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朝一で気温5℃の京北を出発。朝からどんよりと。ひたすら下道を南下して無料の京奈和道を経由して。和歌山紀の川のファーマーズマーケットへ。さすがに果物の品揃えが圧倒的でした。こっちはすでに20℃超えでもう完全に初夏の気候。そして岩出の酒蔵へ。京都では買えない銘柄がずらりと。そしてJR紀伊駅でタイから一時帰国してる友達と合流。ここから高野山へ。確かコロナ前くらいに来たのが最後だから5年ぶりくらいか。雨予報でしたがどうにか持ってくれました。時間がなかっ
完全予定外だった薬師寺を発ち、本来の予定コースへ今回は大和郡山市へ。目的地付近に駐車場が無い…だと…?仕方ないので最寄りと思われる駐車場に停めたんだけど結構離れてるという…徒歩で移動中…櫓の様な建物は交番だそうです。ちっさい亀この辺りから大和郡山城の縄張り鷲池(中堀跡)例に漏れず外堀はほぼ完全に埋め立てられますが、中堀と内堀はかなり健全状態。元々は三重の堀に囲まれた総構え構造の城だったそうです。上が崩れてしまった石垣が勿体ない…ここからすぐ近くに城跡公園がある
午前中に法隆寺の見学を終えた後朝食を挟んで大和郡山城跡へ。奈良盆地の中心部に広がる石垣の城です。上の画像は1983年から87年にかけて市民(大和郡山市)の寄付によって再建された追手門。初めての登城ですが予想以上に立派です。🏯追手門の櫓も門と同じ時期に再建されています。なかなか見応えのある石垣です。😀大和郡山城は織田信長の支援を受けた筒井順慶の築城から始まり信長の死後に紀伊国、泉国そして大和国の合わせて100万石以上の領主となった豊臣秀長によ
うっちーこと宇都宮芳綱です少し前にこんな合成にトライしました所領防御陣形ではコストを切り詰める必要があるため、龍驤虎躍を付けてコスト減を狙います果たして結果はグッジョブ♪('-^*)/微妙な確率でしたが成功して良かった龍驤虎躍を狙った武将はまだまだいるので、順次アップしていきますねブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ)ランキング
↓大和街道より虎口を見る近鉄郡山駅から一駅、筒井駅で降りる。一昨年に来た時は城跡石碑の場所がわからなかった。どうもこのほっそーい路地裏が怪しい。思いきって入ってみよう↓家と家の間を奥へ幅はおよそ1m、道というより家と家の隙間やん。本当にこの先にあるのか正面は人の家の勝手口だが、道は左手に続いている。↓さらに奥へ左折してさらに右折、すっごい所通るなー。あとで調べたらこれは虎口跡で、枡形状になっているのもそのため。道幅もあえて狭くしたのがそのまま残っている、との事だ。ん何か見えて
トップページ都道府県別索引へ筒井氏城、もしくは筒井城は伊賀市の南西の方、名阪国道治田ICの東側に造成された名阪工業団地の南の丘陵内にある。このあたりでは少ない連郭式の山城なのが特徴か。天正伊賀の乱のときに織田方の一軍を率いていた筒井順慶が拠点として築いたとのこと。その後文禄年間に伊賀上野城が完成するまで拠点として使われたらしいとか。この冬休み遠征では伊賀の城たちをターゲットの一つにしていたが、大和方面の城のボリュームの前に訪問6城にとどまり、東に移動して最初に訪問した。→現
奈良県には、浄土真宗の寺が600程ある。一つの御坊では、約100の寺を管理する。西本願寺と末寺をつなぐ寺だ。YouTubeを観て下さい。https://youtu.be/r2pVVAFT1zc大和御坊五か所巡り②浄土真宗と興福寺の歴史を考えた。興福寺は、藤原氏の氏寺だ。繁栄を築き、強大な勢力になった。浄土真宗は、織田信長にも負けなかった。江戸時代の歴史を調べた。大和御坊は、浄土真宗の寺だ。僧兵を要した興福寺は、絶大な勢力だった。戦国時代の筒井順慶は有名だ。江
