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こんにちはもスタルペスです。先月突然、岩手県の盛岡市へ出張がありました。こんな機会はまたとないことなのでプライベートで延泊をして、遺跡巡りをしてきました。このビックチャンス、まず真っ先に思いついたのが「世界遺産:三内丸山遺跡」です。出張での仕事の翌日、レンタカーを借りて東北自動車道を北に向かいました。※三内丸山遺跡に到着です。青森インターチェンジを降りるとすぐに三内丸山遺跡に到着です。ワクワクする気持ちを抑え、何食わぬ顔の平常心で入場券を購入!!気
最近、縄文時代の神、アラハバキを題材にした小説を読んだ。アラハバキは海岸や海辺近くに祀られていた。外から来た渡来人と地元の縄文人との間にどんなイザコザがあったのかは、知らないが、海辺に祀られていたアラハバキが、何故か移動させられ(立ち退きか?)海から離れた場所に祀られ、その神社を客人神社と言う。興味深いな!と思い自分の住む栃木市でもあるかな?と検索したら、あったんです!客人神社!太平山の登山口に!太平山に登るときに、よく通っていた道の脇にある神社が客人神社だった!気が付かずにいて申し
グリーンランドは中世の温暖期にヴァイキングが入植し、北米カナダまで入植地を広げる中継地になっていた。ココイラを中世の温暖期というらしいが、同時代も日本では平安海進と呼んで、現在より50センチほど海水面が高かったらしい。平安海進と欧州の中世の温暖期は、何故かズレがあって、何故なのか?縄文海進は日本限定という話もあって、日本だけ高温期で、日本だけ海水面が上昇してて、平安海進でも同傾向があって、海水面は地球上で変わるのか?南極の積雪量が異様に増加し、グリーンランドや
全逓とか強過ぎる労働組合が存在した、動労とか、国労とか、強過ぎて暴走しまくってた労働組合が存在した。郵便局は民営化するに至った、郵便局長会だけでなく、全逓もなぁ、どっちも困ったちゃんだよ、全逓があのはがき強制販売に対して過激な組合運動を展開しないの謎だった、動労が爆弾テロと連動したり、駅への放火をしたり、過激な独自ストを繰り返すのに、他の組合が静観しているの謎だった、まぁ、謎といえば、労働組合と会社の関係、全逓・自治労・日教組・動労・国労とかが存続可能な事は謎だ
こんにちはこの日千葉県は風はそれほどでもなく雨も降ったりやんだりの天気でした標高25.5m木下交流の杜広場展望ステージからの眺めもとは千葉県立印旛高校があった場所で移転後跡地を公園として整備しました正面には利根川が横たわっています印西市立木下交流の杜歴史資料センター木下層(きおろしそう)今から12万~13万年前の古東京湾の内湾に形成した地層のこと当時は海面の高さが現在より18mほど高く東京湾は関東の奥深くまで広がっていたと考えられていますここ印西市木下に
こんにちは八街市は下総のほぼ中央に位置します船橋市から35kmぐらい離れていますが御成街道(江戸時代将軍の鷹狩りのために拓かせた道)のおかげでほぼ一本道です八街市郷土資料館関東地方の地形の変遷縄文海進は最下段左の地図の12000年前ごろから6000年前ごろまで続きました墨書土器(奈良時代)山邊郡印(複製)、実物は760年鋳造、国立歴史民俗博物館にて保管(国指定重文)資料館から南に3kmのところ八街神社創建は1873年(明治6年)氷川神社より勧
先々週の事ですが、『古地図でめぐる江戸時代の下松町と古墳』という研修に参加したRieruです古地図を片手に〜ではなく、下松市独自のリーフレット『下松で古地図さんぽ』を片手に。下松市のコミュニティセンターである『ほしらんどくだまつ』に集合で、ガイドはお馴染みK氏(ボス)であります。いつもお世話になります。ちなみに今回は、総勢6名でスタート☆まずは、泉所寺跡から。約4年前に一人で訪ねていたので懐かしいですが。『下松市で古地図さんぽ『商業と塩田で栄えた下松を歩こう編』(泉所寺跡)』先月の桜
