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金山城跡を登城した後、箕輪城跡へ向かいました。日本100名城のひとつです。駐車場を探すのに一周しましたが、かなり広大な城郭で、全部を見ることはできないと思いました。やっと見つけた広い駐車場。搦手側にありました。道標に従って進みます。右手にトイレがあります。クマ出没注意(´(ェ)`)群馬県・・・カウベルを身に着けての登城です。箕輪城跡縄張図いざ、登らん!ここ、なんだか堀跡の匂いがする。左手の低い部分、堀跡かなぁ。うん!外
2024年4月14日、縄張図を描く皆様の会からのお誘いで、四ツ山城で一日縄張図を描いてきました。縄張図を描くといいつつ、縄張図を描くことそのものにはそれほど熱い思いがないので(ごめんなさいっ!)、かねてからの疑問や積み残し課題をまずは見届けようと思い、午前中の2時間は城内散策に終始しました。概ねこんなお城(現地案内板より)このお城、「四ツ(津)山」の名が示す通り、遠くから見ると四つのピークを持つ山に見えます。また、どこから見てもよく見える目立つ山で、それは同時にこの山の眺望の良さを
写真を追加し、加筆しています。前回の続きです。次回来るときは詳しく紹介したいです。今回は最終回で縄張りを、平成30年度の発掘調査から紹介します。登城口にある縄張図は湯浅城縄張図です。発掘調査報告書にある縄張図です。発掘調査より上が北の赤外線実測図です。赤色で加筆しています。上図①の登城口です。施錠されています。登城口上の曲輪Ⅴです。曲輪Ⅲを東側から堀切2から東側です。堀切1を南から堀切Ⅰを北側から曲輪Ⅰを南
今週の「城飲み諸説あり」テーマ「消失」事前にアンケートを(淡路叶堂・播磨宇野構・備中南山・摂津松原)摂り、プレゼンを松原城に決めました。これらの城は開発や治水によってほぼ破壊されてしまっています。松原城(蒲公英城・道場河原城・草下部城などの別名がある)は、神戸市北区道場町日下部(旧摂津国有馬郡)にあったお城です。神戸電鉄道場駅のすぐ前の比高25mの独立丘で、「ひょうごの城紀行」のなかで土塁囲みの副数郭のあるカッコイイお城ということで行ってみたかったのですが、民有地だったため立ち入りで
お正月明け、九州からドローン使いのフォロワーさんが来られ、大聖寺山城(赤穂郡上郡町)へと行かれたいとのことだったのでご一緒させていただきました。そこで、播磨のレジェンド・城めグマ氏が下土井城(赤穂郡若狭野町)に来られるということでこちらもご一緒させていただくことにいたしました。ここには過去二度訪れ、図面も摂ったのですが下に敷いた地図が良くなかったので、今回新たに別の地図に貼り付けました。埼玉大学教育学部谷謙二研究室によるWEB等高線メーカーこれは等高線の数を指定できたりいろいろ便利な
いよいよ今回が年内最後の更新回となりました。週が明けた月曜日は、恐ろしいことにもう2024年です。週よ、明けないでおくれ。さてさて、年の最後の更新ということは、みなさんお待ちかねてない、恒例の1年を振り返るだけの回です。なーんにも新しい情報は得ることはできません。ただただ過去の出来事に酔うだけの回です。それでもいいという人は画面をスクロールして読み進めて下さい。それでは2023年を振り返ってみましょう!元日の城めぐり福袋で幕を開けた1月。初旬には山城マニア向けともいうべき
OPENHINATAにて兵庫県ほぼ全土の50㎝単位のCS立体図が公開され、それをみているとここに未登録らしき城址らしき地形を発見しました。「丹波霧の里ブログ」さんには仮称「東新庄城」とされ掲載されていたので全くの新発見というわけではないようです。確認に先週行ってきました。位置はこちら兵庫県丹波市(丹波国氷上郡)氷上町下新庄丹波市役所から1.8㎞本庄氏の本拠とされる森山城からも1.8㎞となっています。北西麓には内山砦があります。往時は内山砦から尾根伝いに登ったのでしょうか。