三笠霊園、安倍晋三元総理留魂碑から坂を登って行き。島左近のお墓に到着。もともと生駒山ろくの大和国平群あたりの領主で、"天下分け目の山崎合戦"では『洞ヶ峠を決め込んだ』筒井順慶を支える武将だった島左近。のちには四万石の石田三成に『君臣禄を分かつ』破格の待遇で迎えられ、『三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城』と言わしめた。”天下分け目の関ヶ原合戦"では徳川方から『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と言われ、有利に戦いを進めたが、小早川秀秋の裏切りから西軍は総崩れとなり、乱戦の中、
日和見主義の事を「洞ヶ峠(ホラガツゲ)を決め込む」と云うが、この【54】洞ヶ峠である。八幡市と枚方市の間にある男山丘陵南端の小高い峠で標高約70m。淀川の対岸に天王山を望み、山城と河内、摂津の三国を一望する要衝の地で、古戦場となったのは一度ではない。南北朝期の宇治ノ手合戦(『太平記』にある八幡合戦)、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦では、大和郡山の城主・筒井順慶が洞ヶ峠に布陣し、両軍の形勢を展望した上で羽柴側に加勢した故事に因む。今の洞ヶ峠に
南光坊天海⑭「侍従は伊賀国上野に城下町をつくり、発展に寄与しているので、必ずしも悪政の限りを尽くしているとまでは申せません。しかし、このところ酒色が過ぎ、倦怠が目に付くことは事実でありましょう。」と天海は答えた。「なるほど、飛騨守も中々の曲者であるか。では、この件は何とすべきであろうか。」と家康が尋ねると、「酒色より、もっと大きな罪があります。」というのである。「まず伊賀上野城は交通の要所であり、近江と並ぶ上方の藩屏にございます。上野城は東に向かい防御を固め
南光坊天海⑫天海にとって順慶とは、武士とは思えぬ優柔不断な男で、明智家滅亡を決定づけた男である。「光秀は、順慶にとって、ただの寄親ではなく、織田家中では恩人であり、親代わりともいえる存在であった。無論、筒井家存続のための決断であれば、細川家のように、早々に旗幟を鮮明にすればよかったのだ。結局、その優柔不断な態度が、明智家の戦略を狂わせ、自らの立場も損ねた。細川家は秀吉政権下でも生き残り、陰に日向に明智一族に救いの手を差し伸べた。それに比べ、順慶は秀吉から辛く当たられ
南光坊天海⑪天王寺砦にいた佐久間信盛、明智光秀らは雑賀衆ら本願寺勢の急襲を受け、1万5千の大軍に包囲されて窮地に追い込まれた。信長は直ちに救援に訪れ、僅か3千で本願寺勢を駆逐し、光秀らを助け出したのである。これ以降、順慶は、光秀の与力となり、「大和国一円筒井順慶存知」として大和国支配を許されることになる。順慶は大和守護となり、直轄領18万石と与力衆26万石、都合44万石を支配することになったのであった。こうして順慶は光秀の与力大名として各地を転戦することになる。
南光坊天海⑩「慶長十三年六月八日、伊賀国上野城上筒井伊賀守定次所領二十万石収公され、其子宮内少輔順定ともに改易させられて、奥の岩城に配流し、鳥居左京亮忠政に預けらる。」(「台徳院殿御實紀」)筒井定次の祖父にあたる筒井順昭は興福寺の官符衆徒であった。官符衆徒とは興福寺を守る武士団(大和武士)のことで、寺院の警備などを行っていたという。要するに「僧兵」と考えていいであろう。やがて畿内の戦乱が続く中、順昭は大和国最大の武士団を形成し、次第に戦国大名となっていった。天文19
