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元治元年(1864)六月六日、妻のつねとともに天狗党からの脱走を図ったものの捕まってしまい、小山宿の持宝寺に連れ戻されて殺害されてしまったと『藤岡屋日記』に記されている粕谷新五郎ですが、この話にも疑問点はあります。そもそも粕谷新五郎の妻の名はたかであったはずで、つねではありません。しかも子息の親之介が書き残した『勤王殉国事蹟』にも、母が一緒に殺されたという記述はありません。あるいは内縁の妻、もしくは妾だったかとも考えられそうですが、『結城藩届書』にある、前日の夜に結城城下で捕らえられたとい
元治元年(1864)六月六日、小山宿の持宝寺にて自刃したと伝わる粕谷新五郎ですが、その死に関しては異説があります。それは『藤岡屋日記』に以下のように書かれています。六月七日、栗橋宿より御届水戸浪人の内、粕屋新五郎と申すもの小山宿逗留中、女房尋ね参り候につき、去る五日夜同処を欠け落ちいたし候ところ、浪人ども追いかけ城町にて取り押さえ、小山宿へ引き取り帰り、同前慈宝寺境内に於いて翌六日死罪にいたし、右慈宝寺へ右の者ども葬式入用として金十両相渡し、且つ小山宿へはこれまでたびたび人馬継ぎ立て並び
元治元年(1864)三月二十七日のこと、幕府が自ら表明した横浜鎖港が一向に実行されないことに憤った水戸藩士藤田小四郎(藤田東湖の四男)らは、水戸藩町奉行田丸稲之衛門を主将に担ぎ出して筑波山に兵を挙げました。世にいう天狗党の乱のはじまりです。粕谷新五郎もこの挙兵に参加し、別働隊であった田中愿蔵(たなかげんぞう)組に加わっていました。が、その田中組は各地で殺人・掠奪・放火・強引な軍資金徴収・人足の強要などを繰り返したため、人々から「ザンギリ勢」と呼ばれて恐れられていました。田中組は五月
前回の記事の内容を補足訂正させていただきます。文久三年(1863)四月十五日、浪士組は新徴組と名をあらため、庄内藩主酒井忠篤の支配下となる(ただし、この時点ではまだ幕府の組織)のですが、同月二十一日には箱館奉行支配与頭であった河津祐邦が鵜殿鳩翁と交代するのですが、その直後に作成されたと思われる隊士名簿に、上役である幕臣たちの名も記されています。『文久癸亥雑記』(新徴組人名/文久三年五月)より抜粋新徴組支配小十人組松平上総介次席河津三郎太郎千石高中条金之輔新徴
壬生浪士組の結成に参加しながらも、まもなく江戸へと帰って行った粕谷新五郎ですが、一旦回復した病が再発してしまったのか、再び病床につくことになってしまったようです。妻のたかに宛てた手紙に我等も八月中まで大病にて、まことに困りおりながら、佐々木只三郎と申す者よく世話いたしくれ、それゆえに命はひろい申し候。とあり、(文久三年の)年末までには国に帰るから心配しないようにと書かれています。三月下旬から四月頃に京を発ち、半月から一ヶ月後ぐらい、つまり四月中旬から五月までの間に江戸に到着したとして
芹沢鴨・近藤勇らと共に京都に残留することになり、壬生浪士組の創設メンバーの一人となった粕谷新五郎ですが、永倉新八は彼を同志として認めていなかったようです。『浪士文久報国記事』には十四人の姓名芹沢鴨近藤勇新見錦山南敬助土方歳三沖田総司永倉新八藤堂平助原田左之助平山五郎野口健次井上源三郎斎藤一平間重助とあり、壬生浪士組の創設メンバーはこの14人であるとしている他、板橋の供養塔にも粕谷新五郎の名はなく、「同志連名記」にも最後に「遺稿中各記録より抜抄せる左記人名は