永らく放置して清書していなかった城シリーズ播磨国多可郡貝野城(多可郡多可町中区東山)もう8年も前になりますか、木内師匠の会で訪れました。下地図の右端(東)小野尻峠を越えると丹波国です。岩尾城が至近。那珂ふれあいセンターに駐車をしてゴルフ場の管理道を通ってイ~ロ~ハというルートで登りましたが、ゴルフ場は無断立入をしないほうがいいかな。ふれあいセンターに問い合わせたほうがよろしいかと。なんといってもこの城はb・cの畝状竪堀群が特徴でしょうか。また主郭虎口と思われるaは枡形虎口のように
まだ暑いので山には登らず、昨季行った城を清書しております。ボクは「水生城Ⅳ」(「ひょうごの城紀行」の記載)だと思っていた竹貫城。訓みは「たかぬき」です。ここも但馬山名城址保存会の谷さんにご案内いただきました。国府駅から近く、長楽寺さんの横に車を停めさせていただきました。この裏山が「水生城Ⅰ」この日はこのあと宵田城に行く予定であったので通り抜けるだけとなってしまいました。また図面を摂りに来よう。水生城から尾根道を西に700mほど進むと、竹貫城になります。北西には但馬空港があります。「ひょ
近江国栗太郡(滋賀県大津市大石)の妙見岳城に行ったのは7年前になりますか…消化できない遺構があり清書せずにほったらかしておりました。先日の「zoomお城会『諸説あり』」で、近江のSさんが紹介されていたので未消化ながら今回清書してみました。近江国の最南部、瀬田川が信楽川を分岐する北側・標高202mのピークを選地しております。南の大石は、のちに大石内蔵助を輩出する浅野家筆頭家老・大石氏の故地。『図解近畿Ⅱ』にも載せられていますが、当時はそのことに気付かずでした。主郭Ⅰは南と北に櫓
丹波国氷上郡の赤井・荻野氏の城郭をみていると、ある共通点が見えるような気がしていました。今回清書したこの穴裏峠城も、そうかな?と思って行ってきました。氷上郡(現・丹波市)の旧・青垣町と天田郡(現・京都府福知山市)の境には幾つかの峠がありますが、芦田氏の本城である小室城に直接至れる穴裏峠を抑える為に築かれたのだと思われます。この穴裏峠、いまでこそトンネルがあるので道があるのはわかるのですが、隧道がなければそんなに鞍部になってないのです。ほんとに使われたのかなぁ?まあとんでもない山奥で、ひと
昨年から足を突っ込んで抜け出せない但馬宵田城(兵庫県豊岡市日高町)主要部だけ以前ここでご紹介←リンクして3月に但馬山名城址保存会の谷さんと再々訪、周囲にもオモシロそうな遺構があって、ZOOMお城会では紹介したのですがこちらでは未だだったので取り敢えず縄張図を形にしました。郭Ⅰ~Ⅶまでは織豊期の改変がみられ、史料をみても間違いないですが、(三月の再再訪時は主郭の虎口bの石垣がよく見えた)その周囲の遺構の年代観が全く不明です。特に興味深かったのは郭Ⅷ、北に石積を数段たたみあげており、そ
加筆したので再投稿しました。前回の続きです。今回は三の郭です。現在地にある縄張図です。Googleマップです。英祖王統の本拠地は浦添でした。4代目の玉城王が何故この玉城城にいたかというと、彼は3代目の英慈王の三男なので、この支城にいたのでしょう。4代目を継ぐことになり、この城の城主を弟にして、自身は王となりました。在位(1314~1336年)を重ねる内に、酒色にふけり、狩猟をこのんで政務をおろそかにしたため、三山時代を迎えました。英祖王統略系図で
7月1日のZOOMお城ファンミーティング「諸説あり」・今回は城めグマ氏をホストに【推し石垣】というテーマでした。ぼくは早々に美作荒神山城をやろうと決めておりました。ここに初めて行ったのは10年前の2013年8月13日、夏の盛りなのでⅢ郭の土塁囲みに感動し、瓦を見つけたのみでした。昨年11月に図を摂ったとき、α地点に石垣を見つけ感動!画像ではよくわからん…?実際視ると結構すごいですよ。で、三月に昨年摂り損ねたⅥ~Ⅹ郭を摂ったときに「岡山県悉皆調査本」で、有ることを知ったγを
