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松永久秀と言えば〜ここもはずせないっしょ筒井城ここに来て雨足が強くなり、カッパ着る先に多聞城へ行ったから、筒井順慶が怒ったのかしらとにかく雨が強いし、順慶堤とやらまで行ってしゅーりょーしばしコンビニ軒下にて、雨宿り次へ進む
本日は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。先日(12/5)は非常に寒い1日でしたが、朝早くに大阪難波へ出て「歯医者」へ行く用事があったので、「歯医者」で処置を済ませた後に、近鉄「奈良線」に乗車して「西大寺駅」で「橿原線」に乗換え「筒井駅」で下車してまずは「筒井城」へ足を進めました。駅前に掲出されていた「筒井城」周辺の案内図↓1城目の「筒井城」(奈良県大和郡山市筒井町)の城主は、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が山崎の合戦で
<速報>本日は「”家康”のでき事と所縁ある”お城”を振り返ろう」シリーズをお休みにして「お城紀行」を投稿します。今日は非常に寒い1日でしたが、朝早くに大阪難波へ出る用事があったので、その用事を済ませた後、近鉄電車に乗って奈良盆地にあるお城2城に訪城しました。まず1城目、「羽柴秀吉」と「明智光秀」が山崎の合戦で戦った時、「洞ヶ峠」を決め込んだ「筒井順慶」は「秀吉」方についたことで有名ですが、その「筒井順慶」等「筒井家」の居城であった「筒井城」(奈良県大和郡山市筒井町)へ初めて訪れました
筒井城創設年代・・・永享元年(1429)創設者・・・・筒井順覚形態・・・・・平城遺構・・・・・水堀本丸方面・土塁本丸付近蓮池になっている内堀城域の専念寺同寺前の柿古木同寺裏の堀本丸跡の菅田比売神社同・土塁の痕跡あり同神社脇の堀堀道中の祠筒井順慶の木像を安置している光専寺同寺裏の外堀同寺裏の外堀城の守り
史跡めぐりの記事です。今回は、奈良県大和郡山市にある筒井城です。大和郡山城から3キロくらい離れた箇所になる平城です。筒井城(つつい)時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺衆徒筒井氏の居城でした。最初の記録となる城主は、筒井順覚で、市徳三年(1386)の文献にその名が記され代々筒井氏の居城でした。最後の城主となったのは、筒井順慶です。順慶は苦戦の末、大和に侵攻した松永久秀に打ち勝ち、天正4年(1576)、織田信長によって大和国支配を任じられました。天正8年(1580
続き・・・12:09まずはお隣の筒井城を攻略します表門少し天守が見えました式台綺麗に整備されています柴小屋米蔵塩噌蔵12:25筒井城はここで終了です。充分にお城を堪能できましたメインの伊賀上野城はこれからです入口が見えましたが、スルーして高石垣を先に見ることにします伊賀上野城の天守閣を撮るならAMがお薦めです。石垣全体にも陽が当たりいい写真が撮れると思います
大和郡山城で桜を愛でながら、ふと筒井順慶のことを思い出して居城をググった豊臣秀長が入城する前に、筒井順慶が大和郡山城を拠点としていた時期もあったが、そもそも「筒井城」が本拠地(のはず)最寄り駅となる「筒井」が「郡山」の隣駅だったので、近鉄で一駅乗って行ってみた大和郡山城のように立派な石垣があるわけでもなく、城跡は分かりづらいGoogleマップを頼りに民家の間の細い路地を抜けた所に碑を発見ホンマに痕跡が何も無い何にも無い、何にも無い、全く何にも無い自然と「はじめ人間ギャートルズ」の歌
