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五・七・五、最初は、何でもいいのさ。自分の気持ちを言葉に載せる。自分の感情(emotion)をね。ひょいと言葉に載せてみる。其処こそ、いろは。始めてみる事だ。と細川幽斎は気さくに謂った。そのうちに古人の歌も気になるものさ。
いつもありがとうございます。きもちどころ舞鶴店です。本日は舞鶴にあるお城、田辺城を紹介いたします。田辺城は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として伊佐津川と高野川に築かれました。田辺城で行われるイベントでは、細川幽斎のイメージキャラクター「ゆうさいくん」に会えるかもしれませんよ♪歴史が好きな方は一度訪れてみてはいかがでしょうか?アロマリンパ60分+葉マム60分+タントリュクスオイルの女性向け更年期対策メニュー!◆アロマ施術が男性スタッフに
前回、明智玉(細川ガラシャ)が受けた本能寺の変の影響について書きました。『本能寺の変によって明智玉に起きた事』私の過去世が明智玉(細川ガラシャ)であるとすれば、彼女の人生を振り返る上で避けては通れない出来事の一つ、本能寺の変によって起きた出来事について知る限りの事を書…ameblo.jp前回は時系列で書きましたが、本能寺の変に関して実際思い出した順番としては、本家の人物らしき男性に「玉を殺せ」と言われたのが一番最初に脳裏に走った映像でした。明智玉に関連して何かを読んだ時という訳でもなく
詠花鳥和歌葉月藤原定家鹿鳴草(しかなぐさ)秋たけぬいかなる色とふく風にやがてうつろふもとあらの萩初鴈(はつかり)ながめつつ秋の半も杉の戸にまつほどしるき初鴈のこゑ心を形に古くから日本人は心の鍛錬が難しいことを知っている。そこでまずは形から整えていくことを大事にしてきた。心を知り、形を整えそして心をこめる。日本人が育んできた心、歌の道和歌や連歌にも通じる道だ。一座建立の奇跡はこの道程
私の過去世が明智玉(細川ガラシャ)であるとすれば、彼女の人生を振り返る上で避けては通れない出来事の一つ、本能寺の変によって起きた出来事について知る限りの事を書きたいと思います。本能寺の変の起きる一月ほど前に、父光秀が宮津の玉の元を訪れた時の様子は以前書いた通りです。『本能寺の変直前、父光秀の様子』細川ガラシャ、明智玉の過去世について綴ります。本能寺の変直前の明智光秀の様子については、まだ細川ガラシャを知ったばかりの頃に頭に流れ込んできました。私の中の情…ameblo.jpそれ以外は何もかも
利休の島津家老へ出した書状「千利休」桑田忠親著2011/6/1初版p53大阪城に於ける利休の権勢側近の細川幽斎と千利休に命じ、島津家老の伊集院忠棟に宛てて同様(大友氏との和睦を即す)の趣旨の連署状を、少し穏やかな文章で伝達し、暗に秀吉への降伏を勧告している。「万が一、これをご承諾なされぬとならば、必ず兵を用いるご所存で有る。ご分別なされるのは、この節でござろう」と、脅かしている。伊集院忠棟は歌道に於いては細川幽斎の門人であったし、茶湯では利休の弟子であったと言う。
利休の茶会で氏郷が千鳥の香炉を見せて欲しいと所望した時、利休不機嫌になり、客の前に転がした。同席した細川幽斎機転で、利休の機嫌は直ったが今日の茶会が趣深く終わったのに何故必要の無い香炉の拝見を望んだのか?何事によらず興の過ぎるのは良くない。コレはアルアルですね!大寄せ茶会でも特に正客を差し置いて話し出し、自分の勝手な連想だけで他の人には全く関連がない様な話をし出す人がいます。そう言う人は大体において、道具重視の数寄者に多いです(苦笑)それにしても相変わらず利休は気が短い
