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○漱石論「文豪の脳みそと淋しさ」、漱石論「漱石の語り」に引き続き、今回は漱石論「死と隣接していた夏目漱石」を見てみたい。≪私の夏目漱石論≫副題「死と隣接していた夏目漱石」漱石は常に他の人達よりも死に近い所に居たような気がして私にはならない。持病の胃潰瘍に悩まされながらも小説を書く、その精神的な強さに感服したのと同時に、現代人として生きる私達のエゴイズムや自分に対する甘さを享受することさえ可能になってしまった現代社会の特徴を垣間見た気がした。そんな漱石が生前、最も死に近づいたの
○天然居士米山保三郎墓銘の話をせっかく続けて来たのである。ここらで一つ漱石論を幾つか紹介したい。その最初が「文豪の脳みそと淋しさ」である。≪私の夏目漱石論≫副題「文豪の脳みそと淋しさ」私が漱石の作品に触れたのは、小学校三、四年生くらいの時に「吾輩は猫である」を読んだのが最初だった。子供向けの注のついた本で、意味を拾いつつt読んでいたため、半分も判っていたのか怪しいものだが、お札になった位だから、余程真面目で難しいことが書かれているのだろうという私の予想に反して、とても面白く、「後
○長々と天然居士米山保三郎墓銘の話を書き続けて来た。墓銘をものした重野安繹も気になって仕方が無いが、今のところ、それを研究する余裕が無い。これで一回、天然居士米山保三郎墓銘の話を打ち切りにしたい。○ただ、折角、漱石文学に触れたのである。それなら、ついでに、手元にあるものを幾つか紹介しておきたい。それが「漱石三題」である。これを書いたのは平成八年(1996年)、九年、十年だから、もう二十年も昔の話になる。○その年の10月27日から11月9日までの二週間を、日本では読書週間と称して、読書を推進す
○漱石文学は、基本独白である。それだけ作者の個性が表に出るし、強い。それは最初の作品「吾輩は猫である」から、「明暗」まで、終始一貫、変わることはない。○つまり、相当強烈な個性の持ち主でない限り、こういう作品を生むことはできない。漱石文学は、ある意味、漱石と言う作家の独壇場だし、独演会なのである。全てが漱石と言う個性に集約される。こういう作家も珍しい。○それでいて、漱石文学を私小説だと指摘する人は、ほとんど居ない。これもまた、不思議な話である。それにも、ちゃんと理由がある。それは漱石が実に上手
○天然居士米山保三郎墓銘の話を長々と書き続けている。まさか、これ程続くとは思ってもみなかった。漱石文学の中で、天然居士米山保三郎の占めるところは、頗る多いと言うしかない。○なぜ、これ程、米山保三郎は漱石に影響を与えたのか。そういうものを今回は、考えてみたい。そのヒントが養源寺の米山保三郎墓銘にあるのではないか。そう思って、改めて、重野安繹が書いた米山保三郎墓銘を読み直してみた。保三郎は加賀金澤の人なり。父は専造と曰ひ、母は石羽氏、其の弟二子なり。生穎、異に學を好み、年十六にして、東
○前回は、漱石の小説「こころ」が記録する先生の文京区散歩の話をした。当時の東京文京区の様子が見えて来る。ここが漱石の小説「こころ」の舞台となっている。小説「こころ」は登場人物も少ないし、舞台にしたところで、ほとんど下宿先ばかりとなっている。○その中で、小説「こころ」の冒頭の鎌倉の海水浴場の場面や雑司ヶ谷の墓地の場面、房州の銚子、小湊などが登場する。小説にはほとんど出て来ないのだが、それらは寺や墓地として知られるところであることにも留意すべきであろう。○意外と、漱石は若い頃から参禅にも熱心で、
○漱石の小説「こころ」に出て来るKが天然居士米山保三郎の亡霊である話を続けている。前回は雑司ヶ谷の墓地の風景を案内した。この雑司ヶ谷の墓地の風景が、私には小説「こころ」の原風景として、印象深く残っている。○その印象を、以前次のように書いている。・雑司ヶ谷の墓地には、長いケヤキの並木道が存在する。その並木道を、漱石の「こころ」の先生が、夕方、長い影を前方に引きずりながらトボトボと歩いていく。大きなケヤキの木々が、折からの秋風にザワザワと音を立てて騒いでいる。不気味な秋の夕暮れ
○引き続き、漱石の小説「こころ」に出て来るKが天然居士米山保三郎の亡霊である話を続けたい。前回は小説「こころ」の冒頭、鎌倉の海水浴場での、私と先生との出会いの一コマであった。明治時代の海水浴場の風景は珍しい。まさに絵になる風景である。○漱石の小説「こころ」の風景で、次に気になる風景は雑司ヶ谷の墓地の風景ではないか。小説「こころ」が始まって、第4話から第5話に、その風景は登場する。この雑司ヶ谷の墓地の風景が小説「こころ」の暗い内面世界の暗示であり、小説全体の伏線ともなっていることは、言うまでもな
