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元城東照宮より、浜松城をチョット見学しながら移動!近隣駐車場も、いっぱいで駐車場待ちの大渋滞になっていました。浜松城徳川家康像20分かけて目的地の西来院にやって来ました。六地蔵尊築山御前碑本堂西来院由緒西来院は、曹洞宗、高松山と号し、寒巌十三派中月窓派と称しました。月窓義運禅師が正長元年(1428年)に自力開創し、本尊は釈迦牟尼仏。長藤の寺として親しまれています。西来院には、謀反の疑いから佐鳴湖畔で38歳の生涯を閉じることとなった徳川家康公の正室
NHKの大河ドラマ「どうする家康」見ています。参考書も買ったりして・・・・・原作は古沢良太氏で、木俣冬氏ノベライズとなっており3巻までは買ったが、4巻は出ているのかどうか、この前書店に寄ったが、売り切れたのか、まだ出てないのかわからなかった。どうする家康の原作、4巻で完結のようだまた配役や人物の相関、あらすじなどが載ったものも出ていて前編、後編、完結編もあるようだ。こちらも完結編をまだ入手してない。「徳川家康」については昭和58年(1983)に放送されたようで、これはあまり見た覚えがな
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●旅好きが選ぶ車の条件旅先では道が狭くなったり、山道や林道を走ったりせねばならない時がある。2000CCのフルサイズカーでは、すれちがえない道も、小さな車ならすれちがえる。小さな車といっても1000CC以下の車は馬力がない上に、タイヤの感覚が狭いから道の振動を細かく拾って体を疲れさせてしまう。旅行用には最低1200CCくらいの車が欲しい。昔に比べて1200CC~1500CCのクラスは充実してきた。「さほど疲れない1200CC以上」
清龍寺には、松平信康の廟があります。どうする家康では、細田佳央太が演じておりました。信康廟の手前には、三方原の戦いで亡くなった青木貞治の墓などあります。松平信康とは近世初期、三河岡崎城主。徳川家康の嫡子、2代将軍秀忠の兄。母は正室関口氏築山殿。幼名竹千代、通称次郎三郎。1567年(永禄10)9歳で織田信長の女織田氏徳姫と結婚。70年(元亀1)家康が新領土遠江に進出し、引馬を居城とする際、在来の家康の城地三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称した。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家
今回の大河「どうする家康」は、若干安っぽい設定や展開が多くて、あんまり好きではないんですが、そういうなかにあって、北川景子さんは、お市の方と、茶々2役をよく演じ分けているなと思うのです。仮に、お市の方をやっていなくて、茶々だけで登場されたとしても、前半の有村架純さんを食ったような気がします。(私は有村さんファンですが)茶々そのものが、アクが強い設定だから、築山殿より目立つといえば目立ちますが、名だたる女優がやってきた役なだけに、難しいといえば難しい。築山殿は、ほんとうの
PRESIDENTがNHK大河ドラマファンの皆様に再々大河ドラマは偽造歴史で国民を洗脳するものであると警告する。何しろNHKの番組制作部署とその子会社は朝日新聞と同様、共産主義者で然も在日南北朝鮮人や中国人、それらの帰化人の巣窟である。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~NHK大河ドラマはあまりにも史実を無視している…家康の正室・築山殿が武田家と内通していた本当の理由築山殿を「悲劇のヒロイン」とするのはおかしい2023/07/02PRESIDENTOnlineh
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第36回「於愛日記」、よかったですね!驚きがいろいろありましたね。於愛の人生を眺めた回でもありました。於愛の日記。元亀三年十月(1572年)。回想(於愛が神君と出会う前)。於愛の当時の夫、西郷義勝は「手柄を立ててみせる」と言葉を残し、戦へ出る。夫は戦死し、その遺体の前で、於愛は自害しようとするが、子らの姿を見て、思いとどまる。その後、神君の浜松城に仕え、殿のケツをたたいてしまったが、殿のお目に留まることと
徳川家康公正室築山殿首塚@岡崎市武田勝頼に内通したとの嫌疑をかけられた築山殿と嫡男・信康築山殿は弁明のため浜松城へ向かいますが、その途上で家康の密命を受けた家臣に殺害胴体は浜松の西来院に葬られたが、首は信長のもとへ送られ、首実検後、家康の家臣石川数正が持ち帰って祐傳寺に埋葬江戸時代の正保3年(1646)、その地に足軽屋敷が造成されることになり、八柱神社の境内に改葬小さな首塚の後方に、神社の氏子たちが改築して祀った新たな首塚が建てられている祐傳寺八柱神社伸びするメイか
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「青龍寺」をお参りしました。青龍寺は、本田宗一郎「ものづくり伝承館」の横にあります。『輝いていた昭和!!❬ものづくり伝承館❭』輝いていた昭和ハンターカブで、本田宗一郎さんの生誕地にある“ものづくり伝承館“に行きました。ものづくり伝承館浜松市天竜区二俣…ameblo.jp青龍寺❬浜松市天竜区二俣町❭信康堂「清瀧寺」には、徳川家康公の長男岡崎三郎信康のお墓があります。珍しい井戸櫓(いどやぐら)があります。二俣城にあ
