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名称:津城別名:安濃津城城郭:輪郭式平城築城年:1558年〜1570年築城主:細野藤敦改修者:織田信包、藤堂高虎主要城主:細野氏、織田氏、富田氏、藤堂氏所在地:津市丸之内33-5指定文化財:県指定史跡続日本100名城水堀石垣丑寅櫓入徳門藤堂高虎公銅像
先日まで見てきた「城門」(櫓門も含む)には、門からの出入りを監視する「番所」を併設しているモノも見られましたが、お城や陣屋を構成する「城郭建造物」には、独立して建てられた「番所」というモノもあります。今回のシリーズでは、各お城にある「番所」(全国「番所」を巡るシリーズ)を紹介しています。お城内外への人の出入りや、各曲輪間や建物間の出入りを監視、管理する「番所」も重要な役割を担う「城郭建造物」です。「番所」には、そこに詰める武士や中間(今でいうガードマン)が滞在できる単独の建物もあれば
朱山にある西源院です。妙心寺の境外塔頭。霊雲派。延徳元年(1489年)、管領細川政元が妙心寺12世・特芳禅傑を開山として創建しました。慶長11年(1606年)、丹波柏原藩初代藩主・織田信包(織田信長の弟)が、西源院に方丈を寄進して復興、自身の菩提所とします。慶長19年、信包は大坂冬の陣の直前、大坂城内で吐血して死去。西源院旧所に葬られました。寛政9年(1797年)、龍安寺が焼失した際、信包が西源院に寄進した方丈が移築されて龍安寺方丈となり、重要文化財に指定されています。明治21年
黒井城跡を後にし、JRで2駅南下。柏原駅で降りる。↓太鼓櫓柏原駅から歩くこと7分。太鼓櫓。城下町柏原を象徴する建造物だ。↓太鼓櫓2切妻屋根の上に櫓を乗せたスタイル。層塔型が造られる前の、望楼型天守の原形といった風情だ。↓太鼓櫓_説明三階に吊るされた太鼓は1668年の製作で、国替えになる前の大和松山藩時代から使用されたもの。櫓は江戸時代には大手門に隣接していたが、明治時代初期にここに移された。↓大歳神社現在の太鼓櫓は大歳神社境内にある。↓太鼓櫓3※※※※※東へ
史跡めぐりの記事です。これから伊勢の国、特集です。今回は、三重県津市河芸町上野にある伊賀じゃない伊勢にある上野城です。江が一時期滞在した所から、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」にも登場しました。伊勢上野城(いせうえの)伊勢上野城は織田信長の弟、織田信包が津城の仮城として元亀元年(1570)に築城しました。「賤ヶ岳の戦い」の後、お市の方の遺児である茶々・初・江の三姉妹はこの城で過ごしたといわれています。天正8年(1580)、津城の完成により、信包が居城を移したため、家臣で、伊勢国中部を領し
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
ドーミーイン津に泊まった夜、名物の夜鳴きそばを食べたあとは天然温泉大浴場へと足を運びます。大浴場にはサウナや水風呂、露天風呂まであってかなり設備が充実していて、肝心の温泉(弱アルカリ性単純温泉)もぬるめで夏にちょうどよいのです。浴場内を静かに流れるBGMがまた秀逸で、湯船で体を伸ばして天井を見上げていると、危うく寝落ちそうになるほどの気持ちよさでありました。これが「整う」ってやつか…と思ってたら、BGMはサウナブームの火付け役となったテレ東ドラマ『サ道』の音楽担当、「とくさし
第60代横綱・双葉黒と、「八百長」発言で娯楽紙を賑わせたプロレスラー北尾光司、そして謎の“スポーツ冒険家”こと北尾光司を生んだ三重県津市。人口約27万人。人口では四日市市(約30万人)の後塵を拝し、観光地としても伊勢神宮が鎮座する伊勢市や、鈴鹿サーキットを擁する鈴鹿市にハナを奪われがちなその地位は、県庁所在地としては少々微妙かもしれません。しかしこのまちはかつて津藩藤堂家32万石の城下であっただけでなく、さらに歴史を手繰ってみれば、今の私たちにとって注目すべき被災と復活の過程も埋もれてい
