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僕は自律神経失調症(セルフ診断)で、酷い時はしんどすぎてベッドから出られないほど苦しむ。約1年前から度々そういう時があり、なにも出来ずただ苦しむだけだったのだが、ある時ふと読書したところ苦しみが和らいだので、以降読書にハマり始めた(もともと本自体好きだったが、ここまで読むのは久々だった)。理由はわからないが、個人的に1番「効く」のはやや難しめな文学や哲学の本で、今まで『罪と罰』やショーペンハウアーの『自殺について』(確か『余録と補遺』の一部を切り抜いて訳したものだったと思う)などいろいろ読ん
入門書や解説本ではない哲学書を読んでみようと思い選んだのがこれ。やはりカントさんは噂通り難しかった。難しかったというより日本語なのですが、文字を読んだだけで、意味不明です。物を認識するには、感性→悟性→理性があることは分かりました。多分、その物事の認識の仕方を厳密に定義づけて分析していると思われます。問題は「中」を続けて読むかということです。。。。
超越論的論理学の理念は次の言葉に象徴的に表現されています。感性がなければ、われわれには対象は与えられず、悟性がなければ対象は思惟されないだろう。内容のない思惟は空虚であり、概念のない直観は盲目である。A51/B75カントは時間・空間概念がア・プリオリな直観であり、カテゴリー(純粋悟性概念)がア・プリオリな概念であることを繰り返しますが、けっしてこれらが「生得観念」だとは言いません。なぜでしょうか。「生得観念」と言ってしまうと、生得的に与えられている観念であり、それがそのまま認識内容をも
成功に至る第一歩は、自分が心で何を望んでいるかを見つけ出すことです。それがはっきり分からないうちは、何を期待しても駄目でしょうイマヌエル・カント(1724年-1804年)イマヌエル・カントは、プロイセンの哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。ウィキペディア今日の
「純粋理性批判28」で超越論的感性論の解説は終了しました。今回から通し番号を「KvV29」という形式にします。一方で、市民講座「純粋理性批判演習」ではすでに「超越論的弁証論」に入りました。非常に面白いことに、カントは『純粋理性批判』の主要部門を「超越論的論理学」と呼んでいます。論理学と言うと、文学部の哲学科では伝統的なアリストテレス流の形式論理学を想定します。私は学生時代に、大谷先生という教授が開講していた「論理学」の授業を受け、村上先生という方の記号論理学を受講したのを想い出し
グリュースゴット!陸軍大佐です。本日の居合、起きられずに行けず・・・いやぁ昨日寝られなかったもんでして。アタシが好きな女性アニメキャラは、断然「宮内レミィ」なわけでして、もう20年以上追いかけているキャラですが、最近浮気していますwもう長いこと続いているアニメだそうなんですが、「ストライクウィッチーズ」というギリギリを攻めた作品がありまして。いろんな意味で有名です。中でも、アタシは日本「陸軍」の航空機なら好きなんですが、主人公が海軍の戦闘機(?)なので、結果
超越論的感性論の最後は、第二版において加えられたもので、自然神学についての注解です。なぜカントは感性論の最後に、こんな不必要と思われる記述を残したのでしょうか。私たち人間の直観は「派生的直観」で、神のもつ「根源的直観」とは異なる、というのがその骨子です。派生的というのは、とにかく対象から与えられなければならないということで、これに対して、根源的というのは自ら生み出すような、そして同時に知的でもある、ということでしょう。神の根源的直観はこの意味で知的直観ということになります。それ
