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2月の参拝証の図柄です。2月は神饌所前の雪見灯籠にしました。この灯籠の奉納者は森下岩楠。和歌山出身の方で、慶應義塾塾長を歴任したり、岩﨑弥太郎と共に三菱商船学校の創設に携わった人です。2月1日午前9時より頒布致します。
金森得水(かなもりとくすい)和歌「梅に鶯」の歌「北野奉納梅百首」より。三十八有恵おきし若木乃う免ハさ支尓計里以末序ま多流ゝ雲く比春能古會(うえおきしわかぎのうめはさきにけりいまぞまたるゝうぐひすのこえ)我庭に植えて置いた、若木の梅は咲いてきた。今こそ待たれる、鶯の声。三十九う免乃花さけ登毛那可ぬ雲くひ春半由支の古受恵斗見や悲家め氣む(うめのはなさけどもなかぬうぐひすはゆきのこずえとみやびか
三國青葉新潮社2012年11月発行三國さん、「母上は別式女」のシリーズが面白かったので・・図書館にあったアンソロジーでない唯一のこちらを借りてみました。それも書庫にあったんですけど〜ちなみに第24回日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞受賞作品「朝の容花」を改題、加筆したもの、だそうです。そして新潮文庫版は「かおばな剣士妖夏伝人の恋路を邪魔する怨霊」に改題されてる、と・・これがデビュー作のようです。「福猫屋」シリーズが読みたいのになあ前回の「母上は別式女」はこちら『32
「『時代劇暴れん坊将軍』は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗公が主人公です。視聴率も好調で視聴者に愛された番組でした。しかし、どうして、吉宗公が暴れん坊なのか?理解できません。紀州藩の部屋住みの時代に、自由に活動して遊んでいたと言われていますが、その後、紀州藩主になり、さらに、将軍に就任しました。青天の霹靂であったと推測します。『時代劇暴れん坊将軍』は、将軍に就任して以降、江戸が舞台です。『暴れん坊』というタイトルはふさわしくないと考えます。ついては、『暴れん坊』というタイトルを修正いただくよ
伊勢街道(参宮道)は、小俣町(おばたちょう)を進みます。このあたりから宮川下の渡しまでの参宮街道沿いには、参詣客相手の宿場や土産物屋が多くあったという。江戸期の初めは鳥羽藩領と田丸藩領、元和3年(1617)田丸藩領は津藩領と、そして同5年紀州藩領となり、以降鳥羽藩領と紀州藩領の相給地(あいきゅうち㊟)となります。妻入り・平入り、切妻造り、入母屋造が入り混じった町並みを形成しています。なぜか塀の上に獅子⁉、狛犬⁉『伊勢参宮名所圖會
先週からけやき通りがライトアップ。今年は和歌山駅前から和歌山市駅前まで。和歌山城ではドローンショーも。来年の大河ドラマは「豊臣兄弟!」。和歌山城は徳川御三家紀州藩のお城ですが、築城したのは豊臣秀長さん。また盛り上がってもらいたいものです。
風雲海南記山本周五郎西条藩一柳家のお家騒動を歴史小説彼の山本周五郎が西条藩を題材に小説を書いていたとは自衛官の先輩に勧められて読み始めた山本周五郎先輩はその後除隊して郵便局に勤められた可成りの冊数を読んだと自負していたがこの小説には巡り合わなかっためぐり合わせというものはあるものだなぁと思わされた江戸時代の西条藩外様の一柳家「ひとつやなぎ」と読む面倒なので「いちりゅう」西条の地に赴任する際に病死し、息子にそれぞれ分割し、その際に小松藩が誕生した、らしい物語はその頃の話