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。全国「御殿」を巡る”はじめに”↓『全国「御殿」を巡る”はじめに”』「近世城郭」における「城郭建造物」には、「天守」を始め「櫓」「櫓門」「門」「御殿」「番所」「蔵(金蔵)」「馬屋」その他に「御殿」を構成する「茶室」「能舞台」「…ameblo.jp今回は、「柏原(かいばら)陣屋」の現存「陣屋御殿」の一部をお届けします。■「柏原(かいば
前回からの続きです。柏原八幡宮へ参拝したあと、もう一度観光案内所にも寄ってみることに。すると、前回は気が付かなかったのですが、スタンプが置いてあるのを発見。早速押して行く事に。ここ柏原は、江戸時代に織田信長の弟の織田信包(のぶかね)が治めた地です。ですので、織田の家紋がスタンプにありました。そして、前回は気が付かなかったものがもう一つ。御城印が黒井城以外にもありました。
大河ドラマ「どうする家康」の総集編ということで「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズを只今進行中。途中何度かの中断があり2024年に突入していますが、引続き最後まで完結したいと思いますので、「家康ファン」「どうする家康ファン」「戦国時代ファン」の方は暫くお付き合いください。<「家康」等の出来事>前回のブログでは、「家康」による対「豊臣秀頼」包囲網形成を実行に移していき、どのようなお城が築かれたかを記載しました。「家康」は「関ケ原の戦い」後、「大坂夏の陣」までの間
10月3日(火)~6日(金)の伊勢詣での旅、初日(10/3)の旅模様その11です。この日はたぶん寄り道併せて30㎞前後歩いたと思います。ガイドブックは前回の善光寺街道から引き続き『ちゃんと歩ける伊勢参宮道善光寺街道』。今回は準備時間が少な目だったので、地図の見どころポイントの記録は大幅にカットしてます。その10では上野の宿場に入り、「きげんよし」という清酒を扱っている商店や、今に残る桝形などを愛でたところまでをご紹介しました(↓再掲)。こちらの厨子二階のお宅は一階正面がキレ
カラダの疲れは気づきやすいけどココロの疲れは気づきにくいからポッキッと折れちゃう前にバデちゃう前に気づけるといいね〜。ええ。今ちょっとだけ自分のこと言いましたアダチです。お城めぐりってけっこう歩くのです。1万4000歩ほど歩きました。ええ。両脚ともに筋肉痛です。次の日に筋肉痛を感じたからうん。ヨシとする。(笑)ずっと行きたかった津城址と東洋軒本店に行きました!カラダ頑張ったな〜。好きなことしていても疲れるものです。もうこうなったらゆっくりと休むしかない。
柏原にある成徳寺です。恵照山成徳禅寺という臨済宗妙心寺派の寺。柏原藩初代藩主織田信包、2代藩主織田信則、3代藩主織田信勝の菩提寺。この寺は室町時代に創建され、当初は竜翔寺といいました。柏原藩初代藩主・織田信包が菩提寺として見性寺と号します。慶安3年(1650年)、柏原藩3代藩主織田信勝が28歳で没すると柏原藩前期織田家は断絶。柏原藩は天領になります。見性寺は衰退、荒廃しました。元禄8年(1695年)、宇陀松山藩より転封された織田信休が柏原藩4代藩主となり、柏原藩は45年ぶりに復活
柏原にある織田信包像です。柏原藩初代藩主織田信包の像。平成26年(2014年)、柏原ライオンズクラブが、結成50周年記念事業として柏原市に寄贈。信包の墓がある京都龍安寺が所有する、慈雲院蟄居時の50代頃の肖像画をもとに造られたそうです。織田信包(1543?~1614)は柏原藩初代藩主。織田信秀の子。織田信長の弟。永禄11年(1568年)、兄信長の命により長野藤定の娘と婚姻、婿養子となり、伊勢上野城主。養子縁組を解消して織田に復姓。永禄12年、伊勢安濃津城主。天正10年(15
