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令和哲学者Noh先生と5人の侍によって開催されている第915回令和哲学カフェ。AI時代における人間の尊厳の危機。基準点ゼロ、新しい基準点を必要とする時代。自分の考えで考えたい、核個人時代を生きる心の時代。心人間がつくる組織化、勢力化、文化化、文明化とは、どんな特徴、パターンを持つようになるのかをテーマで考えてきていました。今週から今までの哲学者たちをまとめていく週間です。月曜日はルソー、野田憲冬さん火曜日はカント、小水嘉さん水曜日はヘーゲル、風海花さん木曜
先日、相棒の再放送がやってました。「殺人が許されない根拠を教えよ」と鮎川教授が元教え子たちに問いを出し、監禁し、満足な答えが出ない場合には猟銃で殺してしまう、という話がやっていました。なんとも物騒な話ですが、結局、この教授は、優秀な元教え子でさえ、根拠を言い当てることができないことを期待し、「殺人が許されない根拠なんてないんだ」と自分に納得させるためにそのような問いを仕向けたと言う話でした。さて、まず、殺人は絶対的に許されません。それは、大変明確な根拠があります。ちょっとここで
『科学によって何もかも分かると言うのが傲慢であり知には限界がある。新しい時代の知の方法とは?』と題して前回、以下を書いてみました。『科学によって何もかも分かるというのは傲慢であり知には限界がある。新しい時代の知の方法とは?』今現在は、科学万能主義的な風潮があり、テレビを見ていても、科学によって、あらゆる物事を説明しよう、という傾向が強いと思います。不眠に対して、脳の科学物質がこ…ameblo.jp今現在は、古い時代から新しい時代へと価値が転換している時期であると思います。中世の時代
今現在は、科学万能主義的な風潮があり、テレビを見ていても、科学によって、あらゆる物事を説明しよう、という傾向が強いと思います。不眠に対して、脳の科学物質がこうなっているから、不眠となるとか、人間が興奮するのはドーパミンが分泌されるからだ、といった説明がなされ、それらを例えば、薬によってコントロールしようといったこと説明もされていると思います。しかし、私が言いたいのは、ドーパミンが分泌されるのが根本ではなく、なぜドーパミンが分泌されるのか?ということです。より根本的な心の動きがあり、そ
【書名】一冊で哲学の名著を読む【著者】荒木清【発行日】2004年5月15日【出版社等】発行:中経出版【学んだ所】「純粋理性批判」カント・カントは、プラトンやアリストテレスとならんで、西洋哲学のなかでは最も重要な哲学者のひとりである。カントの著作は独創性に富み、広範囲に及んでいる。そのなかでも「純粋理性批判」は論理学、認識論、形而上学だけではなく、宗教哲学や科学も守備範囲として、今日でも一度は通過しなければならない哲学の名著である。・(概要)カントは本書のなかで、形而上学の概略図
この世でたった一つ永続するのは、すべては変わり続けるということだイマヌエル・カント(1742年-1804年)イマヌエル・カント(ImmanuelKantドイツ語:[ɪˈmaːnu̯eːlˈkant,-nu̯ɛl-]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日-1804年2月12日)は、プロイセン(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、
もっとも平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息であるイマヌエル・カント(1724年-1804年)イマヌエル・カント(ImmanuelKantドイツ語:[ɪˈmaːnu̯eːlˈkant,-nu̯ɛl-]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日-1804年2月12日)は、プロイセン(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して
https://franoma.info/ディストピア勢力ディストピアsite:.ptsd.red-Google検索franoma.infohttps://ameblo.jp/ha-chan5374/entry-12824015070.html『第84回一水会展』東京都立美術館に展示されたわたしの作品です。尾道水道油彩P100号ameblo.jphttps://ameblo.jp/sapporotsubasa/entry-12824596125.html『札幌のハロ
カント「純粋理性批判下」この本の半分は索引。読み始めて中巻とは異なる雰囲気を受けました。雰囲気と書くのは僕が内容を理解できないからです。読んでいて部分的に理解できることが増えてきました。自分の脳が慣れてきていることを実感しました。カントさんは具体的な事例はあまり書いてくれません。書かれている言葉をどう自分の中で具体的なイメージを作り上げるかという読み方ですね。とにかく、カントさんは人間が物を認識することはどういうことか、すごく緻密に分析されてます。少しの隙も許しません。ただ、こういう人が
カント「純粋理性批判中」年内には読もうと思って読み始めると、なぜか一気に読んだ。うーん、カント流に言うならば、感性までは入ったけど、悟性あたりから怪しい、絶対、理性までは行ってない。。。江戸時代風に言うならば、素読ですね。素読。。。頭の方が慣れてくる。さあ、この勢いで下巻にいけるかなあ