第10回「側室をどうする!」や、第19回「お手付きしてどうする!」、の瀬名は、いつも以上に可愛いですね。自ら気に入って決めた殿の側室「お葉」を、夫家康が事の外気に入り、お葉を褒めたり、今宵もお葉と寝所を共にしたいと言われ、チラリと焼いたような、呆れたような態度を取ったり。(そう云う時代とは云え、妻としては当然ですよね。)「お万」をお手付きした家康を派手に追い回し責めたり。可愛いなあと。本当にそれなら、「築山」を離れ、もっと殿と一緒に居れば良かったのに。まあもしかしたら
結城秀康は徳川家康の次男として、お万(於古茶)との間に1574年天正2年、遠江国で生まれた。生母のお万は三河国の知鯉鮒明神の神官・永見吉英の娘で、当初は家康の正室・築山殿(瀬名)の奥女中をしていた。しかし瀬名に承認されない間に家康のお手付きとなり、お万は秀康を妊娠して出産した。そのために秀康は築山殿に疎まれ、家康もなかなか面会しようとしなかった。それを見かねた嫡男の松平信康の取りなしで、秀康が3歳の時に初めて家康との面会が実現した。しかし秀康はギギというなまずの一種に似ていた事から幼名
石川数正が豊臣秀吉に従い、徳川家中に衝撃が広がります。徳川家康は追いつめられますが、未曾有の大地震が発生して戦いどころではなくなります。徳川の内情に詳しい数正を味方につけた秀吉は、すぐに徳川を滅ぼそうとしていましたが、この地震が家康にとって命拾いとなりました。家康を上洛させたい秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、老いた母親まで人質として差し出します。秀吉に従うか、抗うか迫られた家康は評定で秀吉に従うことを選択します。天下をとることを諦めたというより、秀吉が泰平
祐傳寺から車で3分ほどのところに鎮座する八柱神社(やはしらじんじゃ)一度葬られた築山殿の首が八柱神社に移されたと言われているそうでこちらにも築山殿の首塚があります。いま、岡崎市内は大河ドラマのポスターがいっぱいあります😆ドラマを思い出し言葉にはでない気持ちになりました。ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです。神社の方も参拝の方も人影は全くなく御朱印は、この後に参拝した岡崎天満宮でいただきました🙏か
根石山祐傳寺ゆうでんじこちらには徳川家康の正室築山殿の首塚があります。石川数正がこちらのお寺に葬ったと言われています。御朱印はやってみえないとの事(;;)観測史上もっとも暑かった8月が終わりやっと9月になったのにまだまだ暑い🥵😵9月になり少しは過ごしやすくなったかと思い久しぶりに御朱印巡りに出かけました。が!そんな考えはあまかった、、、💦道路の電子温度計の表示はなんと39度愛知環状鉄道のどうする家康ラッピングカーを見かけて慌てて動画を撮影したのです
色々な諸説ありますが築山殿と信康が武田と内通していると謀反の疑いをかけられ織田信長から二人の処刑を要求され家康はそれに従い信康は二俣城で築山殿は西来院から車で10分ほど行った所にある佐鳴湖湖畔にて殺害されました戦国時代の悲劇な女性徳川家康の正室築山殿(瀬名姫)が眠る西来院(せいらいいん)浜松市広沢二丁目本堂の扉に葵の御紋が見えますまた本堂にも高松山西来院は徳川家のお寺というのがわかりますね38歳の若さで生涯を閉じた築山殿を祀る築山御膳廟堂(月窟
徳川家康にとって石川教正という人は今川家に人質になっている頃からずっと仕えているそして今ドラマで描かれているところでは小牧長久手の戦いだがその頃には主に外交を中心として担当するだけで無く、岡崎城の城代として城を任されており、戦場でも中心的な役割を担っていただから彼が出奔すると言うことは徳川家にとっての機密事項をすべて知られることで有り、人たらしの秀吉が、利用価値の無い勧誘をするわけが無く、ドラマで描かれているような、飼い殺しでは絶対にあり得ないと思
9月3日(日)☀☁24→35℃続く猛暑日今朝も引き続き「8月終りのウォーキング」❺をお届けします、❶〜❹では「乙川沿い」「菅生神社」「岡崎城」から「桜城橋」をお届けしました、❺では、直ぐ近くの「中央緑道」をお届けします、ここは途中に「築山殿」があった地点を過ぎて、籠田公園へと続く公園遊歩道、徳川四天王の石像が点々と並びます、↓手前「本多平八郎忠勝」、奥は「酒井左衛門尉忠次」、…↓本多平八郎忠勝の「蜻蛉切」と「鹿角脇立て兜」、岡崎城の銅像よりこちらの方が中々リアルですね、…↓鼓舞太鼓を
徳川家康の正室・築山殿の母は、今川義元の妹(養妹とも)とされていますが、遠江国の国人・井伊直平の娘という説もあります。だとすると・・・築山殿の母は井伊直政の大叔母(祖父の兄妹)。築山殿は直政の伯従母(父の従兄妹)。徳川家康は伯従母の夫ということになります。鳳来寺三河国の鳳来寺は薬師如来の霊場。徳川家康は、父・松平広忠と母・於大の方が鳳来寺の峯薬師に祈願して授けられたのだといいます。そして、井伊直政は、幼少期に鳳来寺に預けられていたのだといいます。直政が家康に仕えて井伊家を再興で