文久三年(1863)三月三日、関白鷹司政通より浪士組取扱鵜殿鳩翁に対して達文がありました。このたび横浜港へ英国軍艦渡来、昨戌年島津三郎儀、江戸表出立の節、生麦において英国人両人打ち果たし候儀に付、三カ条の儀申し立て、何れも聞き届け難き筋に付、その旨応接に及び候間、速やかに戦争に相成るべきことに候。よってその方引き連れ候浪士共、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け尽忠粉骨相勤め候様致さるべく候。生麦事件に対してイギリスが突きつけた三カ条(一、賠償金の支払い。二、島津久光を打
江戸を出立し中山道を進んだ浪士組一行は文久三年(1863)二月二十三日、15日間の旅を終えて京に到着しました。浪士組は洛西壬生村の新徳寺を本部として周辺の民家に分宿することになりましたが、清河八郎はその夜のうちに浪士を新徳寺に集め演説を打ちます。そして翌日、清河八郎は浪士全員の署名を添えた上申書を学習院に提出します。「幕府お世話にて上京仕り候得ども、禄位などは相受け申さず」の一文が有名になり、清河八郎は浪士組を朝廷の軍隊にするために幕府を利用したのだといわれて久しいのですが、その検証は別の
時は流れて文久三年(1863)初頭、幕府は関東の浪士を集め浪士組を組織します。これは出羽浪士清河八郎の献策を容れたもので、有為の浪士を集めて一集団を編成し、同年三月に上洛する将軍家茂の警護にあたらせ、また京に跋扈している過激派浪士の取り締まりにあたらせようというものでした。その清河八郎の献策は「急務三策」と呼ばれていますが、大まかにいうと一、軍備を強化し攘夷を断然決行すること一、大赦を実施し、囚われの身となっていたり、罪を得て逃亡している有為の浪士たちを許し、国事にあたらせること。
下野清介が加わり、芝の薩摩藩邸に入った水戸浪士の数は38人となりました。その38人の姓名を示す名簿があるのですが、これが少々ややこしいことになっています。『薩邸歎願書類』万延元年八月二十六日薩邸へ出願せる三十八名鳥居幾之介歩行士松本竹吉林忠左衛門小普請組吉野三平横山辰之介小普請組大山新太郎芹沢又衛門小普請組河村定右衛門吉成恒次郎大番組勇太郎弟鈴木鉄之介服部悌三郎大番組源七郎三男鈴木貞介小河吉三郎大番組与十郎弟
粕谷新五郎ら37人の水戸浪士たちは芝田町の薩摩藩邸に入り、そのまま薩摩藩に身柄を預けられることとなりました。言うならば軟禁状態に置かれたわけですが、その翌二十七日のことです。水戸浪士たちから薩摩藩に対してある申し入れがありました。それは軍用金調達のために一行とは別行動をとっていた者がいるのだが、どうやら道に迷ったようで到着が遅れているので、彼らも藩邸に入れてほしいというものでした。しかし薩摩藩としては前日入邸の37人は幕府の命で「当分お預かり」となった身なので、他の者を合流させるわけ
安政五年(1858)八月、孝明天皇から水戸藩に向け勅諚が下賜されました。これは幕府が勅許なしに開国に踏み切ったことへの叱責と、攘夷実行のための政策を推し進めるよう、幕府に対して働きかけよという内容のもので、戊午の密勅と呼ばれています。幕府は水戸藩に対し勅書の返納を求めましたが、水戸藩内の激派はこれに反発し、安政の大獄の弾圧を経てもなお勅書返納を阻止しようと水戸街道長岡宿(現・茨城町)に集結しました。当初は18人の集まりだったといいますが、やがて200人近い人数にまで膨れ上がります。彼
壬生浪士組(のちの新選組)結成時のメンバーである粕谷新五郎は、非常に多くの謎に包まれた人物です。出自ははっきりしていて、ご子孫も健在なことが確認されているし、壬生浪士組やその前身である浪士組に加わっていたり、それまでの経歴もある程度はわかっているのですが、それでも「謎」なのです。『勤王殉国事蹟』(明治7年/東京大学史料編纂所データベース)第36巻には、長男の親之介が記した粕谷新五郎の事跡が残されていますが、簡潔にまとめられていて、家族の名前と、小山宿(現・栃木県小山市)に埋葬されてい