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一昨日は公開野外講座「初夏の青山霊園・幕末偉人巡り」でした。ご参加の皆さま、ありがとうございました当日は朝の雨も昼前には止み、少し蒸し暑いくらいの陽気になりました。ほぼ定時のスタート&エンドで、皆さまのご協力に感謝致しますm(__)mまたその日は大久保利通さんの祥月命日。墓前に手を合わせることができました傍らには従者さんと馬のお墓もあり、それぞれに関するエピソードなども。今回ご案内した主な方々は稲葉正邦・川村正平(恵十郎)・永田熊吉・醍醐忠順・有馬
葉室麟先生の「影踏み鬼ー新撰組篠原泰之進日録ー」を読み終えました。前回、同先生の人斬り彦斎を読んで幕末は面白いと思い今回は新撰組の小説をチョイスしました。といっても、最初は土方歳三をメインにした作品を探していたのですが見つからず永倉新八が書いた新撰組顕末記を読んでみたいと近くの中古本屋を探したのですが、それも見つからず…詳しくは知らないけれど新撰組だし、葉室先生だしといった感じで手に取ったわけですが、個人的には大当たりの面白い一冊でした。感想篠原泰之進って誰?伊東甲子太郎は聞いたこ
本書は、新撰組の篠原泰之進(たいのしん)の戦いの日々を綴った小説です。新撰組には、様々な地方から浪士が集まりました。篠原泰之進は久留米出身です。葉室先生は、九州出身の人物を描くことが多かったので、地縁で主人公に選ばれたのかと思いきや、「出身地で選んだわけではなく、明治維新を越えて、最後まで生き抜いた泰之進が好きだから」というのが先生のコメントでした。新撰組の隊士は、ほとんどが幕末に命を落としますが、泰之進は、維新後、大蔵省・造幣局に勤めたりしており、1911年に
みなたまお久しぶりです。二番隊隊長永倉新八です❗❗おかわりないですか?今日から11月すね、、11月といえば11月15日。11月15日といえば龍馬が暗殺された日だ今日は、その龍馬暗殺と新撰組と題して筆をとりたいと思います。この日、龍馬は同志の中岡慎太郎と京都近江屋に宿泊中
いつも永倉のブログを読んでいただき誠にありがとうございます。あるブロガーさんから『永倉さん、歴史苦手なんで教えて下さい。諸士調役兼監察の読み方と意味がわからないです。』と言うメールをいただきました。そこで、永倉がアンサーしますね毎度おなじみの永倉隊長の解説諸士調役兼監察諸士調役は
前回ブログの続編11月18日近藤は何食わぬ顔で、、伊東甲子太郎を醒ケ井の休憩所に招いた。『新撰組顛末記』によるとかねて伊東甲子太郎が‥近藤に、長州へ送り込む間者の
6月15日(土)は、本降りの中、史誠会の例会を予定通り行いました。史誠会は、天候に関係なく、つまり、大雪だろうが大雨だろうが、電車が普通に動いていれば、予定通り例会を行います。まずは、探墓巡礼顕彰会の加藤健太郎さんにご案内いただく青山霊園での墓参です。以下、墓は略して記します。最近、何度か自宅跡の安藤記念教会の前を通っている旧幕臣安藤太郎、続いて、新選組隊士だった加納通廣、秦林親。ともに、新選組隊士だった際の名前は加納道之助と篠原泰之進ですが、新選組ファンならわかりますよね。そ
史誠会は、6月の例会を以下のように行います。見学会:青山霊園に眠る新選組隊士の墓参と聖徳記念絵画館見学美濃郡上藩青山家の下屋敷跡に開設された日本初の公営墓地・青山霊園には、戊辰戦争前後に活躍した多くの人が眠っています。そこで、新選組隊士だった篠原泰之進と加納鷲雄、京都で新選組との関りが深い会津藩士の小野権之丞・秋月悌次郎・外島機兵衛などの他、大鳥圭介や澤太郎左衛門などの墓参を行いたいと思います。また、教科書や歴史の本で目にする機会の多い戊辰戦争前後の出来事を描いた絵画が多数展示さ