○天然居士米山保三郎墓銘の話を続けているが、今回も引き続き、漱石の小説「こころ」に出て来るKの話になる。どう考えても、小説「こころ」に出て来るKは米山保三郎だとするしかない。そういう意味で、小説「こころ」の幾つかの風景を案内したい。○最初の風景は、まるで米山保三郎に似付かわしくない風景からである。と言うか、明治時代ころの海水浴の風景自体が珍しいのではないか。それが漱石の小説「こころ」の冒頭に出て来る鎌倉の風景である。そこには、次のようにある。私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。そ
○天然居士米山保三郎墓銘の話を長々と書いている。それもこれも漱石の作品の中に、米山保三郎の亡霊が各所に出現するのを目にするからである。それ程、米山保三郎が漱石に与えた影響は大きく、計り知れない。○そういう意味では、漱石の小説「こころ」に出てくるKも米山保三郎の亡霊であると言えよう。今回は、その話をしてみたい。もっとも、この話をするのは初めてではない。最初に、漱石の小説「こころ」について、ウイキペディアフリー百科事典の解説で、振り返ってみたい。こころ『こゝろ』(新仮名:こ
○前回、米山保三郎墓銘を書いたのが、文科大學教授、文學博士重野安繹であることから、話が当時の漢学界の話に飛んでしまっている。もともと、米山保三郎自体が重野安繹の弟子なのだから、それは当然のことなのかも知れない。面白いので、話をもう少し、続けたい。○私が本駒込の養源寺へ何度も参詣しているのは、郷土の先人、安井息軒先生のお墓が養源寺に存在するからである。安井息軒先生は飫肥藩清武郷中野の生まれである。現在は宮崎市清武町になっている。○漱石の友人が米山保三郎であった。わずか29歳で亡くなった。友人た
○前回、米山保三郎墓銘を書いたのが、文科大學教授、文學博士重野安繹であると書いた。つまり、米山保三郎は重野安繹の弟子であった。その重野安繹は米山保三郎の研究について、墓碑に、次のように書いている。・哲學を修め、既に卒業し、乃ち大學院へ入り、空間論を研究す。・死の拄ぶと雖も、夙に和漢の學を攻め、旁ら佛典に通ず。・其の中學に在るや、英文を研鑽し、尋ねて獨り佛學を渉獵し、又算數に精し。・曽て鎌倉に游び、洪川和尚に参ず。室に悟を毋氏に歸勧すと偕に禅理を講ずる所有り。・故に其
○米山保三郎墓銘を書いたのが、文科大學教授、文學博士重野安繹であることも、興味深い。ウィキペディアフリー百科事典が案内する重野安繹は、次の通り。重野安繹重野安繹(しげのやすつぐ、1827年11月24日(文政10年10月6日)-1910年(明治43年)12月6日)は江戸時代末期から明治初期に活躍した漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。通称は厚之丞。字は子徳、号は成斎、曙戒軒鞭。安繹は「あん
○東京の本駒込の養源寺と言う寺に、安井息軒先生のお墓がある。これまで4、5回お参りに出掛けている。安井息軒と言えば、森鷗外の「安井夫人」で知られる。もっとも、「安井夫人」の主人公はお佐代さんである。お佐代さんの夫が安井息軒になる。○その安井息軒先生のお墓の前にあるのが、米山保三郎墓銘になる。安井息軒先生の碑銘は大きくて堂々としたものである。その字数も1519字もある。当古代文化研究所では、安井息軒先生碑銘もすでに読んでいる。・テーマ「文学散歩」:『安井息軒先生碑銘:概説』https
○ブログ『「坊っちゃん」の清の墓』から『天然居士米山保三郎墓銘:其の一』、『天然居士米山保三郎墓銘:其の二』と続けている。2018年10月2日に、本駒込の養源寺へ安井息軒先生のお墓参りに出掛けた。その際、米山保三郎墓銘が息軒先生のお墓の正面にあった。○その前に、何度か、安井息軒先生のお墓参りには出掛けている。2008年8月28日に訪れた時に、次のブログを書いている。・テーマ「文学散歩」:『「坊ちゃん」清の墓』https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12
○夏目漱石「坊っちゃん」が書かれたのは、明治39年(1906年)のことだと言う。今年は2020年だから、もう百年以上も昔の小説である。それでも、夏目漱石「坊っちゃん」の人気は凄くて、愛読者は多い。○その「坊っちゃん」は、清と言う下女の話から始まって、最後も清の話で次のように終わっている。その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくってもしごく満足の様子であったが気の毒なことに今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日おれ