利休の茶会で氏郷が千鳥の香炉を見せて欲しいと所望した時、利休不機嫌になり、客の前に転がした。同席した細川幽斎機転で、利休の機嫌は直ったが今日の茶会が趣深く終わったのに何故必要の無い香炉の拝見を望んだのか?何事によらず興の過ぎるのは良くない。コレはアルアルですね!大寄せ茶会でも特に正客を差し置いて話し出し、自分の勝手な連想だけで他の人には全く関連がない様な話をし出す人がいます。そう言う人は大体において、道具重視の数寄者に多いです(苦笑)(利休の項でも同様に記載)
7月7日(金)天気34度/22度🌤️→☁️→🌧️今日は七夕ですね。夜から雨が降りそう。北近畿の旅西舞鶴〜天橋立その③天橋立を散策したあと、天橋立駅から西舞鶴駅へ戻ります。丹鉄の観光列車“青松”号に乗ることができました。“青松”は観光用に車内も改装されています。ワンマン列車ではなく、要所要所て女性乗務員が観光ポイントを説明してくれます。復路も“由良川橋梁”堪能しました。西舞鶴駅に到着したら“丹後の海”号が入線していました。西舞鶴駅に到着したあと、舞鶴港ク
京都府舞鶴市金剛院ここは秋の紅葉🍁の時期が有名ですが、新緑の初夏の頃も見応えあります。重要文化財の三重塔が映えますね。本殿も風格あります。少し長い階段を登りすがまた、戦国武将の細川幽斎のプロデュースの庭園があります。風流人らしい庭づくりが立派です。松尾寺の近くですので、ここも寄るのもいいですね。どちらかと言うと松尾寺の方が有名ですが笑笑
乱都(文春文庫)Amazon(アマゾン)367〜2,475円「京は、人を滅びへと誘う魔性の地だ。京を制したいという欲求に、人は勝てん」権力に魅入られ、己の有利のために争い、騙し、裏切る。敵になったり味方になったり、まつりごとよりも権力の座をいかに掴むか。その結果生じる京の町や人々の苦難を顧みない。応仁の乱前後から信長、ちょっとだけ秀吉までの京の権力者の栄枯盛衰を描いています。畠山義就(はたけやまよしひろ):幕府から離れ河内に己の国を築きたいと望む細川政元(ほそかわまさもと)
ひさしぶりのUPです。ぁ、いつも「いいね」やフォローありがとうございます♬長らくInstagramはお休みしてるんですけど、ぶらぶら町歩きの写真がけっこう貯まってまして。順番にPhotos付きでご紹介できたら、と思います。北京都(舞鶴市、福知山市、綾部市、宮津市、京丹後市)のわりと最近に「社会保険年金事務所」に用事があって、田辺城跡へ、行ってきました。まいづる市役所所在地が田辺城門跡なんです。ここで、パスポート申請した記憶があります。細川
【きょうの人】0603細川幽斎(藤孝)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■細川幽斎(藤孝)戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人ほそかわゆうさい/細川藤孝(ほそかわふじたか)天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日)
細川さんと話をしていて感じるのはテレビで見ているのと全く変わらず、穏やかな語り口で、一切力みなどがなくて、高貴な方というのは、こういうものかと思ってしまう。それにしても、細川さんのご親族がすごい。細川さんの母親は、公爵近衛文麿の次女・温子さんで、細川さんは、細川家の当主でありながら、あの近衛文麿の孫に当たっている。そのため兄の護熙さんが細川家を継ぎ、弟の忠煇さんが、近衛家を相続することになって、宮中の歌会始などでは、和歌の読み上げなどは忠煇さんがなさっている
二層櫓(彰古館)の二階に上がってきた。↓彰古館二階門櫓からも景色は見たが、ここでも外を見てみよう。↓続櫓の屋根_彰古館より↓愛宕山_彰古館より愛宕山の存在が目についた。標高は213m。古くから信仰の対象とされてきた。↓北の山地_彰古館より舞鶴市は、海と山とに囲まれている。田辺城は、別名を舞鶴(ぶかく)城と云う。紀伊田辺藩と区別するため、「舞鶴」という地名が定着した。そーいや、唐津城も舞鶴城ゆうとったな。。↓本丸井戸跡では彰古館を出て、城内を見てまわろう。まず目についた
