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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者69雄哉は動揺した。「堂に入っても、もう明らかにいつものドキン、ドキンと違ってね。何かもう心臓がとまっちゃうような苦しさなの。それがいつまでも治らず、これはもうあかんと思った」三十分以上たっても心臓の異常はおさまらず、ますます呼吸が苦しくなった。これはもうだめだ、と直感した。堂入りの最中に死ねば、みんなに迷惑をかける。どうせ死ぬなら、いつも体を清めてもらった滝で『自害』しようと最後の覚悟を決めた。あたりの様子をみ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者29夏の暑いある日、雄哉は幽谷の『飯室谷』に向かっていた。石段を登ると不動堂、裏手には自らが作った『加行之滝』が『不動之滝』とともに、水しぶきをあげ池へと流れこんでいる。堂の屋根は朽ち果て傷みが至るところにある。『長寿院』の座敷には『一行三昧の鬼行者』箱崎文應が座る。「今度、老師のお世話をさせていただくことになりました。よろしくお願いします」「おお」、、、とうなずいた文應は、どこかで見たような顔だな、という表情を
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者①江戸徳川時代が終焉を迎え、明治から大正、昭和にかけて天命に導かれるが如く比叡にのぼった正井観順、奥野玄順、箱崎文應、他にも、天台座主山田恵諦、戦後初めての千日回峰行者、師弟千人といわれる叡南祖賢、世界平和を願い多国語を駆使した葉上照澄、『堂入り』を満行した際に姿を見せたことで酒井雄哉が僧侶の道をより確かにした宮本一乗、それに続く大阿闍梨達も見えない糸に導かれて不滅の法灯の下に参集した。それぞれに『異端の行者』達
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者16雄哉が初めて千日回峰行をすることになったとき、文應は回峰行についていろいろ教えてくれながら、句を贈った。『行き道はいずこの里の土まんじゅう』どんな意味ですかと雄哉が聞くと、『昔は、どこでも土葬だったから、人は死ぬと土に埋めただろう、あれを土まんじゅうと言ったもんなんだ』という。『お前が歩くこの先の道は、いつどこで土まんじゅうになってもかなわないという覚悟がいる。ここがお前の墓場かもしれないという気持ちで
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者15一九八〇年(昭和五十五年)十月十三日、雄哉は初めての千日回峰行を満行した。『無動寺谷の玉泉坊流』と呼ばれるもので、師の文應や、玄順、観順がしてきたものである。但し、雄哉は長寿院に居しているため、距離は長い。十月十三日雄哉は京都御所に『土足参内』許された。土足参内、これは回峰行の始祖、相応和尚が清和天皇の招きで参内、病気平癒を祈禱した故事にならった儀式で、千日回峰を達成した行者のみに許される名誉である。明治以
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者14文應は自身が千日回峰を行じた時、補権律師という僧侶では低い地位であった。明治以降初めて千日回峰行を満行した正井観順も同様に僧になってからの日が浅いことが様々な圧力となった。時は第二次世界大戦最中の戦時下である。殺伐とした状況は霊山・比叡でも同じで物資の提供や様々な形で軍部から協力を要請されている時期である。食料一つにしても大変な中での回峰行、なんの支えもない中で文應は行を続けた。拠点は無動寺谷、日々の修行に
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者13雄哉が長寿院に入る少し前、ひとりの成年俳優が飯室谷を訪ねてきた。箱崎文應の名は知る人ぞ知るが世間一般には知られていない。気性の激しさ故に近寄りがたさもあったがその霊力にすがり救いを文應に求める人も少なからずいて、時に信者と酒を酌み交わすなど時折見せる穏やかな表情が惹きつけもした。その俳優の名を『高倉健』という。当時、高倉健は東映任侠路線を牽引して映画に出ずっぱり、心身ともに疲れきっていた。たまたまオファー
