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きょうは阪急電鉄の前身「箕面有馬電気軌道」が1907年10月19日に設立された記念日です。
1910年(明治43年)3月10日箕面有馬電気軌道の梅田(現大阪梅田)~宝塚および石橋(現石橋阪大前)~箕面間が開業しました。1型は開業に合わせて33両製造されました。ダブルルーフ、客室窓には飾り窓つき、腰板部には金色の枠取りの装飾がある豪華な車両でした。木造の1型はその後腰板部に鋼板を貼る簡易鋼体化され、さらにそのうち33号は電動貨車203号(二代目)に改造され、長く使用されました。1号は簡易鋼体化された後の姿で以前には宝塚遊園地内の電車館で展示されており、宝塚遊園地閉鎖後
沿線開発の事業モデルは、阪急の小林一三氏が作り上げた。梅田と当時鄙びた温泉地だった宝塚、さらに有馬を結ぶ箕面有馬電気軌道は採算が疑問視されていた。そうしたとき小林一三氏は池田周辺の田園地帯を歩き、ここに梅田へ通勤するサラリーマン向けの郊外住宅地を開発すればいい、と閃く。これが沿線開発のモデルとなり、渋沢らの田園都市株式会社の洗足、大岡山、多摩川台、東急田園都市構想などに展開された、と説明される。田園都市構想を実現したという麗しい説明である。でも、これを図式化すると、通常は駅新設→移住→地
(つづき)●住宅団地と街づくり住居が集合し、生活関連施設も併設するものを、住宅団地と定義すれば、日本初の継続的な戸建住宅地は、小林一三の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)による、沿線開発の分譲住宅地(1910/明治43年~)、集合住宅は、同潤会による、東京・横浜のアパートメント(1926/大正15年~)といえます。この戦前の両者は、西田幾多郎的にいえば、「多と一との絶対矛盾的自己同一」を追求し、敷地の内と外を、過度に切断しないように計画していたとみられる一方、戦後の量の時代に
「はっけん!小林一三と宝塚」の展覧会に合わせて学芸講座が開かれました。「1910年代」という設定にちょっと「?」な感じはしましたが、なにしろ先日「宝塚少女歌劇はじまりの夢」を読んで大正時代の宝塚のことを知ったため、この時代を深く知ることができるかも?という気持ちもありました。講師は逸翁美術館学芸課長補佐の正木喜勝氏。マグノリアホールでスクリーンを見ながらの受講になりました。しかし、レジュメがなく、スクリーンに映すため部屋は薄暗い。その中をかろうじてメモを取りました。これが、めちゃく
鉄道事業をはじめ、東宝、宝塚歌劇、百貨店など数多くの事業を展開した、小林一三氏の生涯と事績を詳しく学べる施設・小林一三記念館へ。庭園を見学した後は建物内へ。『小林一三記念館①長屋門・庭園[池田市]』ロッテリア阪急池田駅前店で、地元バーガーのチキンラーメンバーガーを食べた後は…『チキンラーメンバーガーにマンホールカード[池田市]』阪急池田駅へ行ってきました…ameblo.jp白梅館阪急電車の車両をイメージするデザインで、現在(内側)と過去(外側)の2つのエリア構成になっています。内側
阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道は1910年(明治43年)に、梅田・宝塚間24.5キロ、箕面支線4キロの営業を開始したが、『トンボかイナゴ、空気ぐらいしか乗らないだろう』と陰口をたたかれていた。当時は、既に都心部を走っていた阪神電鉄の方がはるかに企業規模で勝っており、通称、『箕電』は、取るに足らない存在だったのだ。しかしながら、後に日本の鉄道経営の祖と称される小林一三翁は、沿線に住宅地を造り、大林組㏋より「宝塚新温泉」箕面や宝塚にリゾート施設やエンタ
