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[大和国十市郡]兜塚古墳(桜井市浅古)「阿蘇ピンク石」製石棺の蓋◆「阿蘇ピンク石」~海を渡った棺~(31)前回の記事をUPしたのは令和五年(2023年)11月のことでした。ずいぶん放置してたな…。復活させます。この企画物記事の主旨は…「阿蘇ピンク石」製の石棺が5世紀末頃に畿内に忽然と出現します。大和国の「二上山」製のものや、播磨国の「竜山石」等の良質なものが豊富にあるにもかかわらず、遠路遥々と「阿蘇山」産出の石材が使われた、その謎を紐解くもの。これまでに発見された大和
小野龍海’s歴史塾このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑行程次をどこ行くかと見ていたら「平群(へぐり)」の地名が見えるじゃあないですか!竹内文書を漢文へと変換したのは「平郡真鳥(へぐりのまとり)」です、その署名には「大臣紀竹内平郡真鳥宿禰」と書いています、大臣だったんですね~初耳ですけど。これまでの歴史学者は竹内文書を偽書としてきましたので、この情報も同時に抹殺されているん
和歌山県の古墳って行ったっけ?と思いめぐってみました。車駕之古址古墳は、和歌山市の北東部に位置し、5世紀後半に築造された墳丘長86mの前方後円墳です。古くから墳丘の上部が削平されていたため低くなっており、調査でも埋葬施設は確認されませんでしたが、和歌山県では珍しく、ヤマト王権の大王墓に共通する周濠・造出し・段築・葺石など本格的な施設を持っています。また、大変珍しい金製勾玉1個が出土しています。新羅の古墳では出土例があるものの国内では初です。もしかするとお宝がザクザクあった
志磨神社紀伊国名草郡和歌山市中之島677(境内に駐車場有り)■延喜式神名帳志磨神社名神大の比定社■旧社格県社■祭神中津島姫命[配祀]生国魂神「紀ノ川」河口に土砂が堆積して発達した中洲に於いて、祭祀が行われたことを起源とされる社。現在の鎮座地は「紀ノ川」南岸畔。古代は現在の「土入川」から「和歌川」へ南西方向に流れ、「和歌浦」に注いでいました。洪水による社殿流失、遷座合祀等の推移が見られ、原初の鎮座地は不明。◎創祀創建に関わる年代、由緒等は何れも不詳。原始は「中洲」(中
奈良県下には、岡峯古墳のように石棚がある古墳が、ほかに平群町の三里古墳と大淀町の槙ヶ峯古墳と2ヶ所現在見つかっている。最近になって、平群町の三里古墳に行く機会があり、これで奈良の三大石棚のある古墳を征服したという事で、記念に投稿。三里古墳へは近鉄生駒線の平群駅を下車、東に向かい、県道168号線を北上し、ローソンを越えたところにある交差点から、東に行くと、三里古墳への方角を記した案内があり、それに導かれて、住宅地の中を抜けて、少し登ると三里古墳に到着した。三里
丹生神社(和歌山市栗栖)紀伊国名草郡和歌山市栗栖1(社前にP有)■祭神[主祭神]日本武尊宇摩志摩治命丹生津比咩命[配祀]丹生津比咩命[相殿]天道根命「紀ノ川」左岸、和歌山市「栗栖(くるす)」に鎮座する社。上古は「山縣村」と称されていたようです。日前神宮・國懸神宮が鎮座する「秋月」からは北東2kmほど。◎当社は歴史の波に大きく左右されたようです。御祭神は日本武尊・宇摩志摩治命・丹生津比咩命の三座。それぞれが異なる経緯で鎮まったように思われます。◎往古は「紀氏栗栖神社
☆太田・黒田遺跡(和歌山市太田・黒田)(おおだ・くろだいせき)紀伊国名草郡和歌山市太田・黒田(P無し、近隣停め置き不可、近隣のコインPは概ね100円/60分)JR和歌山駅東口前にあった、弥生時代前期中頃(約2300年前)~江戸時代にかけての複合遺跡。「紀ノ川」左岸の平野域。「紀ノ川」分流の一つであった「出水川」の自然堤防上に立地。銅鐸は高さ約30cm、外縁付紐1式の4区袈裟襷文銅鐸で、内部に石製舌(ぜつ)を伴っています。出雲国の加茂岩倉遺跡出土の4口と同笵。以下、案内板には
大屋都姫神社(和歌山市宇田森)紀伊国名草郡和歌山市宇田森59(境内の東側からアクセスすると駐車場にたどり着けます)■延喜式神名帳大屋都比賣神社名神大月次新嘗の比定社■旧社格県社■祭神大屋都姫命[左脇宮]五十猛命[右脇宮]抓津姫命([配祀神社]伊太祁曽神社抓津姫神社)「紀ノ川」北岸、支流「鴨居川」東方の和歌山市「宇田森」に鎮座する社。「宇田森」からは弥生時代中期の住居跡などが発見され、土器や銅鐸などが出土しています(「宇田森遺跡」は後ほど別途記事を上げ
