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天海(168)「慶長五年七月廿七日、八條宮智仁親王、西軍ノ長岡玄旨(幽斎)ヲ丹後田辺城ニ囲ムヲ聞キ、侍臣大石甚介ヲシテ、之ヲ諭シ、城ヲ致サシメラル、是日、玄旨、之ヲ辞シテ、古今集證明状及ビ和歌ヲ親王ニ、源氏抄・二十一代集ヲ禁裏ニ献ズ。」(「史料綜覧」)さて、僅か500名の守備兵で1万5千の西軍に攻められた細川幽斎は既に風前の灯火であった。ここで幽斎は「搦手」を繰り出す。朝廷から八條宮智仁親王が田辺城にやって来たのである。「幽斎殿は三条西実枝から歌道の奥義を伝える
天海(162)「内府ちかひの条々」「一、五奉行、五年寄どもが連判で誓ったのに年寄二人(三成、長政)を追放した事。一、五奉行のうち前田利長が潔白を証明するために誓紙まで出したのに、景勝征伐の為人質まで出させた事。一、景勝に何の咎もないのに誓紙を違えて、置目に反して、征伐しようとしていること。一、知行を自分の独断で行って、忠節もない者に宛がっている事。一、太閤様が定めた伏見城の留守居を追い出して徳川軍を入れた事。一、十人(奉行と年寄)しか誓紙
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こんばんは!吉野桜の続きです。上の千本まで来ました。ここでちょっと一服、葛餅を頂きました。竹林院に入ります。聖徳太子の創建と伝わる寺院です。入って右側は、宿坊になってます。庭園の群芳園は、千利休が作庭し、細川幽斎が改修したといわれ、大和三庭園のひとつひとつになっています。昨年はもっと綺麗でしたが、今年の桜は散りかけですね。来るのがちょっと遅かったです。水面が花いかだになってます。竹林院を出ます。次は、櫻本坊に入ります。本堂櫻本坊を出ます。途中、わかの店に寄ります。わか
には、歌道の伝統が絶える事を憂慮した後陽成天皇の勅命で救われた戦国武将は誰か?後陽成天皇の勅命によって救われたのは、細川幽斎である。関ヶ原合戦の際、幽斎が守る田辺城(舞鶴城)が西軍に包囲され、降伏開城を迫られたが、幽斎は応ぜず死を覚悟した。幽斎の持つ「古今伝授」が断絶するのを憂いた天皇は勅使を派遣し、幽斎には降伏開城を西軍には包囲解除を命じた。双方が応じた為、幽斎や籠城兵、古今伝授(因みに古今伝授とは古今和歌集の解釈を師匠より教示されたもの)も
天海(122)家康は義久邸を出ると、その足で幽斎のもとを訪ねたのである。幽斎は薩摩の内情を詳しく知っていた。「龍伯殿は表裏があり、なかなかの食わせ者ですぞ。薩摩は老中の合議といえば聞こえはいいが、私に言わせれば、誰も彼も無責任なのだ。」と穏和な幽斎にしては珍しく辛辣である。「龍伯殿は、配下の者に、お殿様としていい顔をしたいのであるが、その一方で問題が起きれば家臣に責任を撒擦り付ける。自分には責任が及ばぬように、のらりくらりといつまでも態度を決めない。最後はくじを
2024.3.5.ずっと!行きそびれていた細川藤孝のお墓参りへやっと、行ってきました南禅寺の塔頭の天授庵。細川藤孝が再興し、菩提寺としました(細川家の墓)細川藤孝の墓(廟)へ廟の中に五輪塔があり、妻と一緒の夫婦墓となっている様です。有名な武将なので、説明書きは割愛します隣には、細川忠利の遺髪墓も(忠興の息子で、藤孝の孫になります。)
天海(121)こうして幽斎により蔵入地を増やしてもらい、大名権力を強化したはずの義久であったが、家臣の強い反発を受けて、所領の再配分に応じてしまうのである。せっかくの幽斎の財政改革は骨抜きにされたのであった。朝鮮遠征の義弘は1万人の軍役に対して5千人程しか集められなかったが、文禄の役で奮戦した。それでも絶えず兵員不足、兵糧不足に悩まされていたのだ。そのような過酷な朝鮮在陣で、薩摩家次期当主に内定していた嫡男・島津久保(正室は義久の娘・亀寿)は病死してしまうのである。失意の義