千里中央から歩いて、北大阪急行の将来の終着駅に到着しました箕面萱野駅です当然、まだホームには上がれませんが、工事真っ最中ですそして、終端部にはもう商業施設がオープンしていますこの商業施設は新御堂筋を挟んで2棟あり、その間は連絡通路で結ばれていますその連絡通路にも駅出入口が設けられるようです来年度末の開通が楽しみですねぇさて、ここまでやって来ましたが、他の最寄りの鉄道の駅は阪急箕面駅がありますが、少々離れておりますで、ここまで来ればバスがあるだろうと最初は思っていました先ほどの「
きょう10月19日は現在の阪急電鉄の前身「箕面有馬電気軌道」が設立された記念日です。
慶應義塾を卒業した小林一三さんは、小説家へのステップとして新聞社を志望したけれど叶いませんでした。そこで、先輩のツテを頼って三井銀行に就職したのが明治25年大阪麦酒会社がアサヒビールを販売し、オリンピックが提唱された年の事でした。裕福な商家の生まれでお金には困っていなくて、なおかつ作家の夢も諦めきれなかった小林一三さんは、銀行での仕事にやり甲斐を見出せなかったのでしょう。本来の初出勤から3ヶ月遅れて出勤し、その後も茶屋遊びにうつつを抜かすなどダメ社員の日々を送っていました。
ーNHKラジオを聴いて続きー資金集めは難航する。神戸、京都ならいざ知らず、箕面・有馬電気軌道は田舎電車といわれ、サルやタヌキが乗ってもヒトは乗らないともいわれていたそうだ。小林は沿線を歩いて見た。そこには住宅によい土地が安く買えるとひらめいた。都市から郊外住むホワイトカラーなどが増えてきている。住宅地は売れる。鉄道の利益は少なくとも住宅の販売で株主への配当は可能とはんだんし、池田、豊中、桜井、千里山などの土地を買う。資金は出身地の甲州財閥に、工事の資材は三井物産の援助を取り付け、3年と
ご訪問ありがとうございます。記事は憶測で書いてますので内容に誤りがありましたらコメント等でご指摘頂けると助かります。全国のJR駅が見たい時はこちら→☆第三セクター・私鉄駅が見たい時はこちら→☆皆さま、こんにちは!旅の楽しみといえば【お宿】ですよね。お前は宿泊先は「東横イン」「アパホテル」だけじゃないのかって?次に安く泊まれるポイントが稼げるのでそこばかり利用してるのは事実ですが、たまには違ったホテルにも泊まってましたぜ☆5年前のことですけど、とある理由からこちらを
現在の阪急宝塚線、箕面線は明治43年(1910年)3月10日に箕面有馬電気軌道として開業しました。ということで、毎度おなじみの阪急1型模型。今回は展示車両模型を見ているドールという設定に致しました。1型は33両製造された木造ボギー電車です。80分の1模型は6分の1ドールからみると、13分の1くらいの縮尺に相当するのだと思います。鉄道博物館だとそれくらいのサイズの模型展示ありますよね。
広島人であるあもんが大阪の町を歩いていると『せやろ?』と時々聞こえるそれを見た、あもんは『せ、せやね…』と思わず言う…すると大阪の町から『せやねん!これが大阪やねん!』と聞こえてくる放浪日:2017年8月27日あもんは【落語みゅーじあむ】を出た後に時計で時間を確認しました見ると、帰りの新幹線までもう少し時間がありますこの池田市歩きは【インスタントラーメン発明記念館】は下調べをしていましたが、その他は全くのノープランですあもんの町歩きは情報を“狭く浅く”頭に入れておいて
明治43年(1910年)3月10日箕面有馬電気軌道の梅田~宝塚および石橋~箕面間が開通しました。農村の散在する田園地帯に始めて電車が開通しました。当時の宝塚線はその集落を折れ線のように結んで言った路線、その影響が今でも曲線の多い路線として残っています。後に開業した神戸線が既存の東海道線、阪神電鉄との競合の路線で、大阪~神戸間を直線的なルートで結んだのとは対照的となっています。また、計画当時鉄道が通ることを反対した箕面は本線からはずれ、支線となったことは、以後の交通の便に相当大きな影
阪急電鉄(設立時箕面有馬電気軌道)の生みの親小林一三氏の誕生日です。1873(明治6)年1月3日に生まれ、一三(いちぞう)という名前は1月3日に生まれたからつけられた名前ということです。慶応義塾大学卒業後三井銀行に勤め、1907年〔明治40年)三井銀行を退職して箕面有馬電気軌道を設立、1910年(明治43年)3月10日に箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線および箕面線)が開業しました。参考公益法人阪急文化財団サイトhttp://www.hankyu-bunka.or.jp/abou