苦しみこそが、活動の原動力である。活動の中にのみ、我々は我々の生命を感じるイマヌエル・カント(1742年-1804年)イマヌエル・カント(ImmanuelKantドイツ語:[ɪˈmaːnu̯eːlˈkant,-nu̯ɛl-]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日-1804年2月12日)は、プロイセン(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を
モーツァルトソナタ14番K.457作曲年の1784年とは?日本では天明年間でした。筑前国志賀島で金印発見。田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺害される。蝦夷地の開拓開始。アメリカではテネシー州にフランクリン国を建国しノースカロライナ邦から独立宣言カントの「純粋理性批判」第二版出版。もう少しこの年のモーツアルトについて。1756生まれなので28歳。1784年4月27日パリでボーマルシェの戯曲「フィガロの結婚」上演され、大成功。この「フィガロの結婚」は1781年に完成されたがルイ16世により上
※ヤるときゃヤるよという気概なにがあっても暴力は絶対的に否定されるべきですが、自分の大切な人や価値観などが侵食され攻撃されとんでもない窮状に落とし込められるなら(人身売買やら臓器販売やらおどろおどろしい話も昨今漂ってきていますが)、正当防衛としての武力行使は”あり”とゆー立場です。時には抗ってこそ斬新な進化成長も可能になります。やられっ放しでもボコられ続けても大切な我が子の
●歴代1番人気の哲学者と仏と神と死後の魂【知識0から一気に分かる】https://youtu.be/pwRszZmnmPoどうもこんにちは、筬島(おさじま・オサジー)です。そうとう頭のいい人でないと哲学者になれません。しかし仮になれたとしても生計が立たなくなったりそれなりに人気が出ても国内だけの評価だったり時代と共に忘れ去られる人がほとんどです。そんな中、数ある哲学者の中でも人気ナンバー・ワン偉大な哲学者ランキングで何度もトップに選ばれる哲学者をご存じでしょうか?こ
人間に欲しいもの全てを与えたその時、全ては全てではなくなるイマヌエル・カント(1742年-1804年)イマヌエル・カント(ImmanuelKantドイツ語:[ɪˈmaːnu̯eːlˈkant,-nu̯ɛl-]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日-1804年2月12日)は、プロイセン(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論に
徳性を高め、善を行って生きることを決意し、実践を始めること━━━━━━━━━━━━━━イマヌエル・カント(ドイツの哲学者)イマヌエル・カントは、プロイセンの哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。カントの本質をつく道徳論は、腑に落ちる感覚を味わえます。[http://www.heart-wing.com]
近代・現代の民主主義を作り出してきた中心勢力は、フリーメイソンである。そのフリーメイソンが「自らの基本思想の中の基本思想になっている」、と述べているのが18世紀の哲学者イマヌエル・カントの思想だ。そのカントの著書である「純粋理性批判」を読んでいると、民主主義の原理の性質を表すのに適した概念がでてくる。その一つが以下の「構成的原理」と「統制的原理」の違いである。↓構成的原理と統制的原理:カントの思想構成的原理は実在するものの認識にかかわる原理。統制的原理は実在性を棚にあげた
竹田青嗣「はじめてのカント『純粋理性批判』」僕は哲学を専門に勉強したことない初心者です。ただ、ここんところ数冊読んでいく中で、西洋哲学というのは一つの流れがあるということが分かってきました。その流れの中で、カントなりその哲学者が何を主張したかというように理解した方が、その人の主張も分かりやすいというふうに自分なりに分かってきました。そして、この本の冒頭では著者の竹田さんがまさしく僕が思ってたようにカントに至るまでの流れを解説してくれています。これだけで、この本を読む価値が十分あります。さて
📩◾️『人生は愉快だ』(池田晶子/毎日新聞社)[イ]🔹池田さんは2007年2月23日、亡くなられた。享年46。最初の単行本『事象そのものへ!』の刊行が1991年7月、著者31歳。以後、生涯に単行本を約30冊、刊行されている。執筆期間はおよそ15年間で、哲学関係の本としては、年に平均2冊というのは、多い方ではないかと思われる。本を読み、考え、文章を書くことに集中されていたのでしょう。🔹この本は、没後約1年9ヵ月、2008年11月に刊行された。上のように30人の哲学者を採り上げて寸評
忙しければ忙しいほど、我々は生きがいを感じる。そして、生きているということに関してより意識が向くのであるイマヌエル・カント(1724年-1804年)イマヌエル・カント(ImmanuelKantドイツ語:[ɪˈmaːnu̯eːlˈkant,-nu̯ɛl-]、当て字は「韓圖」[1]、1724年4月22日-1804年2月12日)は、プロイセン(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判