天海(120)九州征伐の敗戦で、島津家は混乱を極めた。島津家は、もともと、一族衆や国衆の力が強く、戦国大名に権力が集中していなかったのである。この弱点を稀有な戦闘能力を持つ4人の兄弟が補い、九州統一目前まで突き進んだのである。しかし、その後の敗戦により、島津家の求心力が一気に弱まり、一族・国衆が勝手なことを始めたのである。それでも島津家中では当主・義久の権威が高く、談合と呼ばれる老中の合議制によって、家中は辛うじてまとめられていたのだ。それに比べ弟の義弘の政権基盤は
天海(119)慶長3年(1598年)11月25日、家康と利家らは明水軍が日本軍の帰路を妨害しているとして、筑前国名島城にいた三成と浅野長政に、高虎と協議するよう指示した。三成らは博多に待機していた高虎を呼び出すと、帰国する朝鮮諸将の護衛のため対馬海域に出撃することを命じたのである。高虎は伊予水軍を率いて、またしても船上にいた。船の舳先に腰かけ、大海原を見ていたのである。今日の対馬海峡は、冬にしては穏やかであった。「殿、ここにおられましたか。」と声を掛けられ、振り向く
くろごませんべいですこんばんはかつていろは歌に関心がありながら書物が手に入らずやっと手に入りましたこちらは品切れが続き、中古では2万円を超してます大ボリュームの内容です。百科事典の情報量なので買って満足だと思われます謎のいろは歌知られざる歌聖・物部良名の知略[光田慶一]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}いろは歌はダイイングメッセージが込められてますまずは数年も前に書道番長様が記事にしております『いろは歌は実は怖い意味
天海(74)伏見城の徳川邸にも小さな茶室があった。そこで家康と天海は来客を待っていたのである。やがて、幽斎が入室してきた。幽斎と目が合うと天海は深々と礼をした。幽斎はまず、家康に秀次切腹事件で口添えを頂いたことの礼を述べた。家康は上機嫌で頷くと、傍らにいた天海を紹介したのである。「御無沙汰を致しまして誠に申し訳ございません。幽斎様には格別のご配慮を頂きありがとうございます。またこの度は愚息がお世話になり、心から感謝申し上げます。」と天海は平伏した。「実に久方ぶりであ
天海(68)五大老と五奉行は豊臣政権の最高権力機関であったが、その上下関係も判然としない、曖昧なものであった。この後に成立する江戸幕府は緻密な行政組織を持っていて、前田・伊達・島津等の大大名は一切幕政に関わらせなかった。豊臣政権は大大名を政権内部に取り込むことで政権を安定させたかったのであろうが、結果として政権内部の権力抗争を強めることになったのである。伍助が江戸に入ったのは文禄4年(1595年)11月も半ばであった。この頃、家康は伏見城に詰めていて、江戸には不在で
天海(65)品の良い清楚な茶室の奥に幽斎が座っていた。幽斎は庄兵衛を見るなり、愛好を崩した。「おお、来たか。実に懐かしい顔だ。”朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。”だな。」と言って、居住まいを正した。「いえいえ、滅相もございません。大殿様にお目に掛れて恐悦至極にございます。」と庄兵衛は冷や汗をかきながら答えた。「今さら何を大袈裟なことを言っているのだ。庄兵衛、お前はあまり変わらないな。」というと自分の禿頭をポンと叩き、「オレはこのように剃髪したから、少々老
天海(64)文禄4年(1595年)秋、三沢庄兵衛は、伍助を連れて京都に来ていた。昨年の京都は朝鮮における日本軍の連戦連勝に沸き立っていた。それがどうだろう。僅か1年余で、京都は暗く沈痛な雰囲気に包まれていた。誰もが口を閉ざし、何かに怯えているようであった。「京の人々は皆、憂鬱な心持の様ですね。」と伍助が言うと、「関白様の件で、心寒いのだ。誰も関白の謀叛など信じておるまいて。」と庄兵衛は答えた。「奉行衆は関白様の悪行を今さらのように、巷間に広めていて、殺生関白などと悪