高積神社(下の宮)紀伊国名草郡和歌山市禰宜1557(境内北側に駐車できます)■延喜式神名帳高積比賣神社の論社都麻都比賣神社名神大月次新嘗の論社■旧社格村社■祭神都麻都比売命五十猛命大屋津比売命[配祀]天照皇大神須佐男命八王子神大山祇神気津別神応神天皇神功皇后比賣大神「高積山(高山)」(標高235m)の麓に鎮座する社。山頂には「上の宮」が鎮座しています。紀伊山地から張り出した格好で聳えており、三角錐の美しい山容は典型的な神奈備山型。当社は「上の宮
[紀伊国名草郡]上小倉神社■表記彦狭知命(ヒコサチノミコト・ヒコサシリノミコト)■概要工匠の守護神として崇められる神。紀伊忌部氏の祖とされます。◎紀の巻二神代下第九段第二一書に登場しています。━━時高皇産靈尊勅大物主神汝若以国神爲妻吾猶謂汝有疏心故今以吾女三穗津姫配汝爲妻宜領八十萬神永爲皇孫奉護乃使還降之卽以紀國忌部遠祖手置帆負神定爲作笠者彦狹知神爲作盾者天目一箇神爲作金者天日鷲神爲作木綿者櫛明玉神爲作玉者乃使太玉命以弱肩被太手繦而代御手以祭此
荒田神社(岩出市森)紀伊国那賀郡和歌山県岩出市森237(P有)■延喜式神名帳荒田神社二座の比定社■旧社格村社■祭神高魂命劔根命天疎向津姫命神功皇后応神天皇菅原道真丹生都比売命大山咋命大山祇命天忍穂耳命市杵島姫命素盞嗚命香具都智命大社命白髭大明神岩出市中心街の北方、「紀ノ川」の支流である「根来川」沿いの岩出市森に鎮座する社。◎創建年代、由緒等は不詳。天正の兵火に罹り古文書等の一切を焼失しています。「神名帳」記載の式内比定社。二座が鎮座する
ご訪問ありがとうございます。雄略天皇も次回で、最後になりますので、長いですが、後少し頑張りましょう。14年春1月13日、身狭村主青ムサノオスグリアオらは、呉クレ=宋国の使者と共に、呉が献上した手末テナスエの才伎テヒト、漢織アヤハトリ・呉織クレハトリ及び衣縫キヌヌイの兄媛エヒメ、弟媛オトヒメらを率いて、住吉スミノエの津に泊った。この月に、呉の客人のための道を造って、磯歯津路シハツノミチ(大阪市住吉区、東住吉区)に通じ、これを呉坂クレサカ(大阪市平野区喜連キレ?)と名づけた。3月、臣・連に
ご訪問ありがとうございます。今回も外交関係のようで、あまりそうではない(^^;)たぶん、いずれかの氏族の「家記」のようなものかと💦「日本書紀」の編纂時には、いろんな記録や言い伝えが残っていたのでしょう。3月、天皇は新羅を親征なさろうと思われたが、神が天皇を戒めて「行かれてはなりません。」とおっしゃった。天皇は是によって、行くことを果たせず、紀小弓キノオユミ宿禰スクネ・蘇我韓子ソガノカラコ宿禰・大伴談オオトモノカタリ連ムラジ・小鹿火オカヒ宿禰(紀氏)らに命じ「新羅は、もともと西
春日宮天皇妃御陵(吉隠よなばり陵)春日宮天皇妃御陵は奈良県宇陀郡榛原町鳥見山(標高740メートルの山)にあります。鳥見山といえば厩戸皇子や押坂彦人大兄皇子の舎人・迹見赤檮(とみのいちい)の出身地でも有名です。近鉄大阪線の榛原駅近くの165号線から登山道が伸びています。この登山道口を登る人はほとんどいないのでしょうか、楽に入れるような道ではありませんでした。春日宮天皇妃御陵は第49代光仁天皇の母・紀橡姫(きのとちひめ)(紀諸人の女)の御陵で、709年(和銅2)吉隠の地で崩ぜ
決定版阿波の古代史邪馬台国は阿波だったAmazon(アマゾン)(お知らせ)25年3月15日、私を古代史の世界へまた引き戻してくれた古代史人気YOUTUBERのANYAさんが、本を出版されます。私も今こうやって古墳や神社を回っていると、ついつい四国がヤマト王権の始まりだったとしたら、どういう位置づけになるのか、というか、何か痕跡はないのか?という視点で見るようになりました。とても分かりやすく説得力のある面白い本です。ご興味ありましたら是非ぽちって見てください。とい
中言神社(海南市黒江)紀伊国名草郡和歌山県海南市黒江933(P無し、「海南黒江観光駐車場」から徒歩10分ほど、詳細は下部に地図をスクショした写真を掲載)■祭神名草彦命名草姫命八王子命万葉集に「黒牛潟」と詠まれる、海南市「黒江」に鎮座する社。「紀伊続風土記」には、かつては入江であり干潟に牛に似た黒い石があったとか。満潮時には隠れ干潮時には姿を現れるというもので、これが地名由来となったと記されています。◎当社の御祭神である名草姫(名草戸畔)は、中言社の総本社である吉原の中言神社か