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者12文應のいる飯室谷長寿院に出入りし、『滝』を作った青年・酒井忠雄。次の再会が師弟の契りを交わす時になるとは夢にも思っていなかったがその日は意外と早く訪れた。一九七三年(四十八年)の八月、暑い夏であった。出家得度した酒井忠雄は酒井雄哉と名を変えていた。年齢制限がある天台宗規を異例の変更に尽力したのも、文應の下で修行経験のあり雄哉の仏門入りの恩人・師である小林隆彰師、それを認めたのも、千日回峰行後不遇の身にあった
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑪『比良回峰』『比良八講』を再興した文應の行は壮絶を極めた。年末から正月にかけて、九日間の断食・断水行を三十六回遂行。ある年などは、仮死状態となっているところを引きずり出されたが、瞳孔が開き、死臭がしていたという。晩年は足が弱ったものの、毎日午前四時からの滝行と勤行は欠かさなかった。六十歳を過ぎた頃はさすがの文應も視力が弱り、回峰行中に負傷した脚もかなり悪くなったがそれでも行に対する情熱の炎はいささかも衰えるこ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑩文應は激しく心を揺さぶられる話しを耳にした。三月も下旬になるときまって、滋賀の琵琶湖のあたりでは、比良の山から、ビュ―、ビュ―と風が吹き荒れる。この風を「比良八荒(ひらはっこう)」というのだが、土地の人々は、「比良八荒」が吹くと、湖に沈んだ心やさしい、娘の悲しい物語である。昔、琵琶湖に近い比良の山では、沢山の坊さまが修行をしていた。ある日のこと、一人の若い坊さまは、修行のため、病いをおして湖の対岸に渡った。そ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑨正式に長寿院の住職となっても田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に文應は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居ない。五十九歳の時、一九四八年(昭和二十三年)には比良山に籠もり比良回峰と『比良八講』も再興した。独特の行を続けたのである。富士山にも登り籠山したという。十二月の暮から正月にかけて、九日間の断じ、断水の行は三十六回も
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑧一八七七年((明治十年)堀覚道という乞食僧が横川を訪れ、「念仏を唱える場所をお貸し下さい」と懇願した。何か事情ありげな僧に、道元禅師が得度した寂定坊の小屋を与えると、僧は自力で荒廃していた坊を修復して、そこで念仏三昧の修行に励んだ。この僧は、西南戦争に従軍した政府軍の兵士だったが、戦争の悲惨さに無常を感じ、妻子との恩愛を断ち切って、比叡山にたどり着いたのである。僧が修復した寂定坊には、人が集まるようになった。
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑦飯室谷飯室谷とは。第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまでの十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、八三八年(承和五年)から八四七年(同十四年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑥比叡山に居場所がない文應、文諦師も窮したがそれでも心を奮い立たせた。修行地をかえて一九四二年(昭和十七年)大峯回峰に挑戦したのである。吉野から大峯までの往復四十八キロの難路を五十日間歩きつづけたあと、奥駆けの峰入りを四十日間抖擻(とそう)した。さらに締めくくりとして、間を置かず、山上ヶ嶽から大台ヶ原を経由し、伊勢神宮まで徒歩参拝するという、百二十日にも及ぶ前代未聞の大荒行を敢行した。大峯山は女人禁制の修験の根