続きです。この頁一つ目は久保田氏館です。木津川西方の丘陵東端上に建てられました。『伊乱記』によると、大野木村の窪田又八郎が前述の合戦で比自山城に籠ったそうです。この窪田氏とは、由緒書によると、武将空白地帯であった大野木村に迎え入れられた木津の武人らしいです。-参考:木津-久保田氏館は広い館で、北・西・南に土塁が張られ、西には堀が掘られています。谷を挟んで南には広山氏館があります。現在は個人のお宅の裏の山です。-久保田氏館-二つ目は広山氏館、三つ目は広山氏城です。
八幡神社(大和郡山市筒井町)大和国添下郡奈良県大和郡山市筒井町1322(P無し、オークワなどのSCから南100m余り)■延喜式神名帳菅田比賣神社二座鍬靫の論社■祭神足仲彦命息長足姫命誉田和気命式内比定社菅田比賣神社の南東100mほどに鎮座する式内論社。大和郡山市筒井町の住宅密集地内に佇んでいます。◎式内社菅田比賣神社についてはおそらく、菅田比賣神社も当社も式内社ではなく、かなり南方の春日神社(石上神社)が該当すると考えています(思料記事は誤って削除してしまい現存
筒井順慶(「麒麟がくる」のネットから)。法輪寺を出て、斑鳩の里を歩いて。コスモスの時期に綺麗な法起寺を見ながら、国道25号線の富雄川を渡って。近鉄筒井駅。法輪寺から1時間かかりました。って、何もあらへん。。。光専寺。筒井順慶公木像安置ってしかし、閉まってました。。。筒井順慶☝️順昭の子、天文18年に生まれる(1549~1584)。母は大仏再興に功績のあった山田道安の妹。幼名は藤勝、藤政、のちに得度して陽舜坊順慶と称した。京都の幕府の弱体化による政情不安で順慶も大きな影
今日も来て下さり、有難うございます(^-^)/筒井順慶の城跡です。。(今は石碑のみがあります)どっちかというと住宅地のはざまにありました。レンコンの畑の一角に、ひっそりと石碑がありました。。筒井氏の説明です。。字が小さいので・・当時、お城の周囲は、外堀で大きく囲まれていたそうです。。1343年の文献に、すでに、筒井氏(順慎、順円)の署名が見られたそうで、、14世紀の半ばに、筒井氏と筒井城が、登場するみたいです。筒井城最後の城主は、筒井順慶です。2歳の時に、父に死なれ、
Tetsu龍でございます。麒麟がくる、信長包囲網いよいよ本格化してきましたねぇ。ついにラストで甲斐の虎も登場しました。ビジュアル再現性高杉君です。相変わらず駒と東庵の出番が多いので、ブーイング凄いのでしょうな。狂言回しとして、暖かく見ましょうよ!架空の人物がと宣う方が多々いますけど、あくまで歴史ドラマですよって、再現VTRではないのです。今回のお話で筒井順慶が出てきましたねぇ。筒井城に行ったのは、もう10年くらい前になります。街中に、だだっ広い空き地があって、それしか
この日は、奈良県大和郡山市の筒井エリアの散歩としたこの【大和郡山御朱印マップ令和元年版】を片手に『収束(終息)祈念巡礼』とする。もちろん『三つの密』の回避を念頭に地域(ほぼ地元ですが)の方々に、迷惑をおかけしないよう、最大限配慮する事とするまず最初に目指すのは【筒井城跡】だ細く入り込んだ路地を進む……最近よく『亀』に出会う長寿の象徴でもある『亀』とは、縁起が良いおお〜〜〜〜〜っ今まで写真で見た事はあったけど、どこにあるか分からなかった石碑ついに発見ーーーーーっ【筒井順慶城趾
2月24日月曜日、奈良県は大和郡山市にいます「大和な雛まつり」を拝見したあと、いくつか近辺の寺社巡りしました次に来たのは大和郡山市の筒井駅の近くにある『菅田比売神社(すがたひめじんじゃ)』大和郡山市の神社仏閣めぐりのパンフに載ってたので来てみました。住宅街の中にあるので行くまで道が狭かったです。【境内】御祭神は伊豆能売神(いづのめのかみ)、「伊豆」は「厳(いづ)」の事で穢れを清める女神です【神門】かつては北に500mほどの丹後庄という所との境目にあったそうです
