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2024年4月2日この日は、京都駅まで出てきてバス乗り場へ向かった。目指すは【龍安寺】だ良い天気の中、バスに揺られココロが到着したのは…………【龍安寺(りょうあんじ)】京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13ここから、ココロのひとり京都勉強会………略して『京勉会』が始まる通算24回目の『勉強会』となる『京勉会御室編』シリーズの始まり始まり〜〜〜〜〜っ【龍安寺】は、昨年11月22日は、【金閣寺】に参拝した帰りにこの受付まで立ち寄ったのだが、時間がなくて参拝は諦めたんだ『京勉会金閣寺
皆さん、こんばんは世界遺産鹿苑寺(金閣寺)の観光後、今回の旅の目的の2つ目に向かってますさぁ、どちらでしょう🤭鹿苑寺(金閣寺)、龍安寺、仁和寺は、きぬかけの路で繋がってるんですとても近いので、せっかくなら纏めて観光しちゃおう😉で、今回の旅の目的の2つ目は、世界遺産龍安寺でした🛕龍安寺は、細川勝元が貴族の別荘を譲り受けて禅寺としたそうです結構大きなお寺なんですそして、龍安寺の一番楽しみにしてたのが、この石庭🪨「ロックガーデン」として世界的に有名だそうです。その有名にしたキッ
衣笠山の山すそを嵯峨へ向かい伸びる道を「きぬかけのみち」と呼んでいます。この道沿いには金閣寺や竜安寺、仁和寺、福王子、鳴滝、広沢の池など京都でも知られる観光地が多く点在する歴史あるストリートなのです。その衣笠山の裾にある臨済宗の古刹が「竜安寺」です。竜安寺は今から575年前の室町時代中期(1450)に室町幕府の管領・細川勝元が建立した菩提寺です。もともとは平安時代末期に左大臣藤原実能の山荘で、持仏寺を建立したことで「徳大寺」と号し、公家徳大寺家が所有していた土地を勝元
龍安寺(りょうあんじ)は、宝徳二年(1450年)に管領・細川勝元が徳大寺家の別荘であったのを譲り受けて寺地とし、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)禅師を開山として創建された禅寺である。創建当時の建物は応仁の乱で焼失し、明応八年(149年)に勝元の子・細川政元が再興したが、寛政九年(1797年)に火災で方丈・仏殿・開山堂などを失った。現在の方丈は、西源院の方丈を移築したもの。方丈の前庭は、枯山水の石庭として国の特別名勝の史跡として有名である。古都京都の文化財として世界文化遺産に登録されている。
先週は京都市内の歯医者さんへ歯の治療に通ってました。上京区だと私の家(京都市外)からは少し距離があるので、なんとなく半日仕事みたいになってしまいます。それでも近所の歯医者さんへ行って延々と通院治療するのはヤなんで、アポイントメント方式の時間を長く取って一気に治療してくれる歯医者さんの方に行ってしまいます。この辺りは応仁の乱の時に東陣(ひがしじん)の置かれた地域ですサンプルのクリーンデンタルという歯周予防用のペーストが無料で持ち帰りOKだったので、旅行用にGETしてきま
【今日は何の日】3月28日■スマトラ沖地震■シルクロードの日■龍安寺・吾唯足知自慢の写真一年365日、毎日が何かの日です。季節を表す日もあります。地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。誰かの誕生日かも知れません。歴史上の出来事もあります。セミナーや展示会もあります。これらをキーワードとして、私たちは自分の人生に、自分の仕事に、自分自身を磨くために何かを考えてみるのも良いのではないでしょうか。独断と偏見で、エッセー風に徒然のままに書いてみまし
先日のこと・・野村萬斎さん講義のオンライン公開録画に参加しました(視聴者参加です)オンエアが終わるまでは詳細は書けませんがおもえば萬斎さんを始めて知ったのは大河ドラマ『花の乱』の細川勝元役鋭い眼光にすっと伸びた背筋独特のもの言いと低く響く声ただものではないというオーラを放っていましたすぐに野村万作さんのご子息と知り千駄ヶ谷の国立能楽堂に行ってみたらそこにいたのは萬斎さん追っかけのOLさんや女子大生さん・・大歓迎されて写真をいただいたり公演予定
