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先月の宇治田原での維孝館中学の同窓会のこと。ほんとうに「至福」の同窓会でした。67歳のわたし。教師になって一番最初の1年目。担任させてもらった当時3年生。いまは59歳。1981年のことでした。「先生、よう勉強みてくれたなあ」そんなふうに言ってくれる元教え子もいましたが…とにかく「必死のパッチ」にやるだけでした。この同窓会でおそらく1年間ほぼ言葉を交わすことのなかった元教え子ともおしゃべりしました。「先生『僕のこと嫌いなん』とか言うてたん」(笑)けるわ。そんな次
宇治田原維孝館中学校1981年度卒業生の同窓会その年京都府教育委員会中学校教員の新規採用だった。3月26日。山城教育局そして午後田辺小へ赴任校は維孝館中学校私は京都市内出身で聞いたこともない学校名。「えっ」小林三郎校長先生に連れられて学校へ山城大橋を渡る際「ここから左が城陽市で右手が井手町そして宇治田原へはここをまっすぐ」えっ一体どこへ行くの?そして学校へ若い青年教職員が歓迎して出迎えてくれたが…黒一点は文さんだけ。そして着任時の歓迎「
少し暖かくなってきたので久しぶりにななたんを連れて散歩。そしていつものコースを帰り道歩いていると「戸谷先生じゃないですか」と声をかけられました。「だれやったけ?」ぱっとわからず。「末◯です」その瞬間記憶がよみがえる。「拓くんやな」「えっおほえたはるんですか」もう40年近く前に担任した教え子さん。近くで老人介護施設で介護の仕事をしているという。たまたま偶然。よく声をかけてくれました。話しはそのときのクラスのこと。ちょうど教師生活6年目。おもろいクラスでした。当時
宇治田原魚定本店。私が教師生活2年目3年目4年目。持ち上がった。学年の同窓会。不思議に37年間で3年間持ち上がりは2回だけ。教師生活一年目は3年担任でなにがなんだが「やる気」は100%だが…なかなかうまくいかず。落ち込むことはなかったけど…2年目。子ども達も1年生で「1」からの出発。本当に一生懸命に子ども達と関係をつくりながらいろいろ周りの先生方にも支えながらやりたいことをやらせてもらった。何より子どもたち思春期真っただ中のなかで本当にがんばってくれました。その
わずか7年間の新採教師として赴任した維孝館中学校、宇治田原町での日々であった。おかげさまで体重は栄養とカロリーたっぷりの給食(あれから40年以上になるのに、まだ京都市を含めて京都では中学校給食が実施されない摩訶不思議。これは異常なる行政の醜態です)のおかげで体重は赴任当時70㌔が90㌔になりました。まあ、若い衆で毎夜毎晩。明日の対策会議と称して「飲み会」しながら「語り合い」僕の押し入れがビール瓶だらけになったというもありますが。というわけで。体重が20㌔増えたとい
4年目中3の文化祭である。前にも書いたが14歳中2は思春期ど真ん中。]その思春期は子どもの誕生日でクラス全体としては延々とつづく。いわばひとつの「成長のトンネル」である。この時期に14歳のなかばくらいから子ども達は順にその「思春期トンネル」に突入する。なかなか子ども達は素直に意見をいおうとしない。いや、言おうとしないのではなく「大人」が決めようとしている方向に対する沈黙の抵抗かもしれない。いまは子ども達にていねいにやさしく寄り添うというのがあたりまえのことで少し
維孝館中学校。80年代。いろんな問題行動やことぢもたちの課題の背景には、思春期独特のモヤモヤとした心的風景がある。発達の節でいえば、第二の誕生といわれる時期。それまでの親や周囲の大人に依存し、かわいくふるまっていた自分から新たな自分をつくりだそうと紆余曲折する時期である。なかなか自分自身がいったいどういう代物なのか。ということもつかみかねる。大人の言うことは親にしても先生の言うことも「うさんくさく」感じる。しかし自分のいま確かな立ち位置はというと。やはり親の世話や大人の助けなくしては生きられ
秋の文化祭で「戦争展」に取り組んだ。文化祭は、意見発表。展示。ステージ発表がとりくまれる。クラスで話し合いをおこなった。この時期クラス話し合いで大切にしていたのは、「全員発言」である。全員が自分で挙手をして発言する。クラスのみんなが発言することにこだわった。日常のなかでも。こどもたちそれぞれが自分の気持ちを言うこと。時間はかかるが、みんなの背中をおす励ましで手をあげて。発言する。そうしたなかでこの「企画」が決定された。「戦争展の開催までとそれから…」戦争展開いて短い間によ