元の木阿弥2024.09.18[記]【圓證寺・円証寺歴史・簡単概要】圓證寺(えんしょうじ)・円証寺は起源が明確ではありません。圓證寺は平安時代前期の寛平年間(889年~897年)に筒井氏(つついし)の本拠地であった大和国添下郡筒井庄(大和郡山市)に創建されたとも言われています。筒井氏は法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・興福寺(こうふくじ)の衆徒であったことから興福寺に近い林小路(奈良市林小路町)に外館(下屋敷)を構え、1550年(天文19年)6月20日に筒井順昭(つついじゅんしょう)
9月15日出来事1835年-ビーグル号による世界探検の途上のチャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島に到達。1868年(慶応4年7月29日)-戊辰戦争:二本松城が落城する。大坂の陣以来城を枕に討死はこの二本松城のみである2001年-ドイツ・ラウジッツリンクで行われたCART第16戦にておこった事故によりアレッサンドロ・ザナルディが両足を膝上で切除。2008年-リーマン・ショック:アメリカの投資銀行大手、リーマン・ブラザーズが連邦倒産法第11章の適用を申請し倒産。誕
再来年の大河ドラマは『豊臣兄弟』が放送予定である。主人公は秀吉の弟、秀長で天下統一を助けたことで知られている。彼は後に大和・紀伊・和泉の三国110万石の大大名として大和郡山城を本拠地とした。(主演の仲野太賀さん:NHKから)それ以前はこの地を治めていたのは戦国大名の筒井氏である。今回はこの大名家のその後のお話です。大和から隣の伊賀へ移ったのでした。【目次】1.忍者の街伊賀上野2.筒井順慶の後を継いだ定次のこと1.忍者の街伊賀上野三重県伊賀市は大和街道、伊賀街道
うっちーこと宇都宮芳綱です1-8鯖の影城主でのことですが、昨日の夜にランクアップ合成をしていたらグフッ!><何と成功率99%で失敗☆1→2の時も99%で、たまに失敗することがあることから、その可能性を考えないではなかったですが、実際に起きてみるとショックが大きいですねこの時は色々合成をやるつもりでいましたが、もうやる気が失せ寝てしまいました朝起きた時に各鯖でつづらを開けてましたが
~鹿背山城年表~1188年頃(文治4)木津英清により築城説もあり(応仁・文明年間)応仁の乱で東西両軍の争奪戦が繰り広げられ、1470年(文明2)畠山義就に攻められ落城1479年(文明11)興福寺の僧侶が入城1485年(文明17)木津執行に代わり、古市氏(いずれも興福寺衆徒)が入城1559年(永禄2)松永弾正久秀、大和国に侵入1562年(永禄5)久秀、相良郡に徳政令を出す(それまでに城を獲得したよう)久秀、城を大改修し現在に残る防御施設を造り上げる廃城時期=不明だが、久秀は筒井順
前回掲載した今井町散策の翌日は、奈良県大和郡山市にある郡山城へ向かった。郡山城は、天正8年(1580年)筒井順慶の築城に始まる大和で最も大規模な城郭で、近世期には、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳沢家の居城となった。現在は、郡山城跡公園として整備されている。スケッチは、堀の向こうに城址会館と東隅櫓が見える構図で描いてみた。ワーグマン水彩紙厚口F6中目
奈良・大和郡山市の郡山城筒井順慶の築城(1580年)の後、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。約800本の桜が植えられ、桜が綺麗。周辺は城下町の風情もあり、ぶらぶらと散歩する小旅行にぴったり
さてさて…昨日は日本人の三蔵法師、霊仙のことを書きましたが…この方は伝教大師最澄、弘法大師空海と同じ船で遣唐使として唐に渡っているわけですが…比叡山が見える…法師と大師の違いは何だと思われますか?…日本では法師というのは徳の高い僧侶一般に対する呼称だったのですが…中世頃になると尊敬の度合いが薄れて行って…僧兵のことを法師武者と呼んだりしていました…それに対して大師は…朝廷から宣下された名前です…なので勝手に呼んだり名乗ったりは出来ない尊称です…日本の大師号宣下