【問題】晩年は紀州藩に仕えたことでも知られる三浦為春の元の姓は、次のうちどれか?【選択肢】津軽箸尾和田正木【正解】正木【解説】三浦為春は正木頼忠の子である。もと里見氏の家臣で後に徳川家康に召し出された。正木氏が三浦氏の末裔であったことから三浦姓を許され、紀州藩の家老となった。
鞆の浦と坂本龍馬、いろは丸事件ゆかりの場所⚪︎いろは丸事件とはいろは丸は龍馬率いる海援隊が大州藩から借り入れた蒸気船。1867年4月23日長崎で武器弾薬などを大量に詰め込み大阪へ向かう途中、鞆の浦沖で紀州藩船明光丸と衝突してしまう。龍馬たち34人の乗組員は明光丸に収容されひとまず鞆の浦へ上陸。ここで龍馬たちは数日間滞在して保証問題の交渉が行われたのであります。まずはいろは丸展示館へ1988年に、いろは丸の本格潜水調査が行われ引き揚げられた船体部品や日用品などが展示されてい
天保9年新板となっています。紀陽持丸鑑というタイトル江戸時代紀州藩の商家一覧と思われます。弊社の江戸時代を調べているうちに『和歌山市史2巻』で見つけました。徳川家御三家になってからの商工振興策で登場した商家が並んでいます。勧進元の欄には岡本善右衛門と。現在の総本家駿河屋善右衛門駿河町本舗さんが載っています。弊社のご先祖は前頭に記載いただいています。文字の読める部分を多くしました。今も和歌山でお馴染みの苗字も見受けられます。現在の商店街の友人の江戸時代の同
3泊4日の和歌山県漫遊初日。最後に訪れたのは、徳川御三家の一角を成す紀州徳川家の居城。◆和歌山城◆(国指定史跡・日本100名城)大手門和歌山市街の中心に位置する丘陵、虎伏山に築かれた名城です。築城されたのは豊臣政権下の時代。天正13年(1585)、紀州を平定した豊臣秀吉が弟・豊臣秀長に命じて築城させました。その際、地名が若山から和歌山に改められたそうです。この大手門は昭和57年(1982)の再建。東堀時は下り、慶長5年(1600)の関ヶ原
【徳川治貞(とくがわはるさだ)】高橋英樹紀伊の麒麟「紀麟公」享保十三年~寛政元年(1728-1789)紀伊徳川家第五代藩主・徳川吉宗が八代将軍を継承したため吉宗の従兄にあたる紀伊徳川家連枝(連枝=御三家分家)の伊予西条藩二代・松平左京大夫頼致(よりよし)が紀伊徳川家を継承し従二位権大納言・徳川宗直として六代藩主となる。治貞は宗直の次男。母は側室・善修院(外山氏)。寛保元年(1741)西条藩主松平頼邑の養子となり元服して松平頼淳と改める。従四位下左近衛少将兼修理大夫に叙任。のち玄蕃頭に
例年になく早い梅雨明けだったそれ以来、熱中症警戒アラートが毎日のように出続ける日々だ汗だくになって水撒きをするしっかり水を撒かないと、花も野菜も陽射しに負けてしまう太陽との闘いに、身体は早くもバテバテ草引きや掃除をするのは早朝しかないこの作業で、体力の80%が奪われたように感じてしまうしかし、そんな中で咲き始めた真夏を彩る花を見つけると、「頑張れ」の声を、互いに掛け合っているようにも思える。庭の蹲踞の横に、今年はたくさんの吾亦紅が花をつけだしたこの日本古来の花の
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しましたが、「城門」は軍事施設である「お城」へ
5月3日から実家に帰省中おいしいものたくさん食べて、よく寝て…目が覚めたらひとつ歳が増えてました…1年がんばったごほうび…お父ちゃん、お母ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、親戚のみなさん、ご先祖様、ワンコにネコたん、ともだち、娘、みんなみんな、ありがとう!気持ち入れ替えたり新たな決意とか、特にありませんけど、それでいいよね…僕は僕で、僕らしく…いつもどおり〜5月3日、快晴晩御飯鶏の唐揚げと野菜の素揚げ母と一緒に作りました母が作ってくれた、筍のお吸い物紀州藩山本家の朝ごはん
