ブログ記事17件
絶望の分類で書いたように、有限・可能である自己(自我)は、他人との関わり(縁起)や様々な必然的な苦(一切皆苦)やあらゆるものの虚しさ(諸行無常)によって、挫折する。ヤスパースはそれを「限界状況」と表現した。限界状況に際して、自己は自らの有限性や自由(可能性)の限界を認識する。ただそれは、明確な認識ではなく、消極的な認識と言える。ヤスパースは、自らの実存に関して積極的に認識することとは、有限・可能と無限・必然のはっきりとした境界線を意識すること、「超越的なもの」を意識することで、自己に無限
2.23ヤスパース誕生日充実している。この節をぼくも常に参照しよう。読むべし。2016年03月04日(金)18時45分00秒テーマ:絶対的意識(ヤスパース)〔原典訳〕「自己の思惟的自立」と絶対的意識「主体性」の境域2016年02月23日自分のことを自分で卑下にも高慢にも陥らず正当に評価反省判断できずして、「自己同一性」も「絶対的意識」の働きもありえない。これができるようになることが、真に思惟(penser)を身につけることであり、真の自信をもつことである。「自分自
ヤスパースの「美」観。ここに展開されている重要な示唆は、充分、高田博厚論のために役立つ。それゆえ、自分のためにここに改めて呈示したのである。2016年03月24日(木)22時03分03秒テーマ:絶対的意識(ヤスパース)〔原典訳〕〔「絶対的意識」だけはどうしても邦訳しておかなければならない。普遍的な意味がある。ときどき、適意な訳が大変困難な難所にぶつかる。我慢比べである。その間は動けない。自分が納得するまで待つ。〕3.夢想絶対的意識としての夢想(Phantasie)は愛
「一般的なものを私は愛するのではない。かけがえのない(他で代えられない)ものとして現前しているものを愛するのである。あらゆる愛をいだく存在と愛されている存在とは、その都度(かけがえなく)結ばれているのであり、そのように唯一的であることによってのみ、失われることがないのである。」ヤスパース2016.3.16奇しくも母の生まれた日(誕生日)
「本論」である「愛」の叙述のみここに呈示する。ぼくの訳業として全責任を負う。〔〕内はぼくの随想。ここでは一部略した。この凝縮されたヤスパースの叙述を聖典として毎日読めば素晴らしいことになるだろうと思う。'16.3.161.愛愛は、最も理由なく、最も自明であるゆえに、最も概念形成し難い、絶対的意識の現実性である。ここに、あらゆる「有意味的内実」(Gehalt)にとっての根源があり、ここにのみ、あらゆる「探求」(Suchen)の充実がある。良心は、愛がな
先節で「品格」ということを高田さんの文章から言ったが、これは「思索性」、「思想」性と換言されるものである。大事なことは、ただ思索・思想ということではないことである。もっと正確には、思索・思想をして思索・思想たらしめるものが問題なのである。すなわちこれが「品格」なのである。品格を品格たらしめるものは、ヤスパースのいう「絶対的意識」である(その重要性ゆえ、この欄で彼の叙述をほぼ全訳した)。その内的運動が思索なのである。そして絶対的意識は、「神」に関係する人間の自己意識である。芸術ばかりでなく
記憶とは事象の像であろうか、感情であろうか。記憶を反省して改悛するとしたら、それは感情の記憶を亡失しているからである。もし、状況とともに感情をも忘れないでいたら、改悛など生じず、そのとき懐いていた行為を今やるだろう。「絶対的意識」の翻訳のほうをお読みください。いましかありませんよ。___「芸術も愛以上に真実ではない。人生の中でそれは本当にいかなる場を占めているか?芸術を熱愛していると自称する者が、どのような愛で芸術を愛してい
絶対的意識に関して(先行節より)I絶対的意識に関して(先行節より)II非知(Nichtwissen)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕眩暈と戦慄(SchwindelundSchaudern)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕不安(Angst)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕満たされた絶対的意識・愛〔ヤスパース『哲学』原典訳〕満たされた絶対的意識・信仰a)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕満たされた絶対的意識・信仰b)c)〔ヤスパース『哲学』原典訳〕満たされた絶対的意識・夢想〔ヤスパー