カントの時間論(岩波現代文庫)Amazon(アマゾン)16〜5,000円哲学者カントによる時間論。結構小難しい哲学論だった、時間経過を述べており、過去と現在を捕らえており、これが純粋理性批判に繋がる。カントは国際連合の基礎路成った。永遠平和のためには名著、これは時間のための哲学書だけに難しかった。時間の関連は、歴史哲学にありがちである。会津は時間枠を考えず、明治初期に於ける会津の悲劇を現代と混同している。これが『観光史学』の元ネタである。『観光史学』は悪ではない。只、会津
(私)なるほど「純粋理性批判」について、もう少しわかりやすく説明をしてください。(chatGPT)「純粋理性批判」は、18世紀ドイツの哲学者、イマヌエル・カントが提唱した哲学的概念です。カントによれば、人間の理性には普遍的かつ必然的な真理を発見する能力がある一方で、それによって得られる知識には必ずしも現実の事物に対応する保証がないとされます。つまり、理性によって得られる知識は、人間の知覚や認識の仕方に基づいているため、実際の現実と必ずしも一致しない可能性があるのです。また、カントは理性
前回ゲーデルの不完全性定理を扱いました。関連事項としてカント―ルという数学者の連続体仮説について考えてみます。これも、実は非常にスリリングであり、人間の知の限界を示す一つの事例となります。自然数の個数=偶数の個数=有理数の個数カント―ルの連続体仮説とは何かを議論する前に、「無限」に種類があることを知る必要があります。1、2、3、・・・と自然数を数えていくと、自然数は無限個あります。では、これを、同じように偶数とすると以下のように記載できます。2,4
カント先生の友人は晩年のまだらボケの日々を克明に記しているのね…1800年あたりの出来事がまるで今日のよう…ボケ始めた途端長年仕える使用人が手のひらを返したように意地悪をする…あの先生がボケ始めた…とご近所に広まれば見知らぬ人が家に入ってきて本人の目の前で金品を漁る…記録がない大昔から恐らくやってるんでしょうね…今も昔も人のやることは変わらないわね…#Immanuel#Kant#似顔絵#30秒#哲
数学の定理にゲーデルの不完全性定理というものがあります。数学の天才というと、18世紀のレオンハルトオイラーであるとか、フリードリッヒガウス、また、ラマヌジャンというインドの数学者を上げる人もいるでしょう。私は、その天才の一人にクルトゲーデルも挙げられるべきだと思います。ゲーデルの提唱した、不完全性定理、それは、数学を根底から揺るがすものであります。更に、我々の、「知によって生み出された文明全体」を根底から揺るがすような定理、であると言っても良いでしょう。ゲーデルの不完全
今回は、〈近代哲学〉の基軸となります「ドイツ観念論」について、述べさせていただきます。2011年に発刊されました『哲学の25年』(E.フェルスター著)によりますと、19世紀初頭の哲学者ヘーゲルは1806年春の講義の中で、「これをもって、この哲学の歴史は完結した。」「それゆえ最後の哲学は先行するものを含み、すべての諸段階をそれ自身のうちに包括していて、すべての先行するものの産物であり、結果である。」と話され、カントの『純粋理性批判』(初版1881年刊)より25年間で、こ
カントというと非常に難しそうなイメージがあります。実際、カントの『純粋理性批判』は哲学史上、5指に入るくらいの難解な哲学書と言われます。専門的なことは省き、ごく簡単に解説します。『純粋理性批判』の要旨『純粋理性批判』は800ページにも及ぶ大著ですが、これでカントが出した結論は、”人間の理性的認識には限界がある”ということです。もっと言えば、「人間の理性的認識には限界があり、物自体の世界を認識することはできない。」(物自体=あの世と思ってください。)です。要は、人
同書によれば、物は現象としてしか捉えられず、少なくとも我々は物自体を捉えることはできない。が、同時にカントは、法は行為に関する道徳的性質を示し、そのような性質は行為「自体」に属するようなものと説いている。これはどういうことか?
純粋理性批判の先験的感性論「空間について」を読み終えた。そこで、次のような疑問を抱いた。まずここで述べられていることは主に「空間とは実在性と観念性をもつ主観的表象であり、空間表象により直感せられるものは物自体でなくそれに関わる我々の感性の表象である。また、空間表象以外に観念性をもつ外的関連性のある主観的表象は存在しない」ということである。だが、ここでひとつ引っかかるのは因果律や作用反作用の法則といった純粋認識である。「認識」と「表象」は異なることを考えれば妥当性をもつが、では純粋認識に基づく
純粋理性批判はやはり難解なので、本格的に本論を読み進めるうえで覚書程度に難解な箇所の解釈を記しながら読み進めたい。ということで早速今回は第一部門「先験的感性論」の第一節「空間について」の問題提起を整理しておく。まず空間が我々の「そと」にある対象を規定する形式であることに異論はない。一方で心に関する記述はやや引っかかる。まず心の内的状態の直感が時間のみによって規定されるという主張は一見理解し難いが、具体的には悲しいと言う心の内的状態はそれが(一瞬にしろ長期的にしろ)「続く」=時間的に延長性を