ブログ記事34件
もう2024年も残り1ヶ月ほどとなって秋も終わりますが、ここで戦前の金澤の観光誌「観光の金澤」3号(1934年(昭和9年)10月発行)から秋の粟崎についての記事を紹介します。「砂丘・遊園・潟ー粟ケ崎の秋ー青柳眞三郎粟ヶ崎の砂丘は日本一だ。日本一だからつて誰にも知らさない様にそつと懐中にしまつて置くのは寶の持ち腐れといふものだが‥‥。鎌倉や逗子の湘南の海濵を始めとして、大体表日本の砂丘はいやにドス黒いが、こゝの砂丘はまァ砂糖にしたら三盆白だ。だから黒砂糖や赤ザラ以
高室信一の「昭和ロマン物語粟崎遊園」には戦時中に陸軍施設となった粟崎遊園についても書かれています。「閉鎖された粟崎遊園の施設は、多目的に利用された。いくら名が元遊園であっても、ただ遊ばせておく手はない。軍が遊休の施設をうまく利用した。仮兵舎である。赤紙で、どんどん予備役を収集するが、それを収容するところがない。遊園の施設は、おあつらえむきであった。立派な大浴場もあったし、運動場もある。それに広大な砂浜は、うってつけの演習場になった。〜中略〜意外にも演習用として役立ったのは大山
今回は100年前の8月の北國新聞から当時の様子を見てみたいと思います。今から100年前は西暦だと1924年、元号だと大正13年。前年の9月1日に関東では関東大震災が起きており、北國新聞8月3日夕刊2面には震災からもうすぐ一年ということで「歌舞や音曲も飲酒も見合せ大震災一週年を記念東京市其他各種團体の申合せ」(原文のまま)という記事の中で東京府其他各種団体が申し合せて、9月1日は歌舞音曲や遊戯を自粛し、追悼行事を行うと書かれています。一年は経ったとはいえ、まだまだ東京は復興途上であり、震
色々あって飛んでしまいましまが、今日で千里浜サイクリングネタ終わらせます(笑)クリスマスイブだろうが関係ありません※前回までのまとめ『千里浜サイクリング(1)~朝ラーからの道の駅高松編~』遅くなりましたが、先日行ったサイクリングの模様でも書きますか・・・ある日、とってもよく晴れていたので、途中まで電車で自転車載せて、千里浜までサイクリングしてき…ameblo.jp『千里浜サイクリング(2)~千里浜なぎさドライブウェイ編~』早く千里浜サイクリングネタの続きを書かねばね(笑)美しき宝達山
しばらく間があいてしまいましたが、今回はコーヒーのお話をお休みにして、粟崎遊園の閉園について北國新聞を元にまとめていきたいと思います。高室信一の「粟崎遊園物語」では「オリンピック観光博覧会を最後のエベントとして、その年の秋、旧粟崎遊園の建造物は、処分のため売りに出された。」とあります。また「粟ヶ崎遊園資料集砂丘に咲いた夢と浪漫」に掲載されている年表によると”1943年(昭和18年)8月31日に最後の公演が行われる。1944年(昭和19年)粟ヶ崎遊園の施設が陸軍の仮兵舎など多目的に使
本日は、先日新聞に掲載されていた北陸鉄道浅野川線のラッピング電車を見に行く(撮りに行く)ポタリングです。以前に作成してあったコースを今日は逆回り走行したいので、Garminconnectのコース編集でルート逆行に設定してワンタッチで修正する。犀川〜浅野川周回ポタリングから浅野川〜犀川周回ポタリングへ修正完了。秋も深まって来たこの時期、早朝は結構冷え込むのでそれではと9時少し前にやおら家出する。わずか30km強のコースなのでいつものようにポタリングというより、フォタ
高室信一「粟崎遊園物語」のエピソードの中で、香林坊に出来たカフェー「美人座」と「赤玉」が宣伝合戦を繰り広げたとあります。これは昭和6年頃の出来事で、実際に宣伝の加熱化から警察の取り締まりも厳しくなり、当時の北國新聞にもカフェーの規制強化についてはたびたび記事が掲載されています。大正から昭和初期にかけての時代にはカフェーが流行り、大阪や東京をはじめ、金沢など地方都市にもできましたが、当時の「カフェー」は現在のコーヒーを提供するカフェや喫茶店とは違い、コーヒー以外にもお酒も出し、女給とよばれた配膳
昭和10年(1935年)10月の粟崎遊園プログラムには特別出演としてアコーヂオン奏者「南部三郎」との記載があります。通常、粟崎遊園のプログラムには作曲家の名前は載りますが、楽士(演奏家)の名前が載るのは珍しく、文字通り何か特別な人なのだと思っていました。新宿ムーラン・ルージュのプログラムでも楽士の名前が載ることは稀で、もしかすると楽士は入れ替わりが激しかったから載せられないのか、舞台のメインはあくまでも役者で、楽士は大道具や照明と同じく裏方としての扱いだったから載せることがなかったのかもしれま
