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1584年に筒井順慶が死去すると1585年、養子の筒井定次は伊賀上野に転封となり代わって羽柴秀長が大和を領有し郡山城に入ります病気で出陣できない秀吉に代わって10万人を超える軍の総大将に任じられた羽柴秀長は一宮城を落とし長宗我部元親を降伏させた功績で紀伊・和泉・大和の合計100万石で郡山城に入城しましたいよいよ天守台に登り展望台から全方向を眺めます❣️
月見櫓と月見櫓からの毘沙門曲輪の桜の眺めはとても素敵でした♪そして月見櫓からの天守台・内堀を眺め埋門跡に行きます。いよいよ天守台です♪1580年に織田信長の援助を得た筒井順慶が大和国守護となり郡山辰巳は殺され家来たちはそのまま筒井順慶の家来となっています。
追手門は梅林門とも呼ばれています追手門をくぐり追手門の裏側から左に行き毘沙門曲輪から追手向櫓・多聞櫓を眺めてから戻り常盤曲輪に向かい城址会館に行きましたが休館日⁉️仕方なく再び毘沙門曲輪に向かい天守台の見える場所まで歩きます1559年に松永久秀が大和国に侵入すると当時の郡山城主・郡山辰巳は松永久秀に寝返り筒井順慶から離反します筒井城が松永久秀(松永弾正)軍に属した為郡山城は筒井順慶軍の拠点となり1570〜1571年まで松永久秀・久通親子の攻撃を受けていました。
1580年、筒井順慶が織田信長に与えられ入城し、廃城となった多聞山城の大石を運び入れ大勢の奈良の大工たちを集めて築城が始まりました明智光秀も工事の様子を見回っていたようです市役所の駐車場に車を止めて大手掘を見ながら百寿橋を渡り柳御門跡の石垣を見て三の丸緑地を通り鉄御門跡まで行きます途中で近鉄電車が城の中を走ります
筒井順慶がこの城を拠点に攻勢に出る松永弾正さま劣勢に陥る椿尾上城後編です。城は順慶が攻勢に出る際に大改修されたと云う。洞ヶ峠はもっと後である。東郭群を攻め申す。案内板はないのに記念柱がありました。足軽小学生よ山城で萌えよ東郭群西から東への尾根を加工した4連続段郭があります。その北側の通路を行く。1段目と2段目の段差部。虎口からの横堀か?2段目とその先の3段目。間に割目がありそうです。段郭をちょん切る大堀切。かっけーぞ順慶角度を変
ここへは和歌山は磯ノ浦の帰りに立ち寄ったなとても嫌な思いをして、泣きながらの帰宅途中だもう10年も前の話だけれど…雨降りでもドキドキせずに散策できると思って、再訪だ立派立派すでに時間をかけちゃってます郡山城前回は駐車し、今回は駐輪筒井さん→秀長梅まつり開催中スルー目指せ本丸石垣が立派よね〜見惚れちゃうよ前回も撮ったような絶対…撮ってるな極楽橋いいわぁパチパチ雨だとさ誰もいないから、いい事あるよね天守台ひとまわりさかさ地蔵うまく撮れた石垣ガン見
松永久秀と言えば〜ここもはずせないっしょ筒井城ここに来て雨足が強くなり、カッパ着る先に多聞城へ行ったから、筒井順慶が怒ったのかしらとにかく雨が強いし、順慶堤とやらまで行ってしゅーりょーしばしコンビニ軒下にて、雨宿り次へ進む
どう逃げた家康生涯最大の危機は奈良が救った?通説に異論(毎日新聞)-Yahoo!ニュースNHK大河ドラマ「どうする家康」(2023年1~12月放送)で描かれた戦国武将、徳川家康(1542~1616年)。その天下人が生涯最大のピンチを脱した際の逃亡ルートについて、在野の研究者が通説に異news.yahoo.co.jp本能寺の変後、徳川家康は堺から三河までどう逃げたか?通説では堺→京都→近江日野→伊賀→伊勢→三河だったかな??「知恩院で切腹する」なんて言ったか言わなかった
高田川からさらに東へ足を延ばす。↓教行寺山門真宗大谷派の寺院で、別名は箸尾御坊。本願寺蓮如が開基し、各地を転々としたのち箸尾へ落ち着いた。↓教行寺_説明↓教行寺本堂江戸時代末期建造の本堂。↓獅子瓦屋根には厄除けの獅子、あるいは麒麟か。↓古い町並み古いもの、嫌いじゃない。。↓堀の名残りほっそい川(側溝?)、どうやら堀の名残りらしーな。堀跡ってあんた、今回は城攻め忘れてお花見に来たんちゃうのん↓箸尾城址碑城跡、来とるやないかいやっぱり近くに城跡あったら、ついでに寄っち