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑤大乗院の文諦師に拾われて生きかえった作の修行は凄まじく、独学であったが頭の良さと海で鍛えた剛健な肉体は、大乗院にとってなくてはならない存在となり、翌昭和六年四月七日、四十歳、奇しくも自身の誕生日に念願叶って「得度」した。翌年、四度加行履修、教師検定に合格し、昭和八年三月法名『箱崎文應』となった。。得度した四月七日というのは、後の、文應の元で、修行をする「酒井雄哉大阿闍梨」が千日回峰行を出奔する日でもあり、酒
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者④不動行者が相応しい、無動寺谷にいきなされ、、作を一目見ただけの大角実田は何をかんじたのであろう。作の心の奥底に眠る真の姿を感じとったのか、、事務所に戻ってきた作を、中山師は無動寺谷宝珠院につれて行った。そこには、三千日回峰行を目指す『奥野玄順大阿闍梨』がいるのである。宝珠院は二千日回峰行を経て玄順が再興した自坊であり、酒井雄哉が最初に住職を拝命したところでもある。しかし作は、僅か一日で放り出されてしまう。
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者③北海道から青森へ、雇われ漁師として漁船に乗り込む作、津軽海峡の漁は過酷を極めた。毎年、突如として荒れ狂う海に多くの生命が奪われている。作が乗り込み始めた時も多くの漁師が海の藻屑と消えたという。出漁した時、海は鏡のように凪いでいた。漁船の先に立って、海を眺めていると突然揺らいだ。水面に大きな海坊主が現れたのである。「底のない柄杓を海坊主に与えれば生命は助かる」とっさに先輩から聞いた言葉を思い出し、無我夢中でそ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者②新緑薫る一九九二年(平成四年)五月二十日、福島県いわき市唯一の天台宗寺院『大高寺』に、遠路比叡山から九十六歳になる第二五三世天台座主山田恵諦探題大僧正、小林隆彰執行ら高僧が集まった。今のいわき市小名浜に生を受けた箱崎文應大阿闍梨を讃えた顕彰碑の除幕式に出席するためである。この碑を発願したのは同市で石材業を営む大津修二(当時五十二歳敬称略)、熱心な仏教徒ではなかったという大津は昭和四十二年に文應と巡り会った
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者①飯室谷長寿院、酒井雄哉大阿闍梨の拠点である。そこからほど近い丘陵に歴代天台座主や比叡山で修行をした高僧の墓石が立ち並ぶ。陽当りのよい上段にまだ真新しい墓が一対のよいに仲良く比叡に注ぐ陽射しを浴びている。一つは酒井雄哉大阿闍梨、そして、もう一つには、時の天台座主山田恵諦大僧正が贈った院号が刻んである。『一行三昧院大行満先達大僧正文應大和尚』一九九〇年(平成二年)二月六日、一人の行者はその日信者の歯科医に入
:❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨一章正井観順津軽の覚蔵⑨行の最中に『比叡山の土に』還った観順。大往生を遂げた場所には、杉の木の根が土の上を這うように盛り上がっている。「ひとが横たわるように盛り上がってきたのだから決してふんではならぬ」と小僧のころ師匠から教えられた。今でも修行者は道の真ん中に盛り上がっている杉の根を決して踏まない、合掌して通るのだと。毎日三千仏礼拝行も行った。畳には五つも六つもの穴が開いた。頭と両肘、両膝を地につけ、続いてその場に立って合掌する。これ
大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨❖酒井雄哉阿闍梨に魅せられ、数多くの文献著書がある中で手に触れ目にとまった書籍の中には、初めて見聞する高僧がいる。伝教大師最澄が若き時に志し、庵を結び今日まで千二百年以上が経った今も御灯がともしび続け、日本仏教の礎となり数多くの宗派の祖師たちを輩出した、比叡山。比叡山にあって最大の荒行、千日回峰行。なぜこの荒行に惹かれるのか、何をこの行に求めるのか、酒井阿闍梨は『山を歩くだけ』『得られたものはなにもない』『拝むことしかできない』と言う。私が気に