先月末のブログで、予定が遅延していることを臆面もなく告知していた「公式縄張図」機能について、遅くなりましたが本日リリース致しました(。・ω・)!!改めてこの機能が何なのか、について説明しておきます。「公式縄張図」は、今年1月に実装された「縄張図取り込み機能」を補助する機能です。この取り込み機能は、ご自身で入手した縄張図を端末に取り込み、それを地図に合わせて表示させることで、実際城跡で現在地と縄張図が連動する、というものです。ただ、縄張図を入手できない、うまく地図に合致させられない
隔月発売『歴史群像』のなかで毎回楽しみなコーナー「戦国の城」今回は豊後国佐伯城香川元太郎先生復元鳥瞰図がスバラシイ。だが、今回気になることがあった。ふたつ、あった。建築物は黒(下見板張)ではなかったか?西出丸の塁線は直線ではないという点。このことをTwitterで呟いたところ、香川先生ご本人からリプいただき、恐縮しているわけだが…どうやら昨年発刊された『佐伯城跡総合調査報告書総論編』(以下『報告書』)の情報が加味されていないようである。建築物については、享保の修
ツイッターのフォロワーさんで、若いながらキレイな図をかかれる方がこちらの城の図面をかかれていたのをみて興味を惹かれ行ってきたのが小野市(播磨国加東郡)の池尻城。ネットを探しても詳細の不明なお城「三木城の別所氏の臣・某の城とされ、天正の三木合戦の折羽柴筑前に攻められ落城した」と、定型文が流れてくるのみです。確かに三木城から大村越峠を使えば3km程と至近で、別所氏が加東郡に出るのに適した場所であるといえますし、逆に三木城を攻める側にとっても要地であったことでしょう。Ⅰが主郭でしょう
4月6日に重大(10大)ニュースをリリースしてから、もうすぐ2ヶ月が経とうとしています。東海以西は今日梅雨入りしたというし、時間は刻々と進んでいきます。時の流れの早さと悪天候で、おのずからテンションも下降気味です。城の日以降、色々告知がとっ散らかっているので、今日は10大ニュースをベースにその進捗など、中間報告をしておきたいと思います。まず、城の日当日の告知(各種文字数制限の拡大など)については良いとして、直近に予定しているものとして、公式縄張図の件があります。こちら、リリ
拙宅ブログですが、これから山に入るのを自重し、摂りだめた図面の清書が増える(といいな)ので、ブログテーマに「自作縄張図」をつくります。良かったら見てあげてくだせえ。今のところ55記事、清書したのも、あまつさえ図を摂った城はもっと(200ほど)あるのですが…この、山城シーズンオフに多く清書していきたいっち思うちょりもす。
今年、5月の長期休暇は長年訪れたかった信濃国取り敢えず近世城郭を中心に三日間の計画を立てました。まずは真田氏十万石の松代城16Cには海津甲斐武田氏の海津城残念ながら到着が朝6時で、この後の予定を考えれば9時から開城の本丸へは入れないだろうなと諦め…二の丸南門にある再現図武田氏の城と織豊系のハイブリットやな~だいたいの縄張は把握していったのですが、現場に行くまでの疑問「天守台は北東?何故直角でないの?」まあ、北東の櫓台が一番デカかったから天守台?とおもったのですが。現地に
先日、法貴山城へ行ったとき…縄張図講習会でご一緒した松風さんもご一緒だったのですが・・・わかい彼にオッサンであるわたしがお話致した、師匠・木内センセイからご教授いただいたナワバリ図を摂るた理由のうちのひとつ・・・それは【サイズ感】であります。法貴山城は高い山の上に横堀・竪堀・土塁を廻らした、よくつくられたお城であるといえます。ただ、実際1/1000で図を摂り始めて気が付いたのです。意外と小さい。100m×50mといったところか。千一の図面だと5x10㎝。他と比べて