しばらくドイツ語学習はお休みにして(リスニングとヒアリングは毎日20分学習しますが)慶應通信の方の勉強を充実させたいのでいよいよ倫理学のレポートに取り掛かろうと思います。倫理学といえばアリストテレスやカントが有名。カントを読み始めているのですが全然わかんない。先日職場で一緒になったフランス人の方に「カントは読んだ?」と聞いたら「大学の時に読んだけど難しかった。だけど大学の教授に解説してもらってめちゃ感動した思い出があるよ!」と超熱く語ってくれました。特に「純粋理性批判」が素晴らしいと
文章術にも、色々なものがある。シンプルで、分かりやすい文章であることで、読んでもらえる人数が増えたり、検索キーワードを意識して、コピーライティングで、書く集客文章術もある。しかし、哲学者カントの純粋理性批判のように、難解で複雑な文章にも、魅力的に感じさせるものがある。どれも、間違っていない文章術だ。それぞれの長所を生かして、様々な人に、愛される文章を書いていくと、良いと思う。自分の能力個性を発揮し、好印象を獲得するのが、大切だ。
今日、12月4日(日)に開催された電子情報通信学会技術と社会・倫理研究会でカント哲学、及び、コンピュータの起源に関連する演題を発表いたしました。今回、演題を発表する機会を頂きまして、関係者の皆様に感謝申し上げます。https://ken.ieice.org/ken/paper/202212044CPd/純粋理性批判上(岩波文庫青625-3)Amazon(アマゾン)50〜4,500円純粋理性批判1(光文社古典新訳文庫)Amazon(アマゾン)935円追
〇100分で名著純粋理性批判カント西研NHK出版〇神々は繋がれていないケン・リュウハヤカワ文庫〇ピアニストという蛮族がいる中村紘子中公文庫〇月まで三キロ伊与原新新潮文庫〇なぜ私は私であるのかアニル・セス青土社〇死ぬまでに行きたい海岸本佐知子スイッチ・パブリシング〇司馬遼太郎短編全集(4)文藝春秋"
リブログに記載されているように、来月、2022年12月に電子情報通信学会の研究会で発表する機会を頂きました。関係者の皆様に感謝申し上げます。この演題の背景はカント哲学になるので、最近はカントの著書を熟読したり、熟考している。「純粋理性批判」、「実践理性批判」などのカントの代表作は、難解に記述されていて、よく分からないことが多々ある。これに対して、カントの著作の一部は、それほど難解に記述されていないというか、普通の日本語に翻訳されていて、読めばわかる。最近はカントの代表作でなく、
霊の訪問毎晩、ページ数を決めて、カントの『純粋理性批判』を読んでいました。部屋で、ひとりで、読んでいるんですけど、人の息づかいが聞こえます。もちろん、誰もいません。でも、読んでいると、部屋に、人の気配がするんです。耳を傾けると、呼吸音がします。とくに、読んでいると、はっきりと聞こえます。それで、見つめてみるんですけど、誰も、いないんです。『純粋理性批判』は難しいんで、わからないところ
今回は、I.カント(1724-1804)の第二批判書『実践理性批判』で、カントは何を伝えたかったのかを【道徳】というキータームを中心に、考えて参りたいと思います。20世紀後半に活躍されましたフランスの哲学者G.ドゥルーズ(1925-1995)の『カントの批判哲学』(1963年刊)の解釈を一部援用させていただきながら、主に『純粋理性批判』との違いに焦点を当てる形で、考察を進めて参りたいと思います。[1]『純粋理性批判』と『実践理性批判』の違い『純粋理性批判』で
こんにちは、たーぼーです。このブログを見てくれてありがとうございます。💮🍉💮🍉💮🍉突然だけど、哲学の話です。哲学はフィロソフィーのことで、知恵を愛するという意味みたいです。知恵は、子育てにも自分育てにも必要なものですよね?昨日YouTubeを見ていたら色んな哲学者の解説をされている、白坂さんていう男性のYouTube動画を見つけました。その中で、大むかしから哲学用語の中に「経験論」と言う言葉があると説明していました。「過去の常識や歴史上の出来事に囚われずに、
