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綾羅木周辺(昭和四十三年)上方右は安岡、海辺の中ほどへ、綾羅木川が注ぐ。中央左から右へ国道191号。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)(彦島のけしきより)参考①綾羅木から安岡あたりの今昔1963年(昭和38年)1975年(昭和50年)現在②今は無き綾羅木海水浴場綾羅木海水浴場(昭和四十年ころ)当時は、西山·武久·安岡·吉見·吉母などにもあったが、綾羅木海水浴場が最もにぎわった。その後、生活排水による海水の汚濁で、年々客が減少した。(しものせきなつかしの写
昭和30年代の橋、例えば下関市の安岡と長府を結ぶ道路の長安線と綾羅木川の交差する石原の橋は、懐かしくも下の写真と同じく木造の橋であった。橋床の束ねられた丸太に泥を被せてあったが、この上をバスやトラックが越えていった。この丸太の隙間から川の流れを見ることが出来たのを思い出した。1963年(昭和38年)石原地区綾羅木川と長安線(左右)の交差する橋参考橋場所不明(写真家が捉えた時代の一瞬「昭和」より)(彦島のけしきより)
宇部市かわむら歯科、院長の河村和典です。下関海響マラソンの新コースの折り返しの場所、方法が分かりました。バイパスを北上、綾羅木川付近で折り返しまではコース地図を見て分かっていました。北向きバイパスは中央分離帯のある2車線で、綾羅木川の上でUターンするそうです。つまり、北に向かっている車線を分けて、1車線を北向きに、1車線を南向きで使います。下見に出かけて、この折り返しのポイントは分かりませんでした。今週の日曜日、いよいよ本番です。雨の予報ですが、しっかり
宇部市かわむら歯科、院長の河村和典です。今年の下関海響マラソンは一部、新コースになります。例年立ち寄っていた長州出島の人工島には行かないコースになりました。バイパスをずっと北上、綾羅木川で折り返しするようです。折り返し部分はバイパス上で中央分離帯の段差を超えて反対車線に進むのか、バイパスから下りてUターンさせるのか分りません。いずれにしても、従来のコースよりも更にアップダウンが増えています。ランニングシューズを履いて走るつもりでしたが、歩道のない国道のバイパス
赤間関街道北浦道筋の福江字平松の八貫堤の西側の墓地に六地蔵がある。その他、綾羅木川と街道の交点や黒井の市にも祀られている。参考①旧街道沿いの道祖神、六地蔵設置の理由(参考)古い街道を探索していると、道路沿いに道祖神とか六地蔵が祀られているのを不思議に思ったことはないだろうか?今回はその道祖神、六地蔵について紹介しよう。古代・中世には、村の境の外は人間の住む世界ではなくて、悪魔の充満する世界だと考えられていた。故に、自分達の住む世界、つまり村の境あたりには、悪霊の侵入を防ぐ働きをして
下関北九州道路とも言われる、「第二関門橋」。関門橋や関門トンネルの代替路としての役割以外にも様々な使い道がある中、アプローチ、つまり出入口問題を置き去りにしてた気がするんだよね。土曜夜、テレビ山口(TYS)ほかTBSテレビ系の「オールスター感謝祭」のデータに参加し、エンディングまでに5000点台を稼ぎつつ、パソコン上では第二関門橋のアプローチについて、下関・北九州両方の最適解を検討してたんだよね。今月・9月7日に書き込ませて頂いた「第二関門橋の、ほったらかした話?」の段階では、北
2019.9.24(火)こんばんは(^^)/今日は久しぶりに竜王山山頂(614m)を登る為、自宅より徒歩にて小森江駅発06:14~門司駅06:21~下関駅06:41~吉見駅07:05到着して、吉見駅より徒歩にて龍王神社参拝~竜王山山頂(614m)食事休憩後は下山~吉見下~内日上~一之瀬公民館~31号線~深坂峠~蒲生野~深坂茶屋~深坂集会所~蒲生野公会堂~244号線~蒲生野信号北浦街道~富任町~綾羅木町公会堂~了元寺~綾羅木川沿い~248号線~北浦街道~綾羅木駅前~北浦街道~垢田ノ辻~山の田~
下関北九州道の早期事業化要望≪続きを読む≫[アメーバニュース]金曜夕方4時59分入電の、時事通信写真ニュース。写真版の時事電に、第二関門橋を巡る山口と福岡の両県知事による、国土交通大臣へのオファーの様子が収まってるんだよね。この日、山口県知事の村岡嗣政氏・福岡県知事の小川洋氏が、国土交通大臣の石井啓一氏のもとを訪ね、第二関門橋こと下関北九州道路に関するなるはやの事業化のオファーを出したんだけど、この第二関門橋について、僕はここアメブロでいくらかご紹介させてもらってるんだよね。