【食育クイズ:Vol.1576】「京都府」の「龍安寺」おさらいクイズ!平安時代に貴族の山荘として舟遊びの場所だった「池泉回遊式庭園」の池とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}たねすはら無添加
陣地を構えた事に由来するが、西軍を率いたのは誰か?室町幕府の管領・細川勝元は、将軍義政の弟・義視(ヨシミ)を次期将軍に擁立せんと、片や西国8か国の守護・山名宗全は義政と日野富子の子・義尚(ヨシヒサ)擁立策で対抗し、ついに大乱となった。細川勝元は上御霊神社・西の自邸を本陣とし東軍、山名宗全は堀川上立売の自邸・現在の山名町を本陣としたので西軍と呼ばれる。戦後、宗全の陣地の辺りに織物業が始まり、宗全の本陣に因み「西陣織」と呼ばれた。
【食育クイズ:Vol.1498】「京都府」の「龍安寺」おさらいクイズ!龍安寺にある平安時代の遺構の庭園池の名称は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}大豆コーヒードリップパックAmazon(ア
龍安寺は、室町幕府の管領で応仁・文明の乱では、東軍の総大将であった「細川勝元」が、宝徳2年に妙心寺の義天玄承(ギテンゲンショウ)を開山に招いて創建した。「石庭の寺」として高い人気を誇るが、他にも鏡容池(キョウヨウチ)を巡る庭園や、水戸光圀寄進の「知足のつくばい」など見所には事欠かない。昭和57年に室町風に復元された「西の庭」には、庭の中央に建つ細川廟、創建者・勝元の木像が安置されている。
応仁の乱で京が荒れ果てたとき、高級公卿は、こぞって「西の京山口」を目指しました。当時、多くの守護大名が在京しており、京の荒廃と運命を共にしていましたが、東の今川と西の大内は、それぞれ反対勢力との最前線にあったため、在郷しており軍事力も確保していました。応仁の乱は、細川勝元vs山名宗全で始まりますが、直ぐ行き詰まり、大内氏の大軍の到来は、戦線を大きく動かします。そんな大内氏の創始者ともいえる「大内弘世」像が、香山公園の中心に建っています。大内弘世は南北朝期の防長両国ほかの守護。後の大
応仁の乱の経緯については、昔言われていたものから、最近はだいぶ違っています。「最初は西軍=義尚、東軍=義視だったのが、乱の途中で何故か大将が入れ替わった」という話を、私も昔は得々と書いたものですが、これは今では否定されています。取り敢えず、いま応仁の乱を語るなら、1.日野富子が乱を起こした張本人、というのは大嘘。2.そもそも乱の原因は将軍継承争いではない。という2点を確認しましょう。従来語られていたストーリーは、日野富子を悪女に仕立てて面白おかしく脚色されたもので、史実は全く違うんで
龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院で、大本山妙心寺の境外塔頭になります。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承です。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。応仁の乱(1467~1477年)の際、勝元が東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、1468年に焼失しました。1488年、勝元の子・政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興されました。寺では特芳を中興開山と称しています。1499年に
…【86】細川勝元は、将軍家の跡目を巡って勃発した応仁の乱の最中に病死した。勝元は、和歌・絵画などの他、医書『霊蘭集(レイランシュウ)』を著した。臨済宗・龍安寺を創建したのも勝元である。