中等学校野球(現在の高校野球)の全国大会の発祥の地である豊中グラウンド跡(旧・豊中球場の跡地)まで行ってきました。阪急宝塚線の急行で豊中に向かいました。阪急豊中駅の改札内にある「全国高校野球選手権大会の第100回大会」の展示物です。古関裕而氏が作曲した「栄冠は君に輝く」が経営統合をしたとはいえ阪急の駅に鳴り響いていました。豊中駅の改札外にあるスタンプラリーのスタンプ設置場所の一つです。地元・豊中の履正社高校出身の山田哲人選手が「高校野球発祥の地・豊中親善大使」として、豊中のPR
三宮の神戸珈琲で昼食をとった後、阪急の神戸三宮駅から王子公園に向かいました。王子公園駅です。「宝塚記念」ヘッドマークつきの7000系「特急」が通過していきました。王子公園駅は、私が小学生のときに遠足で行ったことがある神戸市立王子動物園の最寄り駅です。王子公園駅の上りホームの屋根の支柱になっている古レールです。なんとか刻印が読めそうな古レールを見つけました。判読できたのが「A.SB.S.CO.STEELTONIIIIIIIIII(1908年か?)O.HI.
先日、用事でJR千里丘駅まで行きました。たまたまカメラを持っていた(?)ので、用事の前にEF66を撮影しました。現在の千里丘駅です。「千里丘駅」の文字よりも「田村書店」の文字のほうが大きくて目立ちます。以前に見た名鉄西尾駅の「野田塾」の文字を思い出しました。千里丘駅の東口にある「フォルテ摂津」です。あれれ、当初は「フォルテ千里丘」だったような?『仕事』が早く終わったので、阪急の摂津市駅まで歩きました。現在は、同じ摂津市内にある千里丘駅でも摂津駅でもなく、この阪急摂津市駅が摂
明治43年(1910年)3月10日阪急電鉄の母体である箕面有馬電気軌道が梅田~宝塚および石橋~箕面間で1型車両33両で開業しました。下の写真は既出ですが、阪急(箕面有馬電気軌道)1型車両です。(マツモト模型製ペーパー車体)下は宝塚ホテルエントランスに展示されているお菓子でできた阪急1型ガラスの反射で横からの写真は上手く写りませんでした。(2011年10月撮影)
阪急電鉄の前身箕面有馬電気軌道株式会社営業運転開始は明治43年〔1910年)3月10日ですが、創設は明治40年(1907年)10月19日だそうです。阪急電鉄発行の75年のあゆみをみると、明治43年10月19日、大阪商業会議所で創立総会を開催し、本社を兵庫県川辺郡川西村寺畑八番の一に置き、社長は選出せず、小林一三氏が専務取締役に就任したと記載されています。ですから電車が走り始めたのは3年後になりますが、会社の形を成したのが丁度110年前ということになります。それにしても、本
阪急宝塚駅、阪急宝塚線の終点です宝塚線は、阪急で一番最初に開通した路線です当時は箕面有馬電気軌道という名前で、略して箕有(きゆう)電車と呼ばれていましたこの名前で解るように、当時は大阪梅田と有馬温泉を結ぶのが目的でしたしかし、色々あって断念せざるを得ず、結局宝塚が終点となりました当時の宝塚は温泉が湧く田舎町でしたそこで社長の小林一三は、乗客を増やすために色々な方策を出し、それが成功して他の鉄道会社が真似をして、世界に類を見ない私鉄大国が出来上がったのですまず、一つの方策は、宝塚に温
シンクロしている。今月のはじめから始まったテレビ番組NHK放送90年ドラマ経世済民の男「小林一三」の後編の録画を見ていると、不動産屋の男の子から電話があった。“宝塚”の物件がいけそうだと…ドラマでは、阿部サダヲさん扮する小林一三が、客足の伸びない箕有鉄道のために宝塚で何かプロデュースしようとついには宝塚少女歌劇団の設立いたるドタバタをやっている最中であった。いろいろとあって、住まいを少し大阪に近づけようと、家さがしに、神戸から芦屋、西宮、宝塚、、、そして、大阪府の