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金井少尉が作ったペンダント筑波海軍航空隊記念館を訪れたら、是非見て頂きたいものがあります。それは、2階に展示されている金井正夫少尉が作って、文通していた女学生に送ったペンダント。爆撃機の風防ガラスで金井少尉が作ったものです。金井少尉は、群馬県出身で仙台高等工業専門学校(現在の東北大学)を卒業して海軍に入隊、第十三期飛行予備学生になります。第十三期飛行予備学生・・・あの、戦況厳しくなってきて急遽学生から大量採用した第十三期ですね・・・。「ペンを剣にかえて―海軍飛行予備学生の軌跡―」で書き
再び、筑波海軍航空隊記念館へ茨城県の友部市にあった筑波海軍航空隊。再び訪ねてきました。今回のお目当ては二つ。筑波海軍航空隊記念館で開催中の企画展「筑波海軍航空隊戦闘機隊蒼空へ行き去りし群像」を見ることと、前回見れなかった地下戦闘指揮所を見ること。雨に降られるかと思ったら幸いにも雨がやんで曇り空。曇りくらいでちょうどよいですね、晴天だったらかなり暑かったと思う・・・。特急ときわで上野駅から友部駅へピュー。友部駅からバスに乗り、友部第二小学校で降りてテクテク15分くらいで筑波海軍航空隊記
筑波海軍航空隊2015年8月1日公開茨城県笠間市に存在した戦闘機の教育訓練部隊“筑波海軍航空隊”。太平洋戦争当時、この部隊で訓練を受け、特攻隊として出撃した若者たちの姿を、生存者の証言や残された日記などから辿ったドキュメンタリー。終戦70周年を迎え、当時の若者の心情や取り巻く状況を明らかにし、戦争がもたらしたものの大きさを改めて問いかける。あらすじ敗色濃厚な太平洋戦争末期。爆弾を抱えた零戦で、アメリカの軍艦に体当たり攻撃を命じられた若者たちがいた。生きて帰ることのない“神風特別攻撃隊=
『永遠のゼロ』で注目される筑波海軍航空隊跡は、最寄り駅は友部駅になります。珍しく、駅に幟が立っていました。茨城県の海軍航空隊跡を訪ねても、駅にはなーんにも案内がないっってことが多いですが。友部駅にはこういう幟があるってことは、やっぱり、『永遠のゼロ』の影響は大きいのだなあと思います。筑波海軍航空隊は、海軍航空隊のノンフィクションや小説を読んでいると、必ずといってもいいくらい登場してくる重要な航空基地。予科練や飛行学生課程を終えた搭乗員達が筑波で更に飛行訓練を重ねています。訓練の厳しさか
笠間市にある筑波海軍航空隊記念館筑波海軍航空隊記念館とは2013年、公開された映画『永遠の0』の物語上の舞台、撮影地として注目が集まり、現存する海軍航空隊司令部庁舎内を、関連資料の展示と共に期間限定公開。...p-ibaraki.com昭和9年旧海軍の航空機の飛行訓練をする為に設立され終戦間近ひは特攻の訓練もした施設なんだって車で1時間なんだけど行ったことなかった未だに司令部が残ってます映画の撮影でも使われたんだって寒々しい
小説のネタ取材で、海軍航空隊の史跡を訪ねるため、再び茨城へ。うちにこもっていると、亡くなった愛犬のことばかり考えてしまうので、多少無理してでも自分を外に連れ出すようにしています。前回の土浦海軍史跡ツアーで、結構収穫があったので。味をしめた私は再び茨城へ。今回は笠間市にあるつくば海軍航空隊跡と、筑西市にあるラバウルから引き揚げた零戦を見に行ってきました。海軍航空隊跡は、最寄り駅は友部駅になります。駅を降りると・・・なんにもありません・・・。まずはタクシーで、滑走路跡に。この道路は筑
おはようございます☺️社会人の長男、高2の長女、ペルテス病の次男(中2)の母Yukaです。≪家族紹介≫https://ameblo.jp/kuro-yuzu-mame/entry-12593633623.htm筑波海軍航空隊記念館ここには何度か来ているけど、まだ見学してい場所がありました。それは地下戦闘指揮所。土日限定で時間指定あり。当日に電話で確認したら『見学できますよ』との事なのでレッツゴー!見学は15分ぐらいで終わると思いますと受付では説明を受けたけど、見学時間いっぱい
