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青年日本の歌(昭和維新の歌)である。二・二六事件、君側の奸と見なした重臣を襲撃した。(岡田啓介、斎藤実、高橋是清、鈴木貫太郎、渡辺錠太郎、牧野伸顕)・国会、警視庁、首相官邸。それらの帝都の要を担う施設にも攻撃をした。1936年(昭和11年2月26日-2月29日陸軍皇道派の青年将校が1,483名の下士官・兵を率い明治維新に継ぐ、天皇を中心とする「一君万民」の思想実現のために「昭和維新」を目指して「君側の奸」である政府要人を襲ったものだ。陸軍内部の皇道派と統制派の対立。皇道派の昭和天皇への恋
皆さんは、今日は何の日か知っていますか?いつの時代にも考え方が違えども、互いに國を想う気持ちは同じ。昭和初期、世界恐慌による日本経済が悪化や政党政治の争いによる政治腐敗、農村・漁村の困窮など世の中が不安定な状況と陸軍内部の対立が重なり、陸軍皇道派の青年将校らは君側の奸をを排除すれば天皇親政が実現すると考える。二二六事件昭和11年2月26日、雪降る早朝の東京。国家改造(昭和維新)を目指す皇道派陸軍青年将校・下士官1400人余は、昭和維新・尊皇斬奸をスローガンに決起。東京を占拠し軍・政府
❝【日本という怪しいシステムに関する一見解】(初稿1999.10.29)平成15年5月16日改定岡山県井原医師会鳥越恵治郎(H26年4月17日一部改定)http://www.ibaraisikai.or.jp/information/iitaihoudai/houdai37.html第37話「日本という怪しいシステムに関する一見解」※この記事は一冊の本になるような長文の論文です。学校教育では日本の近現代史は尻切れトンボ傾向のようですが、今日に繋がる20世紀の日本の赤裸々な史実を通し
前回に引き続き、開戦から400日を経たロシアによるウクライナ🇺🇦侵略について記して参ります。ウクライナ侵略を巡っては今回のエントリーが15回目になります。4月に入り、ウクライナ東部戦線は依然として予断を許さない。東部戦線は大きく6つの戦線を抱え、4月末の段階では1日に繰り広げられている戦闘は30〜50件。6つの内、ドネツィク州南部のヴフレダールなどでは戦闘が行われていない日も出てきており、焦点は要衝・バフムート(別称はアルチェモフスク)に移っている。前回のエントリーでバフムート戦線は撤退含みと
二・二六事件の青年将校と藤田東湖の水戸学及び西郷隆盛昭和十一年二月二十六日未明、歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、近衛歩兵第三聯隊、そして野戦重砲第七聯隊所属一千五百名余の下士官及び兵が同部隊所属の若手将校(少尉、中尉、大尉)に指揮されて、岡田啓介総理大臣鈴木貫太郎侍従長斉藤實内大臣高橋是清大蔵大臣渡辺錠太郎教育総監牧野伸顕前内大臣を襲撃し、斉藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監を射殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせた。この老重臣を決起して
226事件青年将校は、農山村漁村の窮状を救いたくて決起したそれは反資本主義であり天皇の君側の奸臣を取り除けば正しい政治になるとの、考えであり、皇道派ではあるが財閥などの排除は、反資本主義である事件後統制派は、皇道派を排除したが統制派は、ドイツ式中央集権統制経済軍部主導の反資本主義どうせ、日本の共産党だって反資本主義武力革命であれ、選挙による政権獲得であれ目的が平等の実現なら自由の制限は当然にするだろうからそう、農山村漁村を救うと言う青年将校と変わりはないだって
2.26事件と選挙について、過日死去した日本近代史の権威、坂野潤治氏の仮説がなかなか面白い。『第日本帝国の民主主義』『昭和史の決定的瞬間』に詳しい。氏によると、陸軍皇道派は荒木陸相と犬養首相の関係から、政友会に近かった。一方、統制派は永田軍務局長が革新官僚や社会大衆党に接近した関係で左派色があり、民政党とも親和性があった。5.15事件は犬養政友会内閣へのテロリズムなので、陸軍の安藤大尉などは反対。主力は海軍と民間右翼であった。そして、永田暗殺後政友会(鈴木、久原ら)は皇道派と本気に取引き
思想家村上一郎は、北一輝論で、恋闕者として、北が女性を「たをやめ」として極美にきたえようとした志向と、天皇を政治=権力から脱屣させようとした志向が相通っているとして、北は女性と天皇とをともに憧れの対象として生きさせようとした。皇道派は叛乱軍にあらず、恋闕の心を持った愛国者である。
2月26日は【2.26事件の日】です。この【2.26事件の日】について調べてみました。【2.26事件の日(に・にろくじけんのひ)】1936年(昭和11年)のこの日、2.26事件が発生した。陸軍の皇道派の青年将校が、対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した。内大臣・大蔵大臣等が殺害され、永田町一帯が占拠された。当初、陸軍の首脳部は青年将
私たちは“仮想現実の世界”に生きている!4)『歴史は勝者が作る』今も生きている歴史の中の“ウソ”②先に述べた皇統派と統制派という二つの考え方に対して、特に第二次大戦末期に支配的となった三つ目の考え方がありました。それは、『戦陣訓』の作者の一人であり、東条英機のブレーンでもあった中柴末純によるものです。中柴は、当時の政治の仕組みからは、軍部には内政や外交についての権限はなく、いつ誰と戦争をするかを軍部が決めることはできないこと、また、戦争は相手のあることであり日本が避けようとしても相手か