本日は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。先日(12/5)は非常に寒い1日でしたが、朝早くに大阪難波へ出て「歯医者」へ行く用事があったので、「歯医者」で処置を済ませた後に、近鉄「奈良線」に乗車して「西大寺駅」で「橿原線」に乗換え「筒井駅」で下車してまずは「筒井城」へ足を進めました。駅前に掲出されていた「筒井城」周辺の案内図↓1城目の「筒井城」(奈良県大和郡山市筒井町)の城主は、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が山崎の合戦で
<速報>本日は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。今日は非常に寒い1日でしたが、朝早くに大阪難波へ出る用事があったので、その用事を済ませた後、近鉄電車に乗って奈良盆地にあるお城2城に訪城しました。まず1城目、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が山崎の合戦で戦った時、「洞ヶ峠」を決め込んだ「筒井順慶」は「秀吉」方についたことで有名ですが、その「筒井順慶」等「筒井家」の居城であった「筒井城」(奈良県大和郡山市筒井町)へ初めて訪れました
明智秀満(118)「池田氏家譜集成」『扠、秀吉は十一日(注:実際は9日早朝)姫路を出勢して上られける、池田紀伊信輝兵庫ニ而出向ひ、先公不慮に傷害の事、互に涙せしあへす、ちからを合せて、光秀を討つへしと也、秀吉今より別而入魂の爲なれば秀次を信輝の婿に約し、信輝二男輝政を秀吉養子とぞ盟ける、其日十二日尼崎へ着陣なれば、池田父子、中川、高山、惟住、合し、軍評議有り、扠池田紀伊守信輝剃髪して勝入とぞ號しける、秀吉剃髪、』秀吉の「中国大返し」は分からないことも多い。まず、備
明智秀満(117)「細川家記」『又一書(松井家記)、五月廿八日、藤孝父子宮津を立て、朔日、但馬国竹田という所ニ云所ニ著陣也。翌二日、光秀より飛脚来る、光秀の不義を悪ンて返答ニも不及、康之方よりは、明智左馬助、荒木助十郎迄、向後義絶之由申遣、飛脚を追返す、同三日、藤孝・忠興丹州に帰らる、今日康之を京都に上らせるると云々、』同じ細川家記でも「松井家記」では少し事情が違うようだ。5月28日から細川父子は但馬国竹田にいたという。本能寺の変があった当日に光秀から飛脚があ
明智秀満(81)御座所において信長、光秀、忠興、順慶の密談が続いている。「尾張方面から3万で岡崎を囲めば、徳川は後詰を送らざるを得ません。主力を西に誘導した上で信濃方面から遠江、甲斐方面から駿河に入れば防ぎようがないでしょう。」と忠興が言う。「大筋はそれでよいと存じますが、個々に見ると難しい面があります。武田家は何度も北から侵攻しておりますが、徳川家はいずれも凌いでいます。上様が短期間で決着をお望みなら、もう一工夫が必要でしょう。」と順慶は慎重な意見である。「岡
明智秀満(79)「当代記」『十一日、信長甲府を立、元巣に着給、此間山路の茂りを伐佛間々に、家康より、物主を被置、奥平九八郎信昌御迎に出けるに、信長殊外の御懇中々申も愚也、先年於長篠甲信随分之者依討果、此度早速相治之由曰、甚御快気也。十二日、駿州大宮へ着給、路次中富士山見物し玉ふ。於此所、家康へ吉光脇差、一文字刀、馬三疋被進、十三日江尻に着給、翌日駿河府中、今川の代々の舊跡心閑に有一見、藤枝田中城に御泊、さて、遠州掛川御泊、家康より天龍川舟橋かけ給。一日先立て上給、十七
