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正眼寺の次は箱根神社のお参りと宝物殿(入館料500円)の見学をしました。曽我兄弟の事績を追って、曽我神社のお参りや曽我兄弟関連の宝物が目当てでしたが、曽我神社に関しては前回紹介させていただきました。曽我兄弟関連の宝物はレプリカの展示のみでした。少々残念でしたが、国指定重要文化財の万巻上人坐像が神奈川県立歴史博物館からお戻りになり、常設展入り口付近に展示されていました。企画展は古文書でした。企画展も常設展も、展示替えがあるようですので、事前に電話で確認し目的の宝物が展示されている時にお参りに
さて柳瀬川を遡上して神社を巡ってまいりましたが、ここ狭山神社がその最上流地点となります。■狭山神社・・・東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎1ちょっと川筋が見づらいですが、関東平野の中央を下っているのが荒川。一番西を斜めに下っているのが多摩川。この2つに挟まれたエリアが武蔵の大地です。柳瀬川と空堀川は荒川へ合流し、残堀川は武蔵野台地の真ん中を斜めに突っ切って多摩川に合流しています。狭山神社は以前にも紹介した同名の神社がありましたがそれは狭山丘陵の東端で、今回紹介する狭山神社は狭山丘陵
『吾妻鏡』によると・・・1180年(治承4年)8月23日午前4時頃、源頼朝は、北条時政・北条宗時・北条義時・安達盛長・工藤茂光・土肥実平ら三百騎で相模国の石橋山に布陣。夕刻になって大庭景親・伊東祐親らの数千騎に攻められ、佐奈田義忠・陶山家康が討死。翌24日未明には大勢が決し、大敗した頼朝は、土肥の椙山へ逃げ込みました。石橋山の戦い後、北条時政・北条宗時・北条義時は別行動をとっていましたが、晩になって頼朝の椙山の陣に到着(宗時は早川で討死)。そこへ、箱根権現の永実(別当行実は弟)が食料を
広大Aramitama〜愛と光の道標〜キャリア女性への応援歌来宮神社参拝の後はお客様とご一緒に箱根元宮へ❤️先ずは来宮神社そばにあるイタリアンのお店でランチのコースをいただきました💛来宮から50分移動し箱根園に着いてから駒ケ岳ロープウェイに乗ります✨✨✨✨13時40分箱根園では気温8度くらいでしたがロープウェイ乗り場の入口にこんな表示が💙約7分で一気に標高1356mの頂上ヘ向かいます☀️直線距離で約30km先こんなに美しい富士山を見た
心と体の開運ヒーラーのアプリコットブレインさとうきよたかです。お寄りいただきありがとうございます。人の心のもっとも深奥にある、善良さ美しさと素朴さに生きたい思い。愛と癒しの波動は可能性を引き出してくれます。そんな可能性をお伝えします久しぶりに箱根に行ってきました。最近は来る機会が減ってきていますが年一のご祈願にお参りです。箱根神社は神道の清々しさと仏教のまろやかさが融合しているところです。古代の箱根の信仰は道教の祭式によって祀られたという話もあり山の強さが
「三面大黒天図」油彩・キャンバスF02013年大黒天は、七福神としても有名です。元のインドでは摩訶迦羅(まかかーら)という大いなる暗黒という意味を持つ死を支配するカミサマでした。この作品は大雄山最乗寺の鎮守の三面大黒天をモチーフにしました。大雄山最乗寺の鎮守の三面大黒天は「水の神箱根権現」「米の神飯沢明神」「薪の神矢倉明神(足柄明神)」の三柱の神を一体とし、大いなる力を持つカミサマとしてお祀りされています。今日は夏至です。一年で一番日が長い日
ドラマってわかっているけれど、始まって前半だけれども、セリフの一言だけで済まされていることが多すぎて、こんな事もあったのに〜と言いたい事だらけ💦💦「しとどの窟」に避難中には「土肥実平の女房」が農民に変装して食糧を運び周囲の動静を知らせたと言われています。それでも食料は足りなかったのだろうし、また、劇中では土肥実平が自害の作法を教えている間に、安達盛長が「敵の姿はありませんが安心できません、『箱根権現を』頼りましょう」と言っていました。政子、りくが行っ
こんばんは~我が家では夫婦で、毎週大河ドラマを鑑賞しておりますが。旦那様はBSで18時から。私は録画で、夕食の片付けが終わってから観ます。昨年まで不満はなかったのですが。今年はちょっと不満なんで、鎌倉を愛してやまない私より先に観てるのよ~まぁ、オンタイムでBSが無理なのは夕食作りが佳境だからなのであって、別に旦那様のせいではないのですが日曜だけ夕食作ってくれるとか、洗い物してくれるとか、ないかな~と思っております。なんでそこまでと云われそうで、とても言い出せないのですけどそ