新しい年になってもう1月の後半になってしまいました。個人的には去年末の師走は仕事もてんてこ舞いでしたが、その合間を縫って雪の積もるクリスマスに、福井市のハピリンホールにてだるま屋少女歌劇を元にした市民劇「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」を観てきました。公演初日の前日は北陸地方は気象警報で暴風雪と出ていたので東京からそもそも辿り着けるのか?というような状態でしたが、当日は交通機関はなんの支障もなくたどり着けました。このお芝居の脚本は清水邦夫、初演時は蜷川幸雄が演出していたもので、今回は
今回は石川県出身の画家・吉田冨士夫の粟崎遊園の思い出について書いていきたいと思います。吉田冨士夫は以前鴨居羊子とアワンサキ(鴨居羊子その1)で少し触れましたが、改めて略歴を紹介します。1929年(昭和4年)金沢市に生まれ、1946年(昭和21年)に石川県立工業学校図案科卒業後に、日本硬質陶器株式会社に入り、図案室に勤務します。岡田登志男と山口操助に画を習い、宮本三郎に師事します。1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)の3年間、スペイン・ビタソアにある陶器会社に招聘され陶
W・アンダーウエア開催の1年ほど前の1954年(昭和29年)、東京、大阪などで行われたクリスチャン・ディオールのファッションショーはそれまでの日本のファッションショーの常識を破り、美的で、エンターティメント性があり、料金を取るもので、以降、日本でもそれを模倣したショーが各地で開かれるようになっていきました。1957年(昭和31年)5月に鴨居羊子は大阪南の映画館スバル座で幕間のアトラクションとして下着のショー「チュニック・ショー」をはじめます。映画館のアトラクションについて改めて説明を
こんにちは!日曜日はコンサートとコンクールをはしごして来ました🤗今日はコンサートについて🥰教室として協賛もさせていただき、チラシも入れていただきました🙇♂️今住んでいる内灘町に本当に北陸の宝塚なるものがあったんだな〜というのが衝撃で、そして戦争や火災によって無くなってしまった悲しい出来事も印象的でした😢内灘町は海や大きい医科大はあるものの、田舎という印象が私の中では強いですが、これから教室としても演奏家としても内灘を盛り上げていけたらいいなと思います🤗明日はコンクールについて投
鴨居羊子のその他の著作にもアワンサキ(粟ヶ崎)やミラノ・マリコに関わるエピソードが出てきます。エッセイ集「M嬢物語」より「父が贈ってくれたお雛様」「ミラノ・マリコはお尻をふりながらモダンダンスを踊る。ミラノ・マリコは、宝塚から流れてきたスターで、金沢の里見町にあった私の家にもときどき、妹弟子達をつれて訪れた。古い武家屋敷の玄関に、すばらしい流線型の華奢なハイヒールが三、四足ぬいであった。まるで、いまにも走りだしそうな精悼なかもしかを連想させる靴だ。私は四つん這いになって、泥棒猫の
1933年(昭和8年)から1935年(昭和10年)にかけて粟崎遊園で多くの脚本を書いていた鴨居悠は北國新聞の主筆でした。元々、鴨居悠は大阪毎日新聞の記者であり、ヨーロッパに特派員として単身赴任し、パリ支局長を務めていたこともありました。彼が日本に帰国して生まれたのが鴨居羊子(本名は洋子、西洋の洋から名前をとった)でした。鴨居羊子は下着デザイナー、画家、人形作家、エッセイスト、時にはフラメンコを踊るなど多彩な活躍をした人でした。特に下着デザイナーとしてはチュニック制作室を立ち上げ、それまでの
前回に引き続き、過去の北国新聞の記事より粟崎遊園、金沢の話題です。今回は今からちょうど70年前の1951年(昭和26年)に元粟崎遊園を会場の一部として開催された「オリンピック観光博」についてです。日本では1981年(昭和56年)開催の神戸ポートアイランド博覧会の成功とバブル景気も重なって1980年代後半から90年代にかけて地方博ブームが起こりましたが、それと同じように1920年代から30年代にかけても日本全国の都市で博覧会が開かれており、当時もまさに博覧会ブームとも言える状況でした。観光