宮津を後にして、西舞鶴へ。↓KTR801KTR801。2022年冬から、これとは違う新デザインの車両が運行しているみたいだが(訪問は2022年9月)。この時間に来るのは、あおまつ号って聞いてたのに、何故かこいつが来た。。↓由良川電車内でこれから行く田辺城についておさらいしているうちに、由良川橋梁を過ぎてしまい、絶景を見逃すミス。悔しまぎれの一枚。↓太鼓堂西舞鶴駅で下車。駅前に目立つ太鼓堂型の時計塔。こういう雰囲気作りも、観光地にはとても大切。↓明倫館移築校門駅から徒歩7
古代より朝廷に食料を献上する「御食国」(みけつくに)との一つでした。日本海で獲れた魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれて、特に18世紀後半からたくさんの鯖が若狭の海で陸上げされ、「鯖街道」と称されるようになりました。そんな街道の若狭と近江の国境である熊川に位置し、若狭街道を見下ろすようにに伸び丘陵上に築かれています。東側は河内川、西側は急斜面に守られた立地にあります。入城に関しては👇の資料館にて概要図をいただいて行ってきました。「若狭鯖街道熊川宿資料館」「宿場館」に御城
本因坊算砂の一世代前の碁打ちには、仙也、宗心のほかに樹斎という人物もいる。宗心の時にも紹介したが、吉田神社神主、吉田兼見が記した『兼見卿記』によると、天正6年(1578)10月10日と11日に細川幽斎の居城、勝竜寺城において宗心と樹斎の対局が行われたという記述がある。10日の対局は食後に宗心徳番(互先の先番)で始められ、宗心が15目勝った。家康の孫である姫路藩主松平忠明が寛永年間に編纂したとされる『当代記』の中で、慶長12年(1607)12月22日の記事に「樹斎五十余」とあることか
【経営コンサルタントの独り言】アナウンサーは正調派標準語を話せ!!421平素は、ご愛読をありがとうございます。経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うブログで、毎日複数回つぶやいています。■アナウンサーは正調派標準語を話せ!!421テレビ放送が開始されて65年ほどになるのですね。故大宅壮一氏がかつて「1億総白痴」ということを仰って、俗悪番組を非難していました。ご記憶の方も少なくなってしまってい
【きょうの人】0422細川幽斎(藤孝)生誕武将・大名ですが歌人としても知られる独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。■細川幽斎(藤孝)生誕武将・大名ですが歌人としても知られるほそかわゆうさい/細川藤孝(ほそかわふじたか)天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日)戦国時代
本日もイマイチ体調が優れん。オマケにこの後から忙しい。なんで、今日も過去吟味済みガチャでお茶を濁させて頂こうと思う。そんなワケでこちら『【信長の野望20XX噺】栄耀の煌』なんか信長さんのスキル鍛錬が来ているな。お知らせに無いよな?イベントダンジョンのNPC援軍の信長さんのスキルに▲が付いていて、おや?と思ってストーリー無しのス…ameblo.jpにて吟味済みである。足利兄弟、悪くないのだが……どちらかと申せば固有が魅力的かな?それに星4勢に地雷もチラホラ。特に氏姫さんが来た時の
期間:2023/03/28〜04/12天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)足利義輝:剣気森然呪)足利義昭:不撓の鞆公方薬)足利義栄:望京の奄賢武)足利氏姫:志操堅固の姫呪)浄光院:獅子の孝女戦)細川幽斎:文物の護り星3薬)松井友閑:心眼・参戦)松井康之:心眼・参星2覇)足利義氏:機特効・弐戦)大館義実:練磨©コーエーテクモゲームス