期間:2024/01/16〜01/23天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)足利義輝:剣気森然武)白井の局:泥中之蓮武)松永久秀:梟雄の志戦)細川幽斎:文物の護り薬)足利義栄:望京の奄賢戦)三好長慶:阿波の天下人星3戦)岩成友通:心眼・参星2戦)大館義実:練磨©コーエーテクモゲームス
※こちらの記事は、令和3年8月19日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第48弾として、「田辺(たなべ)城の戦い」について、実用的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【合戦シリーズの過去記事(抜粋)】江古田原沼袋合戦権現山の戦い第一次国府台の合戦川越城の合戦志賀城の合戦郡山城の合戦厳島の合戦四万十川の合戦今山の合戦耳川の合戦金ヶ崎城の合戦一言坂の合戦三方ヶ原の合戦叡山焼き討
期間:2023/12/31天井:300(100&200時に星4と交換可)倍率:2倍初回:半額覇)足利義輝:剣気森然呪)足利義昭:不撓の鞆公方薬)足利義栄:望京の奄賢武)足利氏姫:志操堅固の姫呪)浄光院:獅子の孝女戦)細川幽斎:文物の護り星3薬)松井友閑:心眼・参戦)松井康之:心眼・参星2覇)足利義氏:機特効・弐戦)大館義実:練磨©コーエーテクモゲームス
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天授庵は南禅寺の塔頭のひとつで、南禅寺15世虎関師錬が、大明国師の塔所として開きました。応仁の乱で焼失した後、細川幽斎により再建されます。数年前には本堂の特別公開で、細川幽斎ご夫妻の肖像画が展示されたのを見に来ましたが、最近は全然本堂は公開されていません。シュウメイギクがかわいい♪のぞくだけ~細川家の家紋です。京都の街中でも紅葉が早い天授庵ですが、思ったよりすすんでいなくて、くすんだ感じ。やっぱり今年は暑すぎて、紅葉する前に散っているものも多いです。書院
さて、昨日『【信長の野望20XX噺】老驥千里の志(1)』実は輝子さんも……。多いので二回に分ける。先ずは星5戦術業正さん。吟味済み『【信長の野望20XX噺】信義の兵戈と将軍の存在価値』結局、昨日『眠りのチカラ』本当…ameblo.jpの続き。本日最初は星4戦術為信さん。吟味済み『【信長の野望20XX噺】昇竜の覚醒』東北大名てんこ盛りガチャ。まあ、大名だから使えるとは限らんけど。本日の目玉政宗さんはこちら。『【信長の野望20XX噺】政宗ピックアップと微妙な幸運に怯える』さ…ameblo.j
細川忠興陣跡石碑新しい石碑になってます関ヶ原古戦場に行きました!パート6️⃣関ヶ原古戦場サイクリング⑥細川忠興陣地跡続きです次は東軍細川陣地跡に行きました(もう既にですが、マップのルートを全く無視してます………)細川侍従忠興陣地跡細川忠興は、丹後宮津18万石の大名です。関ヶ原東軍として、5,100人を率い、石田三成隊と戦いました。細川忠興は、足利将軍家の側近から織田、豊臣家臣となった細川幽斎(藤孝)の長男です。室町
明智秀満(118)「池田氏家譜集成」『扠、秀吉は十一日(注:実際は9日早朝)姫路を出勢して上られける、池田紀伊信輝兵庫ニ而出向ひ、先公不慮に傷害の事、互に涙せしあへす、ちからを合せて、光秀を討つへしと也、秀吉今より別而入魂の爲なれば秀次を信輝の婿に約し、信輝二男輝政を秀吉養子とぞ盟ける、其日十二日尼崎へ着陣なれば、池田父子、中川、高山、惟住、合し、軍評議有り、扠池田紀伊守信輝剃髪して勝入とぞ號しける、秀吉剃髪、』秀吉の「中国大返し」は分からないことも多い。まず、備