先週もご一緒させていただいた、山城入道さんと松風さんにご一緒いただいて、丹波国桑田郡亀山に来ています。法貴館方形城館かと思いきや、門村構居に似た山側に土塁空堀(一重)法貴山城横堀竪堀複雑に絡み合ったとても良いお城!ただサイズ感が…詳細また後日。
過ぎる縄張図講習会、結局主催者講師先生含め10人での、たいへん楽しい会となりました。ここからはワタクシゴト以前、10年前に僕が初めてひとりで図面を摂ったのがこの播磨コダニ城(兵庫県加西市小谷)だったのですが(下図)縮尺を1/500で摂りました。紙は1㎜方眼のB4。それから約10年で200以上の城を摂図し、上記仕様にする必要も感じず、100枚超えてA4・5㎜方眼にしています。あと、50mメジャーを使用していたのをレーザー距離計、一昨年からゴルフ用距離測定器を使っています。これだと水平距離と
今日は、「城跡研究会」の主催する縄張図講習会に参加しております。奇しくもボクが初めてひとりで図を摂った加西市の小谷城です。講師の堀口先生のご指導のもと、皆さんとても熱心に摂図されています。
準決勝の村上の逆転サヨナラ。決勝の大谷vsトラウト←この対決にはシビレタ感動したな。ほんま胸が激熱になったわ。MVPは韓国戦での3塁打の中野やな。ちゃうか?ほないきます伊勢・采女城(後編)後藤伊勢守基秀が分応元年 (1260 ) に築城し、織田信長の伊勢侵攻で永禄 11 年 (1568 ) に落城するまで、約 300 年間にわたり栄華を極めました。遺構として 9 つの郭 ( くるわ ) 、空堀、土疊、深井戸、虎口があり、県下では第 1 級の歴史
忘れ物をした荒神山城からのぉ〜三星城なう見事に折れた土塁がすばらしい!星、二つデス!その後、直線距離で800mの林野城へ何か、今まで見てきた城の概念が覆る奴です。
采女(うねめ)とは、古代、朝廷において天皇や皇后に仕え、食膳の奉仕、身の回りの庶事を専門に行った下級女官のことである。四日市市に采女(うねめ)町という地名がある。正確な郷域は不明であるが、古くは「采女郷」と呼ばれていた。三重県四日市市采女町伊勢・采女城(うねめじょう)別名:北山城現地登城口の説明板。すべてお読みなさい。因みに、播磨後藤氏(後藤又兵衛基次の家系)は同族であるらしい。因みに、最後の城主後藤藤勝が采女正(官命・うねめのかみ)を名乗っていた。因みに、永禄
今日は、山名城址保存会の、のぶのぶ氏のご案内にて但馬国水生(みずのお)合戦(宵田表の戦い)の舞台といわれる水生城(Ⅰ)、竹貴城(水生城Ⅳ)、宵田城に行って来ました。竹貴の図面に時間をかけすぎ、水生の図面が摂れず、あまつさえ水生Ⅱ・Ⅲは訪れることすら叶わず。水生Ⅰ城主郭三度目の訪問となった宵田城は前回より下草が消え、とても見易い状態。のぶのぶ氏のご案内にてレア遺構も見ることができました。
いままで非公開で謎に包まれた金谷城・主郭部(千葉県富津市)を見学してきました!ガイドは有名人”山城ガールむつみ”さんです。主郭部は驚いたことに遺構がしっかり残っており、縄張りもよくとても素晴らしかったです。その記事を早速、書きあげました。この珍しい海城を理解しやすいように、縄張図と写真を関係づけています。多分日本で初発信だと思い、なかなかみられない写真を豊富に載せてますので、是非、ご覧ください。スクープ!謎に包まれた金谷城・主郭の記事の初発信!-道を、極める今回、金谷城・主郭部の記
今日は、先日訪れた鍋子城の図面の確認…とこれはついででこのあと赤穂城の発掘調査を見に行きます。ニノ丸門は洪水に伴う堤防建設のため根石以外を撤去され、20年前に門西側を発掘&復元今回東側の調査となったようです。