梅雨も明けて夏の暑さも本番を迎えますね。今回はちょっと趣向を変えて、北国新聞の記事から過去の粟崎遊園や金沢の様子を振り返ってみたいと思います。今からちょうど90年前、1931年(昭和6年)の8月1日の朝刊には大きく粟崎海岸、金石海岸の海水浴場の写真が掲載されています。↑北国新聞昭和6年8月1日朝刊1面より/国会図書館所蔵(転載厳禁)「アブノーマルな天候が、レンジの如くおつかぶさつて、誰も彼もが、大こぼしのところへ、いよいよ爽快な夏風景‥‥待ちかまへてゐた河童連は、爆發的
令和3年5月12日(水)最近、皆さんがクレマチスの事を記事にしているので、以前にカザグルマの事を記事にしたことがあるので、多分もう咲いているのではないかと思い行ってみたのである。このカザグルマ、ご存じの方もいるが、カザグルマと言ってもくるくる回る風車ではなく、お花の名前なのである。下記は、以前にカザグルマの事を書いた記事である。『カザグルマとクレマチス』令和2年5月23日(土)晴れ昨日はサイクリングの日だったので、いつものよう以ジョギングをやり、その後にサイクリングをやろうと思っていたの
令和3年5月8日(土)晴れ以前に河北潟の桜並木の事を書いたが、『河北潟の桜並木』令和3年4月3日(土)晴れ今朝3時半頃に起き、ブログを2時間程見て、その後はいくらか暖かかったので、今日はジョギングはやめロードバイクで河北潟の桜を見に行く事…ameblo.jp今日朝刊を見ると、その河北潟にコウノトリが巣作りをしたようで、見出しには「巣塔にコウノトリ」と書かれているのである。つがいの雄の方は兵庫県豊岡市で生まれたもので、雌の方は福井県の越前市で放鳥されたとあるが、このままここで定住して
粟崎遊園が一番賑わって華やかだった時代は昭和8年〜13年のあたりと言われています。その頃の舞台スタッフの中心人物として脚本の鴨居悠(当時北国新聞の主筆)、前回に紹介した藤井とほるがいますが、村井武生もかなりの頻度でプログラムに名前が出てきます。高室信一の「粟崎遊園物語」には村井武生は登場しませんが、滝口征士がまとめた「村井武生年譜表」によると村井武生は昭和9年に舞台監督として呼ばれたとあります。残っている粟崎遊園のプログラムによると舞台監督以外にも脚本、演出などでも活躍したようすが読み取れます
粟崎遊園についての新しい発見がなかなか見つからなかったので、しばらく周辺の遊園の事などを調査していましたが、今回は粟崎遊園の話題に戻ります。高室信一の「粟崎遊園物語」によると、粟崎遊園の創始者/平沢嘉太郎と遊園の演芸部部長/川上一郎が相次いで亡くなったあと(昭和7年6月以降)、浅野川電鉄の役員だった東耕三が遊園の運営を引き受けました。当時の映画館はトーキー映画が少しずつ浸透して来た頃でしたが、映画はまだ無声映画が中心だったので活弁士がおり、映画上演の合間にはアトラクションと呼ばれる出
高室信一の「粟崎遊園物語」によると「粟崎遊園の演芸担当だった松本金太郎はマンネリ防止のために歌の勝太郎やムーラン・ルージュなどを積極的に招いて、専属のショーの間に挟んだ」とあります。ここで書かれている歌の勝太郎とは、はっきりわからないのですが、「東京音頭」を三島一声と一緒に歌った東京・芳町(よしちょう)の花街出身の小唄勝太郎のことなのかもしれません。また、ムーラン・ルージュとはムーラン・ルージュ新宿座のことで、今の東京・新宿駅南口の東南改札から出て近く、今のドン・キホーテがある場所に専用
令和2年9月12日(土)晴れ今朝も涼しかったのでジョギングをやり、いつものように5kmほど走り、帰ってからもう咲いたかなと思い裏に行くと写真のようにサボテンの花が咲いているのである。リブログしたように6月に一度咲き、例年は年に一度しか咲かないのだが、『ロードバイクで行った所その233メスキルヒ市とサボテン』令和2年6月23日(火)晴れ今朝はロードバイクで津幡の龍神と言う所まで行ったが、この道をを走るのは初めてで、家に帰るとサイクルメーターは25kmであった。すぐ…ameblo.jp