影踏み鬼新撰組篠原泰之進日録1,620円Amazon篠原泰之進を主人公に持ってくるとは面白いチョイスだなあーと手にとりました。近藤派のNo.2である土方さんと伊東派No.2の篠原さん、敵対関係にあるわけですからまあ良く思ってはいないでしょう。だからといって土方さんが喋るたび「~と、意地悪な口調で言った」とか「~と、皮肉な目でみた」っていちいち書かんでも。あと沖田総司がヒラメ顔って連呼するのやめて。そこ触れちゃだめ。とはいいつつ、大変面白く読みました。ラストに斉藤一が言
等間隔に並んだ襖の一つから伸びた腕に、突然袖を掴まれた。と、思うと同時、大きな手で口を塞がれる。そのまま座敷へと引きずりこまれそうになり、冷や汗が吹き出てきた。ここは、先斗町の料亭である。いつもつまみ細工を卸している小間物屋のご主人から、儲けさせてもらっているお礼にと招かれたのだ。こういう事態があり得ることは、以前から秋斉さんに示唆されていた。私が慶喜さんの「お預かり」であることや、土方さんと恋仲であることは、大々的に宣伝しているわけではなくても、人の口に戸は立てられない。どこから
お疲れ様です新撰組監察方山崎烝です。佐倉龍之介です。昨日に引き続き、調査報告をしたいと思います今日は御陵衛士篠原泰之進村上進哉さん彼はとにかく殺陣がうまい。ひたすらに殺陣がうまい。太秦仕込みの職人技とも言える立ち回りは本当にカッコよかったです。僕自身殺陣はほぼ経験ないので、色々と教えていただき、彼のおかげで立ち回りも人に見せれるくらいにはできたと思っています。師匠って感じですねはい。またご縁があったら同じ現場で会いたいものです今日調査報告はこの辺で、
ブックレビューです(^.^)一冊目新選組の存在した意味は?隊員の思いは一つの様でそれは見せかけ?新選組の栄光と崩壊両方を第三者の目を通してまさに渦中の同隊員として位置した篠原泰之進そんな人物の物語りです。【訂正します】あっ!この本は前回紹介しておりました(^^;)今回更新はブックレビュー216~218でした。お詫びと共に訂正いたします<m(__)m>二冊目吉原裏同心シリーズまだまだ続きそうです(^-^)三冊目初めて手にする作家です。人がどう
近藤勇の新撰組に入隊した。そして伊東甲子太郎と一緒に脱退し、御陵衛士になった。その後、相楽総三の赤報隊に加わった。草莽の志を持って明治の時代を生き残ったが。彼の見たものは何だったのだろう。人は長生きをすると、いいこともたくさんあるが見たくはないものも、たくさん見てしまうことになる。葉室麟著影踏み鬼新撰組篠原泰之進日録を読んで+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
江戸より戻りました。時は江戸末期、京の町を浅葱色の集団が歩いてくると人はそそくさとそれを避ける。反幕府勢力を取り締まるべく、腰に刀2本さした目付きの鋭い男達。ギロリ。あやしき尊攘派見つけ次第、斬って、斬って、斬りまくる、武装集団新撰組。野蛮と言いましょうか人斬り集団と言いましょうか(以下画像お借りしました)その中で、福岡、久留米出身の篠原泰之進が主人公。近藤、土方の率いる新撰組と袂をわかち、伊藤甲子太郎を筆頭に反(新)新撰組となる。
新撰組のメンバーで好きなのは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう新撰組の構成メンバーを全員言えますか?ってところからはじまりますね。れっつ、リスト!■局長芹沢鴨近藤勇■会津局長山口二郎(斎藤一)■函館局長土方歳三大野右仲相馬主計■総長山南敬助■参謀伊東甲子太郎■副長新見錦※2人、支部局長と重複あり■組長、組頭、副長助勤一番組組長沖田総司二番組組長永倉新八三番組組長斎藤一四番組組長松原忠司五番組
史誠会の2月の例会は、以下のように行います。参加者募集中です。◎2月12日(月・祝)見学会:青山霊園に眠る新選組隊士の墓参と聖徳記念絵画館見学美濃郡上藩青山家の下屋敷跡に開設された日本初の公営墓地・青山霊園には、戊辰戦争前後に活躍した多くの人が眠っています。そこで、新選組隊士だった篠原泰之進と加納鷲雄、京都で新選組との関りが深い会津藩士の小野権之丞・秋月悌次郎・外島機兵衛などの墓参を行いたいと思います。また、教科書や歴史の本で目にする機会の多い戊辰戦争前後の出来事を描いた絵画が多