今回から奈良県の中家住宅の紹介です。中氏は南北朝時代ごろに足立氏を名乗り、足利尊氏に従って大和に来たそうです。その後在地武士として成長し、戦国時代には筒井氏の一族家臣として活躍した土豪です。窪田氏(現地が安堵町窪田)を名乗っていましたが、その惣領家は中殿と呼ばれたため、やがて中氏と称するようになりました。二重の濠に囲まれた3500坪の広大な屋敷は、かつての窪田殿の居館であり、中世後半の大和地方における平城(筒井城と同じ)の姿を今によく伝えています。屋敷内には、
昨日の続きです。今回は主郭部発掘調査から、筒井氏と松永氏の戦いです。下写真⑦から主郭部を見たところです。草地は内堀跡です。一段高いところが主郭ですが、当時は2m程度の土塁もこの上にありました。信長が1国1城のみとして、他城は破却せよとの命令を出し、筒井氏は筒井城を破却して、近くの郡山城に移りました。その時にここの堀が埋められています。その内堀をここで発掘調査していますので、その結果はグーグルより引用の地図です。(上が北)発掘調査の写真です。16世紀後半こ
昨日の続きです。今日は主郭部の写真です。幅の広い溝がある菅田比賣神社です。菅田比賣神社入口です。手前の道路に、大きな溝がありますが、内堀跡かと思います。ここから南2kmに菅田神社が鎮座、付近には菅田地名が残っており、現在地を添下郡の菅田比賣神社の鎮座地とするのには問題があり、当社の社地には八幡神社が鎮座しており、此処へ遷座して来たとされます。武士の尊敬する神は八幡神なので、主郭に八幡神社を祀ったと思います。主郭部の内堀を水色に塗りました。神社の東側
今回から大和の筒井城の紹介です。筒井氏は春日若宮祭に流鏑馬を奉納した、1384年の「長川流鏑馬日記」にその名前が初めて出ます。筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われています。筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持っていました。鎌倉時代以降は大和守護職は興福寺が務めており、筒井氏もその衆徒として組み込まれますが、室町時代には大和の有力豪族となります、「筒井城」が初めて史料に出てくるのは「満済准后日記」で、1429年に始まった「大和永享の乱」では筒井順覚が城
こんばんは。今日はお休みで、奈良県の筒井城跡に行って来ました。本当は隣の駅にある大和郡山城に行こうと思って、続日本百名城のスタンプ帳を持って家を出たのですが、大和郡山城の見所を電車の中で調べてたら、「近くの筒井城跡も行ってみよう」みたいな記事があったので、先に筒井に行ってから大和郡山城に行こうと思いました。しかし、筒井駅で降りて歩き出したところで電話が鳴って帰らなくてはいけなくなってしまい、筒井城のみ行くことになりました。家からだとまあまあ近いので、またすぐ来れそうなので。しかし、快
©2010-2018SQUAREENIXCO.,LTD.AllRightsReserved.(戦国IXAWikiより拝借)筒井順慶(つついじゅんけい)/1549年~1584年戦国時代、大和国(現・奈良県)付近を治めていた戦国大名。青春時代は曲者の松永久秀とケンカしまくってた。。。日和見の代名詞「洞ヶ峠」で有名になりすぎた凡才な戦国大名のひとり。【生涯】1549年(1歳)大和国の戦国大名であった筒井順昭の子として生まれる。1550年