箱根神社は、かつて箱根権現と称されていました。河内源氏との関係は深く、前九年の役に出陣した源頼義、源義家が参拝し、源為義と源義朝は「東国輩」に対する動員催促権を与えたのだといいます。源義経奉納という太刀「薄緑丸」(うすみどりまる)も残されています。☆☆☆☆☆1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は箱根権現の別当・行実とその弟・永実を頼ります。『吾妻鏡』によれば、行実は父は良尋。良尋は、源為義や源義朝と好を通じていたそうです。京都にいた行実が父の跡を継い
【箱根神社】【手水舎】【老杉の参道】■御鎮座神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1■御祭神箱根大神[三神の総称]①瓊瓊杵尊②木花咲耶姫命③彦火火出見尊奥宮には造化三神も祀られている。・天之御中主神・高皇産巣日之神・神皇産巣日之神■創建奈良時代天平宝字元年(757年)■別称箱根の権現さま関東総鎮守の箱根権現さまとして古くから親しまれる。箱根三所
西武の創設者・堤康次郎は、事業に成功したければ箱根権現を拝め、と常々言っていたそうです。西武(堤康次郎)と東急(五島慶太)が繰り広げた「箱根戦争」は有名です。箱根はただの観光地ではなく、ここを制すれば天下を制する、という「聖地」なんです。現在でも、毎年の正月二日三日の両日に、箱根権現を奉祝する行事が開催されています。日本のあらゆる恒例神事のなかでも最も多くの国民が注目する、大イベントです。この行事は全国放送で完全中継され、必ず高視聴率を誇ります。もちろんご存知ですよね。国民が誰一人知らぬ
親鸞聖人は小田原から箱根笈ノ平(おいのたいら)へそして箱根権現を参拝されるのです箱根神社は箱根権現社と金剛王院東福寺が建ち箱根権現として祀る仏教色が非常に濃い社で箱根の神山駒岳の山岳信仰と文殊菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩を本地仏とする仏の化身との神仏習合の神であり箱根神社を参拝された聖人は近くの老人に一行を丁重に招き入れられたそうです。すぐ近くの萬福寺では箱根権現御本地仏である阿弥陀如来像と親鸞聖人の自刻と伝えられる箱根の御真影を蔵しています。東海道は箱根
自分のあり方に痛みを感ずるときに人の痛みに心が開かれる(真宗教団連合)*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆承元元年(1207)親鸞聖人35歳の時越後へ流罪になってから27年程経て文暦元年(1234)63歳の親鸞聖人は関東での生活を終えられ箱根権現から帰洛の途につかれます。その間親鸞聖人は本願念仏の教えを人々へ伝えられ関東などの地に多くの念仏者が生まれました多くの門弟の中で二十四輩と称す
ALOHA!今日も、みなさんが笑顔になれますように。前回からの続きです。箱根神社は、とても来てみたかった神社さんです。なんどか通ったことはありましたが、今までこれなくて、初めて参拝できました。箱根の地は、とてもエネルギーが強いです。大涌谷などの温泉としてエネルギーが表面に出ていますが、箱根山は火山です。その火山のエネルギーが、芦ノ湖の水のエネルギー、水脈のエネルギーと相まって、とても強いところです。そこを司る箱根神社は、とても強いエネルギーの場所です。このエネルギーが、かつて
平和の鳥居。箱根神社HP平和の鳥居hakonejinja.or.jp
箱根神社(九頭龍神社)公式ホームページ。箱根神社(九頭龍神社)公式ホームページhakonejinja.or.jp
1180年(治承4年)8月24日、石橋山で大敗した源頼朝は、土肥の椙山に逃れた後、箱根権現の行実と永実を頼ります。しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることがわかりました。良暹という男、頼朝がまず血祭りに上げた山木兼隆の祈祷師をしていたといいます。行実は・・・「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけ、攻めてきたらいけないので、逃げた方がいい」と進言します。頼朝は、土肥実平らとともに土肥郷へ逃げました。このとき、北条時政は、
1180年(治承4年)8月24日晩、石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、椙山に陣を布いていました。そこへ箱根権現の永実が弁当を届けるためにやってきました。(箱根権現別当の行実が、弟の永実に弁当を持たせたのでした。)永実は北条時政に頼朝の所在を尋ねます。しかし、時政は、「頼朝様は、大庭景親の囲みを逃れることができなかった」と答えます。すると永実は、「貴方は私の短慮を試されているようだ。頼朝様が亡くなれば貴方は生きていないはず」と問い返したといいます。時政は大いに笑って、永実を頼朝の
2016年5月7日硫黄地獄付近新型コロナウイルスのため箱根権現様や九頭竜様への参拝は静岡県からの越境になるので控えています