伊勢参宮道を少し外れたのは…「伊勢型紙資料館」を訪ねるためです。この建物は、江戸末期に建てられた、白子屈指の型紙問屋「寺尾家住宅」だったところです。「伊勢型紙」がいつ頃、ここ白子・寺家領町を中心に興ったかはっきりしませんが、古くは白子型紙とも呼ばれ、日本の染色工芸史の中で大きな役割を担ってきたという。江戸時代紀州藩の領地に組み入れられたことにより、特権が与えられ、飛躍的な発展を遂げました。宝暦3年(1753)両村には型屋が138軒あったといわれ
さて鈴鹿サーキットのコース脇にある池の傍に立ったタモリ一行。解説者が、この池は何のためにあるのでしょう、とタモリに問いかけた。池は地形図によると谷と尾根の終わり辺りにあって、タモリはその入り組んだ谷側と答える。では何のためか、とドローンを使ってサーキットの外の景色を眺めてみると海に向かった平野部は田が広がっていた。改めてサーキット場にあるレースが眺められる建物の最上階から観てみると確かに田が広がり、その間、間に池があり、それは灌漑のためのもので、この谷と尾根が入り組んだ地形を利用、用水
2日前の大阪城は曇ってたし、桜もまだまだ5分咲き程度だったけど🌸打って変わって気持ちのいい晴天の本日は白壁の美しいこちら和歌山城まで足を伸ばしてきました!桜のアーチをくぐり天守閣へ大天主から臨む紀の川、和歌山湾が素晴らしくどの方角からも桜桜桜🌸🌸🌸和歌山がこんなに桜の名所だったとは知らなかった和歌山城といえば秀吉が弟秀長に命じて築城。廃藩置県までは徳川御三家の一つ紀州徳川が居城として使われていて、家康の10男頼宣も入城したと言われています。展示物には紀州藩の大駕籠や葵紋の陣羽
紀州藩2代藩主徳川光貞の四男で、紀州藩5代藩主を12年務めた後、第8代将軍に就任し享保の改革を行って幕政を刷新した。誕生地は和歌山市吹上2-14にあり、石碑が建てられている。
所在地〒649-2211和歌山県西牟婁郡白浜町(番所山公園)特徴異国船を監視するために紀州藩が設けた番所。現在は公園となって遺構は確認できないが、遊歩道が整備され周辺の眺望は良好。感想南方熊楠記念館などもあって訪問する価値はある。
どもども。塾講師/ライター/国際薬膳茶師/コーチングコーチ…麗です!肩書ありすぎぃ(笑)さて、今日は「陸奥宗光(むつむねみつ)」のことをお話しませう。猫耳にみえる頭巾を被った陸奥の写真がこちら。私の一押し。(こちらはパブリックドメインになっております)かわいい。坂本龍馬の暗殺犯(違ったんだけど)を襲撃に行くぞ、ってときの写真。…写真とる余裕はあったのだろうかとか、気になるんだけど(笑)陸奥宗光。名前もかっこいいよね。彼は明治日本の
1867年5月26日(慶応3年4月23日)日本初の蒸気船同士の衝突事故が起きました💥長崎から大坂に向かっていた海援隊の「いろは丸」が紀州藩の軍艦明光丸と衝突したのです😭いろは丸は自力航行不能となり明光丸に曳航されて鞆の浦港に向かう途中で沈没しましたが、いろは丸の乗員は全員明光丸に乗り移っていて死者は出ませんでした🤗このいろは丸は大洲藩がイギリスから購入し海援隊に一航海500両で貸していた蒸気船でした😄帰り道は来た道ではなく、ほとんどの人が登城して来る道を反対に向かって