今回は、「哲学上の『認識論』と『存在論』における共通と相違」について、I.カント(1724-1804)とM.ハイデガー(1889-1976)を通して考えてみたたいと思います。①「超越的」と「超越論的」の違い・・・『認識論』(カント)②「存在的」と「存在論的」の違い・・・『存在論』(ハイデガー)について、概略的ですが考察したいと思います。[1]「○○的」と「○○論的」の違いについて①『認識論』における「超越的」と「超越論的」・・・カントカントにとって「超越論
「超越論的」というのは、ア・プリオリな綜合的認識の可能性を支える原理として当該の概念を考察することです。ここでは時間がいかにして認識(特に「変化」と「運動」の認識)の正当性を支えるのかという視点が導入されます。時間はそれ自身で存立する何かでもなく、また、客観的規定として物に結合していて、それゆえに、物の直観の主観的条件をすべて捨て去っても残るような何かでもない。時間はそれ自身で実体的に存在しているものではありません。また、認識主体の側から対象を直観していなくても、その対象自身に結合しえて存立
空間の超越論的観念性(同時に経験的実在性)が確認されると、ここでカント認識論の基本構造である「現象と物自体」の区別がエクスプリシットに主張されます。ビギナーの方は、とりあえず、私たちが知りうるのは物自体(ものそのもの)ではなく、その現象(現れ)だけだと理解しておいて下さい。もちろんそこですぐに「では、その物自体はどういうものなのか」という自然な疑問がふつふつと湧いてくるでしょう。それでかまいません。当面はその疑問を大切にしておいて下さい。カント自身も、読者がそういう疑問を抱くのを当然
Q、自分でも何となく前世ってわかるものでしょうか?例えば惹かれる音楽や料理、趣味、好みのファッション、顔立ち等は前世の影響受けてたりとかしますか?A、その人の性質・性格や惹かれる趣味とか好みで多少推測はつく場合がありますある本を読んでいると、その著者が学生の頃に、バス停でカントの「純粋理性批判」という難しい哲学書がありますけど、それを夢中で読んでいて、ついついバスに乗り遅れてしまったというエピソードを書かれていました著者は何か崇高なものを学んでいるのが無上の喜びを感じるのでしょうこうした
空間概念の第2の特徴は、「ア・プリオリな必然的表象」ということです。カントはその理由を次のように述べています。空間内に何も外的対象が見いだされないとしても、いかなる空間も存在しないということは考えられない、空間概念は外的現象に依存していない、ということです。だからア・プリオリな表象だということ。これは何を意味しているのでしょうか。カントはア・プリオリという言葉を経験的に獲得したものではないという意味で用いています。さらに必然的とも言っています。ここで意味する必然性は、外的現象を表象す
今回は《近代的認識の枠組み》の「乗り越え」の視点より、【カント哲学】の特徴を考えてみたいと思います。『純粋理性批判』(1781年刊)における「認識(論)」の問題で、カントは当時の「哲学界」の二大潮流であった①デカルトよりライプニッツまでの「大陸合理論」②ベーコンよりヒュームまでの「イギリス経験論」の双方を納得させるレベルでの新しい【認識論】を展開し、それは〈カント以降〉の「哲学的認識(論)」を新たに基準化し、プラットフォームとなりました。新しい「認識(論)」は【超越
僕は、あまり「忙しいから出来ない」というのを口実にしたくはないのですが、ここ最近、やりたいことが増えています。Kindleunlimitedの3ヶ月99円のうちに、できるだけ本を読みたいと思っていたら、今まで「読みたい本」を数えたただけで、少なくとも50冊ぐらいは有り、週末に5冊ぐらい読んでいますが、とても週末に5冊読むだけでは、unlimitedの期間内に読みたい本を読みきれそうに有りません。(結構、アウレリウスの自省録とか、カントの純粋理性批判とか難解な本もあるので、おいそれとは読め