ある時、点と点が線で繋がっていたことにふと気づくことってありませんか?昨日の→富士山に会いにを投稿したあとにとある素敵なご縁をいただきました。こんな状況ですし、それについてはまだ確定とは言えないかもなので、お知らせするのはまた後日として…もしかして、これって木花咲耶姫様のお導きなのかしら?なんて思ったのです。幼い頃から祭事には必ず出向いたり、小学生になると道草して境内や本堂に勝手に上がり込み遊んだり^^;と、ご縁の深い私の産土神について調べていたら福岡県の田舎の小さな神社ではあり
歴史六国史や延喜式神名帳には見えないが、鎌倉時代には『貞永式目』付属の起請文の中で、日本国中の神祇の筆頭にあげられたほど、幕府の篤い崇敬と保護を受け、伊豆山神社とともに二所権現、さらに三島大社を加えて三所権現とよばれ、後北条氏の時代まで特に武家たちの信仰を集めた。『筥根山縁起并序』(建久2年(1191年)、箱根権現別当・行実編纂)によると、古代から箱根山に対する山岳信仰は盛んで特に神山への信仰は篤く、神山を遥拝できる駒ケ岳の山頂を磐境として祭祀が行われていた。特に、孝昭天皇の時代に聖占(し
つづきです~。階段を837段上がって行くと伊豆山神社の御本殿前につきます。その前に…走湯山般若院へ真言宗の古刹で神仏習合の時代には伊豆山権現の別当坊だったそうです。神仏分離令により伊豆山権現(現伊豆山神社)の境内から現在の地に移された。本堂は開いていませんでした。本堂前で勤行。伊豆山神社へ階段の途中の足立権現社に足腰健全の守護神として役行者さまがいらっしゃいます。何年か前に初めて伊豆山神社にお詣りに来てまだ修験道という言葉すらよくわからなかったとき
大型で非常に強い台風19号は、各地で大きな被害を与えました。まだまだ注意が必要な地域もたくさんあると思いますので、引き続きご注意下さいね。これ以上被害が拡大しませんこと皆様のご無事を心よりお祈り致します。箱根権現とは状況判断の神歴史を見ても、小田原とか関東で戦があったときには、箱根神社を背にして戦をした方が必ず勝っています。つまり、箱根の神様は勝負の神でもあります。では勝負の神とはいかなる神か?箱根権現とはいかなる神か?それは状況判断の神
こんばんは箱根旅の続きです。箱根神社九頭龍神社新宮駒ヶ岳ロープウェー箱根元宮の後、ロープウェー乗り場の近くのショッピングモールで、お昼ご飯を食べて、レンタルサイクルを借りて、箱根九頭龍の森をめざしました。先日のアニキさんオフ会の時に、ぶるちゃんとRicoちゃんに聞いたら、プリンスホテルからは、歩いて行ったとのこと。プリンスホテルから、自転車でも10分位はあったので、あの距離を歩いたのですね。九頭龍の森の入り口で入場料を払い中に入ります。入って直ぐに、白龍神社があります。真
こんばんは小学校の修学旅行以来初めて箱根へ行ってきました。一泊二日の修学旅行は、雨の思い出で、鎌倉の大仏様を見て小町通りを歩き鶴岡八幡宮へ行き、箱根の大涌谷へ行き、芦ノ湖で船に乗り、関所を見学したと思います。ウン十年ぶりの箱根は快晴でした。さあ出発です。箱根神社へ参りましょう。平日で人もまばらな芦ノ湖は、本当に美しいですね。秋もやってきて空気も澄んでいます。大好きな巨木が迎えてくれて、とても気持ちが良い所でした。キラキラの日吉神社御祭神大山咋神おおやまくいのかみ例祭
こんにちはパワースポットとしても有名な箱根神社に行ってきました境内は杉の木でかこわれ空気もすごく澄んでいてパワーをもらった気分になりました御鎮座1250年を超える箱根神社はもともとは数多の武将が訪れる心願成・就勝負の神として名を馳せ、関東総鎮守箱根権現と崇敬されていたそうです。是非皆さんも行ってみては・・それでは、また
こんばんは。Lilyです。箱根神社にお詣りに行きました⛩箱根神社⛩雨が上がりの気持ちが良い空気が流れていました、圧倒的に高い木々に囲まれた参道をのぼりました。蘇我神社⛩隣接する九頭龍神社⛩神社は、芦ノ湖の九頭龍伝説を今に伝える龍神信仰の聖地であり、社前の湖には奈良時代に箱根権現を建立した萬巻上人と、九頭龍大神ゆかりの祭場をひかえています。この伝説を今に再現する龍神湖水の神事まつりが毎年6月13日の例祭に、また毎月13日の月次祭に崇敬者が参集して厳かに斎行されています。サイトか
神様の湯秀明館では現実化したメッセージが届きましたワンランク上のお部屋になった件ともうひとつ秀明館は湯場まではお部屋から長い外廊下を歩きますいつもその廊下から見ていた壁向こうの敷地建物の前に置かれた鐘と神社のようなものが見えていました気になっていつも気にしていたのですがその敷地内に踏み入れている人を見たことが無くその場所は入ることはできないのだと思っていましたが。。。ご一緒した(今回初めて)ふたりがその場所へ容易く行けることを見つけてく