奈良・大和郡山市の郡山城筒井順慶の築城(1580年)の後、豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。約800本の桜が植えられ、桜が綺麗。城下町の風情もあり小旅行にぴったり。
皆さん!こんにちは!岡山県津山市の占術家。宗家安倍晴明こと道広義博です!私は思うのですが、無為無策が得をすることは無いと言うことです!戦国武将で筒井順慶という武将が存在しました!筒井順慶は、天王山の戦いで、風見鶏を決め込んだ武将です!私は、何もしなければ何も得られないことをしっております!深夜まで、電話占いのクライアント様の対応をさせていただきました。深夜に私に電話をかけて下さったクライアント様に感謝申し上げます。何もしなければ、何も得られないことを私は存じ上
1584年に筒井順慶が死去すると1585年、養子の筒井定次は伊賀上野に転封となり代わって羽柴秀長が大和を領有し郡山城に入ります病気で出陣できない秀吉に代わって10万人を超える軍の総大将に任じられた羽柴秀長は一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させた功績で紀伊・和泉・大和の合計100万石で郡山城に入城しましたいよいよ天守台に登り展望台から全方向を眺めます❣️
月見櫓と月見櫓からの毘沙門曲輪の桜の眺めはとても素敵でした♪そして月見櫓からの天守台・内堀を眺め埋門跡に行きます。いよいよ天守台です♪1580年に織田信長の援助を得た筒井順慶が大和国守護となり郡山辰巳は殺され家来たちはそのまま筒井順慶の家来となっています。
追手門は梅林門とも呼ばれています追手門をくぐり追手門の裏側から左に行き毘沙門曲輪から追手向櫓・多聞櫓を眺めてから戻り常盤曲輪に向かい城址会館に行きましたが休館日⁉️仕方なく再び毘沙門曲輪に向かい天守台の見える場所まで歩きます1559年に松永久秀が大和国に侵入すると当時の郡山城主・郡山辰巳は松永久秀に寝返り筒井順慶から離反します筒井城が松永久秀(松永弾正)軍に属した為郡山城は筒井順慶軍の拠点となり1570〜1571年まで松永久秀・久通親子の攻撃を受けていました。
1580年、筒井順慶が織田信長に与えられ入城し、廃城となった多聞山城の大石を運び入れ大勢の奈良の大工たちを集めて築城が始まりました明智光秀も工事の様子を見回っていたようです市役所の駐車場に車を止めて大手掘を見ながら百寿橋を渡り柳御門跡の石垣を見て三の丸緑地を通り鉄御門跡まで行きます途中で近鉄電車が城の中を走ります
筒井順慶がこの城を拠点に攻勢に出る松永弾正さま劣勢に陥る椿尾上城後編です。城は順慶が攻勢に出る際に大改修されたと云う。洞ヶ峠はもっと後である。東郭群を攻め申す。案内板はないのに記念柱がありました。足軽小学生よ山城で萌えよ東郭群西から東への尾根を加工した4連続段郭があります。その北側の通路を行く。1段目と2段目の段差部。虎口からの横堀か?2段目とその先の3段目。間に割目がありそうです。段郭をちょん切る大堀切。かっけーぞ順慶角度を変
ここへは和歌山は磯ノ浦の帰りに立ち寄ったなとても嫌な思いをして、泣きながらの帰宅途中だもう10年も前の話だけれど…雨降りでもドキドキせずに散策できると思って、再訪だ立派立派すでに時間をかけちゃってます郡山城前回は駐車し、今回は駐輪筒井さん→秀長梅まつり開催中スルー目指せ本丸石垣が立派よね〜見惚れちゃうよ前回も撮ったような絶対…撮ってるな極楽橋いいわぁパチパチ雨だとさ誰もいないから、いい事あるよね天守台ひとまわりさかさ地蔵うまく撮れた石垣ガン見
松永久秀と言えば〜ここもはずせないっしょ筒井城ここに来て雨足が強くなり、カッパ着る先に多聞城へ行ったから、筒井順慶が怒ったのかしらとにかく雨が強いし、順慶堤とやらまで行ってしゅーりょーしばしコンビニ軒下にて、雨宿り次へ進む