筑波海軍航空隊記念館には地下要塞地下戦闘指揮所がありました。ながらく非公開でしたが、2年ほど前から公開されるようになりました。当時はこんな感じで敵からバレないように小さな山で隠されていました今はサッパリしてます中は暗いので懐中電灯をかりて入ります2本の通路があり、大小5つの部屋があります部屋には説明書きもあり大変わかりやすくちょっと冒険気分地下要塞をでたところには格納庫と零戦この映画のために作られた零戦だそうです。チケットお土産に戦艦のコースターいただきまし
茨城県笠間にある筑波海軍航空隊記念館に行ってきました筑波海軍航空隊は戦闘機等の操縦訓練を行うために造られました。現在は司令部庁舎で戦争関連の資料を展示引き上げられた零戦や企画展沈没船の記録海中に眠る戦艦当時の訓練の様子緊張のなかのひとときくつろぐ兵士雪合戦そうよね。まだ少年なんだよね当時の建物は映画のロケにも使われています遺品やら遺書、遺影、手紙なども展示軍神東郷平八郎書東郷平八郎さんの遺髪は呉、旧海軍兵学校に納められています。真珠湾攻撃の時の号外ア
ガダルカナル戦書籍一覧*********************************************************************ソロモン諸島ガダルカナル島御戦没者名簿(鋭意整理入力中)2012年ガダルカナル島御慰霊行目次2014年ガダルカナル島御慰霊行目次2015年ガダルカナル島御慰霊行目次2018年タラワ、マキン御慰霊行目次母娘ふたりガダルカナルの旅目次ソロモン諸島の戦い目次五月二十五日
5月11日【土】この日はひろゃさんのお招きで水戸のはなはなさんでラーツーマスツーで引率される側に就いたのは実に4年ぶりくらいで超絶らくちん道中を満喫していたのですが・・・何故か代打俺ならぬ船頭俺・・・でやって参りましたのは筑波海軍航空隊の跡地永遠の0のロケ地として知られていますが大小150本以上の映画やドラマでも使われた由緒あるヲタクの聖地でありますし個人的には大戦中に祖父が教鞭をとっていた可能性のある航空兵学校の一つだったりもします(祖父の事は戦史研究
またまた長い記事になってしまったがお付き合いよろしくお願いします。新展示館を出て隣、司令部の建屋に入る。建物外観、内観もふくめ、先に記事にした「鹿島海軍航空隊基地司令部」とほぼ同じ作りである。保存状態はこちらのほうがすこぶる良いが。1階には戦時中の航空機エンジンが展示。中でもひときわ目を引くのがライトサイクロンR-3350である。星型空冷複列18気筒のビッグエンジンは幾多のシリーズが作られたが、そのひとつがB-29に4基搭載され10000mを飛行したのだ。空気の薄い
地下壕、零戦レプリカを後にして、記念館に戻る。まずは司令部の脇に建てられた新展示館に入る。ここでの地下壕に並ぶ大目玉が零戦21型の尾部である。こちらに展示された当初は、垂直尾翼に海外の収集家の手にあった時に書かれたであろう「JAPZEROTAIL」との文字があったのだが、現在は消されている。戦争記念館としてJAPと書かれた文字を消したい気持ちはもちろん理解するが、歴史の保存という観点からみると正解か否かの判断は難しい。劣化しているとはいえ、この薄赤い塗装はな
レプリカ零戦格納庫の目前にある小山の地下には戦闘指揮所が存在した。この筑波海軍航空隊基地は飛行兵育成のために設立運用されていたが、大戦末期に本土防空基地と位置付けられ基地の要塞化がすすめられた。その一環としてこの地下戦闘指揮所が作られたのである。基地北端にある司令部から約1000m離れた指揮所まで2.2kmの地下通路(地下排水路)が作られていたという。薄暗い地下壕に入る前に係員のかたからLEDライトを手渡される。通路の高さは2mほどか?!仮設のほの暗い灯りが当時を思い起こ
