これ以上近づいても。。銅像にマスクハメても意味は無いで。いい加減外してくれんもんか↓岐阜バスのラッピング「ぎふ登城きっぷ」は、岐阜バス1日乗車券と金華山ロープウェー
前回紹介の「河田木曽川渡河の戦い」から・・・木曽川を越えこの米野に激戦地が・・・秀信公と輝政公新旧岐阜城主の戦いが某は飯沼長資と大塚権太夫の二人を・・・米野の戦い(こめののたたかい)は、関ヶ原の戦いの前哨戦のひとつである。1600年8月21日、池田輝政、浅野幸長、山内一豊率いる東軍1万8千人は美濃国羽栗郡河田島村(現・各務原市)付近に進軍。木曽川を渡り岐阜城へと向かお
岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)から天正3年(1575年)に美濃国恵那郡で起こった武田氏と織田氏の岩村城をめぐる戦い。天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠において織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った(長篠の戦い)。このため、織田・徳川による武田反攻が始まることとなる。信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた。これに対して武田勝頼は援軍に向かおうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から岐阜へ向
1368年革手城を築いたとき頼康公が城の北東鬼門除けとして閻魔大王を祭る。当時は木曾川北岸堤防上にあり石切神社・領下延命地蔵とも、治水と死者の冥福を祈願関ヶ原の前哨戦となった乱闘橋の戦いの際に秀信軍の本陣となったらしい前回紹介した乱闘橋の対岸北西側になります間は直線で300m弱当時流れていた木曽川の川幅が分かりませんが・・・此処で乱闘があって秀信公を岐阜城まで追い詰め取って返し竹鼻へ・・・の流れですか『乱闘橋の戦い跡乱闘橋供養塔(岐南町八剣北)』関ケ原の
関ケ原の合戦前哨戦!新旧岐阜城主織田秀信VS池田輝政米野からの流れ先日紹介した池田輝政公の鎧掛の松はこの後の岐阜城攻めのから竹鼻へ移動の一休み?『八剣神社(岐南町みやまち)池田輝政の「鎧かけ松」と「乃木将軍」像』1600年(慶長5年)8月22日、米野の戦い(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)を終えた池田輝政の軍勢が、岐阜城攻防戦(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)へと向かう途中に…ameblo.jpふと思いつきましたが・・・
出世した秀吉は、かつて目上だった連中を家来にして、さぞ威張り散らしたモノの言い方をしていたのだろうか?いや、そうでもないのかも。歴代の大河ドラマなど見てると、意外と、もとの主筋や上役は、形式上だけでも立てる、という描写が多いです。たとえば竹中直人がやった「秀吉」では、秀吉が天下を取ったあと丹羽長秀(篠田三郎)は秀吉政権の相談役のような席になりますが、長秀と秀吉は「藤吉郎、それはあまり良くないのではないかな?」「丹羽様、ここは口出しご無用に願います」みたいに、秀吉は口調だけは元上役の年長者を
【問題】関ヶ原の戦いの前哨戦で敗れた織田秀信は、次のうちどこへ追放されたか?【選択肢】比叡山伊勢長島高野山石山本願寺【正解】高野山【解説】関ヶ原の戦い前、秀信は西軍に付いて岐阜城に籠城し東軍諸将と戦ったが、敗れて開城した。助命を望む声が多かったこともあり、秀信は高野山へと送られた。
岐阜城や信長居館跡など素晴らしい歴史的な遺物のある岐阜公園には悲劇の場所もあります。【悲劇の場所御手洗池】岐阜公園にある悲劇の場所https://youtu.be/pjooygBG7y8【悲劇の場所御手洗池】岐阜公園にある悲劇の場所岐阜公園にある悲劇の場所「御手洗池」をご紹介します。関ヶ原の戦いの前哨戦「岐阜城の戦い」では大勢の女中達がこの池に身を投げ、自ら命を絶ちました。幽霊が出たり、釣針に髪の毛が引っかかってきたそうです。歴史は諸説ありが前提でお願いします。この動画は現地の
橋本市のはしもと広域観光案内所にて購入。三法師とは織田秀信の幼少期の呼び名。
先日、和歌山県は橋本市恋野のチューリップ畑に行った記事を書いたのですが、その恋野から西へ10分ほど走れば「向副(むかそい)」という地区がありますその向副の高野山へと繋がる国道371号線を高野山方面に走っていると・・・こういう「織田秀信公ゆかりの地」と書かれた説明板が立っています織田秀信は、あの織田信長の嫡男「信忠」の子で、信長嫡孫。明智光秀が起こした「本能寺の変」にて祖父信長、父信忠がともに亡くなり、その後、羽柴秀吉の後見で織田家の家督を継ぎます。信長の後継者を決