川越総鎮守「氷川神社」に到着!川越地域の守り神です。川越の隣町「さいたま市大宮」には、当然、武蔵国一宮があるので、当然、そちらよりは、小ぶりです。氷川神社の裏手に出てみると、城下町と言うバス停を発見!と言う事は、街並みが広がっているのかと、思ったら、、、田園地帯でした。今では、東京武蔵野市などの多摩地域と比べて、川越ってのは、都心から離れているから、すこし、低い評価をされがちなのだが、、、まぁ、米の収穫量が、その藩の価値であった時代だと考えれば、、、これだけの田んぼを持
位置青森県上北郡東北町大浦(40.7712141.3290)<ここで見られる地学素材>◆砂州,砂丘,海跡湖〇何がすごいの?◆縄文海進でできた湾(入り江)の入り口が砂でふさがれて湖やに間になったのがすごい.〇小川原湖はどのようにしてできたのですか.◆ざっくり言えば,入り江がせき止められて湖や沼になったと考えられます.少し詳しく言えば次のようになります①【台地と谷の時代】数万年前(最終氷期)には,海水面は現在よりも120~130m低かったので,小川原湖周辺は標高120~130m
2月の末に佐賀の縄文遺跡について書かせていただきましたが、『佐賀歴史探訪1〜東名縄文遺跡』ママさんの郷里は佐賀です。結婚するまで佐賀で暮らしてました。私は埼玉生まれの埼玉育ちですが、実は私の両親は2人とも佐賀出身です。今回佐賀に1週間滞在しまして、…ameblo.jp実はそのひと月前にも埼玉で縄文と触れる機会がありました。オッサン4人で大宮をブラブラ徘徊していた際、『伝説の「いづみや」@大宮』母校・蕨一中テニス部の同期会のお店を探そうと、大宮駅周辺をウロウロしました。同期会1回目はイタリ
節分も過ぎて本格始動した2025年。今年は物書きとして、もっとステージを上げたいところです。今週の星読み。石井ゆかりさんから。石井ゆかりの星読み【公式】石井ゆかりの公式占いサイト。ここでしか読めない時期占い、性格占いが満載。雑誌やwebで大人気の石井ゆかりの星読みをお楽しみいただけます。star.cocoloni.jp水瓶座の3星、双子座の木星と「小三角」の位置関係となり、大変賑やかなムードです。牡羊座は火の星座で、水瓶座と双子座は風の星座ですから、「火が風に煽られる」よう
バヌアツで大地震発生!12/1710時47分頃バヌアツの法則17日にバヌアツでM7.32週間以内に高頻度で日本でも「バヌアツの法則」に注意を(デイリースポーツ)-Yahoo!ニュース2018(平成30)年9月6日の木曜日、午前3時7分、北海道胆振(いぶり)東部地震が発生しました。最大震度7、地震の規模はM(マグニチュード)6.7でした。土砂崩れによる40人以上の犠牲者と、北海news.yahoo.co.jpデータ的に、3日後から2週間以内は注意とあります地震プレート状に
これまで、青梅市や奥多摩といった東京でも都心ほど開発が進んでいない地域の縄文地名を見てきました。この回から、東京都心部の縄文由来の地名を探していきたいと思います。東京区部の縄文地名を考える場合、考慮しなければならない重要な事柄があります。それは「縄文海進」と呼ばれる、海水面が今より数メートル高かった時代であったという点です。これは関東平野の内陸部から貝塚が発見され、その貝塚をプロットすると昔の海岸線になるのでは、という学説が1926年に提唱され、研究が進みました。それを再現できるような標高
清酒純米吟醸日本酒「縄文海進」が本日12月16日(月)から販売開始です。無くなり次第終了です🍶12月16日は「縄文海進の日」!清酒純米吟醸酒「縄文海進」を数量限定販売www.city.fujimi.saitama.jp【ふるさと納税】0010‐003純米吟醸酒縄文海進720mℓ2本セット/令和6年産楽天市場13,500円${EVENT_LABEL_01_TEXT}縄文時代には、埼玉県富士見市にも海があったのです!皆様ご存知でしたでしょうか。人々が暮らしていた竪穴式
東京都青梅市は、縄文地名の宝庫です。東京都にあって青梅市、八王子市は行政区分としての面積は群を抜いていますが、どちらもほどんどが山林となっています。八王子市と比べた場合、青梅市の方が山林の割合が多いのではないでしょうか。それがゆえに、市街化された地名、たとえば「緑町」「栄町」「旭ヶ丘」「本町」などの無機質な町名を逃れてきたのだと思います。今までの記事で、JR青梅線の駅名になっている地名「河辺(かべ)」「青梅(おうめ)」「日向和田」「二俣尾(ふたまたお)」「軍畑(いくさばた)」などはその地