4月になった。桜の咲く季節である。一1年前新採でひとり赴任した寅次郎であるが仲間がやってきてうれしさも格別だった、たにそうは私より年齢が上であるが、とにかく読書家というか、学びがすごった。本箱に囲まれて暮らしていた。同じ社会科教師として刺激的だった。みなみくんは。破天荒というか。遊び人。よく遊んでもらった。ジムニであちこち連れてもらった。みなみくんは私の教師の最期に校長となってやってきて再会した。私は、3年生を送り出して今度は一から1年生の担任であった。可愛かった。1年生も一から。私
「寅よ。、おまえはこれからどうしたいんや」文さんが言った。「これから三月までクラスは続くんや。おもえが解決していかなあかんのや。教師は一年目であろうと子どもたちにとったら俺らと同じ教師なんや。だからおまえがこうしようと思うことを考えてやらなあかん」「教師はな。どんなこでも言われてやったらうかんのや。自分からこれが正しいかどうかわからへん。それでも、今回のことでも、おまえがこうしたいとおもって結果こうんったんや。けど、失敗や間違いはある。そのあとどうするかが大事なんや」言葉が脳の上を通
1981年3月26日朝、新規採用のための健康診断を受診していた。血圧測定で医師が「ちょっと高いなあ。」いまでも血圧測定は苦手だ。緊張する。「えっ」健康診断で採用に待ったがかかるなどありえない。「ちょっとだけまけてもらえませんか」値段の交渉じゃないが。改めて医師は再測定し、「しょうがないなあ」。血圧がどれくらい高かったのかは定かでない。ひやひやものである。そして当時、田辺町の山城教育局へ。2階の部屋で事務書類などを書いた。そのとき、宣誓書なるものがあった。「私は、日本国憲法と教
「今日、店やってんの❓今から行くわ。キョウタとミナミも一緒やし」年に2回ほどやってくるタクヤは、まあ、いわゆる当時維孝館では一番のヤンチャクレやったし、キョウタも同グループやった😐😐ミナミは他校生なんやけど、なんでか付き合いがあるのよ😙😙三家族でやって来た。ちょうど午後のお茶客がはけた後で、貸切状態😆あのヤンチャクレが😱😱😱すっかり、パパぶりを発揮して嫁さんの存在に感謝してる様子が伺えるのだった🤭🤭🤭中学時代のこの子らと、どんだけバトルをくりかえしたか😑😑😑3年生になってから、や
再任雇用も入れて、勤めた学校は全て忘れがたく輝いている❣️今日は教師生活を退職する4年間お世話になった宇治田原町の維孝館中の風が強烈に吹いた日になったのだ昨日のヤッちゃん本日の朝一のお客様は、教え子の父さんランチ一番乗りは、甘南備山に登って来たという男二人そのうちの一人は、マスクをとったら斎藤工やん😆😆😆ええ男になったがな。午後、子ども二人連れで今年初めてやって来たのはタクヤ一家❣️まあ、こんなパパになることを誰が想像しただろう🧐🧐友人のまだ2ヶ月の赤ちゃんを抱く姿の優しさよ。
僕の同級生、キヨカは奈良の西大寺に住んでいる。僕とは宇治田原小学校、維孝館中学校と一緒だった。小学校では、宇治田原キューピーズという少年野球チームに入り、共にプレーした。僕は8番ライトか補欠で、キヨカは8番ライトか補欠だった。中学でも同じテニス部に入り、楽しく過ごした。テニス部では僕がキャプテンをやり、キヨカが副キャプテンだった。丸太町にあるラーメン屋キャプテンは、そこそこ旨いし愛想が良い。さて、テニス部男子というのは、いつも隣で練習している女子に悩まされる。女子はスコートという
僕がまだアホで清らかな維孝館中学校、3年生の時だ。僕の同級生に、西川ユウジという誠実な奴がいる。同じ宇治田原町在住だ。ユウジの父も誠実で、ただ、誠実なくせに、名前だけは『なら夫』という。何でも笑えた中学生の僕らは、なら夫という名前がとても面白く思い、ユウジの事をなら夫と呼び始めた。それが中学2年の頃なので、もう3年では、クラスの男子のほとんどが、ユウジの事をなら夫と呼んでいた。ユウジも、なら夫と呼ばれたら『なに?』と返事をしていた。ある秋の事。僕は半分アホで、半分天然だったせいか、