汗ばむ日差しの日、常磐高速を北上する。途中事故渋滞により目的地より手前の石岡小美玉スマートICから一般道で約20分余り。着いたところは旧西茨城郡友部町。今は陶芸で有名な笠間町と合併して笠間市となった街にある旧筑波海軍航空隊基地跡である。現在は司令部庁舎などいくつかの遺構が残っており「記念館」として運営されているのだ。まずは庁舎脇の新展示館で入館チケットを購入。今回の第一目的である1kmほど離れた場所へ移動する。旧基地飛行場の大部分が東京航空局友部航空通信基地
どうもです。8/29の休日子供たちの夏休みも、終盤ですねぇ。今年の夏休みは、子供たちとはあまり遠くには行かなかったけど。みんなが無事に過ごせたので、それはそれでいいのです午前中は、長男は部活、次男もクラブ?午後から、次男とお出かけ。行き先は、「筑波海軍航空隊」の本拠地があった、霞ヶ浦南部。阿見にある「予科練平和記念館」流石に暑いので、バイクはお預けにして車で出かけます。零戦の実物大模型。こう見ると、やはり大きいですね。
今日は8月15日、78回目の終戦の日ですね。。そして、前回の続きです。茨城県の阿見市から笠間市まで移動、下見を約1時間半程走り到着でした。前回まで↓https://ameblo.jp/sel254/entry-12816104465.html『夏休み2』少し空きましたが、前回の続きです。https://ameblo.jp/sel254/entry-12815782166.html『夏休み』昨日から1週間(10…ameblo.jpやって来たのは、"筑波海軍航空隊記念館"入館料を支払
地下戦闘指揮所も予約して良かったまた行きたいです。
地下戦闘指揮所涼しかった
[筑波海軍航空隊]③地下戦闘指揮所茨城県笠間市旭町654(記念館)筑波海軍航空隊記念館のHPを参照開隊:昭和9年6〜8月(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊開隊として)独立:昭和13年12月15日(筑波海軍航空隊)転出:昭和19年3月(93式陸上中間練習機部隊は福岡県の筑城航空隊に編入)転入:昭和19年3月(大分航空隊から零戦隊が転入。飛練教程から実用機教程に)滑走路:418mx40m、570mx40m、610mx40m(全てコンクリート舗装)横須賀鎮守府所管航空基地現状より
[筑波海軍航空隊]②基地居住地区の遺構茨城県笠間市旭町654(記念館)筑波海軍航空隊記念館のHPを参照開隊:昭和9年6〜8月(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊開隊として)独立:昭和13年12月15日(筑波海軍航空隊)転出:昭和19年3月(93式陸上中間練習機部隊は福岡県の筑城航空隊に編入)転入:昭和19年3月(大分航空隊から零戦隊が転入。飛練教程から実用機教程に)滑走路:418mx40m、570mx40m、610mx40m(全てコンクリート舗装)横須賀鎮守府所管航空基地現状より
[筑波海軍航空隊]①庁舎・周辺設備茨城県笠間市旭町654(記念館)筑波海軍航空隊記念館のHPを参照開隊:昭和9年6〜8月(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊開隊として)独立:昭和13年12月15日(筑波海軍航空隊)転出:昭和19年3月(93式陸上中間練習機部隊は福岡県の筑城航空隊に編入)転入:昭和19年3月(大分航空隊から零戦隊が転入。飛練教程から実用機教程に)滑走路:418mx40m、570mx40m、610mx40m(全てコンクリート舗装)横須賀鎮守府所管航空基地現状より
やっとこ、昨日、ソフトがRAW対応しました...(*^^)vモデルさん⇒高瀬かおりさん使用カメラ:CanonEOSR7使用レンズ:CanonRF70-200mmF4.0LISUSMにほんブログ村