2か月間に渡り天の川の歴史、太陽系の歴史、生命の歴史を考察してきたのは、人類が存在するのは奇跡なのだから、1度だけの人生を大切にし、投票にも行こうという意図からで、最後に人間の歴史を数回に渡り検討してみます。縄文時代の貝塚が内陸でも発見されたことから、かつて海面はもっと高く温暖だったと推定されるようになりました。現存する最古のシュメールの神話も大洪水に言及し、古代アテネにもアクロポリスに海水が現れたという伝承があります。融けた氷河が一気に決壊すると、一時的に海面が上昇しますが、マントル
東急田園都市線宮崎台駅下車。「矢上川」の両岸の台地を巡る旅(徒歩9km)田園都市線には隣接して「宮崎台駅」と「宮前平駅」はある。実は語源は「みやさき」であり、その「宮」は、馬絹神社だそうである。(馬絹神社)宮前区馬絹創建は江戸時代以前、古くから「女体権現社」と呼ばれ、地元の氏神様として崇められてきた。伊邪那美命が主祭神。詳細はわからない神社。矢上川の低地から台地に向けて石段が続く。氏子の寄進が手厚い印象季節柄しめ縄の材料用とのこと(馬絹古墳)神社のの隣接地
月についての続きです。『月の正体①』占星術師であるマドモアゼル・愛氏が動画で「月はマイナスの作用をする天体である。太陽の光が当たると温度が上がるのに、月の光が当たるところは逆に温度が下がる」…ameblo.jp『月の正体②』前回のつづきです。『月の正体①』占星術師であるマドモアゼル・愛氏が動画で「月はマイナスの作用をする天体である。太陽の光が当たると温度が上がるのに、月の光…ameblo.jp前回、巨大彗星が月になったのではないかという説をとり上げ、そ
最近またちょっと盛り上がっているが、まずは地震の話。地震には「予知」と「長期予測」があることは意外と知られていない。私の子供の頃は「東海地震」は「予知」できるため、巨額の予算を投じて観測体制をつくり、予知した場合の避難体制などまで計画していた。ここで地震「予知」とは、地震の発生時期、場所、規模(マグニチュード)を地震の発生前に精度よく予測することで、24時間内に静岡県で震度6の地震が起きるから逃げろという類のものである。しかし、そもそも「予知」は不可能であり、東海地震対策
山陽電鉄:藤江駅の改札口を出たところの商店。シャッターには、望海中学校美術部が描いた絵。青龍神社は、南東へ500m、交差点の隣りにある丘の上に鎮座されます。鎮座地:明石市藤江字出の上1191右に遥拝所。右に手水舎。--------------------------主祭神葺不合命フキアヘズノミコト配祀神神武天皇ジンムテンノウ玉依姫命
前回のつづき・・・ワニさん。エジプトのワニ神「セベク」信仰から和邇氏(和珥氏)らと関係するかどーか。インドのヴァルナ神(水神)出雲のチヤホコ王に「ある日、タケヒナドリ(出雲の重臣)がチヤホコ王に、海岸で海童たちがワニ(サメ)を捕えて騒いでいる」と告げてきた。出雲では、ワニは神聖な動物と考え尊んでいた。王は、タケヒナドリに連れられて、園の長浜に出向いた。そして海童たちにワニを放つよう説得した。すると、海童たちは王を取り囲み、舟に引きずり込んだ。それ以降、タケヒナドリは行方
有名な寺社は、地盤の良い高台にあります。現在のような防災学や地質学が発達する以前の時代に、しっかりとそういう場所を選び、寺社を建ててきた先人の知恵は凄いなぁと思います。縄文時代には「縄文海進」があり、海面が今よりも遥かに高く、関東では大宮あたりまでが海でした。そんな時代の記憶を奈良や平安の人たちが学術的に知る由もないはずですが、有名な全国の寺社の多くはその縄文海進時代の地図でも陸である場所に建てられています。祖父母の家があった宮城県塩釜市に
実は平安時代は現代並みの暑さだった!?平安時代にも起こっていた海面上昇「平安海進」とは?2023/11/17Japaaanhttps://mag.japaaan.com/archives/210984上野はかつて海とつながっていた温暖化、地球沸騰化時代などといわれている昨今。気候変動、北極の氷や氷河の融解、海水面の上昇などが危惧されていますね。しかし地球の永い歴史上、幾度も大規模な海面上昇が起きたことを知っていますか?正確には「海進」と呼ばれ、海面上昇や陸地の沈降によって海が陸に入