負けた。まさか、こうもあっさりと負けるとは。予定しいていた武将が集まらなかった。筒井順慶は動かなかったし、頼みにしていた細川藤孝も剃髪して喪に服すと称して中立の姿勢を取った。なにより予想外なのは、秀吉がこんなに早く引き返してきたことだ。あの密約はなんだったのか。信長を討ってくれたら天下は譲ると言った、あの密約は。しかし、それを天下に晒そうとしても証拠がない。中国から使者を寄越して、口頭で伝えただけなのだ。秀吉は、最初から絵図を描いていたに違いない。まんま
明智秀満㊾「信長公記」『伊賀国へ信長御発向の事十月九日、伊賀国御見物として、岐阜中将信忠、織田七兵衛信澄御同道にて、其の日、飯道寺へ信長公御上りなされ、是れより国中の躰御覧じ、御泊。十月十日、一宮に至りて御参着。暫時御休息も御座無く、一宮の上に、国見山とて高山あり。即ち、御登山侯て、まず、国中の様子御覧じ計られ、御座所御殿、瀧川左近結構に立て置く。中将信忠御座所、その他、諸勢残る所無くこしらえ置き、珍物を調え、御膳上げ申し、御馳走斜ならず。
明智秀満㉗丹波平定の目途が立った頃から、光秀は安土城に詰めることが多くなっていった。当時、安土には筆頭家老の林秀貞と佐久間信盛、丹羽長秀が詰めていた。やがてそこに伊勢方面が安泰となった滝川一益が加わった。柴田勝家と羽柴秀吉は遠隔地で戦闘していたため、常時の登城は困難であった。秀貞と信盛が失脚してからは、長秀、一益、光秀の三人が織田家の重臣として信長に近習するようになった。当然、信長に仕える吏僚はいるが、織田家の重要な評定はこの4人の寄合いによって決められたのである。
―洞ヶ峠―前回、織田信長の人口膾炙されたイメージについてお話ししました。今回は「洞ヶ峠」を。本能寺の変で、信長を討った明智光秀は、味方になるよう、細川藤孝や筒井順慶に味方になるよう伝えますが、順慶は、洞ヶ峠というところで、秀吉と光秀の戦の動向を見ていただけで、後世、「日和見主義」とようなレッテルをはられてしまいました。しかし、最近の研究で(『蓮成院記録』)、洞ヶ峠に着陳していたのは光秀の方で、そこから家臣を派遣して順慶に帰順するように伝えますが、順
明智秀満⑰「福知山市史」『天正年中に明智光秀殿が、丹波全体を平定され、群主村邑の主に限らず、従来の支配者達を追放して浪人となし、天正七年秋所々へおふれを出して次のごとくいわれた。「昔より丹波は地頭が多い国であると主人信長から聞いていたが、今日皆追放した。これは今までの悪政をやめさせるためである。しかし、足利将軍から代々の御判をもらっている地頭については、その趣を願い出たならば、いくらか領地を残してやる。」と申し渡した。』天正8年、信長は光秀に感状を与え、丹
三宅弥平次(90)「緜考輯録」『其方事、近日相続抽軍功、於所々智謀高名依超諸将、数度合戦得勝利感悦不斜、西国手尓(に)入次第、数ヶ国可宛行之条、無退屈可励軍忠候。仍、細川兵部大輔専守忠義、文武兼備二候。同氏与一郎事、秀器量、志勝事抜群二候。以後者(は)可為武門之棟梁候。云隣国、云剛勇、尤之縁辺、幸之仕合也。8月11日信長(御印判)惟任日向守殿』「緜考輯録」とは熊本藩細川家の家史である。よって「細川家記」とも言う。それ自体は貴重な史料であ
↓本丸と天守台_説明小さくて読めませぬ。↓転用石が多く見られる部分本丸石垣の東面。この辺りに転用石が集中してみられる。四角いのんとかがそう。↓地蔵の頭部か一番下でうつぶせ。ぞんざいな扱いである。↓月見櫓台月見櫓台の隅部は、本丸に比べ完成された算木積みとなっている。後から継ぎ足されたか、補修されたということだろう。↓内堀東月見櫓から奥。右手が本丸。極楽橋が見えてきた。↓庭池いったん天守から遠ざかり、追手門の方へ。↓追手門昭和58年復元。今いる所から門にかけて折れ曲が
三宅弥平次(76)「信長公記」『八月八日、柴田修理亮、大将として、北陸へ御人数出だされ候。(中略)羽柴筑前、御届をも申上げず、帰陣仕り候段、曲事の由、御逆鱗なされ、迷惑候申され候。』第二次信長包囲網は信玄の死を以て瓦解した。そのため毛利家の庇護を受けた将軍・足利義昭は三度目の包囲網を形成しようと画策していたのである。義昭が糾合したのは、本願寺、雑賀衆(鈴木)、武田、毛利、宇喜多、松永、そして上杉謙信であった。それまで謙信は信長と同盟関係にあり、敵対勢力