飲み屋のママが、『あおや、あげるわ!』と言ったので、、、ジャーン♫何かな?開けてみよ!ん?これは、、、わお!ライターやん♫50個も!てことで、しばらくライターには困らないあおやでしたー♫さて、本題に移ろう。僕がアホでアホで仕方ない中学3年の話だ。古びた体育館があって、その北角が女子のクラブの更衣室になっていた。南角にはマットとかが置いてある倉庫。クラブ前になると、思春期の僕ら男子5人は、その倉庫に集まった。倉庫と更衣室の間は木で出来た壁1枚。しかも木が古くなって、
僕が中学3年の時である。『たま』という猫を飼っていた。独りっ子の僕は、たまを妹のようにかわいがった。たまはオスだった。両親は猫を飼うのに反対していたので、ある日、僕に内緒で、その猫を約2キロ離れた牧場に捨てに行った。その牧場は、野良猫の会議場のような所で、猫たちで賑わっている場所だ。とはいえ、あおやは激怒した。そして、牧場へとあおやは走った。何度探しても、たまは居なかった。僕はその周辺も探した。向かいのホーム、路地裏の窓、そんなとこにいるはずもないのに。そして2日後、僕は家からも
告知ですー。昨年数回参加させてもらった「奏狂言」。今年もまたやります!奏狂言ってなに?と思われた方は下のリンクを見て下さい。→奏狂言ってなに?その1→奏狂言ってなに?その2今回は学校公演!2年前に箏でお邪魔した、宇治田原町立維孝館中学校です。→2年前の記事3年生への授業を3日間と、3日目に全校生徒の前で演奏もさせてもらいます。演奏場所は、学校の隣りにある総合文化センターのホールです。なんと、生徒だけでなく、一般の入場も可能です!しかも、無料で!――――※
僕は中学1年から陸上部だった。走ってばかりで、何も面白くなかったので、よくずる休みをした。同級生の女子、ゆかちゃんによく叱られた。でも、かわいかった♪結局、毎日、鹿のように走るのがイヤで、2年の途中から陸上部をやめ、テニス部に入った。自分で言うのもなんですが、僕って、やっぱりテニス部やん?あまり深い意味はないので、さらっと流してね。けど、僕って、やっぱりテニス部やん?テニス部に入ったのは、女子のスコートを見たかった訳でもないし、モテたかった訳でもない。だって、すでにモテてたもの。
『J.BOY嵐山』~串鶴友の美少女・嵐山公園・渡月橋・車折神社・維孝館中学校・浜田省吾~
3日目の記事に引き続き、4日目の記事です。⇒3日目の記事京都に到着して4日目、維孝館中学校の授業としては3日目。ややこしくてすみません(^^;)この日は最終日!冒頭の写真のように、5名の代表が、全校生徒の前で3日間の成果を発表してくれました♪1日10分程度を3日間だけでしたが、全員最後まで弾くことが出来ました。本番が一番良かったです!その後は、我々コトノキ。の演奏を、全校生徒に聞いてもらいました。箏の為に作られた曲から、AKB48の曲、千本桜など
2日目の記事に引き続き、3日目の写真です。⇒2日目の記事今度は僕も写ってます(笑)あ、タイトルは3日目と書いてますが、京都に着いてから3日目という意味で、中学校での授業は2日目です。ややこしくてすみません(笑)授業2日目も基本的には同じ内容でしたが、早くも最後まで弾ける子が出てきて驚きました。合計して30分も触ってないはずなのに、本当に吸収が早くて羨ましいです(前回も書いたような笑)この日は授業後に、翌日の演奏メンバーを先生方と決めました。全校生徒
前回の記事に続き、維孝館中学校のお話です。⇒前回の記事13日から3日間、1年生3クラスで授業、最後に全校生徒の前で演奏というのが、今回の予定です。という訳で、まずは授業風景です。成田氏はとても先生っぽいですね!まぁ、元教師なので、そのはずですが(笑)どういう反応をされるかとても不安でしたが、皆楽しんでやってくれたようです。(写真は学校の許可を得たものです)授業では、桜を一通り弾けるように練習してもらいました。楽器の数が少なく、一人5~10分しか触れ
中々演奏記事を書けずにいましたら、もう1か月も経ってしましました(;・∀・)6月13日~15日まで、京都府綴喜郡宇治田原町にある維孝館中学校で、授業&演奏をしてきました!宇治田原町というのは故郷和束町の隣町で、数年前にお茶のバイトをさせてもらっていたこともあります。隣町なので、それはもうよく知っている町なのでございます。地元では「タワラ」と呼んでいました。ちなみに、宇治市の隣でもあります。そんな維孝館中学校から、授業&演奏をしてほしいと依頼を頂きました!⇒宇