明智秀満(117)「細川家記」『又一書(松井家記)、五月廿八日、藤孝父子宮津を立て、朔日、但馬国竹田という所ニ云所ニ著陣也。翌二日、光秀より飛脚来る、光秀の不義を悪ンて返答ニも不及、康之方よりは、明智左馬助、荒木助十郎迄、向後義絶之由申遣、飛脚を追返す、同三日、藤孝・忠興丹州に帰らる、今日康之を京都に上らせるると云々、』同じ細川家記でも「松井家記」では少し事情が違うようだ。5月28日から細川父子は但馬国竹田にいたという。本能寺の変があった当日に光秀から飛脚があ
明智秀満(115)「細川文書」『覚一、御父子もとより御佛候由、尤無餘儀候、一旦我等も腹立候へ共、思案候程、かようにあるへきと存候、雖然、此上は大身を被出候、御入魂所希候事、一、国之事、内々摂州を存當候て、御のふりを相待候つる、但、若之儀思召寄候はば、是以同前ニ候、指合きと可申候事、一、我等不慮之儀存立候事、忠興など取立可申とての儀ニ、無別條候、五十、百日之内ニハ近国之儀可相堅候間、其以後者十五郎、與
「宮津城」から「田辺城」へ駆けつけます。「田辺城の戦い」広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われ、畿内近国の家康側諸勢力の制圧に丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝ら1万5000の西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めました。忠興が殆んどの丹後兵を連れて出ていたので、この時に田辺城を守っていたのは、忠興の実弟の細川幸隆と父の幽斎および従兄弟の三淵光行(幽斎の甥)が率いる500人程度で防衛しています。多勢に無勢で落城寸前まで陥りますが、幽斎は歌道の奥義を
「天橋立」をあとにして、「宮津城」へ進軍します。「天橋立」から海沿いに東へ進むと「宮津城」へ到着します。「織田信長」から丹後を拝領した「細川藤孝」は宮津に居城を築きます。このことで古代以来丹後の中心地が、府中から宮津に移動したこととなりました。これは丹後にとって大きな転換期となり、近世都市宮津へと通じる出発点が細川時代の「宮津城」でした。「宮津城」は、当時最先端の技術を駆使して造られおり、築城には「細川忠興」の妻・玉子(「細川ガラシャ」)の父であり城作りの名人と言われた「明
細川幽斎は、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。遂に、後陽成天皇は、細川幽斎の歌道の弟子、三条西実条と中院通勝及び、烏丸光広を勅使として、田辺城の東西両軍に派遣し、講和を命じた。細川幽斎と幸隆は、勅命に従い、9月13日に田辺城を明け渡した。細川幽斎と幸隆は、敵将の前田茂勝の居城、丹波国亀山城に身を移されることとなった。近江国では、大津城の京極高次が、東軍に味方することを表明すると、大津城への西軍の攻囲が始まった。9月5日、一度は、
「伊根の舟屋」から「天橋立」へ進軍します。「天橋立」が見えてきました「天橋立」は東南西北どこからでもその全景を望むことが出来ますが、進路の都合上南側へ回り込みます。「天橋立」南側から攻めます(国土地理院ウェブサイト)「天橋立」南側のロープウェイで「飛竜観」へ息子は初ロープウェイです「飛竜観」がある「天橋立ビューランド」、遊具もあるって聞いていませんけど・・・「飛竜観」右側の湾「阿蘇湾」の色がヤバい龍に会えたかい?股のぞき効果とは前かがみ
2023年9月21日--------------------------------------------古くから伝わっているものは本当のことがつまっているのでしょうね、やはり。2022年9月21日--------------------------------------------古歌、、、昔から残っている歌には真実が含まれているのでしょうね。愛蔵版戦国名将一日一言Amazon(アマゾン)1,894〜3,410円