三宅弥平次(70)「兼見卿日記」『六月廿一日信長ノ将惟任光秀、摂津石山ノ陣中ニ病ミ、帰洛ス、尋デ、信長。使ヲ遣シ、之ヲ問ハシム、』天王寺砦から生還した光秀ではあったが、摂津の陣中で突然、病で倒れた。思いのほか重篤となった光秀は一旦帰京し、医師・曲直瀬道三の屋敷で養生することとなったのである。摂津の明智陣には坂本城にいた長閑斎が代将として入った。庄兵衛に付き添われて正室・煕子が曲直瀬の屋敷に駆け付けた。光秀の護衛には山岸光重とわずかな供廻りがついただけで
大和郡山の城主筒井順昭(つついじゅんしょう)が死んだ時跡継ぎの順慶(じゅんけい)はまだ幼小で影武者をたてなくてはならなくなりましたそこで順昭と声が似ている木阿弥(もくあみ)という盲人を替え玉に使いましたそして三年後順昭の死が発表され木阿弥は城主の替え玉から元の盲人の木阿弥にもどされました『元の本阿弥』の語源となったお話です(史実かどうか不明です)【元の木阿弥】とはダメな状態から盛り上がったもののまた元の状態にもどって
史跡めぐりの記事です。今回は、奈良県大和郡山市にある筒井城です。大和郡山城から3キロくらい離れた箇所になる平城です。筒井城(つつい)時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城でした。最初の記録となる城主は、筒井順覚で、市徳三年(1386)の文献にその名が記され代々筒井氏の居城でした。最後の城主となったのは、筒井順慶です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580
■所在地奈良県大和郡山市城内町■遺構天守台・石垣・堀・郭■城のタイプ平山城■築城者筒井順慶・豊臣秀長大和郡山城は、織田信長の時代、天正8年(1580)に、筒井順慶が築城しました。豊臣秀吉の時代に、天正13年(1585)豊臣秀長が、大和・和泉・紀伊の三国、100万石の居城として大幅に拡張されました。江戸時代には郡山藩がおかれ、水野勝成や松平忠明、本多正勝などの譜代の統治の後、柳沢吉里が入り幕末まで柳沢氏が続きました。明治維新後、多くの建物は破却されたが、近年、追手門・櫓・天守
近鉄「筒井駅」の東側にある筒井城跡を訪れました。「筒井城跡」は広い草地になっていて、城跡の面影はありません筒井城の説明板が建っています「最後の城主・筒井順慶の筒井城…」現在の地図と筒井城の概要図(S:1/2000)「筒井順慶城跡」の石碑を探しに、説明板の南にある蓮池の間を西に延びる細い道を入って行きました…細い道を進むと民家の手前に石碑がありました。(民家の間を入って行くと、筒井駅方面です)「筒井順慶城跡」の石碑が建っていました近鉄「筒井駅」か
2022年12月18日(日)奈良百遊山高峰山632.5m城山528.7m「高峰山」高峰山~城山「その2」高峰山~城山「七曲り道」高峰山~城山「城山」高峰山~城山「城山2」高峰山~城山の続きです林道を降っています少し狭い道もコケの部分でコケそう突然の石仏看板も説明版も無し集落に出てここも山ですが登らず一本の・・・・・・何故か、ここに椿尾上城の説明
【左近】PHP文芸文庫【著】火坂雅志三成に過ぎたるものが二つありのうちの一つ、島左近の話。元々、筒井順慶の侍大将だった島左近は、紆余曲折を経て、石田三成に仕える。筒井順慶の下でも、石田三成の下でも己の義によって主を全力で支える熱き男の物語。関ヶ原の戦いの場面は、かなり熱いです。熱いですが、残念ながら著者急逝の為未完となっています。あと少しじゃないかと思う感じだったので本当に残念ですが、それでも面白い作品です。PHP文芸文庫左近〈上〉我、昇竜たらん―。大和国を治せる筒