ブログ記事1件
『方丈記』よりゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、
築200年の米子の町屋、長田茶店で一服ついて、一旦解散。長田茶店のすぐ近くのアパートメントハウス。通りの雰囲気を壊さぬよう、一段奥に下げ、ファサードを白漆喰の壁となまこ壁の腰壁で構成される土蔵風に仕上げています。室内はロフト付、風呂トイレ別の近代的なアパートメント。本通りを国道9号へ向かって、皆でそぞろ歩き。不自然な細長いスペースは町屋跡?それとも小路跡?法勝寺町より岩倉町へと続く本通りを、尾高町と岩倉町の境の辻で北へ曲がると新小
昔、米子には小路と呼ばれる通りが90ほどありました。それらの多くは長い年月を経る間に忘れられてしまいました。それらを復活させようと、米子まちなか歩こう会によって2015(平成二七)年3月から17(平成二九)年3月にかけて、米子市日野町の元町サンロードと本通り、笑い通りを含む国道9号以西の米子下町エリアにある小路に名前の由来とイラストを盛り込んだ「小路案内板」が設置されました。冊子「なつかしの小路と町屋めぐり」(表紙裏表紙含む12頁・税込100円)や小路スタンプ(JR米子駅構内米子市
寺町通りの中央に立地する普平山妙興寺。開山の瑞応院日逞上人は、戦国・安土桃山時代に大坂堺を統治していた会合衆の一人で、豪商油屋伊逹常言の弟です。出家した日逞上人は、広普山妙國寺(堺市堺区)の日珖上人に師事しました。同寺は油屋伊逹常言と兄常祐が土地を寄進し、大伽藍を建立寄進。織田信長伝説の国指定天然記念物「大蘇鉄」や、幕末に起こった堺事件ゆかりの寺としても知られる古刹で、本能寺の変が起きた当夜は徳川家康の公宿所でした。広大な土地や大伽藍を建立寄進するほどの油屋は、妙國寺の
京橋を渡った本通り手前に立地する明治時代築の町屋は、2列型・奥行き3室の典型的な米子の町屋遺構。元畳店、旧茅野邸を個人が買い取りリノベーション中。町屋バンク・資料館としての活用が進んでいます。町屋に似つかわしくない程の太い梁が用いられており、解体された米子城の古材が再利用されたものではないかと推測されます。外の改修が完了、内はこれからのようですが、影女が現われそうな荒れたボロ屋の雰囲気。この雰囲気、嫌いではない。旧茅野邸のすぐ北、通りを隔てた立町通り
米子港の位置する加茂川河口からわずかに遡った京橋(きょうはし)の袂、加茂川沿いの道路と旧米子城へ通じる重要道路の角地に立地する国指定重要文化財「後藤家住宅」は、江戸中期に築造された廻船問屋の構えとして、わが国において数少ない貴重な遺構です。後藤家は戦国時代末期の天文年間(1532~55年)に石州浜田から移住してきたと伝わり、江戸時代には海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられ廻船問屋として栄えました。1714(正徳四年)築造と1753(宝暦三)年増築の主屋は22.4m、
本年4月より11月までの期間、毎月催される米子下町観光ガイドおすすめイベントのひとつ「米子下町10選」。ガイドを務める米子の小路博士Kさんにお誘いいただき参加しました。米子下町10選「米子の十八町を巡る~第1回~」今から約400年前、関ヶ原の戦いの後、駿河国(今の静岡県)より当地、伯耆國領主として中村一忠(忠一)が移封され、1601(慶長六)年入府し米子藩を立藩。家老の横田内膳村詮は、旧加茂川を整備して外堀としたほか、優れた商人や職人を呼び寄せるなどして城下町を形成。内堀と外堀の