秀吉のあだ名というと「サル」が有名だが信長は「はげねずみ」と呼んでいる「サル」は山の民「サンカ」のこと城作りの名人秀吉は秦サンカであり征夷大将軍になれなかったのはそれが理由という話があるサンカは焼畑農業をしていたという悠仁さまが「焼畑」の研究をしたというのは何かの暗示?そして徳川家康すり替え説宇野正美徳川家康もすり替えられた??という話#宇野正美#日本や世界のいろんな話テロップをつけて過去の動画を出し直しです誤字脱字があるかもしれませんがよろしくお願いします。よ
昨今NHKは司馬遼太郎生誕100年だと騒いでいる。この司馬遼太郎という男、米国様の指示で日本の歴史を捏造し、その彼とタッグを組んで日本国民を洗脳したのが在日が番組を作るNHK。私のこの記事、お読みになりましたか?封建(1)キリシタン大名は女子を奴隷として販売司馬遼太郎著作歴史小説の欺瞞2019/08/28著https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12664117141.html今日の記事プレジデントがNHKの歴史捏造を糾弾している。
NHK大河ドラマ『どうする家康』でついに激突した二人、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康の特集と誕生160年の新撰組が主な特集の『歴史街道2023年9月号(特集1「豊臣秀吉と徳川家康」)』について秀吉との対立を史実から考えてみる歴史街道2023年9月号(特集1「豊臣秀吉と徳川家康」)感想や考察豊臣秀吉と徳川家康天下をめぐる激闘何本かの記事の中で興味深かったのは、最新の研究では「中国大返し」は誇張であったということで、従来の通説のような尋常ではないスピードではなかったこと、通常の行軍スピー
「築山殿」楽しくか気を張るかみなさん、おはようございます朝夕は涼しいです風が吹くと少し肌寒いです夏の疲れが出る時期ですからしっかり体調管理をしてくださいさあ、今日「8月29日」の國史を学びましょう「築山殿(つきやまどの)、没」天正7年(1579年)築山殿は徳川家康の正室です父は今川家の重臣、関口親永母は今川義元の妹です築山(愛知県岡崎市)に居を構えたことから築山殿と呼ばれます築山殿は生まれながらのお嬢様の上家康が今川義元の人質として8歳か
[どうする家康感想]大河ドラマ、どうする家康、第32回「小牧長久手の激闘」の感想の続きです。小牧長久手の戦い。勝ちどきをあげ、みなが喜んでいるわきで、一人さえない顔の石川数正。ドラマが始まって第1回から、酒井忠次とともに、徳川軍を牽引する両輪であった数正。「こんな時は素直に皆と喜べ」と神君も心配する。「秀吉には勝てぬと存じまする。」という。次回の予告では数正、出奔の言葉が流れ、次回のタイトルは「裏切り者」となっていましたね。
昨日の、Will-BeStation「歴史のお話」“築山殿事件”生放送、御覧頂き、ありがとうございました。実は、信長は粛清命令など出してはいない?では、何故??謎はイロイロとありますが、徳川家の正史にも、理由がハッキリ書かれていない???そんな築山殿事件、見逃したというアナタ!こちらから録画を御覧下さい!↓↓↓↓↓https://youtu.be/BoQ17iU9Q48歴史のお話~第141回「築山殿事件」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文化歴史学
本日、8/21(月)PM8:00〜インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“築山殿事件”生放送!徳川家の歴史の中でも、理由が判っていない事件。その時、何が有ったのか??※YouTubeライブでお送り致します。生放送開始少し前に、こちらでURLを発表します!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/vwHRdT8qqFc?feature=share歴史のお話~第141回「築山殿事件」~主演文化歴史学者K
明日、8/21(月)PM8:00〜インターネットTV“Will-BeStation”より、『歴史のお話』“築山殿事件”生放送!徳川家の歴史の中でも、理由が判っていない事件。その時、何が有ったのか??※YouTubeライブでお送り致します。生放送開始少し前に、こちらでURLを発表します!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/vwHRdT8qqFc?feature=share歴史のお話~第141回「築山殿事件」~主演文化歴史学者K
家康さんぽ③🍀8月9日🍀岡崎祐傅寺へ小雨が降る中でのお参りになりました。祐傳寺には、信長の命により殺害されたとされる徳川家康の正室、築山殿の首塚があります。築山殿は長男、信康の正室で信長の娘、徳姫の訴えが元となり浜松近くの小藪村で殺害されてしまいます。築山殿の首は信長の実検を受けた後、徳川家康の家臣・石川数正がその首を持ち帰りこの祐傳寺に葬ったとされています。手を合わせてきました🙏実は、このお寺は、私の友人のお嫁さんのご実家です。友人に、以前から話は聞いていたので、