昨日の続きになります昨夜引用の「戊辰之役実録」は、薩摩藩士・財部雄右衛門さんの記録ですが、それによりますと、伏見奉行所に駆け込んだ勇さんは家来ども手伝いにて馬上より下り、ただちに白木綿にて巻き立て、養生中なりという。と、伝えています。またこの報はただちに大坂城へ届けられて、慶喜さんと容保さんは伏見に医師を派遣致しました。内府公これを聞き、早速伏見へ御匕(おさじ)の医および不断(普段)召しの夜具を賜うと。これは我公の議よりでたりと。(維新階梯雑誌
あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。昨年は怒涛のような一年でしたが(笑)今年はどうでしょうか?でも、今年はこれまでどこにも収録されていなかった短編を収録した大江健三郎さんの全集も出ますし、1月には「裏切り者」をテーマにした歴史小説のアンソロジーもでるそうですから、本が読める時間がもう少し増えるとよいなぁと思っています。(ふふふ、秋山香乃さんが斎藤一を主人公に一遍書かれているのですよ♪)昨年はほとんどブログがUPできなかったので、昨年読
ここのとこずっと、油小路事件関連についての記事ですがすみません、あと2回だけ、お付き合い下さいませm(__)mカッシーの粛清から、この油小路の惨劇になるのですが当日の記事の中で、現場に駆けつける衛士たちの他、「武兵衛」という賄方を同行させました。この人は、実際に当夜駕籠に付き添って現場に行き、逃げ帰った人です事件後に、その目撃をこう語っています。その夜八時頃(午前2時頃)、西六条境内油小路七条上る町役人という者が、何者かが前刻、伊東に深手を負わせたので早々に引き取るよう
今日は、あさくら先生の講座に参加させて頂きました以前から興味深かった近藤隼雄さんの事、とても勉強になりました来週も楽しみですホントに久々に、O先輩ともお会いできました。レポはまたね(と、レポ記事が溜まってゆく…)さて本題昨夜の続きです先日の油小路当日の記事中ではカッシーは一ちゃんの手にかかり追い詰められ、切腹しました。これは初めから意図していたわけではないのですが書いているうちに、一ちゃんやカッシーがそういう動きをしていってしまった結果です
それでは本のハナシ『町奉行内与力奮闘記五宣戦の烽』上田秀人(幻冬舎時代小説文庫)タイトルにあるように宣戦です。町奉行所内のハナシですが。あんまりこのシリーズはモエないんですよね。ヒロインの大化けに期待してるんですが…難しいかなぁ。江戸でのドタバタだと、他のシリーズとハナシがこんがらがって、次を読むまでに混乱しちゃいます。『公家武者信平消えた狐丸』佐々木裕一(講談社文庫)タイトルが少し変わりました。何故か出版社も変わりました。しかも登場人物紹介ページに絵が付いてます。講
篠原泰之進が主役の小説なんて、私は初めて見ましたよこれは貴重だ!!!と思って即買です物語は、新選組加入直前偶然出会った女性、萩野とその息子を大阪の石蔵屋(ぜんざい屋)まで護衛し、春まで用心棒をしてほしいと、坂本龍馬から頼まれたのですw石蔵屋・・・事件のニオイしかしない案の定、谷三十郎らに襲撃されますよ泰之進は顔を隠していたので、バレてはいない???!!少し遅れて新選組へ合流松原忠司の心中や、武田観柳斎暗殺萩野と所帯を持つ広島出張や、龍馬暗殺色々な出来事
こんばんは、私です。今日はいまいちでした。明日は今日以上にやらへんと…。↑『影踏み鬼新選組篠原泰之進日録』葉室隣新選組は知ってても、篠原泰之進を知ってる人は少ないかもしれません。篠原は新選組内では伊藤甲子太郎一派に属し、御陵衛士として組から脱退した男です。つまりは、近藤、土方と対立にした人間というわけです。結論から言いますと、周知の通り、近藤、土方らは死にます。篠原は生き残り、明治の世を生きます。死して、不朽の名を残すのか…。それとも、生きて幸せに暮らすのか…。あな