昭和天皇は内閣総理大臣となっていた東條英機から開戦の手順の報告を受けた。その時、昭和天皇が「うむうむ」と応じ、動揺を見せなかったことから、東条は「全く安心している。このような状態であるから、既に勝ったと言うことができる」と述べたという。この時には既に太平洋戦争の開戦は決まっており、開戦の手順の報告を受けただけであった。昭和天皇の真意とは無関係に開戦が決定されて、既定の開戦の手順を一方的に説明されていたことになる。だいたい、東條英機は酒の匂いをプンプンさせ、天皇の前に進むこと自体が不敬であり、天
最近の安倍晋三首相を叩く朝日新聞の報道姿勢を見ていると、明治維新以来の長州藩閥が作り出した近代的な自由・民主・資本主義が目の敵のようである(参考)。戦前の軍国主義も明治維新以来の長州藩閥に反発して成立した陸軍内の派閥の統制派によるものであるが、この統制派と旧幕府方の藩出身の創業社主・社長が経営する朝日新聞とが結託して日本の進路を誤らせる横車を押した結果が日米戦争の敗戦であった。政治の誤りを正すのが朝日新聞とのイメージは大間違いで、結果的には横車を押して進路を誤らせているのが朝日新聞であった。
満州事変の成功から満州国の建国、第二次世界大戦の敗戦へと突き進む軍国日本の流れは陸軍の統制派によって主導された。この統制派の主要人物として東條英機や石原莞爾が有名であるが、彼らの出身地は戊辰戦争において賊軍に属しており、当時は既に消滅していた長州閥に反発していた者たちだった。参考①陸軍内皇道派と統制派(参考)皇道(こうどう)派は荒木貞夫・真崎甚三郎(まさきじんさぶろう)らが率いる陸軍内の派閥で、彼等の急進的な国家改造案に共鳴した青年将校層の支持を得た。統制派は皇道派に反発して中堅幕
今日は2月26日。有名な二・二六事件が起こった日ですね。思想家・北一輝らに感化された陸軍皇道派の将校らに率いられた約1500名の兵士が決起し、首都・東京の中枢部を占拠しました。内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清らが暗殺された他、総理大臣・岡田啓介や侍従長・鈴木貫太郎らが襲撃を受けました。福岡県出身の私にとっては、むしろ事件後に内閣を組織した廣田弘毅の方に思いを馳せます。岡田内閣が総辞職すると、次の首相に廣田が推されますが、廣田はこれを頑なに固辞。近衛文麿や、外務省の友人・吉田茂ら
城を訪れる観光客数は増え続けており「城めぐり」がブームとなっています今年4月には「続日本100名城」が発表されこのブームはまだまだ続きそうですそこで今号では、「城」という切り口から、戦国史を捉え直す特集を組みました戦国時代には、城を舞台に武将たちが存亡をかけた、数々の戦いがありましたまた、戦さのための城から権力誇示や領国経営のための城へと城自体も大きく進化を遂げました本特集では、写真やイラストを用いて城そのものの魅力を紹介するとともに城を入り口にして、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめとする
*「17東大日本史本試Ⅳを考える①」の続きです。*問題は「東大教室(17東大日本史本試Ⅳ問題)」をご覧ください。第4問近代(政治)大日本帝国憲法下における内閣と軍部解説②■軍部大臣現役武官制の全容加えて、「軍部の自立性」に密接不可分な要素として、軍部大臣現役武官制を指摘することができる。設問Aとも関連するが、ここでその全容を再確認しておこう。軍部大臣現役武官制とは、陸相(陸軍大臣)・海相(海軍大臣)の任用資格を現役の大将・中将に限定する制度をいう。この制
はじめはタイトルと別の問題男性なら誰もが恐れる「痴漢冤罪」…疑われたら逃げるべき?-AmebaNews[アメーバニュース]http://news.ameba.jp/20170223-1144/1度逮捕されたら流れ作業的に犯人として扱われてしまう。警察は指に付着した繊維片を証拠として取ってはおく。ただ身の潔白が晴れるまでは否認や黙秘を続ける限り檻の中に入れられたままで苦痛を強いられる。警察には警察の仕事があるのは分かるのだが、ただ身の潔白が晴れたとしても警察、検察が謝ったりはしな
脱出ゲーム、好き?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようしたことないよ。よくわからないよ。インベーダーもマリオもすぐダメになるからゲームはいまいちだよ。2.26事件もう遠い彼方だね。純真な青年将校は日和見の上官にはしごを外された感があるけれど一番の責任者は昭和天皇ね。蹶起部隊の中に自分よりも軍人に人望の厚いしかも軍人としてははるかに優秀な弟の秩父宮に関係のある部隊がいたから皇位をとられるかと疑心暗鬼になったのね。それでヒス
2-6軍部の台頭②(高橋財政・皇道派・統制派など、SNG下p.100~p.104)➊高橋財政期に展開された諸政策を、簡潔に説明せよ。→参考:「一橋大論述新研究38(10-Ⅱ問1を考える)」➋高橋財政の後半期に日本経済が直面した新たな課題を、簡潔に説明せよ。→参考:「一橋大論述新研究39(10-Ⅱ問2を考える)」➌皇道派とは何か、簡潔に説明せよ。➍1935年の国体明徴声明がもたらした結果を、簡潔に説明せよ。➎広田弘毅内閣のもとで実行さ