安原八幡神社紀伊国名草郡和歌山市相坂631(拝殿前に駐車スペース有り)■祭神応神天皇神功皇后武内宿禰和歌山市の南東部郊外の丘陵地、「相坂」に鎮座する社。社殿は小山の南側中腹に設けられています。◎鎮座地名は「紀伊続風土記」に言う「安原荘相坂村」。西方は「名草山」の東側に広がる田園地帯、東方は「奥須佐」の丘陵地を隔てて伊太祁曾神社が鎮座する「山東」。紀朝臣や紀伊国造家(紀直)が拠点としていたものと思われます。◎創祀創建年代は不詳、実年代には諸説有り。「社伝由来記」に、応和元年(9
イの国探検隊ファンの皆様こんにちは今日も過去記事をリサイクル⑱からの続きです妄想でまだまだ難破津をうろうろつくこのシリーズも妄想、迷走難破ウォークです。あくまで妄想でさぬき市津田平安時代は難破男山神社の絵馬を妄想で散々こねくりまわしてあぶって焼いて、醤油垂らしている続きです。そう、難破津から和邇川(津田川)を直線で3km遡上したところに、極楽寺の明印法印が醍醐天皇「男山相応の地に!」との勅
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イの国探検隊ファンの皆様こんにちは今日も過去記事をリサイクル⑬からの続きっすね妄想でまだまだ難破津をうろうろつくこのシリーズも迷走、瞑想、妄想、そして失踪中無量寿院の倶利伽羅不動様本文とは関係ござらぬかも難破ウォークです。あくまで妄想でさぬき市津田平安時代は難破男山神社の絵馬を妄想で散々こねくりまわしている続きです。そう、難破津から和邇川(津田川)を直線で3km遡上したところに、
イの国探検隊ファンの皆様こんにちは今日も過去記事をリサイクル⑫からの続きだね妄想でまだまだ難破津をうろうろつくこのシリーズも迷走、瞑想、妄想、そして失踪か難破ウォークです。あくまで妄想でさぬき市津田平安時代は難破前回、なんの脈絡も無くいきなり阿波神山へ道草いきなり神山の古い寺へ行かねばと思い立った本道へもどります(男山神社の絵馬を妄想でこねくりまわしていたところに戻るってこってす)
イの国探検隊ファンの皆様こんにちは今日も過去記事をリサイクル⑪からの続きだね妄想でまだまだ難破津をうろうろつくこのシリーズも迷走、瞑想、妄想、そして失踪か難破ウォークです。あくまで妄想でさぬき市津田平安時代は難破なんの脈絡も無くいきなり阿波神山悲願寺「諸人の信仰厚き高根山身をきよむる天の中川」?(多くの人の信仰が厚い高嶺の山身を清める天の中川?)「高根山」「天の中川」と書い
火の国(肥の国)が日本の文献に初めて出てくるのは、古事記上巻国生みの項。神様が順番に国を作っていくわけだが、筑紫の島(九州)を作った際、身一つに顔が四つあった。四つの顔とは、筑紫、豊、肥、熊曾。言い替えれば、ヤマト王権が成立し、九州を影響下(支配下ではない)に置いたタイミングに、すでに4つの国があった・・・という事だろう。実際のヤマト王権の成立は、3世紀後半から4世紀初頭にかけてと思われる。邪馬台国や狗奴国が存在した数十年後になる。仮に狗奴国が熊本にあったとすると、狗奴国は火の君の国も
イの国探検隊ファンの皆様こんにちは今日も過去記事をリサイクル⑩からの続きだね妄想でまだまだ難破津をうろうろつくこのシリーズも迷走、瞑想、妄想、そして失踪しかけてる難破ウォークです。あくまで妄想でさぬき市津田平安時代は難破静薬師庵から見えるのは、白山、五剣山(西海が屋島の合戦場)五剣山には88霊場八栗寺・聖天忌部山の聖天寺(山瀬東麓203番地)宗派金剛山修験本宗派本尊聖観世音菩薩聖
冬服のコスプレ衣装2016年11月30日「マブラヴ」原作者の吉宗鋼紀氏「君が望む永遠」アージュ学園6億以上も借金
☆犬塚(吉野町窪垣内)大和国吉野郡奈良県吉野郡吉野町窪垣内(キャンプ場「くにすの杜」内)(アクセス等は下部写真にて)「吉野川」に「高見川」が合流する地点、「吉野町窪垣内」の丘陵上にある史跡。かつては「国栖村窪垣内」。当地はいわゆる「国栖」(国樔)たちが住んでいたとされる地。南500mの川縁には浄見原神社が鎮座、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野へ遁世した際に国樔たちが支援し、「国栖奏」を舞ったと紀に記されます。天武天皇・持統天皇が遁世し、また即位後はたびたび行幸に訪れた「吉野宮」