三重県の津城跡へ行ってきました!動画はこちらから津城跡三重県津市にある津城跡へ行ってきました!津新町駅から歩いて10分くらい!✿Bloghttp://ameblo.jp/ryuablog/「りゅうあのひとりごっこ」✿twitterhttps://twitter.com/Ryuacakesandale✿Instagramhttps://instagram.com/...youtu.be松坂城跡に続き、城跡シリーズ!こちらは駅から10分くらいで松坂城跡よりも分かりやすい感じでした(ᵔ
城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!今回のルート:津新町駅-玉櫓跡-西之丸-入徳門-日本庭園-戌亥櫓跡-西鉄門跡-丑寅櫓-北多門櫓跡-本丸跡-埋門跡-月見櫓跡-高山神社-天守台-お城西公園今回は津城をめぐります。スタートは津新町です。ここから10分ほど歩きます。津駅からでも行けますが、その場合バスを利用するか、歩くと30分近くかかってしまいます。西之丸玉櫓跡。ここが南西側の登城口になります。津城は本丸の周囲を二之丸と内堀が囲み、さ
城山八幡宮さん年1の干支御朱印👇金の干支御朱印は毎年いただきに行くんだけど…期間限定の直書きもあるらしく、行ってきました。昨日の信長繋がりでもあります限定期間が9月中につき、慌てて行ってきました😅中秋の名月🌕もあったんだけど…目的は織田家の武将😁本殿前の狛犬その1つ手前の鳥居を護っている狛犬こちらが御朱印御城印の直書きもありました末森城🏯こちらからがお目当て。武将印織田信秀織田信行織田信長織田秀孝織田信包御城印は予定外でしたが揃うとなかなかいいもんですね
9月15日(木)夜から9月18日(日)にかけて、亡き母の年金支給終了の手続き、三十日祭のために伊勢市に帰省していました。そのときの愛知県への帰路、立ち寄りました。立ち寄ったというと、何か計画に入っていたようですが、とんでもない。一般道を運転していましたら、もう、眠くて眠くてしょうがない。どこかで気分転換をしないと、とんでもないことになりそうでした。何か、そんな場所はないかといったとき、思いついたのが、以前から立ち寄りたいと思っていた「伊勢上野城」でした。もっとも立ち寄った日は、大型で
さてさて………我々が次に到着したのは、【津城跡】に鎮座する……【高山神社(こうざんじんじゃ)】三重県津市丸之内27−16織田信長の弟、信包(のぶかね)が藩主の頃の安濃津まちは僅か五万石の小さな城下町だった。【手水舎】慶長13年(1608年)藤堂高虎が伊予(四国)の今治から津に移封され藩主となった。高虎は自ら先頭に立って「城」を中心とした町づくりに努めた。【狛犬】武家屋敷は城の北、西、南側とし、東には町屋を配置した。町外れを通っていた「伊勢街道」を城下へ近づける一方、岩田川の水を
「お城」の「天守台シリーズ」第34弾は、「津城」です。現在多くの「天守台(天守代用の櫓台含む)」が残されていて、更にはその上に復元、復興等の「天守(御三階櫓)」が再建されている場合も多くあります。「天守台」だけがひっそりと残っている場合は、「天守」が取り払われたケースの他にも、江戸時代には機会が有れば「天守」を建築するために「天守台」だけは用意していたケースや、「天守」を建築したいが幕府の目を気にしたり資金面で難しかった場合は、上物は建てず“権威の象徴”として「天守台」だけは築いてお
2020年4月10日の三重県津市散策の続き。「水の守護・西嶋八兵衛像」「津藩藩校有造館跡」を見学した後は、「津城跡」に向かいました。西嶋八兵衛像・藩校有造館跡のレポ『西嶋八兵衛像と、津藩藩校有造館跡と~三重県津市の史跡・街並』2020年4月10日の三重県津市散策の続き。「津藩主久居藩主藤堂家歴代墓苑」である「寒松院」をお参りした後は、「津城跡」に向かいました。寒松院藤堂家墓…ameblo.jp「津藩藩校有造館跡」から路地を進むと、「津城跡」に到着です