2012年にスタートした学生生活もあと1年で卒業の見込み。残すは卒論のみ。『ハムレット』をテーマにした卒論も佳境にはいる。4回めにあたる5月の卒論指導で、「何ゆえ、シェイクスピアは『ハムレット』を書いたか」の論稿も欲しいとの先生のアドバイスを受け、この間、思索をめぐらしてきた。エリザベス朝の世界観(宇宙の秩序)を背景に、人間のあるべき姿への探求に、そのこたえを求めようと、読書し資料をあつめてきたが、どうもしっくりせず、これらはすべて「捨てる」ことにした。『ハムレット』に込めたシェイク
これでいいのだEsistgut.カントの最期の言葉らしいですそういや純粋理性批判岩波文庫で買って読んでみたけどまっっったくわからなかったなあ(笑)純粋理性批判上(岩波文庫青625-3)Amazon(アマゾン)200〜4,500円Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る純粋理性批判下(岩波文庫青625-5)Amazon(アマゾン)603〜2,980円Amazon(アマゾン)で詳細を見る楽天市場で詳細を見る
『純粋理性批判』の初版本を見たことのある福谷茂氏はその印象を次のように述べています。三批判書の外見は一言で言ってみすぼらしく、隣のコーナーに展示されている前世紀のすなわち一七世紀の豪華本とはあまりにも対照的だったのである。『純粋理性批判』の判型は驚くほど小さく、紙質は仙花紙以下のようにさえ見えた。意外ですね。小さくてあの髭文字でしたら、さぞかし読みにくかったことでしょう。私は学生時代からフェリックス・マイナー社のいわゆるPhB版で読んでいます。次は「超越論的弁証論」のページです。
カントは哲学の根本的な問いとして次の三つを紹介しています。①私は何を知りうるか。②私は何をなすべきか。③私は何を希望してよいか。この問い方自体が新しい形式になっています。18世紀に活躍した講壇哲学者のクリスチャン・ヴォルフ(※)ならば、「私は」とはせず、「人間は」としていたと推測できるからです。ドイツ啓蒙思想の特徴の一つは、認識の実践性です。カントはその実践性を「私は」と表現したことになります。第1の問いは認識論、第2の問いは道徳、第3の問いは宗教の問題となります。
私自身の貧しい読書経験のなかでもっとも面白く、章によっては繰り返し読んできたのは、カントの『純粋理性批判』(初版1781年、第2版1787年)です。鎌倉市内で続けてきた市民講座『純粋理性批判』演習はちょうど1年を経て、参加者と一緒にようやくその三分の一の量を読み終えました。翻訳によるものとはいえ、日本で『純粋理性批判』を演習として参加者に教える機会は数少ないはずです。そんなことやっている大学は10校ぐらいではないかと推測します。ですから、これは私にとって生涯でもっとも重要なイベントで
グリュースゴット!陸軍大佐です。本日はこの人!そうです!大哲学者、カント先生。岩波から出ている本もあり、いわゆる「批判哲学」の大先生。カントの全集は、以前も書いたように、教授から全集の廉価版(それでもフラクトゥーアの原書)を頂いたんですが、今アタシは絶賛ドイツ語独習中です。一応一通りのドイツ語の文法は習得しているつもりなアタシですが、なぜカントを題材に読んでいるのか。面白いからですーーー岩波から出ている日本語訳のカントは「哲学者」としてであり、「
処女作「風の歌を聴け」に続く、村上春樹による「鼠三部作」の2作目。1973年の秋を背景に、「僕」と「鼠」の物語がパラレル的に進められてゆく―。『村上春樹/「風の歌を聴け」』いうまでもなく、作家「村上春樹」(1947-)のデビュー作。1979年発表。いわゆる「鼠」三部作の最初の1冊でもある。ただ、僕が読んだ最初の村上作品ではない…ameblo.jp面白いのは、前作とは異なり、2人がビールを飲みながら会話を交わすことも、互いのことを考えることもない(ごく
最高裁判所長官の就任に安全安心が出たのでそれを俺が揶揄するのは、与野党で許しませんという血の掟。安全安心というのは安全学の主観である安心に掛かり、広くは純粋理性批判にも通じるので、相対性理論がミームであることまで気がつく世の中の掟です。うーん最高裁判所長官様すみません。最高裁判所長官の職責にもサイバーは関係してくる。→安心安全