戦国時代の始まるきっかけになったとも言われる「応仁の乱」については、以前、この本が、話題になり、ベストセラーになったようですね。応仁の乱戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon(アマゾン)なぜ、この本が話題になり、ベストセラーになったのか、理由はよく分かりませんが、この本が話題になったことにより、他にも、いくつも「応仁の乱」に関する本が出版され、当時、本屋に並んでいました。僕も、この本を含め、いくつか読んでみたのですが、やはり、あまりにも複雑すぎて、概要ですら、よく分
【食育クイズ:Vol.1341】「京都府」の「応仁の乱」おさらいクイズ!「応仁の乱」の発端の場所となった「京都の寺社」名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,068円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)A
…10年に及んだ争いは何か?室町期に御霊社(上御霊神社)で勃発し、以後10年に及んだ戦いは「応仁・文明の乱」である。畠山・斯波の両管領家に家督争いが起こり、次いで将軍家でも8代将軍・足利義政の弟・義視(ヨシミ)と、子の足利義尚(ヨシヒサ)を推す義政の妻・日野富子の間に争いが起こった。当時、幕府の実権を握ろうと争っていた細川勝元と山名持豊(モチトヨ・宗全)が、家督争いに介入した為対立し、守護大名は細川方(東軍)と山名方(西軍)に分かれて戦った
…当時、現在の堀川上立売辺りの邸宅に陣を構えていたのは誰か?応仁の乱の折、堀川上立売の現・山名町辺りの自邸に(西)陣を構えていたのは、「山名宗全(本名、持豊)」である。応仁の乱は、室町幕府8代将軍・足利義政の後継者争いや管領の畠山・斯波両家の家督争いに端を発した戦乱である。宗全は、嘉吉の変で赤松氏を討伐して5カ国の守護職を受け持つ大大名となっていた。宗全は義政と日野富子の子・義尚(ヨシヒサ)を次期将軍に擁し、対して義政の弟・義視(ヨシミ)を擁し
おはようございます。1467年の今日、応仁の乱で山名持豊、畠山義就らが挙兵をした日です。よく語られることですが、「京都人にとっては先の戦争といえば、第一次でも第二次でもなく、応仁の乱のことを指す」という「応仁の乱」です。でも、わかっているようでわかっていない応仁の乱。何故この乱が起こったのか、当時の興福寺の僧侶・尋尊の書き記したところによれば「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と、言わしめた応仁の乱です。歴史の教科書では、室町時代末期,足利将軍
西軍の総大将の山名宗全、東軍の総大将、細川勝元の死後、応仁の乱は、続いていたが、翌年、山名政豊と、細川勝元の後継者、細川政元との和睦が、成立したため、応仁の乱は、事実上、終焉を迎えた。細川政元は、当時、八歳のため、和睦を成立させたのは、分家の細川政国であったと思われる。しかし、畠山義就と大内政弘は、和睦に応じなかった。前述の通り、山名宗全の次男、山名是豊は、細川勝元に備後国・安芸国・山城国の守護に任じられたため、応仁の乱では、父に背いて、東軍に属した。山名是豊は、猛将として、知
山名宗全と細川勝元は、対立していたが、二人の地位を脅かす者の排除には、協力した。1466年(文正元年)、山名宗全は、細川勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親、季瓊真蘂等を失脚させる文正の政変を行った。足利義政は、伊勢貞親、季瓊真蘂等を登用することで、専制支配を行おうとしたが、宗全と勝元は、義政の実権掌握を阻止したのである。同年12月には、山名宗全は、畠山義就を上洛させ、八代将軍の足利義政と対面させた。1467年(応仁元年)、畠山政長が、失脚したため、管領は、山名派の斯波義廉となる