綾羅木周辺(昭和四十三年)、上方右は安岡、海辺の中ほどへ、綾羅木川が注ぐ。中央左から右へ国道191号。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)幡生宮の下(昭和四十三年)、中央に生野町の団地が見え、大学町·山の田団地が左へ続く。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)大学町団地と熊野(昭和四十三年)、左下方に市立大学が見え、左上方に山陽本線。中央上方は川中豊町の住宅地あたり。(しものせきなつかしの写真集下関市史別巻より)山の田交差点(昭和四十三年)、上方に山の田交差
住吉神社の真東へ200メートルほど離れたところに、末社の打下(うちおろし)社があります。境内の原生林をぬけていくか、いちど鳥居を出て、東へまわると行くことができます。こちらも小高い丘のうえに鎮座する神社なので、地図でみると、2基の古墳がならんでいるようです。ですが打下社は、あまり知られてないそうで、地元のかたもほとんどいらっしゃらないといいます。この打下社には、近隣の末社も合祀されたらしく、打下社としては猿田彦命(さるたひこ)少彦名命(
おはようございます。おき楽さんです。本日のおき楽教室は、お休みします。なぜなら、教室がある綾羅木地区は・・・「避難勧告」がでました。避難勧告が出ているところに、お越しいただくのは・・・。と思い休講です。でもね、なんともないです。今(9時半)は雨も止んでるし・・・。というわけで、ちょっと綾羅木川の様子を見に行ってきました。結構、水が増えていました。これ以上雨が降らないことを祈ります。ということで、今日受講予定だった方は、来週13日の金曜日・・・。9時半から2週間分の授業で~す。
この前の母の見舞いの際に持っていったものが、、、自分で買ったのはたぶん初めてなんですが、、、プリザーブドフラワーのカーネーションとローズです今はお見舞いは、昔は定番だった生花の持ち込みを禁止してる病院が多いみたいですね感染症の恐れがあるとの事で生花や果物をはじめとする生物はダメみたいです母の日から2週間遅れたけど、ちゃんと手渡しました最初はテレビの上の方に置いていたのですが、次の日に見舞いに行ったら、ベッドのテーブルの上に移動してて、一緒に渡した癌封じの御守りもリボンに結んでありまし
雨が降ってないけど、梅雨入りした下関。それよりびっくりしたのが、このニュース国内初発見の恐竜の化石。綾羅木川上流で発見って書いてましたが、おき楽さんのパソコン教室は下流にあるので、こんど庭を発掘してみようかなあ~?国内初発見の恐竜化石=52年前に採集-未確認種の卵と判明-山口・下関山口県下関市と福井県立恐竜博物館は5日、1965年に下関市で採集された岩石が、恐竜の卵の化石と判明..........≪続きを読む≫[アメーバニュース]
朝、新聞見てビックリ!!恐竜の卵の化石が見つかったって。見つけたのは50年も前だったって。見つけて持ってたのを調べてみたらスゴかったって事やね。何がビックリって!!!これ「下関」ですやん!!!しかも見つけた場所…実家のすぐ近くですやん!!!「綾羅木川(あやらぎがわ)」毎日遊んでたわ!!!自転車で落っこちたこともあるわ(笑)そんなところに恐竜の卵ーーーーー???わぉわぉわぉっ。この近くには「綾羅木郷台地遺跡」といって弥生時代の土器がわんさか見つかった場所もある
長門国と周防国の宋からの輸入陶磁器の分布を示す。平氏政権時代を含んだ中国の宋の時代区分に対応する遺物の分布である。すなわち、平安時代後期から鎌倉時代にわたる期間の遺物分布について、政権交代があっても同様な活動を続けたたが、平氏政権時代について検討する。すなわち、平氏の経済力の一つの源泉に日宋貿易による交易があると言われているが、宋から輸入した陶磁器を瀬戸内海を経由して平安京まで帰り着く帰路の港で次々と陸揚げして、各地に販売したことが推測できる。例えば、長門国・周防国は平氏が支配した知行国であ
平安時代末期、長門国は平氏の知行国であった。すなわち、平氏ゆかりの国司が長門国衙に勤務し、最後の戦場を長門国として平氏は落ち延びて来た。しかし、長門国の中、現在の下関市の地図を見ると、東部の長府、北部の安岡以北、関門海峡沿岸は源氏に味方した。すなわち、平氏に味方する地域は長門国衙のある綾羅木川流域から彦島あたりであったと推測される。ついに平氏は敗北し、綾羅木川流域は破壊され忘れ去られ、長府に源氏の鎌倉幕府から差し向けられた守護が勤務した。綾羅木川流域に平氏の伝説が無いのは、この辺りの肥沃な水