令和6年の思い出で,銃砲史研究に関し嬉しことが二つあった。一つは,内閣官房領土室主催の特別講演会でのことだ。特別講演会では,鳥取大学名誉教授の井上貴央先生が『悲劇の海獣ニホンアシカを追って』と題する講演を行った。アシカは竹島のシンボルであり今回の特別講演会は,竹島が我が国の領土であることを発信するために行われた。井上貴央先生は講演の中で,私が研究した紀州藩のアシカ守をしていた上島源兵衛さんの火縄銃の話を紹介してくれたのである。私の道楽の研究が,ほんのわずかではあるが日本の領土
数字がいかに大きいかが分かる。中田氏が強調されるように、熨斗鮑を媒介として志摩海女と伊勢神宮の御師とは密接に結び付いていた。江戸時代の志摩海女の生業は、伊勢神宮に近接していたがゆえに、俵物としての統制を免れ、確実で安定した販売先が確保されていたのである。2、テングサ漁の展開と紀州藩江戸時代後期には、海女の主要な獲物としてテングサの持つ比重が増加する。テングサは水と共に煮詰めてところてんを作り、冷寒地で乾燥させて寒天に加工するが、この技法が江戸時代の日本で始まり19世紀半ばには各地で生産が行
和本江戸文政7年(1824)「月なみ消息」全1冊/鵜殿余野子/紀伊新宮藩(紀州藩附家老)水野忠央の旧蔵書/古書古文書/木版摺りです。38丁。26.5cm×18.5cm。木版刷り。題簽傷み欠損あり。奥付あり。新宮城書蔵の印がある。紀伊新宮藩(紀州藩附家老)水野忠央の旧蔵書【書名】月なみ消息【巻冊】全1冊【著者】鵜殿余野子(江戸時代中期の歌人。享保14年生まれ。鵜殿士寧の妹。紀伊和歌山藩につかえる。賀茂真淵にまなび,油谷倭文子,土岐筑波子とならんで,県門の三才女とよばれた。天明8
先日ですが、ツーリング仲間に県道745号を巡る旅をしたいと持ちかられよくわからんままスタートしたツーリングまずは波多瀬発電所小水力ながら、一応最後はデカイ配管で落差を使ってという方式でした。発電所に水を供給してる立梅用水の地上への出口。この辺は近代作り直されたものですがこの用水の最初は200年前、紀州藩時代に作られたとかそして県道の行き止まり(車両通行止め)に!ここからは徒歩で道なき道をこの隧道作られた当時の用水路跡だそうここにこないと見れない川の風景!天気も良くて
鳥取大学名誉教授の井上貴央先生は,8月9日に内閣官房領土室主催の特別講演会において『悲劇の海獣ニホンアシカを追って』と題する講演を行われました。アシカは竹島のシンボルであり今回の特別講演会は,竹島が我が国の領土であることを発信するために行われたのです。その講演の中で,私が研究した紀州藩のアシカ守をしていた上島源兵衛さんの火縄銃の話をご紹介いただきました。上山権源兵衛さんの火縄銃この度、その講演が,領土・主権展示館-内閣官房からYoutubeにアップされたとの御連
公式ハッシュタグ令和6年9月16日骨董品ランキング3位帝国データバンクの令和5年の報告書よると、世界には業歴が100年以上のいわゆる『100年企業』が約7万5000社あるという。そのうちの4万3631社は,日本企業だった。企業の寿命が長ければ長いほど,その国の経済力や基礎技術力が高くなるのは,誰にでも理解できるだろう。鉄砲が日本に伝来したのは今から470年も前のことだが,日本人はこの新技術をたちまちに吸収した。実際,日本には鉄砲業を連綿とし継承しきた企業は多い。今,日本には創業400
潮待ちのしまなみ浮かぶこの浦でただ待ち消えし義昭哀れ※鞆の浦付近で、東は紀伊水道、西は豊後水道からの潮がぶつかり、船はここで潮待ちをした。足利義昭もここで室町幕府の再興を夢見て待ち続けたが、願い叶わず消えて行った。なお義昭在所地を鞆幕府とも呼ぶ。足利の歴史生まれしこの浦に幕府夢見て義昭眠り※足利尊氏は鞆の浦で光厳上皇の院宣を受け取り、一気に勝ち進み室町幕府を開いた。その鞆で義昭は消えた。