★『ディープな奈良を堪能する』シリーズ★伝香寺(でんこうじ)の「散り椿」、見頃です。今日は時間があったので、再び伝香寺へ。(どんだけ、しつこいネン)今月初めに伝香寺に行った話はこちら早すぎて咲いていなかったのです。「散り椿」は【大和三名椿】やまとさんめいちんの一つです。奈良の三名椿とは、伝香寺の散り椿、東大寺の糊こぼし、白毫寺の五色椿。一般に椿は散る時、花ごとボタッと落ちるのに反して、この「散り椿」は花びらがはらはらと散る椿で、その潔さか
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続きです。二三、上野芝合戦永禄09.02.17松永弾正少弼久秀・畠山播磨守高政←三好左京大夫義継・三好三人衆劣勢に立たされた松永弾正少弼は、嘗て故・三好修理大夫長慶に追放された畠山播磨守や三好左京大夫の弟で岸和田城主の松浦肥後守信輝と結びました。-岸和田城復興櫓門-こうして松永・畠山連合軍は三好政権軍と上之芝(現・上野芝)で衝突しましたが、連合軍が敗れました。その結果、堺の地が三好政権軍に奪われました。-上野芝--堺-かと言って、松永方
皆様こんばんは。今週は、先週に引き続いて三好政権による政権安定戦争の続きを見ていこうと思います。前回は、三好修理大夫長慶公がご逝去された所まででしたね。家督を継いだ三好孫六郎重存は、義父・三好修理大夫の死を秘匿しました。宗教政策や改元問題で足利将軍家と対立していたので、隙を見せない様にしていたのでしょう。三好修理大夫の遺体は、飯盛山城の御体塚丸に仮葬されました。-飯盛山城曲輪Ⅴ(御体塚丸)-二一、二条御所の変(永禄の変)永禄08.05.19三好左京大夫義継・後の三好三人
続きです。大和小泉城から筒井城まで3km強だったので、四十分弱を掛けて歩きました。殆ど道なりだったので分かり易かったですね。それでは、城の説明に行きましょう。筒井城というのは、大和国最大級の中世平城(平地式城館)です。戦国時代には松永弾正少弼久秀が筒井氏を追い支配下に置き、後に織田権大納言兼右近衛大将信長に臣従した筒井順慶が城主として復帰しました。数年後にはこの城は破却され順慶は新たに大和郡山城を拠点としたらしいですね。先ずは手描き概略図をご覧下さい。-手描き概略図
奈良県大和郡山市筒井町にあった筒井城(つついじょう)を攻めました。「洞ヶ峠を決め込む」の語源にもなった武将筒井順慶の城です。洞ヶ峠を決め込むとは、天正10年(1582)本能寺の変の直後に山城国山崎(京都府三島郡島本町サントリーの工場があるとこ。ダイハツもある)で信長の重臣である羽柴筑前守秀吉VS惟任日向守光秀(明智光秀)が激突した山崎の戦いで、光秀と仲良しだった大和の筒井順慶がみっちーの加勢のため洞ヶ峠(京都の八幡か大阪の枚方の中間点くらい、国道1号線の峠になってる辺りで今もあるかど
2/19自転車で奈良県の城巡りしてきました。先日信貴山城へ行った時もう少し回れるかと思ってたが劇坂に打ちのめされ・・・改めて大和路の城・史跡巡りです。家から国道25号線を東に走って15km程で王子へ到着。交差点ではかの聖徳太子の愛犬だった雪丸君がお出迎え。そうここ王子町はこの雪丸がマスコットキャラクターなのですね。通りの名も雪丸ロード。達磨寺奈良県北葛城郡王寺町本町2-1最初の目的地は達磨寺。推古天皇21年(613年)聖徳太子が片岡山の飢人を手厚く葬った。その飢人が達磨だったとい
本日のぶらっとお城めぐりは松永久秀ゆかりのお城を回ります(´▽`)ノ(2016.1.11)筒井城は、奈良街道と吉野街道が交わる、交通の要衝にあります。中世からずっと筒井氏の城でしたが、一時、大和に侵攻してきた松永久秀に奪われ、筒井順慶が再び取り戻します。その後、久秀に勝利して織田信長に大和守護代に任ぜられ、更に信長の命で筒井城を破却、順慶は大和郡山城に居城を移しました。筒井駅の徒歩圏内です。事前に調べた感じでは、駐車場がないとのことでしたが、コインパーキングができていました!