【問題】次のうち、織田信包の通称として知られるものはどれか?【選択肢】新五郎三十郎新八郎喜七郎【正解】三十郎【解説】織田信包は、天文12年(1543)に織田信秀の子として生まれた。通称・三十郎、上野介を称した。織田一門の中では、信忠・信雄に次ぐナンバー3だったといわれる。
前回のスゲー城、田丸城からの続きです。この日は帰省中の長男と一緒に行動。長男、帰省してきた時に花粉症がひどく出ており、「(花粉がたくさん飛んでいるから)山城だけはやめてくれ」というので、またまた平城に行きました遠い地でかかりつけ医が見つけられず、薬も飲んでないそうです。次の目的地へ向かう前に昼食をとったのですが、以前行った霧山城の時も思った事があります。三重県の方とお話すると語尾が上がる話し方をされるのですが、これは方言?京都寄りの方言なのでしょうか?語尾だけなら話は通じますが、以前県外出
所在地三重県津市河芸町上野(本城山青少年公園)特徴信長の弟(信包)が居城とした山城で、公園となった本丸には巨大な展望台が建つ。一段下の二の丸跡には遊具が置かれ、本丸の帯郭は藪に埋もれている。感想広大な城域は公園整備で破壊され、未整備部分は藪に覆われている。
「全国の“三重櫓”を巡る」をテーマで、「復元・復興・模擬」の「三重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南にかけてお届けしています。現存「三重櫓」は、現存「天守」と同数の12基が今なお雄姿を見せて建っています。それについては、下記URLでもありますように既に紹介させていただいていますので、またご覧ください。現存「三重櫓」は下記からご覧ください↓各方向から見た現存三重櫓の顔・姿|シロスキーのお城紀行シロスキーさんのブログテーマ、「各方向から見た現存三重櫓
三重県お城廻りの六番目は、「津城」(三重県津市)です。今や「津城」のシンボル模擬「三重隅櫓」(南面)今回はまず最初に「津城」の歴史と城主について簡単に触れておきます。「織田信長」による伊勢平定の為に、「信長」の弟「信包(のぶかね)」を中伊勢に勢力を伸ばしていた「長野家」の養子として送り込みます。「信包」は津城を築城、1580年には五重天守を持つ立派なお城に完成させると、すぐに「長野家」の分家を攻めて中伊勢を得ます。その後「豊臣政権」時代になると「富田家」が入城し、関ケ原の
只今、「全国の“二重櫓”を巡る」をテーマで、「現存」と「復元・復興・模擬」の「二重櫓」の多様性(構造、形式、用途、目的、名称等)を実感しながら、北から南に向けてお届けしています。本日は第19弾「岸和田城本丸隅櫓」、「柏原陣屋太鼓櫓」の2基です。①「岸和田城本丸隅櫓」(大阪府岸和田市)、復興櫓岸和田には古くから岸和田古城がありましたが、お城として体裁を備えていったのは「織田信長」が「大坂本願寺」との戦いが終わり「津田家」「蜂谷家」を配置し、その後「羽柴秀吉」の紀州根来寺・
織田信長の弟の信包が建てた津城に早起きして散歩しました。津駅から下って徒歩15分くらいのところにあります。今はお城公園としてどんな時間でも自由に出入りできます。お城の入り口には石でできたベンチと灰皿があります。お城というよりも公園というほうが強いのでしょう。石垣の上に木々が立っていて、そこを歩くことができます。ただ、石垣の上に柵はなく落ちたら怖いかんじです。いや、かなり怖いですね。夜に歩いたら電気もなくわからなくて落ちてしまいそうです。石垣の上から攻めてくる敵を想像しながらぼんやり
前回はこちら織田神社の後、丹波市立柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館に行きました。小島省斎顕彰碑です。小島省斎顕彰碑の説明板です。織田信包公の石像です。織田信包公の説明板です。極楽寺建物礎石です。極楽寺建物礎石の説明板です。旧柏原町道路元標です。旧柏原町道路元標の説明板です。田ステ女石像です。田ステ女石像の説明板です。田ステ女の歌碑です。丹波市立柏原歴史民俗資料館・田ステ女記念館です。続きはこちら