「イロニー」の論述を訳していないので、訳そうと思う。「絶対的意識」の章はこれで全体を紹介したことになるだろう。ヤスパースを読むのは、ヤスパースそのものではなく、ヤスパースを勉強していたときの周囲の学問環境の不快の記憶が思い出されて、不快なのだが、ぼくとヤスパースの関わりのみに純化して、読もうと思う。1.Ironie.―(S.284-286)凡そのものの生成と消滅、時間におけるその都度個別的なものとしての経験的なものの儚さは、謂わば、現実というもののイロニーである
小説と違って哲学書は抽象的であり、小説が与える具体的表象内容は欠けている。しかし「もの」なしには真に思惟はないので、それ(具体的なもの)を自分の生活内容から汲み、そこ(自分自身)に沈潜集中することによって、自己内容との照応において、哲学の思想を理解し判断するのである。これは、小説では得られない精神訓練であり、自己の生そのものを有意味的に、謂わば内面的に形成し直して、観照・創造することを知る。これが哲学書の愉悦である。ヤスパース『哲学』「絶対的意識」の章で、まだこの欄に訳出紹介
17年ほど前から始まったセラピストとしての道のりの中で施すものと施かされるものという関係性を無くしたいそう思っていたら臨床美術と出会いその方の個性を輝かせる✨お手伝いがはじまりました。その流れの中で胎内記憶と出会い胎内記憶絵本「おもいだしたよ」を作ることになり現実でも胎内記憶がある女性に出会ったり胎内記憶は、子育てに対してのメッセージなのだろうか??子育てに関われということなのかな。。。きってもきれない、アロマ、ハーブ最近では、宇宙。レムリア。デザイン。あなたは、
きょう、読み返していて、ドイツ語引用のスペルに、二か所間違いがあった。Schweigenにeが一つ欠けていた。ほか、Nicht-にiが欠けているところがあった。いずれも、眠っていても間違わない綴りであり、ぼくも内容に集中して、そう書いたつもりだったのだろう。訂正する機会がここであってよかった。このとおり直してある。小さな間違いでも、読者のほうでももしほかに気づかれたら、お知らせねがえれば幸いである。内容は、充実したものであり、文構造に気をつけながら、じっくり読んでいただけ
この節も、検索機構側の評価が高いようだ。三度目の再録をする。ぼくの訳について一言言うと、ぼくはじっくり理解して納得してはじめて訳している。他の既存の訳で意味不明で不満足だった読者は、ぼくの訳でよく解り、満足するだろう。そうでないのはもう読者の怠惰の責任でしかない。ぼくの訳によって日本人ははじめてヤスパースの透徹した理解を得るのである。これは誇張ではなく、ほんとうであり、これをぼくはごまかさない。ヤスパース研究における自分の価値をよく解っている。文中〔〕はぼくの解説・補足である。
2016年09月02日(金)11時56分37秒テーマ:自分に向ってぼくはこういう状態だから、自分を気遣わなくてはならない。それはぼくのためだけではなく、愛するひととのかかわりのために。ぼくは、自分がこういう状態にあっても、ぜひとも自分が運命と世界とにたいして主導権をとろうとする意志がある。これは自分でもおどろくべき意志だと思う。ぼくにとってはこれがデカルトのコギトでありヤスパースの絶対的意識なのだ。帰依は主体性を廃棄するものであってはならない。主体性あってこそほんとうの帰
2016年02月18日(木)21時01分41秒テーマ:自分に向って自分のために行為することと、自分に向って行動することとは、根本的に異なるという意識感覚がぼくにはある。自己に向って行動する者は孤独で集中しており、必然的に「神」に当面する。自分のために行為する者はそうではない。本質的に散漫であり、自分に閉塞しつつ自分を意識的に分離している。ここで「自分」と「自己」とを意味的に区別したい気持になる。分離的自己が「自分」であり、「自己」は集中するまさにそのことによって
さて、ぼくは現在、このように自分で訳せば一つの社会的業績ともなるヤスパース原典訳をこれいじょう進める気持はない。ぼくの現在の現実は、可能的実存を思惟していれば済むようなものではなく、自分の実存そのものをぼくは生きているからである。ぼくはいまのような自分の現状が自分の行為の報いであるようないかなることも為していない。自分の状況の実存的我有化がぼくの内面であるにしても、それはいかなる公的な世界義認や自己帰責をも意味するものではない。魂を潰そうとして加害する悪魔に、いかなる実存的内
昨日4接続2016年03月28日(月)17時16分02秒テーマ:絶対的意識(ヤスパース)
読者が自発的に読んでくれた。ヤスパース「哲学」の文章は、じっくり腰を据えて読んでください。じつに高い教養から生まれた名言の集積と言えるので、この再呈示を「ヤスパース名言集」に加えます。2016年03月16日(水)19時07分11秒テーマ:絶対的意識(ヤスパース)順序不同になっても、絶対的意識の主要内容だけは訳しておこうと思っている。「満たされた絶対的意識」(daserfüllteabsoluteBewußtsein)の総て〔II.276-284〕。これは前文
テーマ:絶対的意識(ヤスパース)