64.西広貝塚の調査シリーズ「遺跡を学ぶ」080房総の縄文大貝塚西広貝塚(忍澤成視新泉社2011)よりカッパが抜粋してその内容の一部をご紹介いたします。・千葉県の貝塚:およそ700か所で全国一位・市原市の貝塚:縄文期は約40か所…千葉市、市川市、松戸市などに次ぐ多さ100mを超す大規模貝塚…西広・祇園原・山倉・山倉山王など。時期的には縄文中期の終わりから後期にかけて。中期主体の貝塚がほとんど無いこと、早期、前期の貝塚もほとんど見つかっていないことが市内の特色。
ようこそ!拙いブログにおいでいただき、ありがとうございます。^^*成東の食虫植物群落を訪ねた後標高30mの石塚山の中腹の岩石上に本堂があり入母屋造り瓦葺、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした朱塗り、懸崖造り26本の柱によって支えられている浪切不動院を訪ねました。~~~~~画像クリックでそれぞれの訪問レポートページまたは、目次へジャンプします。『戻る』ボタンでこのブログに戻ります。興味のある方、よろしかったらおつき合いください。296
ウィルウェイです。本日は「縄文海進」についてご紹介いたします。縄文海進は、地質学的には完新世海進、後氷期海進(Holoceneglacialretreat)を指す海進である。すなわち最終氷期の最寒冷期後(19,000年前)から始まった温暖化にともなう海水準上昇を指す。日本では縄文時代の始まり(16,000年前)に近い。海水準上昇は約120メートルにおよんだ(年速1–2cm)。ピーク時である約6,500年-約6,000年前まで上昇が続いた。ピーク時の気候は現在より平均気温が1–2
昨日は兵庫県立兵庫津ミュージアムに行ってきました。息子が誘ってくれました。こちらの博物館は、令和3年に開館した復元施設「初代県庁館」と令和4年に開館した博物館施設「ひょうごはじまり館」との2館が一体となった新しいタイプの施設だそうです。ホームページには兵庫津の歴史や兵庫県の成り立ち県を構成する兵庫五国(丹波・摂津・淡路・播磨・但馬)の魅力を多彩な映像や体験型のコンテンツなど様々な手法を使って発信!従来の博物館とはひと味違う“ハミデルハクブツカ
この前(お休みの日)、奈良盆地南端にある「船路(ふなじ)の里船宿寺」へ行きました。「船」「舟」の名がつけられたこの地は、縄文海進の頃、茅渟の海(大阪湾)と繋がって海だったといいます。でもね標高200メートルぐらいあるんですよ。海だったって話、ほんとかな?(笑)日本列島に縄文海進があったのは間違いありません。では、現在の内陸部のどこまでが海だったのだろう?そしてどこあたりまで舟運可能だったのだろう?疑問ばかりです。眼前の現実景色の中に見えない歴史を見たいと思います。ちらっとでも見せて
つい先日あったシンクロニシティの話です。私は、いつものように、覚醒の追求と考察を進めていました。すると、十字巡礼した東西南北の各スポットが、共通して遺跡が発掘されている場所であることに気付きました。そして、私が住むこの住所も、最大の遺跡が発掘された場所だということも分かったのです。早速、市の図書館に向かい、私が住むこの土地の遺跡について書かれてある本を探しました。しかし、重要資料の為、貸出し禁止で借りることができなかったのです。すると翌日、娘が学校から持ち帰ってきた社会科の資料が、正
👆標高差を極端に色分けした地形図です。この図を一目して、ある女性は「グレーの部分は海なの?」と言いましたが、そういうわけでなく標高は1.5〜7mの立派な陸地です。「お茶の水」から「上野・不忍池」まで歩いてみました。上の図の舌状台地の先端部は人工地形改変の跡(下の写真:神田川と電車が通っている)です。この人工開削は家康命と云われているが、実際の工事は江戸時代初期の元和ニ年(1616)秀忠の時代に行われた。開削の際、湧き出した水は将軍の茶立ての専用水とされ、幕府所縁ということで