その後、赤松氏と山名氏による東播磨を巡る、戦いが、続くことになる。畠山持国には、嫡子がいなかったため、弟の持富を後継者としていたが、1448年(文安五年)、畠山持国は、持富を廃し、庶子の畠山義就を後継者とした。しかし、一部の家臣が、反対し、畠山持富の息子の弥三郎を擁立し、畠山氏は、分裂した。畠山氏の弱体化を狙う、山名持豊は、管領の細川勝元と共に弥三郎派に味方している。最終的に、畠山義就が、畠山氏の家督を継承したが、持豊と勝元の思惑通り、畠山氏は、完全に弱体化した。その結果、
南丹にある龍興寺です。米山龍興寺という臨済宗妙心寺派の寺。山号の米山は地名の八木の字画からとったもの。室町時代、丹後守護は足利一門で三管領の一家である細川京兆家が勤めていました。この寺は、管領細川勝元が妙心寺5世義天玄承を開山として創建。細川家の開基になる寺は京都に3つあり(残る2つは龍安寺と龍潭寺)、いずれも龍の文字がつくことから京都三龍寺と呼ばれます。応仁の乱で妙心寺が焼失した際、妙心寺6世雪江宗深が一時期ここに逃れています。丹後守護細川京兆家は都に住んでいたため、細川家被官
画像は室町幕府8代将軍、足利義政です。1441年、嘉吉の乱で将軍、足利義教が赤松満祐に殺される事件が発生。これ以降、勢力均衡が破れ、守護大名の発言力が強まる。またこれと同時に土一揆が発生し、山城国内の地侍が主導する数万人規模の一揆で、幕府もこの動きを抑えることが出来ず、ついに徳政令を出す。この流れで室町幕府の権威は急速に衰えてゆく。8代将軍、足利義政は遊び暮らし、政治は混乱する。義政の正室であった日野富子はとんでもない悪女で、賄賂によって
【食育クイズ:Vol.1175】「京都府」の「龍安寺」おさらいクイズ!「室町時代」に「龍安寺」を創建した武将とは誰?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1174】(「京都府」の「室町文化」おさらいクイズ!「足利義満」が築いたとされる「金閣」を中心とした文化名とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「室町時代前期」の頃、「室町幕府、第3代征夷大将軍」となった「足利義
室町時代の守護大名・細川勝元が創建した禅寺「龍安寺」。仁和寺から「きぬかけの路」を歩いて行きました。北側に「庫裡」「方丈」「仏殿」などが建ち、有名な「石庭」は方丈の南側にあります。南側には広大な「鏡容池」があって、池泉回遊式庭園になっています。その「鏡容池」を左手に見ながら参道を進みます。1797(寛政9)年に火災で焼失し、その後再建された「庫裡」。「方丈」「石庭」の拝観受付場所になっています。「石庭」がある、国の重要文化財に指定されている「方丈」。
応仁の乱の戦端が開かれたのは「上御霊神社」である。将軍家の跡目相続を発端に、諸大名が管領・細川勝元を中心とする東軍と、西国8カ国の守護・山名宗全の西軍に分かれ、京都を中心に争った。応仁元年1/18、上御霊神社・御霊林での両軍衝突が発端とされ、同社前に乱勃発地を示す碑が立っている。乱後、京は焼け野原と化し、室町幕府は弱体化の一途を辿る事となる。
全日本高校駅伝(京都)http://mainichi.jp/koukouekiden/12月26日京都・高校駅伝の際に京都大学北交差点・百万遍交差点をランナーが走ります。愛知県は、男子名経大高蔵高校が初出場女子・豊川高校のようです。箱根駅伝駒沢大学も勝利で三冠どでしょ?青山学院中央大早稲田も頑張ってください。2023年は100回記念大会で、他地方の大学も参加可能性ありのようですが・・ロードバイク・京都170Kmライド4人で行きます。12月4日する予定ですが
…細川勝元が創建した寺院は?「枯山水」とは、水を使わない庭の事で、主に禅宗寺院を中心に発展した。その枯山水の代表格と云えば、「龍安寺」方丈庭園である。方丈前の15個の石が並ぶ枯山水は、国・特別名勝。龍安寺は、室町幕府の管領でもあり、応仁の乱・東軍の中心人物でもあった「細川勝元」が「義天玄承(ギテンゲンショウ)」を迎えて創建した寺院で、妙心寺派に属する。方丈前の枯山水は15の石を配した至ってシンプルな庭だが、その表現す