今日は能登が11過ぎから雨が止むことを知り、能登ランをしに再び珠洲へ。ついたことはついたが気分が乗らず写真も一枚も撮らず戻ってきた。帰る途中の内灘で1時間のラン。道の駅内灘からスタート。幻の遊園地、粟崎遊園の正門の遺構を観に行く。今となっては謎?が多いこの遊園は昔から関心があって本まで持っている。塗装の跡が残っている。ヘルスセンターや白雲楼ホテル並にリアルで経験したいとこのひとつ。粟崎遊園の昭和モダンなポスター。しびれる内灘総合公園を通り。海に降りて放水路そこから金沢方面
改めて、遊園というと今の人たちは乗り物やアトラクションのある遊園地を連想してしまいがちですが、戦前の遊園という言葉にはどちらかというと公園、庭園に近いイメージが強かったようです。金沢には粟崎遊園や濤々園がありましたが、同じ時期には隣の富山県・富山市に大川寺遊園や八ヶ山遊園が開園し、現在の氷見市に島尾遊園があり、福井県・永平寺町の小舟渡には小舟渡遊園が造られました。当時は第二次鉄道建設ブームと言っていいほど、各地の都市から近郊に向けて鉄道が敷かれ、その多くが阪急の小林一三にならって鉄道沿線
久々に金沢へ出向いて石川県立歴史博物館で行われた、れきはくゼミナール「戦後の地芝居と地役者」を聞きに行きました。内容は江戸時代からの金沢とその周辺の歌舞伎の定着と今に至るその流れでした。江戸時代の全国芝居小屋番付に「金澤川上芝居」の名がが載るぐらい当時は金沢でも歌舞伎が盛んだったようで、それが周辺の村や町にも広まって地元の人々が行うようになり、映画や新劇など他の娯楽が盛んになるにつれて人気が下火になり、戦争による変化と中断を経て、戦後の復興、現在は伝統芸能として祭りの中にその流れが生きていると
PC,、重いせいか時々『いいね』が現れずポチッとができません💦後を残したいんだけれど押せずにすみませんです💦時がどんどん過ぎてゆきます。月曜の2月3日は節分だったのにバタバタしてて夜はリコーダーの練習で完全に忘れてしまった——旦那もあまりそんなことにはこだわらないから夜は出かけるからお鍋とお正月に残ってた草餅を食べてもらい今年は何もせずにお終い💦(笑)ぜんぜん進まないうちに日はどんどん近づくフェスチラシが仕上がりました❣昭和を意識して右からの横読みですのでお気をつ
過去に柴田書店から出版されていた「blend」という雑誌に鞍信一の喫茶店モナミが掲載されていることを知り、どこかで手に入らないか古本屋やネットでずっと探していてました。ネットで2年前に東京・大井町の「カルディ」という喫茶店にその雑誌が置いてあるらしいという情報をみつけ、大井町へ行ってみました。コーヒーを頼んだ後に「blend」という雑誌は置いていますかと店主に聞くと、「カルディ」の店主はかなりの本好きらしく、昔はお店にたくさんの本や雑誌を置いていたが、欲しいというお客さんにあげたり、片付けてし
年末に金沢に遊園の事を調べに行きました。今回は主に石川県立図書館と金沢市立玉川図書館にて遊園関連を「観光の金澤」と言う戦前の観光雑誌と北陸鉄道の資料を中心に資料を閲覧(ほとんどが閉架資料)していきました。今回調べた中で一番気になったのは、戦後昭和30年に白山市の手取川沿いに北陸鉄道が開設したという手取遊園です(現在もある手取フィッシュランドとは別の施設)。粟崎遊園が閉園してすでに10年以上経ってから、新たに作られた遊園。翌年の昭和31年には「もはや戦後ではない」と言われるほど戦後復興
仕事の休みが取れたので、内灘まで行ってきました。遊園についてわからないこと、調べたい事が、まだまだあるので。風と砂の資料館の竹田さんにお会いして色々お話を伺いました。個人的に集めた貴重な資料を見せて頂いて、大変ありがたかったです。その上その資料を貸して頂き、さらに内灘のピーナッツ饅頭と言うお土産まで頂きました。感謝しかありません。石川県立図書館、金沢市立玉川図書館の閉架図書に遊園や浅野川線(北陸鉄道)に関する資料があるので、見てきました。石川県立図書館には濤々園や平沢製材所のパンフレット
粟崎遊園の話題からはそれてしまうのですが、今週は東京・築地市場が豊洲に移転しました。近くに用事かあったので寄ってみたのですが、そういえば昔、築地には新劇の発祥の地とも言える築地小劇場があったのを思い出し、その跡地にある記念碑に何年かぶりに行って見ました。独特な形をした築地本願寺近くのビルの谷間の路地の壁にひっそりとあって、気にしないと見つからないようなところにあります。築地小劇場ではプロレタリア演劇なども行われ、粟崎や金沢の舞台人にも大きな影響を与えていたはずです。今でも築地周りには市場関