チョット前のお話し。茨城県笠間市にある…嘗て特別攻撃隊の訓練を行っていたという場所に現存する「筑波海軍航空隊司令部庁舎」を見学して来ました。敷地内まるごと戦争遺構なのですが、代表的なところで映画「永遠の0」のロケ地としても有名な場所です。建物内を見学する事も可能。当時と今の敷地の写真見比べ、お解り頂けるかと思いますが、当時整備した滑走路も現在も一部生活道路として使われています。(三角形に見える道路)敷地内は現在、県立こころの医療センターとして活用されておりますが…航空隊の遺構以外にも、友
筑波海軍航空隊筑波と付くので以前は筑波山辺りかと思っていましたが、これは笠間市(旧友部町)にありました。今は記念館になっています。詳細はこちら(記念館のHP)少しだけお邪魔してきました。当時の正門。その外側の道路は”海軍通り”と呼ばれている。ここには昭和20年頃に使用されていた建物や施設の一部が今でも残っています。映画「永遠のゼロ」のロケ地でもあります。神風特別攻撃隊第二次大戦末期、ここで特攻隊(筑波隊)が編成され、10代から20代の多くの若者が遠
今日は午前中から外出。コスメ系の買い物と・・・模型屋さん(*^▽^*)コスメなんだけど普段使ってる化粧下地はソフィーナ・プリマヴィスタ✋25mlで3000円くらい。今日から浮気してみますwwセザンヌにしてみた。コスパが良いんだよね。30mlで700円くらい。ピンクベージュとオレンジベージュ。使ってみて具合良かったらリピートだね🎵これから暑くなる季節なので化粧崩れがね( ̄▽ ̄;)💦💦夜のお仕事の時はそんな心配しなくて良かったからね。あとは✋アイブロウ(眉書くヤ
令和最初の「成人の日」は3月中旬並みの陽気で、お出かけ日和でした。そこで、昨年末から気になっていた「筑波海軍航空隊記念館」を約2年ぶりに再訪することにしました。というのは、昨年末にツイッターで「クラウド・ファンディング」募集の案内を知り、1月10日開始の翌日に一口応募したため、施設をもう一度見てみようと思い立ったからです。前回は当時大学生だった次男と二人で行き、その内容もブログに載せたので(2018年9月15日付)、展示内容などについては今回は省略します。ただ、この施設は、もっと多く
姫路海軍航空隊姫路海軍航空隊は日本海軍の部隊の一つ。攻撃専修搭乗員の教育推進を目的に、攻撃機に搭乗するまでの実機練習を推進。1942年、兵庫県加西郡九会村・下里村で川西航空機姫路製作所の組立工場が建設、搬出入用の滑走路として姫路飛行場が造成。1943年、開隊し、第十二連合航空隊に入籍。1944年、川西航空機姫路製作所の組立工場と姫路飛行場が竣工して操業。1945年、沖縄戦では特攻実施部隊(白鷺隊)として参加。太平洋戦争中、逼迫する航空要員の大量育成を図るため、全国各地に訓練部隊が増
夏休み後半「子」と茨城県笠間市に行きました。これからちょくちょく訪れるかも。友部ICおりて、間もなくこころの医療センターがあります。そこの敷地が「永遠の0」の撮影に使われたんだよと、聞いてきました。「アルキメデスの大戦」のロケも行われたんですね。敷地に入ってすぐ左に筑波海軍航空隊司令部庁舎があります。ここも撮影で使われたようです。道路を挟んで向かい側に号令台色褪せた説明文がありましたで、少し先に
「私の履歴書」(日本経済新聞)の文章は、流氏らしく軽快なテンポであるが、歴史的な順序が錯綜しており、時代的には行ったり来たりしている。一方、「MASAYUKINAGARETheLifeofaSamuraiArtist」では出来事は基本的に時系列で書かれており、概ね「私の履歴書」に沿っているが、付加されている内容もあるようである(のちに出版される『流政之作品論集』ではより詳細な年譜が掲載されている)。例えば、流氏が京都に移ってから母親は心配して時々流氏を訪ねたようだが、流氏は母の愛