戦国時代に、当代随一といわれた文化人細川幽斎その幽斎が伝承にかかわった「古今伝授」にまつわる物語を紐解き当時、命を懸けて戦をしていた武将たちがその戦の勝ち負けを超えて大切にしたものについてお話したいと思います♪ご視聴いただけたら嬉しいです♪【日本史】細川幽齋に学ぶ「武士の誇りより大切なもの」https://youtu.be/eUbSFVHfTrk
先日NHKの「英雄たちの選択」という番組で、「和歌と刀細川幽斎」(細川藤孝)が取り上げられていて先日桜を詠んだ和歌として取り上げた、紀友則百人一首33の「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散るのだろうか。と注釈したが、この番組では、文字通り理解すれば、「風もなく穏やかな日に花が散っている」と読めるが、それを、その時代に古今伝授を継承した細川幽斎は、「たと
英雄たちの選択「細川幽斎」を見ました。感想を書きます。放送を見ると「古今伝授」が相当重いように感じられました。古今伝授とは、天皇が編纂を命じて作られた勅撰和歌集である「古今和歌集」の注釈なしで正しい詠み方、正しい解釈をするように、弟子たちにたたき込むこと。だが歴史は浅く、始まりは室町時代中期の人。東常縁(とうのつねより)と言う人が、宗祇(そうぎ)と言う人に伝承したのが始まりで、宗祇流古今伝授と言われる。(角川選書:渡部泰明著:「和歌史」より)それが室町時代後期、伝承の
勝竜寺城公園高麗門と二層櫓かつて京都府長岡京市勝竜寺にあった勝竜寺城は、南北朝時代に、古くから交通の要所であったこの場所に、北朝方が南朝方の京都侵攻を防ぐため築いたと言われている。戦国時代には三好三人衆の勢力下に置かれていたが、永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する直前に、信長の勢力下に置かれている。元亀2年(1571)には細川藤孝(幽斎)が山城西岡一帯を信長より与えられ、勝竜寺城を居城として二重の堀を持つ堅固な城へ改修している。天正6年(1578)
自分は「菩薩」の領域には達してないから、「好きだ」「嫌いだ」で頼まれごとを選り分けてしまう。まだまだですなぁ…「イヤなほうから幸運の矢というのは飛んでくる」(萩本欽一)まさに、頼まれごとも、一見すると、イヤほうから飛んでくることがある。苦手なことや、ちょっと自分には難しいなと思うようなことだ。戦国時代の茶人、細川幽斎は茶道の奥伝として「重きものは軽く扱え」といったという。また、「大事の思案は軽くすべし」という「葉隠」の言葉もある。まさに、お見合いをして、
『名歌名句辞典』(佐々木幸綱・復本一郎/三省堂)より選句細川幽斎(ほそかわゆうさい)HosokawaYusai狂歌詞書太閤秀吉公の御前にて御ひざうのゐど茶わんうちわりける時つゝいづゝつわれしゐど茶わんとがをばをれがをひしけらしなWords:AsongcomposedwhenthetreasuredteabowlofTaikoHideyoshibrokeinfrontofhim.Ateabowlbrokenintofivepiece
本能寺の変の後起きた事は思い出したくもない。だけど藤孝様も忠興公も好き勝手言われて誤解されたままなのは悔しく、このままではまた未練が残る。
【裏関ヶ原】講談社文庫【著】吉川永青関ヶ原の戦いにおいて、各々の志をもって挑んだ武将たちの短編小説。黒田如水の無念と新たなる希望であったり、織田秀信の切ない物語など、6人の武将の話が描かれています。総ページ数はそう多くなく、その上で短編小説なので読みやすい。短編小説とはいえ、各々なかなか興味深い話でした。『裏関ヶ原』(吉川永青):講談社文庫製品詳細講談社BOOK倶楽部あの日、それぞれの「関ヶ原」があった。黒田如水佐竹義宣細川幽斎真田昌幸最上義光織田秀信東軍と西軍、徳