平安時代に海水面が現在より高かった平安海進があった!下関市あたりの響灘から周防灘の海岸線も現在と大幅に異なり内陸まで食い込んでいた(参考)。この平安海進を遮って弥生条里制水田(延行条理遺跡)を護る防波堤と思しき土手(土塁)が、綾羅木川あたりの国道191号線(旧北浦街道)に一致していた。もちろん、綾羅木川の川沿いの護岸の堤防も同時に築堤したと考えられる。平安海進を+4mと仮定した地面、右手が弥生条里制水田、左手が古代の北浦海岸(響灘)、中央の台地が防波堤と推定した。現在の国道191号線にあたり
山口県西部の古代国名の穴戸の由来について検討する。綾羅木川の河口から上流、背面が響灘7世紀後半からは長門国に改称され、長府に国府かが置かれた。その前の穴戸国は綾羅木川下流域あたりを中心とし、仲哀天皇が豊浦宮を置いた。この綾羅木川は北浦海岸から響灘に流出する。この綾羅木川の河口を穴戸と呼ぶようだ、しかし、普通のどこにでもありそうな川の河口から穴戸と呼ぶようになったかどうかには自信が持てない。江戸時代、古事記伝を書いた国学者・本居宣長曰く、古代、九州と本州は繋がり穴が開いていた。ここに神功皇后
下関市にある綾羅木はアヤラギと読み、この音に別の漢字をあてると漢羅城となる。つまり、大陸からの渡来人、漢氏(あやうじ)の住む国(都市)のことであった。漢氏は広く秦氏の一派とも考えても良い。遣隋使がヤマトへの帰国の途上、隋国の使者、裴世清に竹斯の次に秦王国があり大陸の言語(漢民族のしゃべる華夏語と勘違い)を話すと説明する。すなわち下関市の綾羅木こそ秦王国であった。JR綾羅木駅綾羅木海岸綾羅木郷台地にある下関市立考古博物館参考①あやうじ【漢氏】(世界大百科事典第2版より)日本古代に
仲哀天皇が5年の歳月で穴戸を開削した伝説(参考)は、風化花崗岩の真砂土で土砂崩れの恐れのある四王司山、勝山、そして青山(古名は形山)から流れ出た真砂土で埋まった綾羅木川を浚渫した工事のことであった。ちなみに、長府から安岡を結ぶ長安線(県道247号線)と内日から新下関駅を結ぶ県道34号線の交差点で綾羅木川も流れるあたりは石原(いしわら)と呼ばれている。参考①綾羅木川の上流について綾羅木川周辺地形、綾羅木川1、田倉を源流とする砂子多川2、石原3、四王司山4、勝山5、青山(形山)6綾羅木川
イツツヒコ王国、東鯷国、穴門国、穴門の豊浦宮と呼ばれた下関市秋根、綾羅木、伊倉の3地区の昭和43年(1968年)当時の全景。ほぼ全域が弥生条里遺跡であり、中央左の秋根、中央を蛇行する綾羅木川が見える。左手の山が火の見山。かつての豊浦宮があった頃の官衙(豊浦宮)領域は秋根集落から右手の石原地区にまで渡る水田地帯を含む広大のものであったと思われる。昭和43年、青山山頂から南西方向を望む昭和38年の航空写真参考①弥生時代の計画都市、穴門国について(参考)②イツツヒコ国王の墓所(参考)
穴門は小倉の篠崎八幡宮あたりから北方向にあった。すなわち、長府は門司関と同じ方向の東(正しくは北東)方向であり、神功皇后におっしゃられた北方向には現在の綾羅木川口(真の穴門)がある。方向だけで無く距離的にも従来説の長府(=穴門豊浦宮)の方が遠く、関門海峡の急流を考慮すれば、なおさら綾羅木川(=穴門豊浦宮)の方が最もらしい。参考①篠崎八幡宮篠崎八幡神社、北九州市小倉北区篠崎御祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、宗像三女神、玉依姫都市高速、紫川インターチェンジから直ぐそこの小高い丘が篠
弥生時代は中国大陸からの難民が個別にやって来て、原始的な稲作をしたと考えられているが、間違っています。組織的な都市計画を持っていました。ここでは、弥生時代の東鯷国(中国の漢代の呼び名)の首都、すなわちイツツヒコ王国でもある下関市伊倉、綾羅木、秋根あたりを総括する。結論を先に言えば、古墳時代での国内での呼び名は穴門国または穴門国の豊浦宮であろう。1秋根地区(弥生時代からの地割に従った住宅地)2延行条里遺跡(弥生時代からの水田)3伊倉遺跡(縄文時代からの住宅地)4綾羅木郷、延行、
考古学者の最近の学説に、渡来系弥生人は北九州と山口県西部辺りに限られ、その他の地域は現地の縄文人が稲作を覚えてそのまま弥生人に移行したと主張した。渡来系弥生人と縄文人の骨格の違いについては、食糧事情の変化で説明した学説を採用した。これに基づき、渡来系弥生人が大挙して来日したことは無いとの説を支持した。この主張は誤っていることをここで指摘する。縄文人の弥生稲作移行説の研究者の誤認識(原著)弥生稲作の水田の一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の