#織田秀信まぁ簡単に言うと三法師信長の孫ですね😊
※2020年2月5日訪問※円徳寺さんの境内の中に【史跡伝織田塚改葬地】という場所があります▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天文十六年(一五四七)夏、織田信秀軍の蜂須賀など江南勢は関方面に進出し、土岐二郎(土岐頼芸の子か、あるいは先代守護二郎の子か)は席田あたりまで侵入したが、斎藤利政(この頃出家して道三と称す)はこれを撃退した。織田塚は、この時上加納で敗死した織田軍の将兵の屍を集めたものといわれる。織田塚の域内に浄泉坊(現円徳寺)があり、永禄年間に円徳寺が織田塚の西方三〇〇
※2020年2月5日訪問※岐阜県岐阜市の【円徳寺】さんを拝観しました岐阜市の史跡スポットは、岐阜城をはじめとした金華山周辺に多くが点在している印象ですが、この円徳寺さんは、岐阜駅寄りの繁華街のど真ん中に位置しています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼寿永2年(1183年)に比叡山延暦寺の僧・寂円により天台宗の寺院、法泉寺として現在の岐阜市長旗に開創される。2世寂世が親鸞に帰依して浄土真宗の寺となり、寺号を常泉坊に改めた。天文16年(1547年)に織田信秀が加納口の戦いに敗北し、
※2020年2月5日訪問※本堂のインターホンを慣らし、拝観料200円をお支払いして、内部を見学会させて頂きます崇福寺さんでは、拝観者の為に、お寺の歴史や展示されている寺宝について、音声アナウンスのテープを流してくれるので、詳しい説明を聞きながら展示品をじっくりと見学する事が出来ます本堂内部も撮影可能との事でしたので、貴重な資料のお写真を沢山撮らせて頂きましたそして、崇福寺さんと言えば、やはりこの【血天井】が有名ですよね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼信長公の孫、三法師秀信は
※2020年2月5日訪問※岐阜県岐阜市の【神護山崇福寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼伝承によれば、鎌倉時代に創建。荒廃していたのを1511年(永正8年)に斉藤利匡の手で移転整備。1517年(永正14年)に改称したという。別の説としては、1469年(文明元年)に、土岐成頼と斎藤長弘が建立し、1493年(明応2年)に開山したという。1567年(永禄10年)、織田信長が岐阜に入ると、崇福寺は織田家菩提寺となる。1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長
2020年2月20日に天野純希「信長嫌い」を読了しました(*´∇`*)短編集で、織田信長に翻弄された武将たちが主人公です。今川義元はもっと不甲斐ない男と思っていたけれども、ラストは見事な漢振りでした。井伊直盛の名前が出てきて、NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」を思い出す(T-T)真柄直隆、TV局中法度の真柄兄弟のグルメリポートに、直隆と弟直澄が出ていたことは覚えていました、以上(⌒-⌒;)熱田神宮で見た真柄太刀とは、真柄直隆の太郎太刀だったろうか、或いは息子真柄隆基の次郎太刀
現地説明会行きたかった〜😭岐阜城は斎藤道三以降色んな人が城主になっているお城。改修工事も当時からたくさんの方がなさっているでしょうから、何とも判別するのが難しいのかもしれません…。今後の研究が楽しみですね
今年はどこへ初詣に行こうかと考えていたところ、〝岐阜市〟というのが頭をよぎりました。そこで、せっかく岐阜市に行くなら、どこを歩こう(大前提はウォーキングですので)と計画を立てました。①初詣を「伊奈波神社」に行く。(その1)②岐阜大仏を見る。(その3)③「金神社」で金運を付けるお守りを買う。(その2)④狛犬や木鼻をあっちこっちで見てくる。1月3日に行って来ました。今回はその4の③、「善光寺安乗院・美江寺観音」です。☆善光寺安乗院善光寺安乗院は、伊奈波神社に上がっていく坂
【問題】織田秀信らに仕えた百々綱家の、「百々」の読みとして正しいものは次のうちどれか?【選択肢】もぢどどはばくゆう【正解】どど【解説】百々(どど)氏は、もと近江国犬上郡百々村の国人で、綱家は織田氏、豊臣氏に仕えた。関ヶ原の戦いの頃は織田秀信の家臣で、戦後は山内一豊に仕えた。