引き続きの幕末です150年前の本日は、慶応3年9月15日。この日隊士の矢田健之助さんが、弟の貫道さんと、お父様宛てにお手紙を書いております礼答労令啓達候、如来書秋涼相増諸庭之菊花も追々開錠之気に相成候処、弥御壮健之由致大悦候に、愚兄も無事に勤務罷在候間、此段安堵可被下候、(中略)暮秋十五日認矢貫道殿(以下略)一簡拝呈仕候、漸菊開錠之及節候処、益御安静之由大慶不斜奉寿候に、(中略)九月十五日認賢之輔九拝尊大人様尚々母人始家内
なんか、昨夜久しぶりに「私の隊士たち」を出動させました書いてて楽しかったなぁ以前テーマが「小説」での記事とテーマが「新選組史」の中での小説っぽいのとどう違うのですか?と訊かれたことがあります。「小説」はもう完全オリジナルと思って下さい。最近はほとんど書いておりませんが、勇さん、歳様、総ちゃんの出会いや絡みを書いたものやまったく想像の中の、おうめさんを扱ったもの。明治になってから、河合喜三郎さんの墓の前での出会いの小説。そして「ハローウィンとクリスマス」を扱
幕末です150年前の本日は、慶応3年8月21日。この日カッシーと新井さんは、太宰府で真木外記さんに会っております。八月二十一日、伊藤甲子太郎、荒尾両人、宰来る(日知録・名前ママ)カッシーは、八月八日に長州寛典論の建白を出したあと、新井さんと九州へ旅立ったと書きましたね。(その時の記事はこちら☆)実はこの九州旅の時に詠んだと思われるカッシーの歌があります。慶応三ツの秋八月の初に思ふことありて筑紫の国に下らんとして郷をうち立時によめる
京に還った赤報隊は、最初の駐屯地因幡薬師から転陣し、本満寺(二番隊)と本禅寺(三番隊)に分宿したと思われますが、この間に、総長綾小路俊実卿による、隊士の再面接があったようです。「その時に当たって貴様、これまで何をしておったと言うと、あるいは女郎屋でございましたとか、私、髪結い所でありましたと言う者があったのであるから、百五十人も調べると(綾小路卿は)口を押さえて笑われて、あとは調べぬで皆暇をやって、取るところのある者だけを残して、それは寺町今出川上ル本満寺というがある。その所に屯所しまして
京都に帰還すると、一旦は因幡薬師に草鞋を脱いだ赤報隊でしたが、ここは都大路のど真ん中、兵士の調練には不都合という事で、あらたな宿舎に転じる事になりました。その「あらたな宿舎」に関して、困った事に元幹部隊士たちの証言は異なっています。秦林親(=篠原泰之進。二番隊軍監)「兵士は稲葉薬師に宿陣致し、同月十五日、寺町本満寺に転陣す」(『秦林親日記』)油川錬三郎(信近。三番隊長)「八日に京都の稲葉薬師に着しまして、その後寺町の本善寺に移って、また本満寺に転じました」(油川信近『史談会
慶応四年一月二十三日、美濃加納宿に進駐していた赤報隊(綾小路隊)の元へ、東海道鎮撫総督橋本実梁・柳原前光からの書翰がもたらされました。「この時、京都より大軍議あらせるるによって、兵を引きまとめ早々上京すべしという事で、私ども綾小路殿と引き返し、参謀山科能登介元行は桑名鎮撫総督参謀海江田へ面会、朝命について只今一同上京すべき旨、巨細申し述べ置きましてござります」(秦林親『史談会速記録』より)そこで綾小路隊の幹部が集まって話し合った結果「大命黙し難いによって、今より一同引きまとめて
何故か昨日のアクセス数が、自己ベストを更新していました本当に有難い事であり、また同時に、気が引き締まる思いでございます。読んで下さる皆さまに、心よりの感謝と、そして今後のご継読を宜しくお願い申し上げますm(__)mさて、今夜の記事は幕末です150年前の本日は、慶応3年6月22日。この日、武田観柳斎さんが竹田街道にて新選組に惨殺されました六月廿二日、油小路竹田街道に而元新選組武田某、肩先より大けさに切害におよび相果候。右仕業人者新選組仲間とのよし。