阿闍梨【外伝】一隅を照らす❖お墓参りの作法は?引用天台宗公式サイト法話集右箱崎文應大阿闍梨墓左酒井雄哉大阿闍梨墓比叡山飯室谷お墓参りの作法は?法事の後の墓参りで、最近は墓地にお供えものを置いて帰らないで下さいとされている霊園等が多くなりました。ならばとお花以外なにもお供えしないお家もありますが、家のお仏壇に色々なお土産等をお供えしてお下がりを頂くように、お墓にもちゃんとお供えをしてお下がりを頂けば良いわけで、故人の好きだった物をしっかりとお供えすればよいのです。墓
阿闍梨【外伝】❖持戒正念について引用天台宗公式サイト法話集(延暦寺御修法『七佛薬師大法』)天台宗公式サイト持戒正念について持戒正念(じかいしょうねん)とは、言うまでもなく戒を持(たも)ち念々正しき道に住し、近くは人道を全うし、遠くは仏果菩提を証するに至ることであります。伝教大師は比叡山に菩薩の戒壇を建て、円頓受戒の道場とされました。梵網経(ぼんもうきょう)には「衆生は仏戒を受くれば、すなわち諸仏の位に入る」と記されていますが、戒を受けた瞬間に自分の心にある仏が発見さ
❖厳しさだけでなく、遊び心も大事。僕のお師匠さんは、怒るときはすごく怖かったけど、遊び心やユーモアがあっておもしろい人だったよ。僕は年中怒られていたから、怒られた話にまつわるエピソードはいっぱいあるんだ。昔、庭先に古い槇の木があって、それがどうにも邪魔でしょうがないから、僕は切ってしまったんだ。だけどその木は、お師匠さんが大切にしている木だったらしい。あるとき、お師匠さんが、『おい、このごろ、槇の木が見えないけれども、あそこにあった木、どこへ持っていったんだ』と聞くから、『いやあ、あれは
◇薄情の道がある、、(酒井雄哉大阿闍梨像)僕は、箱崎文応師が住職を務める飯室谷長寿院に拝命されて、老僧の身の回りのお世話やお寺の仕事をしながら千日回峰行をしたんだ。お師匠さんは過酷な行をいろいろ満行してきたすごい人だったんだけど、僕にとっては本当に厳しい人だった。数えきれないくらい叱られたな。お酒が好きで、夜になるとお酒を飲み始める。お客さんがあったりすると、夜遅くまでお酒のさかなをつくったりお世話をしないと叱られる。僕は夜中に起きて行を始めなければいけないでしょう、夜遅くまで付き合わさ
◇【外伝】箱崎文應大阿闍梨③荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和十七年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい修行ひとすじの山で
◇【外伝】酒井雄哉阿闍梨の『行の師』箱崎文應阿闍梨②「俺は坊主にもなれない人間なのだろうか。この山の坊主は、どうして俺の気持ちをわかってくれないのだろう。もう俺には帰る所がないんだ。もしこの山で坊主になれなければ、、」中山玄雄師によって無動寺谷宝珠院につれられて『奥野玄順大阿闍梨』に引き合わされた箱崎師、「寺男」として使ってもらえることになった。寺の雑役である。三千日回峰行中に足を痛めた奥野大阿闍梨は、籠で毎日三十キロの山道を歩くことになり、箱崎師は、奥野師の乗った籠の先棒をかついで回峰
【外伝】酒井阿闍梨『行の師』箱崎文應大阿闍梨①『バカモン!!!お前はこの裏山を歩くような人間になっちゃうんだぞ!!』役行者の像を家に祀ろうとした、酒井雄哉阿闍梨を一喝した。箱崎文應阿闍梨、朝から酒を飲むこの行者はいったい?箱崎文應、俗名を箱崎作次、明治二十五年四月七日、福島県小名浜村(現・いわき市小名浜)の農家の三男に生まれている。豪僧、怪僧、生身の不動、不死身の鬼行者といわれ、その過激な荒行ぶりは天台宗きっての破天荒な不動行者である。農家といえ小作農、貧しい生活で、兄は日露戦争で戦死
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
☆巡礼が終わっても、縁があれば続きがある、、(酒井雄哉大阿闍梨)鳥取に行った時は、砂丘の近くもあるいたな。ご縁というのはおもしろいもので、砂丘の近くを歩いていた時には、「ここら辺に砂丘があるんだな」なんて言って、ダーッと通り過ぎてしまった。だけど、しばらくしたら、今度は巡礼と関係なく、砂丘の近くで講演を頼まれ、ふたたび鳥取に行くことになった。講演が終わった後、講演会の主催者から「砂丘に行ったことありますか」と聞かれ、「砂丘なぁ、、、、話は聞いてたけど」と言ったんだ。そしたら、「じゃ、行きま